あなたを守る傘になると決めて…㉛愛と残酷な運命と
◇◇
「…その前に、よろしいでしょうか?」
そう穏やかながらも有無を言わせぬ口調で、話題を変えようとする俺の言葉を遮ったのは、徳川家光、今は竹千代と呼ばれている次代将軍の乳母、お福であった。
その彼女の言葉に、未だに上機嫌そのものの徳川秀忠が軽い調子で答えた。
「よいよい!何か言いたいことがあるなら、申してみよ!ははは!」
そんな笑いが止まらない様子の秀忠に対して、お福は丸い顔を少しだけ引き締め、それでも口角は上げたままで言ったのだった。
「上様、かような大事の約定については、大御所様に是非を確認された方がよいかと思います」
ここで言う「約定」とは、言わずもがな「徳川と豊臣の互いの不可侵に関する約定」のことだ。
それを将軍である徳川秀忠の独断で決定するのではなく、徳川家康にうかがいを立てるべきであるとお福は主張したのであった。
そのことに秀忠は不思議そうな顔をして彼女に尋ねた。
「ほう…しかし、父上は『最後は秀忠自身で決めるように』とお達しになられた。
竹千代を次期将軍に任命することとともに、天下泰平を考えてこの約定を公表することは、俺の領分かと思うのだがいかがであろうか」
「確かに上様のお考えは良きものではございます。
しかし亡き太閤殿下のご遺命を受けられ、徳川と豊臣の未来を託されたのは大御所様でございます。
ついては、そのご本人様の知るところなく両家の未来の事を決められてしまうというのはいかがなものでしょうか」
「うむ…言われてみれば、その通りかもしれぬ」
「この場では『竹千代様を次の将軍にしたと決められた』ということだけにとどめ置かれてはいかがでしょう」
理路整然と流れるように説明した上で、徳川にとって都合の良いところだけを採用して、この場を締めくくろうとしているお福。
あまりに躊躇なく、そして自然な形で話しを誘導するその能力に、俺は驚きを禁じえなかった。
しかし同時に、乳母という立場にも関わらず、ここまで将軍に意見出来るというのは明らかに不自然ではなかろうかという疑念がわく。
だが、そう思った瞬間に一人の女性の能面のような顔が浮かんできたのだった。
ーーそう言えば、大蔵卿も淀殿の乳母であったか…
その大蔵卿も、俺が評定衆に指名せざるを得ない程に、大坂城では絶大な権勢を誇っている。
権力者の乳母というのは、この時代においては俺の想像している以上に発言力があったのかもしれないな…
そんな事を考えていると、しばらく考え込んでいた秀忠が、何かを決心したように口を開いた。
「お福の言葉、確かにもっともだ。かような大事を父上にも相談せずに決めるのは安易であった。
ここでは、俺が既に心に決めた次代の将軍のことだけにとどめておくとしよう。
しかし、父上には必ずこの約定の事の了承を得るゆえ、秀頼殿は安心しておくれ」
「いえ、義父上がそのようにお決めになられたのであれば、その事にわれが口を挟む立場ではございませぬ」
今、この団らんの場で、父親の決めた方針に逆らうような真似は得策ではない。
俺にとって重要なのは、「次代の将軍が誰になるのか」ということではなく、「どのようにして大坂の陣を有利な立場で迎えるか」だからである。
人間の社会とは、結局のところ「戦争で勝った者が全てを決める権利を有する」ということこそが、遥か太古から現代に至るまで普遍の真理として存在しているからだ。
よって、いかに未来に向けてどのような事を決めようとも、戦争に負けてしまえば、いとも簡単に勝者によってそれは塗りかえられてしまいかねないのである。
つまり、この場で「次期将軍は徳川家光」と決まろうとも、絶対に避けられない「大坂の陣」で豊臣方が勝てば、その時点において「次代将軍は豊臣秀頼」とすることは難しいことではないのだ。
そして、「どのようにして大坂の陣を有利な立場で迎えるか」という点においては、先ほどの「約定」を、どうにかして公表してもらう必要はあるのは確かだ。
なぜならこの約定が、大坂の陣における徳川家康への足かせになることが明らかだからである。
この点においては、徳川秀忠が家康に対して確かに相談するとしてくれたので、ひとまずは今後の様子を見守るより他ないであろう。
お福の言葉により、目標から随分と離れてしまったことは確かであるが、それでも「将軍徳川秀忠が、豊臣と徳川の不可侵の約定を公表する意向がある」という事実を引きだしたことだけでも幸運であった。
そのお福は、俺がこの件について、これ以上追求してこない事を察知したのか、先ほどまでの言い得ぬ圧迫を解いて、静かに微笑んでいる。
部屋の中に静寂が戻ってくると、再びほのかな温かみのある空気に部屋は包まれていったのであった…
そんな中、徳川秀忠は、話しがひと段落したことに安心したのか、再び盃を手に取り酒を少しずつすすり始めた。
その瞳はどこまでも優しく、愛情に溢れたものであり、俺は思わず見つめてしまった。
秀忠はそんな俺の視線に気づいていないのか、心の底から美味しそうに酒に口をつけている。
そしてしばらくした後、俺の視線にようやく気づいたのか、どこか気まずそうに笑顔を向けてくれたのであった。
「すまんな。かように旨い酒を飲んだのは、久しぶりなのだ。ははは!」
「旨い酒…でございますか」
「ああ、自分の息子とこうして酒を飲みながら、のんびりと時を過ごすのが、俺の幼き頃からの『夢』であったのだ。
それが今、かなっている…
俺はこんなにも旨い酒を飲んだことはない!」
「息子…夢…」
その「息子」と「夢」という言葉に俺は驚き、目を見開いた。
するとそんな俺の様子に、秀忠は愉快そうに笑いながら言った。
「ははは!その通りだ!秀頼殿は俺の息子さ!
それとも、亡き太閤殿下に比べて、まだまだ若輩者の俺が父では嫌であるか?」
「い、いえ!滅相もない!そう思っていただいただけで、われも嬉しく思います」
その俺の言葉に、秀忠は恥ずかしそうにしながら、俺の頭をそっとなでてくれた。
「俺も嬉しいぞ。こうして息子と笑顔を見せ合う時間が夢であったのだ」
その手は優しく、大きく…そして暖かかい。
そして、父親としての大きな愛を感じる。
その暖かさを感じた時…
俺は心に鈍い痛みを感じた。
――ああ…この人は最初から俺にとってのこれ以上にないほどに、心強い味方であったのだ…
どうしてこの事に気付けなかったのだろう。
目の前の義理の父親である秀忠は、後継の事も含めて、実の息子のように俺の未来を考えてくれているではないか。
そんな人に対して、なぜ俺は自分の味方にすべく、あさましく画策しようとしていたのであろうか。
自然と俺の目には、じんわりと熱いものがこみ上げてくる。
俺にとっての大坂の陣は、「徳川にとって邪魔となった豊臣を排除する為の戦いであった」という認識でしかなかった。
つまり徳川家の者たちは皆、豊臣家の人々を「邪魔者」だと思っていたのではないかと信じていたのである。
それは、将軍である徳川秀忠も例外ではなかったはずだと、信じ込んでいた。
しかし、それは大きな間違いである事に、俺は強く胸を打ちつけられた。
少なくとも今の時点においては、彼は実の娘の千姫だけではなく、義理の息子である豊臣秀頼も、その大きな翼で守ろうとしてくれているのだ。
俺にとっての「父」そのものだったのだ。
ところが…
俺はこれより十年も経たぬその時に、「父」との壮絶な戦いに挑まねばならない運命。
――なぜ…なぜ戦わねばならぬのだ…こんなにも大きな愛を向けてくれている父と…
歴史の歯車が導く、絶対的な未来に対する憤りがこみ上げてくると同時に、彼の愛情を深く刻んだ胸の内は悲嘆にくれている。
俺の気持ちは深く沈むとともに、その顔が上げられなくなってしまった。
「どうしたのだ?秀頼殿?泣いているのか…?」
「い…いえ…」
短い言葉で強がるが、もはや抑えきれぬ感情に肩が震えた。
涙があふれそうになる。
「義父上、一つよろしいでしょうか?」
「どうした?この際だから何でも言ってみよ」
「ありがとうございます」
俺は顔を上げると、ついに溢れ出た涙をそのままに、真っすぐに秀忠の瞳を見つめながら問いかけたのであった。
「義父上は、これより先…どんな時でも、われとお千のお味方となってくれますでしょうか?
われは義父上とこれからもずっと家族でいたいと思っているのです!!」
自然と出てきたその言葉は、悲しい未来を予感させるものに違いない。
勘の良い者であるなら、何かを感じ取ってもおかしくはないであろう。
それでも俺は、聞いておきたかったのだ。
確認しておきたかったのだ。
今、徳川秀忠が向けてくれている、その愛に偽りがない、ということを…
すっと、大きな手が俺の両頬に伸びてくる。
そして、その手で、流れる涙が優しくふかれた。
「秀頼殿、男はそう簡単に涙を見せるものではない」
その言葉とは裏腹の優しい顔を俺に向ける秀忠は、そのまま続けた。
「それに…どんな時でも、俺が秀頼殿と千姫の味方であるのは当たり前のことであろう」
俺はそう言い切った秀忠の瞳をじっと見つめた。
その秀忠の瞳からは…
嘘偽りなど微塵もない、ただそこには真実の愛情のみが映されていたのであった。
――ああ…よかった…
安堵すると自然と涙が出てくるのは、なぜなのだろうか。
再び俺は、折角ふいてもらった頬を涙で濡らした。
「ありがとう…ございます…」
ようやく出てきた言葉は、その一言であったのだった。
しばらく俺は涙を止めることは出来なかった。
自分でもなぜ涙が出てくるのかは全く分からなかった。
近い未来に待ち受ける重くて大きな宿命によって、目の前に繰り広げられている小さな幸せが引き裂かれることになるのが、耐えられなくなったのであろうか。
それともただ単純に、無条件で父親としての愛情を向けてくれている徳川秀忠に対して、姑息な画策を施そうとしたことへの罪悪感と情けなさからくるものであろうか。
しかしただ一つだけ分かっていることとすれば、それは変わらぬ未来の真理だ。
――たとえ、どんな選択を取ろうとも、この父と戦場で対峙せねばならぬのだ…
その事が悲しくてならなかった。
そして俺はその事を回避する事をもはや諦めて、あと十年に満たない期間の中で、その戦いに勝利する為の準備に取り掛かっていくことにが、未だにもどかしくて、悔しくてならないのである。
しかし…
その大坂の陣に勝つことが、本当に俺が望んでいることなのだろうか。
本当に俺がかなえたい未来とは何なのだろうか。
――忘れないで!太閤の見た夢を…!
謎の黒いフードの女の痛烈な心の叫びが再び胸をよぎる。
一体全体「太閤の見た夢」とは何なのだろうか…
それが今の俺に何の関係があるのだろうか…
とめどなく流れる涙をもたらす熱い感情とは裏腹に、俺の頭の中は、自分の進むべき道とその先に待つ未来について考えを巡らせていた。
そして秀忠は特に言葉を発することなく、俺の背中を優しく撫で続けている。
その手から感じる温もりも、嘘やいつわりなどない、本物の愛情…
春の夜は、思いの外冷える。
もちろんこの部屋も例外ではないだろう。
しかし、そんな室温を感じさせないような暖かさに、俺は心を委ね続けていたのであった。
時間の経過とともに、燃えさかる感情が鎮まると、自然と頭の中も澄みきってくるのを感じる。
それでもそこに答えを見出したわけでもなく、ただ単に今はそのことから目をそらすことにしただけだ。
そして、やっとの事で泣き終えると、その後は互いの江戸や大坂での出来事の話しに花を咲かせながら、楽しいひとときを過ごしたのであった。
しかし…
俺は知るよしもなかった…
徳川秀忠という「父」と過ごす、この上なく幸せな時間は…
これが最後であり、もう二度と訪れることはない、ということを…
さらに言えば、徳川秀忠と俺、豊臣秀頼が顔を合わせる機会そのものが、この江戸訪問が最後であることなど、どうして俺は気付くことが出来るだろうか。
そしてそれは、俺たち親子の背後で静かに微笑んでいる、一人の女性の報告が発端になるのだ。
――上様と豊臣右大臣殿を、これ以上近づけては危険でございます
それは、一部始終をじっと見つめていたお福が、京で彼女の報告を待っていた徳川家康に宛てたもの…
つまり…
皮肉な事に、俺が徳川秀忠との親子愛を深めたこのひと時がきっかけとなって、俺たちは容赦なく引き裂かれていくことになってしまうのであった。
自分で書いていて、かなり胸が苦しくなっております。
書けば書くほど、きたる「大坂の陣」に対する徳川家康と豊臣秀頼の臨む姿勢に大きな差があったことが明白になっていくからです。
目指すべきものと守らねばならぬものの大きさ、それに歩んできた道のりに基づく人生観が、あまりにも違いすぎるような気がしております。
もう一皮も二皮もむけなくては、秀頼が家康と同じ土俵に立つことは出来ないように思えます。
この辺りの彼の苦悩にも、作品内では向き合っていく必要を感じております。
これからもよろしくお願いいたします。




