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あなたを守る傘になると決めて…㉜三河武士な人々(1)

◇◇

 慶長11年(1606年)3月30日ーー


 俺、豊臣秀頼たち一行が、江戸に到着した翌日、この日は夕刻前より、俺たちに対する饗応が催されることになっている。

 そして翌日の4月1日の正午前には、江戸を発って、大坂城への帰路につくことにしているのであった。



 この日の朝げは、千姫の母親である江姫、千姫そして俺の三人で取った。

 千姫の父親である徳川秀忠は、政務に追われているようで、一人朝早くから本丸につめているらしい。

 そして、その秀忠と江姫の長男であり、千姫の弟にあたる竹千代は、彼の乳母であるお福がつきっきりで面倒を見ており、その場に姿を見せることはなかった。

 もっと言えば、俺は江戸に滞在していたにも関わらず、この後も竹千代の顔すら見ることはかなわなかったのであった。


 そして朝げを終えると、千姫は江姫とともに時間を過ごしたいとのことで、俺は彼女のことを江姫にお願いして、俺自身は江戸の街づくりの普請の様子を見に行くことにしたのである。


 この日はどんよりとした曇り空。しかし雨が降りそうな雰囲気ではないので、かえってこのところ強くなってきた陽射しを浴び続けるよりは良いかもしれない。

 俺は今日一日の出来事に、わくわくしながら、城の中を案内してくれている秀忠の小姓の背中を追っていったのだった。



「秀頼殿!おはようございます!」



 西の丸の玄関まで連れられた俺に、そう明るい調子で声をかけてきたのは、板倉重昌であった。

 江戸に入ってからも彼は俺の世話を色々としてくれるらしく、今回の普請の見学も彼が案内してくれることになっているのだ。もちろんその裏の意図は、俺が余計な事をせぬようにとの、徳川からの目付けであることは疑いようのないことなのだが、もとより何かを企むつもりはない為、そのような意図は全く気にはならなかったのであった。

 むしろ、博識でうんちく好きな重昌を伴うのは楽しいもので、旅が始まった頃は鬱陶しかったのだが、今となっては彼がいないと逆に物足りなさを感じるくらいだったのだ。


 この時も例外なく、彼はぺらぺらとその舌を回し、江戸城の石垣のことやら、堀のことやらを俺に語ってくれていたのだった。


 そして、街づくりと江戸城の普請は、まさに天下普請というに相応しく、非常に大規模なものであることが良く分かった。

 

――これはさすがに徳川家だけでどうにかなるものではないな…


 と、俺は全国の大名たちがその普請を分担していることに、妙に納得してしまった。そして加藤清正だけではなく、藤堂高虎、加藤嘉明、池田輝政、浅野長政などの一部の大名たちは、自ら江戸で普請にあたるように命じられており、それに従っているらしかった。

 さすがに彼らはその職務中であり、俺がそこに顔を出すのははばかれた為、彼らが普請にあたっているであろう場所の近くを通るだけにとどめておいたのだった。

 

 江戸の街は確かにまだまだ活気があるとは言いづらいものであった。

 しかし、そこには「希望」に溢れていることを示すような、輝きがある。

 それは働いている男たちの汗が、この日の薄日に反射していることもあるだろうが、それよりも、これから長きに渡って繁栄していくであろう新たな街を作ることへの喜びに満ちていたからであるのが、ひしひしと伝わってきて、単に見学しにきた俺も心を躍らせていた。

 

 こうして、午前中から始まった江戸普請の見学は、正午過ぎまでの長い時間を必要とした訳であったが、それでも俺は退屈などすることもなく、それを満足のうちに終えたのであった。

 

 

………

……

 そして、この日の午後――

 江戸城見学を終えて、江戸城の西の丸に戻ってきた俺は、次の迎えが来るのを、今か今かと心待ちにしていた。

 

 なぜなら、俺は江戸訪問の最後の目的である、大久保忠隣(おおくぼただちか)、忠常の親子との友誼を深める為、彼らとの会談に臨むことになっているのだ。

 それが楽しみでならなかったのである。

 

 そもそも大久保忠隣とは、徳川家康がまだ松平元康と呼ばれていた頃から仕えてきた重臣中の重臣だ。

 武勇で鳴らした父大久保忠世と同様、忠隣も三方ヶ原の戦いでは、家康の盾となってその身を窮地から守り、さらに神君伊賀越えでも家康の側を離れずに危機を脱するなど、家康の波乱万丈な人生の隣には常に彼がいたと言っても過言ではない程の槍働きをしてきた。

 そして彼の場合、武勇だけではなく政治の手腕も見事なもので、その才能が買われて、徳川家康の初めての老中となったのだ。

 今では第二代将軍、徳川秀忠の誰よりも信頼の厚い家老として、他の家老たちやの目付けであったり、将来の家老を担うことになる土井利勝や酒井忠世など、若い才能の教育係の役目も担っているそうである。

 さらに、その息子の忠常は、そんな父親以上の政治の才能の持ち主として、その将来を渇望されているとのことで、彼の「忠」の字は、徳川秀忠より賜ったというほどに、彼は幼少期から大久保家内のみならず、徳川宗家からも期待されていた。

 そんな彼も大きな期待に負けることなく、様々な政務で実績を積み重ねていき、ついには将来の老中の確約まで得るまでになったのである。

 

 言わば大久保親子は、徳川秀忠政権の「核」とも言える人々であった訳だ。

 

 しかし…

 

 そんな順風満帆な大久保家であったが、まさかこの先わずか五年のうちにとある悲劇が訪れ、それがきっかけでお家の転落を迎えることになるなど、徳川家内の誰が想像できるだろうか。

 

 いや…

 

 二人だけはその事を予期できていたかもしれない…

 

 その二人とは…

 

 本多正信と正純の親子だ。

 

 なぜならこの二人こそが…

 

 

 「本多親子が大久保家失脚の首謀者」と後世では噂されるからだ。

 

 そして、そのきっかけとなるのが…

 

 今まさに俺の事を真面目な顔で迎えにきた、清廉潔白を映したような色白で温厚そうな青年…そう、大久保家の期待の星、大久保忠常。

 


 この人の、謎の死なのである…

 

 

 この頃、徳川家では江戸の将軍徳川秀忠と、伏見の大御所徳川家康による二元政治の体制となっていた。

 秀忠に付けられた家老たちは、武功をもって信を得てきた言わば「武功派」の大久保忠隣による影響が大きく、一方で家康の元にあった本多親子は武功ではなく政治や外交の手腕でその座を確固のものにした、いわゆる「吏僚派」であった。

 この時はまだ表面化はしていなかったものの、その裏ではこの「武功派」と「吏僚派」の溝が徐々に深まっていることは確かであった。

 その証として、家康の側で引き続き老中として仕えていた「武功派」の内藤清成や青山忠成といった人々は、史実の通りであれば、今年に入って謎の蟄居を命じられているはずで、この派閥争いの一端とも言われている。

 

 その派閥争いの中にあって、輝かしい未来が待っていたはずの青年は、わずか三十二歳でその生涯を閉じることになってしまうのだ。

 その死を悲嘆した父の忠隣は、心を病んでしまい小田原城に引きこもると、ついには改易となり、城を追い出されてしまうことになる。

 

 つまり、俺が何を画策しなくとも、既にこの頃の徳川政権は一枚岩とは言えない、泥沼の派閥争いを抱えていたという訳である。

 

 そして俺はこのうち「武功派」に近づくことにした。

 

 その理由は明確だ。

 

 大坂の陣を強行する事を進言し、その後の大坂城の堀を全て埋めてしまうことを画策した張本人…

 

 本多正純。

 

 彼の「暗躍」の尻尾をつかみ、白日のもとに照らす。

 そして将軍徳川秀忠による、公正な裁きを受けさせ、彼を失脚させること。

 

 それを大坂の陣の前まで済ませることが出来たなら、大坂城を攻める徳川軍にとっては大きな痛手となるはずであり、これこそが、徳川を内から切り崩す事の肝であると考えているのであった。

 

 

 その為の第一歩として、この江戸訪問で大久保親子と良好な関係を築いておきたい訳だ。

 

 しかし、何のつてもなければ彼らの前にずかずかと現れるのは、怪しまれるだけであろう。

 そこで「大久保忠常の妻」をつてとさせてもらうことにしたのだ。

 なぜなら彼女の母親は、加納城で友誼を深めたあの亀姫なのだ。

 

 俺は加納城を訪問した際に、その忠常の妻と、忠常に宛てた手紙をしたためてもらい、それをきっかけとして会談を持つことを考えた。

 そして今、それが実現しようとしている。

 

 そんな事情がなくとも、歴史上の偉人の一人である大久保忠隣と、忠常の二人と交流が持てるというだけでも、俺は天にも昇るほどに喜ばしいことなのだ。

 俺は高鳴る胸の動悸を笑顔に変えながら、彼を部屋の外まで出迎えたのであった。

 

 

 だが、俺は気付いていなかったのだ。

 

 この「武功派」とされている者たちは…

 

 まさに「三河武士」を体現した者たちであるということを…

 

 

「豊臣右大臣殿、お待たせいたして、申し訳ございませぬ!」



 この時、俺がこの西の丸の部屋に通されてから、さほど時間が経ってなどいなかった。それでも迎えにきた忠常は、俺を待たせてしまったことに対して、生真面目に深々と頭を下げている。

 俺はその様子に、笑いながら答えた。

 

 

「いやいや、全く待ってなどおらぬゆえ、そう固くならずともよい!

ささ、では早速…」


「いえっ!そういう訳には参りませぬ!

御客人を…しかも事もあろうことか、上様の義理のご子息にあたる豊臣右大臣様をお待たせしてしまった不首尾に対して、何の御咎めもなしでは、この大久保忠常、他の者にしめしがつきません!

ここは一つ、お叱りくださいませ!」


「は…はぁ…そんなものなのか…?」



 俺としては早く部屋を出て、会談の場へと移動したかったのであるが、何やらそうもいかないらしい。

 俺が眉をしかめて問いかけると、忠常は頭を下げたまま、大きな声で言った。

 

 

「それはその通りでございます!もしこの場が戦場であったらいかがいたしましょうや!

仮にそれがしが伝令役をたまわり、その伝令が少しでも遅れれば、多くの兵たちの命が失われるかもしれませぬし、勝敗にも大きく影響をおよぼすやもしれませぬ!

たかだかわずかな遅参との気の緩みこそが、後の大事を生みかねませぬ!

ささ!それがしをお叱りくださいませ!」


「むむむ…では…ごほんっ!

今後は遅参をせぬよう、心掛けよ!…で、よいか?」



 俺が恐る恐る言葉をかけると、忠常はより一層頭を低くしながら、

 

 

「ははぁー!!ありがたきお言葉にございますぅぅ!!」



 と、大声でそう言ったのであった…

 

 

――なんなのだ…これは…


 

 そう…

 

 俺はすっかり忘れていたのである。

 

 これから俺が会談する大久保忠常、その父親の大久保忠隣は、生粋の三河武士であること。

 

 その三河武士とは…

 

 「天下一のめんどくさい男たち」であることを…


 さらに言えば、大久保忠隣の叔父にあたる人は、その中でも特にめんどくさい人物として、後世にもその名が残るということを…





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