久留米城の戦い①
◇◇
慶長5年(1600年)9月1日――
関ヶ原の合戦まであと14日まで迫ったその日、2日前に隈本城を出立した加藤清正の軍勢は、恐るべき行軍速度で筑後(現在の福岡県南部)にある久留米城の付近に布陣していた。
道中、敵対する西軍に属する立花宗茂の居城の柳川城の近くを進んだが、城の牽制の為に兵500を庄林隼人に預けると、清正自身はそれを素通りするように軍を進めていったのである。
それは彼には「敵軍の城を制圧する」という行為には全く興味はなかったからで、それほど胸のうちは「大坂城への急行」が大きな割合を占めていたのであった。
「殿下…この加藤主計頭、この命に代えても殿下をお救いいたしますぞ!」
と、馬上で鼻息を荒くし、周囲を激励しながら、北へ北へと進んでいった。
そんな清正の軍勢の行く手を阻んだのが、久留米城である。
この城の主は小早川秀包。彼は現在、遠く近畿の地で、柳川城の城主の立花宗茂とともに大津城を攻め立てている。
つまり城主が留守のこの城の中には、彼の妻子と一部の家臣しか残っていない。その守備兵はわずかに500人。清正の精鋭が2500人であるから、その兵力差は約5倍にものぼる。
そしてこの久留米城は東に豊前、西に肥前、南に肥後、北に筑後、を結ぶ道の中心に位置する要衝と言っても過言ではない。付近を流れる筑後川が天然の堀となり北側を守り、小高い丘陵の上に立てられた本丸が南側に睨みを利かせる作りとなっている。その南側から清正の軍は堂々とやってきた訳だ。
しかし圧倒的な戦力差にも関わらず、久留米城はその門を固く閉じ、一兵たりともここを通さんという気迫で、清正の行軍を阻んだ。
どうやらこの先を進むには、この城を通過しなくてはならなそうだ。
しかし、
「無駄に兵を疲弊させる訳にはいかない」
そう考えた清正は近くに布陣し、兵を休ませると、城内に使者を送り開城を勧告したのだった。
◇◇
久留米城本丸の一室、そこには一人の老人が重い責任を抱えているにも関わらず、毅然と部屋の中に鎮座していた。
その老人の名は、桂広繁。かつては毛利家の家臣の一人として、かの有名な備中高松城攻めでは、鴨庄城に寡兵で立てこもり、羽柴筑前(後の豊臣秀吉)や黒田官兵衛と戦ったこともある。その戦いでは、城主を含めた周囲が次々と寝返る中、一人奮戦したという逸話が残されているほどの猛将だ。
そんな彼であるから、毛利元就の実子であり、小早川家の養子となった久留米城城主の小早川秀包の家臣となってからは、秀包より絶大な信頼を寄せられていた。
わずかな守備兵しか残すことは出来なかった秀包が思い残すことなく、遠い近畿の地で思う存分戦えているのも、広繁が城に残ってくれているからである。
ただ、それでも秀包は城を留守にするにあたり、九州に残った徳川方の動きには不安を覚えていた。
そこで彼は悲壮の覚悟をもって、
「徳川方の攻撃により、いよいよ城が落ちるという時は、女子供も含めて城内の者全員で潔く討ち死にせよ」
と、命じたのである。「自害」ではなく「討ち死に」を命じたところに、キリシタン大名の彼の思いがうかがいしれる。なぜならキリシタンはその教えで自害を固く禁じていたからだ。
しかし主人のその言に対して広繁は、
「かつて戦った黒田如水という男は信頼に足る人間です。彼に攻め立てられたなら、降伏しても悪いようにはしまい」
と進言し、それを秀包も受け入れていた。秀包があっさりとその進言を受け入れたのは、如水が彼と同様、キリシタンであったことも影響した可能性が高い。
かくして徳川方の一団が、この久留米城へと駒を進めてきたのだから、城内は騒然とした。
しかしその城を預かる一人の女性が、混乱極める城内を鎮めて回った。彼女の言葉で周囲は勇気づけられ、騒ぎの炎はみるみる鎮火していく。
一方の広繁は敵を迎え討つ準備を進めて回ったのだった。
そして相手の使者が到着する前に、その女性と広繁が本丸の最上階の部屋で合流したのである。
城の中を右に左に動き回ったにも関わらず涼しげな顔をしている彼女は、広繁に問いかけた。明らかな大軍を目の前にしても、凛としたその声にその女性の強さが感じられる。
「あそこに見える軍旗は、黒田のものでしょうか?」
広繁はその問いに、厳しい表情を変えずに静かに首を横に振った。
それは無血開城の条件である黒田の軍勢ではないため、戦いに敗れれば、城内の人間は全員死ぬことを意味していた。
するとその女性は
「やはりそうでしたか…」
と、大きなため息をつく。その顔には明らかに沈んだものを湛えているが、その目には逆境にも負けない強さが宿っているのだから、たいしたものである。
そして彼女は右手で首からかけたロザリオ(十字架の形をしたキリスト教の祈りの道具)をしっかりと握り、天を仰ぐように祈りを捧げた。
「ああ…聖母マリア様のご加護がございますように…」
キリスト教の信仰のない広繁にとってみれば、その様子はどうにも奇妙にうつった。そこにいない者の加護などあってもなくても、戦況は変わらないのではないか…と。
しかし彼が守らねばならないその女性が、悲嘆にくれて泣き悲しむこともなく、信仰に従って強い気持ちで対処しているのを見ると、「信仰というのも悪くはないな」と思わざるをえないのであった。
その広繁が守らねばならない信仰心の強い女性…彼女の名は毛利マセンシア、城主の小早川秀包の正妻であり、大友宗麟の実子だ。
その強い意志は宗麟公の遺子だからであろうか。キリスト教の布教を巡り毛利輝元から一歩も引かずに、ついには輝元の方から折れたのは有名な話である。
彼女は留守にした夫に代わり、自分よりも三回り以上も年上の広繁に対して、透き通る声で指示を出した。
「城内の女子供の事は私が引き受けます。広繁殿は大いに戦うように」
「御意」
小さく頷き、短く答えた広繁は、全身から気迫をみなぎらせて、部屋をあとにした。
老齢のこの身になって、よもやこれほどまで血も踊るような大一番が待っていようとは、彼は思ってもいなかった。しかも相手は「鬼将軍」や「肥後の虎」とあだ名を持つ、稀代の名将加藤清正である。彼は「神」という存在は信じていなかったが、巡ってきた幸運には感謝してやまなかった。
「さあ、存分に戦おうぞ!この桂広繁、人生最後に一泡吹かせてくれよう!」
そう強い口調でつぶやくと、その顔には笑みを浮かべて、守備兵500が待つ、本丸の外へと向かっていったのだった。
秀頼が全然出てきませんが…
この一番はかなり重要な意味を持ちますので、ご容赦下さい。
すみません…
なお、桂広繁など久留米城の登場人物は史実上の人物ではありますが、彼らのエピソードには若干脚色や通説とは異なる箇所があるかと思います。
また久留米城を回避して北上する手段もあるかなとは思っておりますが、その点についても本作では目をつむりました。作品を進める上での演出だと思っていただき、ご容赦下さい。