あなたを守る傘になると決めて…㊲三河武士な人々(6)
………
……
久武親直らがあばら家を去ってから、しばらくした後――
「うう…」
大久保彦左衛門はようやく目を覚ました。
ふと頭だけを動かして部屋を見渡すと、どうやら見張りの者たちは油断して、家の外で酒でも飲んでいるらしい。
騒がしい声だけが聞こえてきている。
そして彼から少し離れたところに太助が相変わらず手足を縛られ、口には猿ぐつわをはめられている。
しかし彦左衛門の方は、もう動けない体であると判断されたのだろうか。
縛られた手は解かれているのが見えた。
「た…太助…いま…行くから…」
息も絶え絶えになんとか声を振り絞る彦左衛門。
そんな彼は全身がしびれてままならない体を何とか動かしながら、太助の元まで這いつくばると、彼の手を縛る縄を解いた。
すると無傷の太助は、素早く自分の足と口を解いた。
しかし彼も外に見張りがいることはもちろん承知である。固く口を閉ざしたまま、大粒の涙を流して、彦左衛門の体をさすっていた。
すると…
彼は、懐から一つの小さな包みを震える手で取り出して、それを太助に渡した。
太助は泣きじゃくりながら、それをそっと開く。
するとそこにはバラバラになってしまった菓子があったのだった。
「は…ら…減ったろ…?食え…」
腫れ上がった顔に笑顔を浮かべて、彦左衛門は太助に包みを手渡した。それは彼が大久保屋敷で忠隣と喧嘩別れをした際に持ち出したあの菓子であった。
もはや粉のようになってしまって原型がなんなのか全く分からない。
それでも太助はこんなに旨いものを口にしたことはなかった。
もしかしたら、これから先もこんなにもありがたいものを食べることはないかもしれない。
「ありがとうございます。ありがとうございます…」
小さな声で何度も繰り返す太助。彼は菓子を少しずつ口に含むと、何度もそれを噛んで味わったのだった。
太助が菓子を食べ終えると、彦左衛門もまた満足そうに微笑んでいる。
そして、彼の耳元で彦左衛門は一つの事を耳に入れた。
「ここから…抜けだして…城にいる忠隣に伝えよ…屋敷が危ない…と…」
太助がハッとした顔になると、彦左衛門は彼を玄関の壁際に立つように、震える指で指示した。
太助もそれにためらう暇などなかった。彼はコクリとうなずくと、そっと足音を立てないように、彼の言う通りにする。
そして太助が壁際に立ったその時…
大きく息を吸い込んだ彦左衛門は、腹の底から
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
と、ありったけの声を上げた。
その天まで届くような声は、思わず太助も耳を抑えたほどだ。
「なんだ!?何がおきやがった!?」
思わず見張り役の二人が、転がるように家の中に入ってきて、甲高い奇声を上げる彦左衛門を凝視した。
まるで何か憑き物に襲われたように、狂気的な声を上げる彦左衛門。
そんな彼を目を丸くしてみつめる見張りの男たちの視界には、その時奇声を上げる彦左衛門しか入っていなかったのだ。
そして、この瞬間こそ彦左衛門が待っていた時であった。
「いまだぁぁぁぁぁぁあ!!!」
彦左衛門は奇声のままに、太助に向かって叫んだ。
その声にはじかれるようにして太助はするりと玄関の外に出ると、そのまま風のように外に出ていったのだ。
「おい!こら!待て!!」
見張り役の一人が思わず太助を追いかけようとするが、その時には既に太助は闇夜の中に姿を消しており、彼がどこに向かったのかすら区別がつかないほどだ。
こうなると当然その怒りの矛先は彦左衛門に向けられる。
「てめえ…!!はかりやがったな!!」
悔しそうに歯ぎしりをした見張り役の男たちは、拳を鳴らしながら彦左衛門に近づく。
しかし彼らが暴行をするまでもなく、彦左衛門にとってはその奇声を上げたのが最後の力だったようだ。彼は、満足そうに笑顔を見せると、そのままバタンと前のめりに倒れて意識を失ってしまったのだった。
◇◇
慶長11年(1606年)3月30日 酉刻(約午後六時)――
既に俺、豊臣秀頼と千姫の歓待の饗応が始まってから、およそ半刻(約一時間)が経過したのだが、俺は彦左衛門の事が心配のあまりに、料理を味わったり、宴を楽しんだりする気持ちの余裕などない。
それでも表情だけはいつも通りに穏やかに、義父である徳川秀忠たちと話しを合わせながら何とかやり過ごしていた。
そして、ふと大久保親子の方を見れば、どうやら彼らも同じ心持ちなのであろう。浮かれている周囲とは全く雰囲気が異なり、心ここにあらずといった様子で、淡々と料理を口に運んでいただけであった。
…とその時。
一人の小姓が青ざめた顔をしてこっそりと部屋に入ってくると、宴の邪魔にならないように、大久保親子の間にひざまずき、小声で何やら伝えた。
その瞬間に、さき程まで以上に厳しい表情になる大久保忠隣と忠常。そして今にでも立ちあがろうとする忠常を、忠隣がその袖をつかんで、必死に止めていたのである。
明らかに様子がおかしいのは、傍目から見ても明らかであったのだが宴もたけなわな状況で、みなその事に気付いていないようだ。
――お主は大久保家当主として、お主の仕事を全うすることに努めよ
この彦左衛門の言葉が忠隣の頭の中にこだましているに違いない。彼は、徳川秀忠の重臣として、この饗応の接待役のうちの一人の職務を果たそうと必死にこらえていたのだ。
――それなら豊臣家の当主として、俺が成すべきことはなんであろうか…
俺もまた己に自問する。
しかしその答えは至って単純なものだ。
――豊臣家の当主として、この饗応を滞りなく終えることこそ、成さねばならぬ職務のはずだ
だが、それは頭ではよく分かっているが、心の内では到底納得していない自分が、心の檻をガンガンと叩き続けている。
ここから出せ、そして彦左衛門と太助を助けにいくのだ…と。
それでもどうしようも出来ないのだ。
諦めるより他ないのだ…
それはさながら「歴史の歯車」に飲み込まれていく豊臣家の悲運に対して、何も出来ずに指をくわえて見ているより他ない、今の俺の状況と全く同じであった。
ただ、それをいかに悔しく、はがゆく思ってみても、どうしようもない運命を、変えることなど出来ない。
それもよくよく紐解けば、無理をしてかえって悪い方に向いてしまうのが怖いという、至って単純な感情によるところが大きいのは確かであった。
しかし、その時に一つの言葉が頭をよぎったのであった。
――一度守ると決めたものは、何がなんでも守り抜け!それが真の侍というものだ!
それは大久保彦左衛門の魂の決意を秘めた言葉…俺は再び自問した。
俺が「守ると決めたもの」とは何だろうか…
豊臣家か、千姫か、淀殿か…
否!彼らだけではないはずだ!
その時だった…
俺にもう一つの言葉が浮かんだ…
それは…
黒田如水が最期に託した手紙の一文…
俺の父、太閤秀吉が天下人となれたその理由…
――全ては目の前にいる人を笑顔にしたいと願い、その『夢』を決して諦めなかった結果じゃ!
この瞬間、俺の目の前に立ちはだかる分厚い壁に、わずかなひびが入った音が、俺の耳には確かに入った。
そうだ…
いくらぶつかったっていいじゃないか。いくら蹴落とされたっていいじゃないか。
俺は、自分の信念を貫き死してもなお約束を守り抜いた石田佐吉の魂を佐和山で学んだ。
俺は、運命に翻弄されながらも、家族を守り抜く為に乱世の荒波に立ち向かう亀姫の魂を加納で学んだ。
俺は、どんなに絶望の中でも決して諦めなかった成田長親の魂を清洲で学んだ。
彼らは皆恐れてなどいなかった。
失敗も、挫折も、そして死でさえも。
己が信じるものの為に、ただひたむきにその足を進めていたではないか。
恐れるな!恐れるな!恐れるな!
目の前にいるその人を笑顔にすることを、俺は恐れちゃいけない!
なぜなら俺は…
俺は、何よりも人の笑顔が好きなのだから!!
俺は天下よりも、そして自分の名声や名誉よりも、目の前の人が笑顔になることに全力を傾けたい!
それこそが、俺が守るべきことなのだ!!
「皆の者!!少し聞いて欲しい!!」
俺は自然と部屋中に響き渡る大きな声を上げていた。
突然上がった俺の声に、その場の全員がしゃべる口を半開きにして、俺を目を丸くして見つめた。
そして、俺は決意を固めて一気に話し始めた。
これが俺のすべきこと…
俺が守りたいものを守ることなのだ。
「こたびのわれの江戸訪問にあたり、この饗応も含めて、みなには大変世話になった!!この場を借りて、あらためて感謝の意を示したい!
そこで一つ、義父上に豊臣家から返礼をいたしたく思う!!
よろしいでしょうか!?義父上!!」
「おお!それは嬉しいな!何をいただけるのだ?」
俺の傍らに座っている徳川秀忠は、驚きながらも嬉しそうに声を上げた。
そして俺は続けた。
「江戸に寺を寄進いたしたく思うがいかがでしょうか!?」
「寺…とな!?」
皆がその俺の言葉で顔を見合わせているのは、あまりに意外な提案だったからであろう。
そして俺は続けた。
「その寺には、この乱世において行き場を失った子供たちの居場所として欲しい!!」
「行き場を失った子供たち…」
「ええ!義父上!その通りでございます!
実は、今日われは大久保忠隣殿の屋敷に招かれた。
そこで見た光景に俺は驚いたのだ!
なんとそこには、処刑されたり自害した罪人の子供たちが、匿われるようにして大勢が暮らしていたのだ!」
この言葉にその場がざわついた。忠隣は俺を睨みつけ、忠常は青い顔で俺を見つめている。
そんな周囲の声や視線など気にもとめず、俺はさらに大きな声で続けた。
「われはその様子を見て、非常に感心し、同時に義父上をうらやましく思ったのである!!」
この言葉にさすがの秀忠も驚いたようだ。
「ど…どういうことだろうか…」
「今の世において、罪人の子供は罪人とする風潮があるのは知っておる!
しかし、それは本当に正しいことであろうか!?
それでは罪人の恨みは、末代まで続くであろう!いつしかそれが大きな禍を生む種になるやもしれぬ!!
しかし、ここにいる大久保忠隣、忠常そして、彦左衛門といった者たちは、自らが罰せられることも覚悟の上で子供たちを守り抜き、立派に育て上げている!
ここから生まれるのは一体何であろうか!
言わずもがな、笑顔だ!!
笑顔の者が恨みなど持つであろうか!
無論、否である!!
すなわち大久保屋敷では、徳川にとって禍根となりかねない種を、むしろ徳川の永代の繁栄の種に変えようと努力しているではないか!
この事に感心せずして、なんとしようや!!」
いつの間にか部屋は静寂に変わり、その場の全員が俺の顔を穴が開くほどに覗き込んでいる。
その時ーー
空気が変わった。
歴史の歯車が狂ったーー
「ただ、例え大身の大久保家の屋敷と言えども、抱える子供たちの人数には限りがあるであろう!
そこで、われは大久保殿を、いや強いては徳川の援けとなる為に、江戸に寺を寄進したいのだ!!
そしてそこで様々な理由で行き場を失くした子供たちを引き取って欲しい!
いつしか立派な大人となって、この江戸の町に活気を与える存在になって欲しいのだ!!」
俺はそう言い切ると、強い光を瞳に灯して周囲を見回した。
忠隣は目を真っ赤にして俺を見つめ、忠常は涙を流して肩を震わせている。
静寂に包まれる中…
徳川秀忠が突然立ちあがり、横に立つ俺の方を向いた。
そして…
――ガシッ…
と、俺を強く抱きしめると、大きな声で言ったのだった。
「俺は感動したぞ!!秀頼殿!!よくぞ言ってくれた!!
良いっ!素晴らしい考えではないか!!喜んでその寺をもらいうけよう!!
そして、秀頼殿の言う通りに、行き場を失った者たちを受け入れようではないか!!はははっ!!」
――ワアァァァァァッ!!
秀忠の言葉に一斉にわく徳川家の人々。
しかし、俺にはもう一つすべきことがあった。
もちろんそれは…
大久保彦左衛門と太助を助けることだ。
「義父上!!実は今、その子供のうちの一人と大久保彦左衛門殿が、狼藉者に襲われておるのです!!」
その言葉に俺から離れた秀忠は、きりっと表情を引き締めて忠隣の方を見た。
「まことか!?忠隣!!どうなのだ!?」
「はっ!!豊臣右大臣殿のおっしゃる通りにございます。今その狼藉者たちは、わが屋敷に殺到しているとのこと!
つきましては、大変無礼なことかと存じますが、ここを辞退させていただき、すぐにでも屋敷にかけつけること、どうかお許しくだされ!」
そう言うと、忠隣と忠常は飛ぶようにして、部屋から出ていった。
まさか、屋敷を襲撃されているなんて…
それでも大久保忠隣という男は、自分の仕事を全うしようと唇を噛んでいたのか…
そして俺も自然と体が動いていた。
江戸で豊臣秀頼が騒ぎに巻き込まれたとなれば、世間は大騒ぎするかもしれない。
しかし、そんな事は関係ない。
俺はとっくに決めたはずではないか…
千姫との婚儀の時に…
目の前の人を笑顔にすると!!
「甲斐殿!!全登!!ついてきてくれるか!!!」
俺は末席の方で座っている甲斐姫と明石全登に大きな声をかけると、二人とも力強くうなずいた。
「義父上!!義母上!!お千を頼みます!!」
「秀頼さま…まさか…」
「ああ!お千!俺は行ってくる!大久保家のみなを笑顔にする為にな!!」
こう宣言した俺は、次の瞬間には疾風のごとく部屋から出ていったのだった。
………
……
太助は全力で走り続けていた。あまりに必死に駆け抜けた為に、どこか血管が切れたのだろうか…口の中に血が混じったような味がする。
それでも彼はその足を前へ前へと送り続ける。
――負けるものか!負けるものか!
もはや言葉にするには、息が上がりすぎている。それでも心の中で、そう叫びながら彼は走り続けた。
はだしで駆けている為、足の裏は傷だらけだ。少しでも気を抜けば、激痛にもだえるであろう。彼の小さな足跡には、血がにじんでいる。
しかし今の彼には痛みも、苦しみも感じる事はなかった。
とにかく前へ。
彼の尊敬する大久保彦左衛門が、その命を賭けてまで守り抜きたかった「家族」を守る為に。
そう、彼が向かっている先は…
大久保屋敷。
太助は、江戸城の門番に大久保屋敷が襲われていることを伝えた後、休むことなくそのまま大久保屋敷へと向かっていったのである。
もう既に半刻(約一時間)は走り続けているだろう。
もしこの足を今止めたなら、その瞬間に倒れ込んでしまうに違いない。
もう間に合わないかもしれない。屋敷の中は家族の血で染まっているかもしれない。
体が言う事をきかなくなると、そんな弱気の虫が暴れ出す。
しかし彼は負けるつもりはなかった。たとえ犬死するだけでも、たとえ目の前で惨劇が繰り広げられていようとも、彼は彦左衛門が守りたいものを守る為に負けるわけにはいかなかったのであった。
その時であった。
――ドドッ!ドドッ!ドドッ!ドドッ!
という馬の駆ける音が背後から近づいてきたかと思うと、一頭の駿馬が彼の横を駆け抜けていった。
そして…
「忠常ぇぇぇ!!太助を頼む!!」
と、その馬に乗る男が背中から大きな声を発した。
「た…ただちかさま…」
大久保忠隣、まさにその人だった。
…と、太助が何か夢でも見るような心地でいたその瞬間。彼の軽い体はひょいっと持ち上げられると、馬の背に乗せられたのだ。
「しっかりつかまっておれ!いくぞ!」
それは大久保忠常であった。
そして…
一旦馬が止まったその矢先のこと…
一頭の白馬と二頭の栗毛が風のように彼らの横を通り抜けていったのである。
「あれは…」
すると忠常は唖然とした顔で言ったのだった。
「豊臣右大臣秀頼公…まさか…」
豊臣秀頼の譲れぬ願いをかけた、進撃が今始まった――




