あなたを守る傘になると決めて…㉓笑顔と風と(4)
◇◇
奥平信昌の許嫁であった、亀姫が奥平家に嫁いできた経緯と、おふうの壮絶な最期の話しを聞いた俺、豊臣秀頼は、何も口にする事は出来なかった。
俺は「長篠の合戦」と言えば、鳥居強右衛門の伝説と、設楽ヶ原での織田軍の鉄砲隊などの派手な印象が強すぎて、このような戦さの裏側にあった悲しい物語のことなど知らなかったからである。
しかし「本当に知らなかった」のであろうか。
いや「本当に知らなかった」というのは事実である。しかし、一方で「知ろうともしなかった」というのも事実であろう。
戦争というものは、起こした当事者同士の「勝った」と「負けた」という、極めて表面的な結果だけが取りざたされがちだ。
しかしその一つの事象によって生じる軋轢や悲劇は、決して少なくはなかったはずだ。
信昌から聞かされたこの話しも、そのごく一部に過ぎないのであろう。
しかし、それでも俺は、今から数年後には戦国最大の戦さのうちの一つである「大坂の陣」に向けて、その準備を着々と進めている。
言わば俺は「戦争を起こす当事者」側の人間なのだ。
俺の背後にいる人々の悲劇にどれほど目を向けることが出来るだろうか。
兵力の大きさを単なる数字の大小にしてしまうのではないのか。
そのわずか「1」が、ある家族の大黒柱であり、妻がいて子供がいることを、俺は最後の最後まで忘れずに、いられることが出来るであろうか。
その「1」の人の幸せと笑顔を追求できる人になれるであろうか…
そんな逡巡をしている中で、信昌は長篠の合戦の後の事を語り始めた。
「妻が奥平家に嫁入りしてきたのは、長篠の合戦の翌年のことであった。
今でも覚えておる。
あの時、緊張の面持ちの中にも、新たな生活への覚悟を決めた強い瞳をしておった。
翌年には長男、家昌が生まれ、その翌年には次男の家治が生まれ、その頃には妻も奥平家の中ですっかり打ち解けておってな。
今からでは考えられぬほどに、穏やかな性格でした」
「では、どうしてあのように苛烈なお方になられてしまったのです?」
共に話しを聞いていた高梨内記の娘が、思わず信昌に問いかけた。
すると信昌は顔を暗くして答えたのであった。
「それは…忘れもせぬ。
妻の…亀姫の母である瀬名姫と、兄である徳川信康殿が…
こともあろうことか、父である大御所様、つまり徳川家康公の意によって、その命を絶たれたこと…」
「そんな…」
その言葉の瞬間、内記の娘は顔を青くして、口元を覆った。
信昌はゆっくりと続けた。
「その事実は、妻には受け入れ難いものじゃった。
何日も塞ぎこむ日々が続いた…
そして妻は悩み、苦しみ抜いた結果、一つの覚悟にたどり着いたのだ」
「それは…」
「それは、自分の家族は…自分の『幸せ』は自分の手で守り抜く…と」
「なるほど…だから、奥平家に少しでも危害を加えそうな者があれば、容赦はしない…ということなのだな…」
俺が納得したように言うと、信昌は静かにうなずいた。
そして俺たちにあらためて注意を促したのである。
「秀頼殿。だから興味本位で、妻の行動の詮索をされるのはおやめくだされ。
妻は妻の考えがあってのこと。
それはただ一つ、『家族を守るため』その一心にございます。
そこに何かやましいものなどござらぬ」
俺はそんな信昌の真っすぐな瞳を見て、大きく息を吐くと、
「相分かった…こたびの件われらが軽率であった。どうか許しておくれ」
と、俺は素直に頭を下げた。
すると、そんな俺に対して信昌もまた、
「いえ、こちらこそ秀頼殿とは、家族として今後も良き関係を築いていきたいと思っておるのです。
どうか、これからも妻のことをよろしくお願いいたします」
と、頭を下げてきたのであった。
互いに頭を上げたところで、俺はぼそりとつぶやいた。
「家族としての当たり前の時間を過ごす…そんな時間が今も加納御前殿にとっては、かけがえのない大切な時間なのかもしれんのう…
だから、朝げの際に、誰も何も話さなくても、それだけで満足だったのか…」
そのつぶやきに内記の娘も、いつもの軽い調子を抑えてつぶやく。
「これから素敵な家族の思い出がたくさん出来るといいのだけど…」
この一言を聞いた時…
俺は一つの事を閃いた。
それは、俺が亀姫に出来ることをしてあげたい、その一心から生まれたものであったのだ。
そして俺は明るい声で叫んだ。
「思い出じゃ!!
せっかくであるから、加納御前殿が笑顔になるような思い出を作ろうではないか!!
今は何刻じゃ?」
「えっ!?恐らく、辰の刻(午前八時くらい)頃だと思いますが…」
「よしっ!今日は、午の刻(正午くらい)にここを出れば、日没までに次の目的地に着くであろう。
急ぎ支度をするとしようではないか!」
「な…なにをです!?秀頼様!」
突然の俺の物言いに、慌てふためく内記の娘。
そんな彼女に向けて、俺は笑顔で答えたのであった。
「みなで思い出作りじゃ!!」
………
……
慶長11年(1606年)3月23日 巳の刻(午前10時頃)――
亀姫は、千姫を自室に招き入れて、のんびりとした時を過ごしていた。
その千姫は風の噂で「加納御前はとても怖いお方」と聞いてはいたのだが、今彼女の目の前にいるその人は、噂とは全く異なるほどに優しい人であることに、すっかり心を開いていたのであった。
「大坂城での生活はいかがですか?何か不便はありませんか。
もし不便があるなら、わらわが父上にお願いいたしましょう」
「いえ、みな千に優しくしてくれますゆえ、千は毎日楽しく過ごしております!」
「そうですか!それは嬉しいことにございます」
千姫の無邪気な笑顔に、亀姫は心の底からほっとしていた。
なぜならそれは、彼女自身の幼少の頃の記憶と、千姫が置かれた境遇を重ねていたからである。
――かように幼い頃から、大人たちの道具として振り回されておるのか…
亀姫は千姫がこの加納城に来ると聞いてから、そう思わない時はなかった。
きっと今回の江戸城訪問も、大人たちが勝手に決めたことであり、彼女が好き好んで行っているわけではないはずだ、そう思っていたからだ。
そして、もし千姫が今回の訪問に対して、「嫌」と言うなら、ここ加納城で留め置くことも覚悟していたのである。
しかし、千姫は違っていた。
彼女と共に時間を過ごす中で、彼女が今回の旅も含めて、今の生活にとても満足し、楽しんでいることがよく分かったのだ。
――幸せそうで本当に良かった…
亀姫は心からそう思っている。
しかし、何も知らない無邪気に笑う千姫を見ると、胸に痛みが走ることに彼女は戸惑っていた。
――もう捨てたはずじゃ…もう捨てたはずなのじゃ…
彼女がそう何度も言い聞かせる「捨てたもの」とは…
家族からの愛情を求める飢えた心――
…と、その時であった。
「失礼いたします!母上!!お迎えにあがりました!!」
と、部屋の外から若々しい爽やかな声がした。
その声の持ち主は、今の美濃国加納藩の二代目藩主にして、奥平家の当主、奥平忠政であった。
彼は奥平信昌と亀姫の子供で三男にあたる人物で、この時は二十六歳。その声と同様に見た目は若いが、それでも元より病弱で、あまり表に出てくることはない人だ。
「忠政か。何事ですか?」
その声と同時にすっと開けられた襖に外には、その忠政と、彼の若い妻が、二人して温厚な表情で座っていた。
いつも白い忠政の顔であるが、この時はどことなく紅くなっている。
すると忠政の妻の方が、頭を軽く下げて言ったのだった。
「義母上様。義父上様と豊臣秀頼殿が、何やらご準備をされてお待ちなようです。ささ、千姫様も早う!」
と言葉の後半はさながら急かすように、調子が上がっていることから、彼女も何やら興奮しているようだ。
「まったく…いかがしたと言うのですか!?」
いまだに何事か分からずに、重い腰を上げようとしない亀姫に対して、千姫がその手を優しく取って笑顔を向けた。
「伯母上さま!秀頼さまの事です!きっと楽しい事をお考えになられているに違いありません!行きましょう!!」
千姫の顔を、その細い目で見つめた亀姫は、この時自分でも分からない程の興奮が沸き上がってきていることが不思議でならなかった。
それは、彼女がまだ幼い頃に体験した、姉川の合戦の後に父である徳川家康の凱旋を待っている心境と全く同じだったのである。
しかし沸き上がってくる興奮は、
――またどうせ裏切られるのであろう…失望させられるのであろう…わらわは自分の事しか信じぬ…
と、彼女の心を固く守っている何かによって、すぐに封印されてしまうのだった。
それでも亀姫は、千姫に引っ張られるようにして部屋の外に出ると、彼女とともに忠政の背中についていった。
長い廊下を抜け、城内の広くなっているところに出た所で、外に出かける為の履物を身につける。
そして城外に出ると、既にそこには彼女らを乗せる駕籠が準備されていた。
「いったいどこへ行くと言うのです?」
そんな亀姫の疑問に答えられることもなく駕籠に入れられた彼女は、忠政たちとともに城の外へと出ていったのであった。
………
……
――なぜじゃ…なぜなのじゃ…わらわは、とうの昔に捨てたはずであろう…この気持ちは…
駕籠に揺られながら、亀姫は必死にその気持ちに蓋をしようとする。
しかしそうすればそうするほど、彼女の脳裏には、まだ幼かった自分が満面の笑みで、さながら踊るように、くるくるとまとわりついてくる。
父と母と兄と…
家族で幸せな時を過ごすことを『夢』見て疑わなかったあの頃の自分。
姉川の合戦後の凱旋で向けられた父の冷たい視線、父から道具のように扱われて決められた結婚、そして母と兄の死…
家族の幸せなど幻想に過ぎないという事を、胸に刻んだあの時から、彼女は信じていたのだ。
――幸せなんてものは『作る』ものではない。ただそこにあるのを『守る』より他ないのだ…
と…
その為に必死に生きてきた。
その為に必死に守ってきた。
その為に必死に笑顔を消してきた…
しかしなぜであろう。
豊臣秀頼と千姫という初体面の少年少女によって、彼女の今まで信じて疑わなかったものが壊されそうな気がしているのだ。
それは「恐怖」でありながらも、一方で「楽しみ」にしている自分がいる。
無論後者の方が、今目の前で無邪気な笑顔を見せている、幼き頃の自分であった。
彼女は、惑わされぬように、心を無にしようと目を閉じる。
すると…
その瞼の裏には…
――母上!兄上!!
…とその時であった。
「…様、奥方様!!」
と、駕籠の外から、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、ああ…もう目的の場所とやらについたのか?」
「はい。皆さまがお待ちでございます」
「皆さま?」
彼女はいぶかしく思いながら、ゆっくりと駕籠の外に出た。
その彼女の目に飛び込んできたのは…
一本の満開の桜の大木。
その桜の木の真下に立てられた、一本の黄色の大きな傘。
そして…
その傘の下に集う、彼女の家族――
豊臣秀頼の笑い声がする。
「はははっ!!加納御前殿!!こっちじゃ!こっちじゃ!!」
千姫も笑っている。
「伯母上さまぁ!!千の隣が空いております!!」
息子の奥平忠政、そしてその妻も笑っている。
「母上!!それがしがお茶をいれましょう!」
「義母上様!わらわがお作りしたお料理にございます!」
そして…
夫の奥平信昌も…
穏やかな笑顔を彼女に向けている。
「ははは!何をかように驚いておるのだ!はよう、こっちへ!」
「こ…これは…」
しかし、彼女は駕籠の側から一歩も踏み出せないでいた。
もしここであの「傘」の下に入ったなら、
――もう戻れぬ…いや、むしろ昔に戻ってしまう…他人を無邪気に信じて疑わなかったあの頃に…
と、おびえていたのである。
だがその時…
彼女の手を取ったのは、幼い頃の彼女自身であった。
そしてもう片方の手を引くのは、いつもその背中を見せていた母、瀬名姫。
彼女の背中を押しているのは、兄の信康。
彼女は一歩、また一歩と踏み出しているその時にも、必死に元に戻ろうともがく。
――なぜじゃ!?なぜなのじゃ!!母上も兄上も、乱世に殺されたのに、なぜわらわの背中を押すのじゃ!!
その問いかけに、母の瀬名姫が振り向いた。
そして…
笑顔で言ったのである…
――それは亀。お主が『幸せ』になれるからに決まっておろう
と…
亀姫はその瞬間われに返った。
その直後、彼女は…
「今行くから待っておれ!!」
と、走り出した――
あの頃の無邪気な彼女の笑顔を見せて――
「さあ!みなで思い出作りじゃ!!はははっ!!」
太陽のような豊臣秀頼が、大きな号令をかける。
こうして家族だけの、楽しいひと時は始まった。
それは、どこにでもありそうな、ごく自然で当たり前の、桜舞う木の下で過ごす笑顔の時間。
でもそれは…
亀姫にとっての『夢』の時間――
………
……
慶長11年(1606年)3月23日――
何のことはない。大きな傘の下で、ただ笑い合い、世間話にうつつを抜かしていただけだ。
そんな家族の時間はのんびりと過ぎていく。
そんな彼らをじっと見つめていた瞳があったのを、亀姫も信昌も、そして秀頼も全く気付くことはなかった。
その瞳は、どこまでも澄み切っており、どこか哀しさと羨ましさと、そして穏やかな喜びが入り混じっている。
そしてしばらく見つめていた後…
その瞳の持ち主は、そっとその場を後にした。
ふと一陣の風が頬を当たったような気がして、信昌が、あの白い犬の名前をつぶやいた。
「かぜ…?」
その信昌が一瞬見せた、寂しげな横顔に、亀姫は不思議そうに問いかけた。
「信昌殿?いかがしたのです?」
しかし信昌はすぐに元の穏やかな笑顔に戻して答えた。
「いや…なんでもない」
そして彼は心の中で、過ぎ去ったものに向けて頭を下げた。
――ありがとう。約束は…来世で果たすからのう。もう少しだけ待っていておくれ
そんな彼のもとから遠ざかっていく、爽やかな春の風。
それは遠く、作手の空へと吹いていったのであった。
この日…
加納城から一頭の白い犬が姿を消した。
その犬は、ひょっこり現れ、ひょっこりといなくなった。
その名の通り、それは「風」のように、自由きままに――
………
……
慶長11年(1606年)3月23日 正午――
俺たち豊臣秀頼一行は、予定通りに加納城を出立することになった。
そしてこの少し前に、俺は亀姫にお願いをして「とある人への書状」を書いてもらったのだが、それは亀姫にとっても喜ばしいことであり、彼女は喜んで協力してくれたのである。
千姫は別れが惜しいのか、最後の最後まで亀姫にひっついて涙目になっている。
しかし、これ以上とどまる訳にもいかないので、半ば強引に千姫を駕籠に入れると、俺は馬にまたがり出発の号令をかけたのであった。
その時であった。
亀姫が俺の側まで、駆け寄ってきた。
「これ、秀頼殿。一つよいかね?」
なんだか嫌な予感がしたが、避けるわけにもいかず、俺は亀姫の方に耳を貸す。
すると、彼女はささやくように言ったのだった。
「早く子供が見たいのう。頑張るのじゃぞ!」
その言葉の瞬間に、俺の顔が真っ赤になる。
「ちょ、ちょっと加納御前殿!!まだお千は…!」
「ほほほ!かような事など分かっておる!ただこればかりは流れじゃからのう。
良い流れを逃すでないぞ」
亀姫の顔がいやらしい笑顔になる。
そしてその表情は、出会った時の彼女とは天と地ほど異なるほどに豊かなものになっていた。
――化けの皮をはがして見れば、単なるおばちゃんじゃないか…
俺は心の中で、冷ややかな目を亀姫に向けたのだが、
「ん?何か今言ったか?」
と、彼女ならではの鋭すぎる勘に、俺は肝を冷やした。
そして、最後に彼女は俺に言ったのだった。
「くれぐれも…お千を泣かせるような事はしてはなりませんよ。
まして、他の女にうつつを抜かしたと、わらわが知ったら…
ふふふ…分かっておりますよね?」
――ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!
と、心の中では恐怖のあまりに涙を流しながらも、俺は何とか取り繕って
「わ、分かっております!も、もちろんお千を幸せにしてみせますとも!」
胸を叩いたのであった。
すると、そんな俺の様子に安心したのか、亀姫は満面の笑みを見せて手を振った。
「よい返事です!では、お達者で!帰りも立ち寄るのですよ!」
「はいっ!お世話になりました!加納御前殿もお達者で!!」
こうして俺たちの加納城の滞在は終わりを告げた。
実はこの亀姫との出会いが、これより先の俺の人生において、大きな助けになるのだが、もちろんそんなことなど知ることもなく、俺は早くも新たな目的地に心を躍らせて、馬を進めていったのであった。
なお、後から知ったことなのだが、この加納城で史実と異なる点が一つ出来た。
それは、加納城裏に出来るはずのものが出来なかったのだ。
その出来なかったものとは…
慶長12年(1607年)に亀姫によって処刑されたはずの十二人の墓。
そして彼女の苛烈さを物語る、その伝承すら残ることはなかったのであった。
加納城のエピソードは、こちらで終わりになります。
ちなみに亀姫と奥平信昌の結婚に、猛烈に反対したのは、瀬名姫ではなく、兄の徳川信康であったと伝わっております。
その理由は拙作と同じとされておりますが、信康は織田信長からの命令である事を知って、渋々了承したと言われているようです。
そして、加納の地でさりげなく出てきた『傘』の存在ですが、加納は和傘の生産で有名になります。
もとより豊かな木材の産地であり、さらに美濃和紙で有名な同地は、とある藩主が明石より傘職人を連れてきた事から和傘作りが盛んになったとのことです。
さて、次回はリクエストをいただいたこともあり、尾張の話しになります。
甲斐姫が久々に再会した相手とは?
そして甲斐姫と清州の意外な関係とは!?
かの有名な「水攻め」の合戦の模様と合わせてつづります。




