あなたを守る傘になると決めて…㉚江戸での暗躍(3)
◇◇
慶長11年(1606年)3月29日ーー
江戸城の西の丸の一室にて、俺、豊臣秀頼と時の将軍徳川秀忠は、数年ぶりの再会を果たしたのだった。
長男である竹千代が生まれ、そして将軍として政務をこなしていく中で、徳川秀忠という人間は磨き抜かれていったのであろう。
以前顔を合わせた時よりも、浮ついたところがなどなく、彼の父親である徳川家康に比べればまだまだであろうが、それでも将軍としての貫禄と重みが滲み出ているように俺には思えた。
そんな秀忠を見てから頭を軽く下げた俺に、彼は明るい声で話しかけてきた。
「おお!秀頼殿!息災であったか!?
ささっ!お主の席はここだ!俺の隣に来るがよい!」
「はいっ!義父上!では、失礼いたします!」
俺はいつになく慇懃な態度で、秀忠の左隣の席に座った。
この部屋は、評定などに用いられるような形式ばったものではなく、秀忠が家族とともに過ごすような部屋なのだろう。
だから座る場所なども、特に上下を考えるようなことはなさそうで、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
さてその部屋には、秀忠の他にもう一人女性が同席している。それは先ほど俺の様子を見にきた江姫とは異なる人だ。
年齢は甲斐姫と同じ三十代であろうか。
しかし、ともすれば幼ささえ見え隠れする甲斐姫に対して、この女性は年相応の貫禄があり、全体に丸みを帯びた、いかにも「おかあちゃん」といった風貌だ。
だが…
俺はその人物の瞳を見たその時、思わず身震いをしてしまった。
――なんなのだ…この野心の塊のようなドス黒い瞳は…
今までも様々な目の濁りを見てきたが、この女性ほどに純粋な野心を映した黒色は見た事がない。
しかし、その色は本多正純の時に感じたような、陰湿なものでもなければ、黒田如水に感じたような主君を守る為に自分が泥をかぶるような輝きを伴うものでもない。
なんだろうか…この圧迫されるような瞳は…
大きく目を見開いてその女性を見ていた俺に気付いたのか、秀忠もまたその女性の方を見て笑った。
「ははは!そうか!秀頼殿は初めてであったな。お福と顔を合わせるのは」
「お福…?」
俺は初めて聞いたその名前を繰り返すと、そのお福と呼ばれた女性がその瞳からでは考えられないほどの優しい口調で自己紹介を始めたのであった。
「はい。お福と申します。二年ほど前に、京の高札を拝見させていただき、今は上様のご長男、竹千代様の乳母を務めさせていただいております」
「竹千代殿の乳母…だと…」
「はい、左様でございます」
第三代将軍、徳川家光となる竹千代の乳母と言えば、ただ一人しか思いつかない…
このお福は…
――後の春日局か!
彼女は徳川家光が将軍となると、その育ての親として幕府の中でも大きな権勢を誇ったその人のことだ。
しかし彼女は徳川家との血縁関係があるわけではなかったはずだ。
その彼女がこの場に平然と座している…
――もうこの頃から徳川家と深い関わりを持っていたということか…
俺は背中に冷たいものを感じると、一つの不安が頭をよぎっていた。
――くっ…!これは後手を踏んだのかもしれぬ…
と…
なぜなら俺はこの徳川秀忠と顔を合わせることで、彼が「豊臣秀頼も家族の一員である」ことを認識しているかを、確認することを目的としていた。
そうすることで、亡き太閤秀吉からの「秀頼が成人したあかつきには、天下を秀頼に」という遺言を遂行させることへの名分を固めようと考えたのだ。
そう、俺は学府での「幕僚会議」については大坂の陣に向けての下準備を秘密裏に進める一方で、大坂城での「評定」で豊臣家の当主としての地位固めを、そして俺自身の動きとしては「徳川家に取り入る」ことを画策していたのであった。
それはひとえに、
――豊臣が一度手放した天下は、俺の手で取り戻す!
その為であったことは言うまでもない。
そして最終的には、「次代の将軍は豊臣秀頼に」というお墨付きを得る事を最大の目標としていたのであった。
しかし…
この場にお福…すなわち徳川家光の乳母がいる…
もちろん彼女自身が何を考えているのかは定かではないし、彼女が俺の人生に何らかの影響を与えるとは今後も考えにくい。
だが、それでも今この場にいるという事実そのものが、俺にとっては誤算であった。
なぜなら彼女がこの場にいるということの持つ意味そのものが重要であったからである。
その意味とは…
――徳川家は竹千代の将来について重きをおいている
という、一見すると極当たり前のようなものだ。
しかし今の場合は大きく異なるのは明らかであった。
――徳川家内においては、既に将来のことを決めている可能性が高いという事か…
「歴史の歯車」は、時間の経過とともに、刻一刻と豊臣家の悲劇へと突き進んでいる。
そんな事など、もちろんこの無邪気に再会を喜んでいる徳川秀忠が気付くことなどないだろう。
しかしこの先の歴史を知っている俺にとっては、もはや底なし沼に腰までつかってしまったように、抜けだすことの出来ない未来に向けて覚悟をあらたにせねばならないことを気付かされるものであったのだ。
そんな俺の愕然とした気持ちを察することもなく、徳川秀忠はそれは愉快そうに語り始めた。
「実はな、少し前のことではあるが、京にいる父上より、秀頼殿が江戸に来られるという事とともに、俺の跡継ぎについてのお考えも報されたのだよ」
「秀忠殿の跡継ぎのこと…でございますか」
「ははは!そうなのだ!俺が将軍に任じられてから二年もたたぬ身。まだまだこれからという所で、父上も気が早いものだ!ははは!」
「ははは…そうでございますね」
俺は至って無邪気で純真な声で返したが、内心では胸の動悸がどんどん早まっていく。
――やはり家康か…何をするにも先手を取られる…
思わず歯ぎしりが出そうになるのを何とか抑える。
そして相手の表情など、まるで意に介することをしない秀忠は、上機嫌なまま続けたのであった。
「俺の将軍職の跡継ぎについて、父上は竹千代に継がせたいとのお考えだそうだ」
この言葉にぐわりと目の前が歪む。
俺はこの場にいない徳川家康という巨人相手に、いかに自分が未熟であるかを痛いほど思い知った。つまり、俺が京にいる家康の屋敷をたずねた時点で、彼はこの事を予見し、既に秀忠に対して徳川の天下を固める為の杭を打ちつけていたのである。
なんという手際のよさ、抜け目のなさであろうか…
それでも何とか平静を保てているのは、甲斐姫との鍛錬や、何事にも動じない真田幸村の姿勢を見続けてきた賜物かもしれない。
しかし、体中から溢れ出る汗だけはどうしようもなく止めることは出来なかった。
そして次の秀忠の言葉は、遠く京にいる家康が、これまでにない程の鋭い槍の先端を、俺の喉元に突きつけてきたことを表していたのであった。
「父上いわく、今の幕府には徳川家の譜代の家臣たちが要職につき将軍である俺を支えてくれている。
もし徳川の者以外が次の将軍となれば、おのずと幕府の中の重臣たちの心は離れ、再び天下を乱す者が現れかねない。
ついては次代は俺の嫡子である竹千代を将軍とし、それ以降は天下の状況に合わせて決めるようにしたらよいのではないか、とのこと。
しかし父上は、『この事は、最後は秀忠自身で決めるように』ともお考えだそうだ」
「な…なるほど…」
「ははは!そう難しそうな顔をしなくともよい!秀頼殿!
政治の事や将来の事は、この俺や父上に任せておけばよいのだ!
それともこの俺が義理とはいえ我が息子である秀頼殿を悪いように扱うとお思いか!?」
「い…いえ…かような事は…
しかし、徳川家と豊臣家の間柄については、たびたび大坂城でも議論になりますゆえ…」
「うむうむ。確かにこれまでの事があるゆえ、心配なのは分かる。
しかし以前の石田冶部らのように、その両家の関係を利用して天下を揺るがそうとする輩が出ないようにすることが肝要。
そう思わんか?」
「それはその通りでございます」
「そこで俺は決めたのだ!」
「な…何を…?」
「未来の事がどう転ぶか分からぬから、良からぬ事を考える者が現れるのだ。
ついては、この先の未来の事を俺は決めた!」
俺は意気揚々と語り続ける秀忠の瞳を、穴が開くほどに覗き込んだ。
そこには一点の濁りもない。
どこまでも自分の理想を突き進むことしか考えていない綺麗な色をしている。
俺はこの時まですっかり忘れていたのだ。
この徳川秀忠という人間が、己の信じた道をひたすらに真っすぐ進み続ける人であるということを。
そして秀忠には絶対に己を曲げない強さがあるということを…
その秀忠が何かを決心する前が肝要だったのだ。
ところがもうそれは手遅れであった…
「俺は決めたのだ!父上のご希望通りに、次の将軍職には竹千代を指名することにした!」
――やはりそうなってしまうよな…
これを宣言させてしまった以上、俺が何を言おうとも波風が立つだけだ。
しかし、この宣言こそが豊臣と徳川の間に生じた亀裂に太い釘を打つ始まりであることは確かであった。
さらに言えば、秀忠が竹千代…つまり徳川家光を将軍にしていくその過程そのものが、その釘を力強く打ち付けることであり、亀裂がますます大きくなる結果を生むことは容易に想像できた。
もちろん、秀忠本人にその意志はなかったとしてもである。
そして、それを示すような事を、秀忠は言ったのであった。
「ついては、秀頼殿には竹千代の事を、ここにいるお福とともに支えてくれまいか。
そして、他家に養子に出された俺の兄、結城秀康殿がそうであるように、西の地にあって弟を助けて、天下泰平の為にその力を役立ててほしいのだ」
――自分の兄である結城秀康を引き合いに出して、徳川家光が将軍職を継ぐ事を正当化した、というわけか…この事を大坂城の母上が聞いたら、いかに思うだろうか…
豊臣家、いや豊臣秀頼の立身に異常な執着を持つ俺の母である淀殿がこの事を聞けば、「それでは亡き太閤殿下の遺命に背くではないか!」と発狂するに違いない…
つまり、もはや徳川家と豊臣家が「仲良く手を取り合って」などというのは幻想に過ぎず、一方が他方を、武力によって完全に叩きのめすより他の道はないのだ。
そのことを、今日のこの話しであらためて理解したとともに、この時俺はいよいよ決意を固めたのであった。
――大坂の陣に勝つしかない!
と…
そして…
俺は一歩前へ足を踏み込むことにした。
それこそが、俺、豊臣秀頼の戦いの始まりであった。
「しかし…」
突然暗い顔をした俺に、秀忠が心配そうに眉をひそめて俺の顔を覗き込んだ。
「いかがしたのだ?秀頼殿、突然暗い顔をして…まだ何か心配ごとがあるなら、遠慮なく言ってみなされ」
「はい…では申し上げますと、我が父、太閤殿下は亡くなる直前に『秀頼が成人したそのあかつきには、天下は秀頼の手に』と遺言を家康殿に託されたと聞きます。
竹千代殿が天下の棟梁たる将軍職につき、われがその補佐になったとするならば、その遺命に背いたと騒ぎ立てる者も出てきましょう」
「うむ…確かに…時勢に疎く、頭の固い者たちが特に騒ぎそうであるな…」
「そうなれば、豊臣の名を騙り天下に反旗を翻す者たちも出てくるかもしれません」
「ははは!考えすぎだぞ!秀頼殿!かような事などこの将軍、秀忠が許さん!安心せい!」
俺が心配した様子を、笑い飛ばす秀忠。俺はそんな秀忠を見て、大きくため息をついた。
そして、今にも泣き出しそうなほどに、悲しい表情で言ったのだった。
「もう関ヶ原の戦いや柳川の戦いのような大きな戦さで、多くの人々が悲劇に巻き込まれるようなことは嫌でございます…
徳川も豊臣も互いに敵意がない…手を取り合って天下を治めるという義父上のお考えが皆に伝わればよいのですが…」
その俺の漏らすような言葉に、秀忠はポンと手を叩いて喜色を浮かべた。
「おお!その手があったか!うむ!それがよい!」
「ど…どうされたのですか?義父上!?」
今や天下を治める第二代将軍、徳川秀忠であっても一人の人間であり、父親だ。
そして誰よりも、平和に対する高い理想を掲げている一人の武士だ。
まだまだ先のこととは言え、可愛い我が息子と、自分の事を「義父上」と慕う少年の未来を守りたいと思う気持ちは強いに違いない。
言わばそこが勘所なのだ。
そこを俺は突いたのである。
「今、秀頼殿が言った『徳川と豊臣は互いに手を取り合い、天下を治める』という事を約定にして、皆に公表しようではないか!」
その後、秀忠はその約定の内容をこうまとめた。
その一、徳川と豊臣はもはや同門であり、永代に渡りその関係が崩れることはない
その一、よって互いを武力を持って制圧するようなことはあってはならないことである
その一、両家の名を騙り、天下に大乱を引き起こさんとする者がいれば、将軍家に弓を引くことと同じであり、断じて許されることではない
「ははは!これでよかろう!!
この内容であれば、亡き太閤秀吉殿に対して苛烈な忠誠心のある者であっても、挙兵することなどしないであろう!
どうだ!?これなら秀頼殿も安心して、竹千代と共に天下を治めてくれるだろうか」
俺はこの内容を耳にした時、思わず胸が高鳴った。
徳川秀忠にしてみれば、豊臣秀頼を後継に指名しない事をきっかけとして、徳川相手に弓を引く者を出さないようにするのが狙いであるのは明白だ。
同時に、一部の徳川家家臣が、若い徳川家光をそそのかして、豊臣家を攻め滅ぼすようにしない事も考えたのだろう。
そうすることによって、自分の息子も目の前の義理の息子も守る事が出来ると考えているに違いない。
しかし…
それは裏を返せば、徳川家康が大坂城を攻め込む事を禁じた内容である事も意味している事を、この時秀忠は完全に見落としていた。
なぜなら、まさかその家康が、豊臣家を武力で制圧する未来の事など知らないからであり、想像すらつかないからであろう。
――さあ…これで、もし自分の父親がこの約定を破る場合、秀忠はどうするのだろうか…
将軍の名において公表したなら、よほどの大義名分がない限りにおいては破ることは許されないだろうし、もし大義なくして大坂城を攻めた場合、この約定の事を知った大名たちは、果たしてどれだけの士気を持って、徳川軍に従軍するだろうか。
つまりこの約定が公表されれば、近い将来において徳川家康が豊臣討伐を宣言した時点で自分の首を絞めることになるはずだ。
そう…
もはや大坂の陣が避けられない未来ならば、今から俺がすべきことは、ただ一つ…
――徳川家を内側から切り崩す…!
それを実行すべく、今一歩踏み込み始めたのであった。
もちろん「暗殺」など、卑劣で手荒な事をするつもりはないし、何よりもそのような事は俺自身が最も忌み嫌うことだ。
あくまで俺は、俺自身の「武器」を最大限活かして徳川家に斬り込むつもりだ。
その俺の「武器」とは、かつて「天下一の人たらし」とあだ名された俺の父、太閤秀吉が残してくれたもの…
つまりは、「味方を作る能力」だ。
すなわち、徳川家家中の者たちを俺の味方に引き入れる、そこまでいかずとも、豊臣家に刃を向けることに躊躇いを覚えさせることで、大坂の陣の徳川軍の陣容に影響を及ぼさせるのが狙いだ。
そしてその為に、俺自身が直接語らい、友誼を深めていく。
一見すると、すごく地味なやり方のように思えるが、下手に自分の家臣を使うよりは、かえって怪しまれることもなく、俺の力を最大限発揮できるであろう。
予め俺はこの江戸訪問で直接語らう相手…すなわち、俺に味方をしてくれる可能性のある相手を決めていたのであった。
それこそ…
大久保忠隣と忠常の親子。
そして、目の前の徳川秀忠だ。
「はいっ!!義父上!!われは、義父上の期待にお応えできるように、精一杯努力してまいりたいと思います!!ありがとうございます!」
俺は満面の笑みを浮かべると、秀忠に対して深く頭を下げた。
その様子に、ますます上機嫌になった秀忠は、
「ははは!これこれ、かように頭を下げるでない!父として、息子の心配ごとを取りはらっただけだ!ははは!」
と、大笑いしながら、目の前の盃の酒を一気に飲み干した。
さて、これで一つの目的は達成した。
これ以上、この手の話題を続けていては何か勘付かれてしまう可能性もある。
こう考えた俺は、別の話しをすることにした。
「そう言えば、加納城の亀姫殿にお会いしてきました…」
しかし…
その時であった…
俺はこの場にいる、もう一人の事をすっかり忘れていた。
「…その前に、よろしいでしょうか?」
それは、お福であった。
この時俺は大きな見落としをしていたのである。
彼女が「京の高札を見て」、家光の乳母に選ばれたということ…
その「京」には、徳川家康がいるということ…
つまり、彼女は…
徳川家康と通じているということを…
斉藤福は、明智光秀の重臣である斉藤利光の娘でございます。
彼女は4歳にして本能寺の変、そしてその後の山崎の合戦にあい、父親が京にて磔にされるところを目にしたと言われております。
その後、豊臣秀吉の追手から逃れるように、京、土佐と渡り歩き、ついには稲葉正成の妻となることで、ようやくその身が落ち着いたとされております。
しかし夫である正成は、小早川秀秋の重臣であり、関ヶ原の戦いの後、主君が亡くなってからは、再び放浪の身となります。
そして「徳川家光の乳母を募集」の高札を見た後、その役目を果たすために、夫と離縁までしたそうです。
この波乱万丈な半生があったからこそ、彼女のその後の徳川家での振舞いにつながったのではないでしょうか。
さて、次回はそのお福と秀頼のやり取りの話しから始まります。
果たして秀頼の思惑通りに進むことは出来るのでしょうか。




