あなたを守る傘になると決めて…㉑笑顔と風と(2)
◇◇
慶長11年(1606年)3月23日ーー
前日に加納城に到着した、俺、豊臣秀頼と千姫らの一行は、前夜の歓待の宴をつつがなく終えると、早い時間に床についたのだ。
そして、朝を迎えたーー
やはりいつも通りに、この日も夜明けとともに目を覚ました俺は、加納城の本丸前の広場にて、木刀の素振りを始めることにした。
どうやら今日も良い天気に恵まれそうで、早朝のひんやりとした空気が頬に当たると、まだうつろであった意識が自然にはっきりと覚めてくるのが、たまらなく心地よい。
ところが、これから素振りを始めようとした、その時であった。
ーーワンッ!
という快活な吠え声とともに、白い犬のかぜが、俺のもとへ駆け寄ってきた。
しかし昨日の怒った様子とは全く異なり、出会った時と同じ、人懐っこい顔で尻尾をぶんぶんと振っている。
俺もそんなかぜを笑顔で迎えた。
早速俺に飛びついて、顔をペロペロとなめてくるかぜ。そんなかぜに、俺は笑顔で語りかけた。
「おお!かぜであるか!」
ーーワンッ!
かぜは、まるで俺の呼びかけに答えるように吠える。
「昨日はどうしたのだ?かように取り乱して…」
ーーワンッ!
変わらぬ表情で元気よく吠えるその様子に、やはり言葉が分かっているように見えたのは気のせいだったと思い直す。
「では、われはこれから剣の稽古をするゆえ、危ないから少し離れておれ」
ーーワンッ!
すると大人しく俺から離れるかぜ。
ーーむむっ!?やはり言葉が分かっているのか?
と、俺はいぶかしく思いながら、木刀を振り始めたのであった。
………
……
この日の朝げは、亀姫のたっての希望で、一部の近親者のみで囲むこととなった。
豊臣家からは、俺と千姫。奥平家からは、奥平信昌と亀姫、それにこの頃既に信昌より家督を継いだ信昌の三男である奥平忠政とその妻が同席した。
信昌の息子である忠政も、父親同様に生真面目そうな人で、あまり余計な事をしゃべる人ではなかった。そして、その妻もまた全くと言ってよいほどに口を開かない。
もちろん俺も千姫も、ここでは客人である為に、言わば借りてきた猫のように大人しくして、黙々と朝食を口にしている。
外から聞こえてくる小鳥の鳴き声だけが、やたらと耳に入ってくる、そんな朝げの時間であった。
ーーなんなのだ…誰も何もしゃべらぬではないか…
俺はこんな調子で良いのかと心配になり、ちらりと亀姫の方を見る。
ところが、その亀姫は、何がそれほどまでに楽しいのかは分からないが、非常に上機嫌なのはその瞳の輝きで十分に伝わってきた。
こうして会話らしい会話が一つもないまま朝げを終えると、忠政とその妻は静かにその場を後にしたのだった。
ーーおいおい!結局一言もないままに終わってしまったではないか!?
そして、このまま誰も何も話さぬままに解散となるかと思われたその時であった。
朝から鋭い刃物のだったような斬れ味ある顔つきの亀姫が、こともあろうことか俺に対して問いかけたのであった。
「今日のいつ頃に出立されるのかい?」
何気ない問いかけであっても、俺の体は緊張に包まれた。
しかしここでしっかりと答えねば、せっかく理由は分からないが上機嫌な亀姫を不機嫌にさせてしまうだろう。
そうなれば、俺の加納城での目的の一つである「亀姫との関係を良好にする」というのは、頓挫してしまうかもしれない。
ーー焦るな!焦るなよ!俺!
と、自分に言い聞かせながら、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「昼前には出立しようかと思っております」
その俺の答えに、亀姫は心なしか寂しげなものを瞳に浮かべたのは、俺の気のせいだろうか…
「そうですか…くれぐれも道中気をつけるのですよ」
「はい、お気遣いありがとうございます!」
その俺の言葉に、一つうなずいた亀姫は、
「千や。伯母が髪をとかしてあげましょう。こっちへ来なさい」
と、再び上機嫌になり千姫に手招きをした。
「はいっ!伯母上!千は嬉しゅうございます!」
そして千姫もまた上機嫌で、亀姫とともに部屋を後にしていったのだった。
最後まで部屋に残ったのは、俺と奥平信昌の二人。
すると今度は信昌が穏やかな口調で、問いかけてきた。
「秀頼殿。少しだけ時間をくれないだろうか?」
亀姫とは正反対とも言えるほどに柔らかな表情の信昌。そんな彼に対して、俺は問い返した。
「いかがされたのですか?」
「ふふ、昨日秀頼殿がそれがしに対して、長篠での戦さの事を聞きたいとおっしゃっておったので、その事を少しお話しいたそうかと…」
「おお!!まことであるか!!それは嬉しいのう!」
信昌の意外な誘いに大興奮の俺であったが、信昌は変わらぬ表情のまま、俺を見つめている。
ところが次の彼の言葉に、俺は凍りついたのであった…
「それともう一つ…
秀頼殿をお諌めいたそうかと…」
「諌める?何をじゃ?」
「おなごを使って、あれこれ嗅ぎ回るのは、わが妻が最も嫌うことだからのう」
この言葉を聞いた瞬間…
俺の心臓は口から飛び出さんばかりであった。
ーーまさか!?なぜ!?
そんな風に青ざめた顔で固まっている俺に対して、背を向けた信昌は、「ついてこい」と言わんばかりに、ゆっくりと歩き出したのであった。
………
……
「すみません!秀頼様!」
信昌の部屋に入るなり、そう頭を下げてきたのは、他でもない、高梨内記の娘であった。
そしてその様子を見た信昌が、ため息をつきながら言った。
「何やら城の者に聞き回っているところを、それがしが呼び止めたところ、逃げ出したのだ」
その後を繋ぐように、彼女は舌を出しながら続けたのであった。
「しかし当然、逃げ切れるわけもなく、ここに連れられて洗いざらいお話ししたということにございます」
「洗いざらい?」
「はい…亀姫によって投獄された十二人の侍女の謎を追うように秀頼様から命じられたことにございます」
やはり彼女に何かを期待した俺がどうかしていたのだろう…
俺は信昌の方を向き、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。
どうしても十二人もの多くの者たちがいっぺんに投獄されたいわれを知りたかったのだ…」
「頭をお上げくだされ、秀頼殿。
確かにはたから見れば、おかしいと思われても仕方のないことにございます。
そして、もしいわれのない罪で投獄したのではないか、という事がまことしやかに世間に広がれば、それこそ当家の一大事にございます。
そこでなぜこのような事になったのかを、今や身内である秀頼殿には、しっかりとお伝えしておこうと思ったのでございます」
「なるほど…さようであったか…」
「しかし、その前に一つ申し上げておかねばならぬのは、わが妻が侍女たちを投獄した理由については、お答え出来ぬのじゃ」
「むむっ?それでは先ほどと言っていることが異なるのではないか?」
俺と内記の娘の二人が顔を見合わせて眉をひそめると、信昌はゆっくりとその疑問に答えた。
「明確な事を申し上げると、それこそお家どころか徳川家を巻き込んだ騒動になりかねい…とだけ申しておきましょう。
それほどに重大なことなのでございます。
しかし、その理由は、わが妻の行動を語る上ではさほど重要ではないのです」
「つまりどういうことなのじゃ?」
「すなわち十二人の侍女を投獄した『表向き』の理由よりも、わが妻にとっては大切なことがあったということにございます。
そしてそれは…」
そこで一度話しを切る信昌。俺たちがその顔をじっと見つめる中、彼は腹を決めて言い切ったのであった。
「わが妻が侍女たちを投獄した真の理由は、『家族を守る為』なのだからでございます」
「家族を守る為…」
今ひとつ合点がいかないのは、内記の娘も同じようで、難しい顔をして首をかしげている。
すると信昌はそんな俺たちの疑問を解消しようと、引き続きゆっくりと話し始めた。
「妻は、それがしが言うのもおかしいかもしれぬが、『家族』というものに、異常なほどの執着を持っておる。
何がなんでも自分が守ると、そう強い意志をもっておるのだ」
「しかし家族を守りたいと思う気持ちは、誰でも同じであろう?」
そんな俺の問いかけに、信昌は静かに首を横に振る。
「ええ、しかし妻のそれは他の方のそれとは大きく異なります」
「つまりどういうことじゃ?」
「つまりは…」
そう言い始めた信昌の顔つきが明らかに変わった。
その顔を見ただけで、圧倒されそうになる。
そして信昌は、声を一層低くして言ったのである。
「妻は、家族に危害を加える者を、絶対に許しませぬ。地獄の果てまで追いかけて、あらゆる苦しみを与えた上で、その者のはらわたを取り出すでしょう」
「ひいっ!」
思わず内記の娘が恐怖のあまりに声をあげるが、俺も背筋に冷たいものが走っていたのは同じだ。
自分の妻のことを、親族とは言えここまで極端に表現するのだから、それはよほど信昌に思うところがあるのだろう。
ないしは一種の「警告」なのかもしれない…
余計な口出しをしたら、例え豊臣秀頼と言えどもただでは済まされぬぞ…と…
だが裏を返せば、もし警告だとすれば、亀姫の逆鱗に触れる前に言ってくれたのだから、それは信昌の優しさであろう。
俺はここで一つ疑問に感じたことを問いかけた。
「ところで加納御前殿は、なぜかように家族のことに神経質なのでしょう?」
その問いに信昌は腹を決めたように、顔を引き締めて答える。
「それこそ話しは武田と織田、徳川の争いまで遡るのです。
すなわち…長篠の戦い…」
そして信昌は、ゆっくりと語り始めたのだった。
俺の知らない長篠の戦いの裏側を…
………
……
元亀元年(1570年)夏ーー
近畿の姉川の地にて、織田信長と徳川家康の連合軍が、朝倉義景と浅井長政の連合軍を破った、いわゆる姉川の合戦が終わりをつげたその頃。
浜松城は喜びの笑顔に満ちていた。
その中には、この年に十歳になったばかりの亀姫の無邪気な笑顔も含まれていた。
この頃の亀姫は今の厳格で周囲を威圧するような姿からは想像もつかないほどに、天真爛漫で人懐こい少女であった。
そんな彼女に、隣に立っていた女性がピリッとした口調で彼女をたしなめた。
「これ、お亀や。当主の娘がそのように人前ではしゃぐものではありませんよ」
「しかし、母上!!父上が勝って帰ってこられたのでしょう!嬉しい時に、笑わずしていつ笑うのですか!」
そう、この亀姫の隣の女性は彼女の母親、すなわち徳川家康の正室、瀬名姫であった。
瀬名姫は娘のその様子に苦笑いを浮かべているが、それ以上は何も言わない。
その代わりに同じく亀姫の横に立っている少年が笑った。
「ははは!お亀は気の強いおなごじゃのう!
これでは将来、夫になるお人は苦労しそうだな!」
「もうっ!兄上までわらわの事を馬鹿にして!」
と、亀姫はぷくりと頬を膨らませる。
その彼女が憤りを向けた相手は、この時岡崎城の城主にして、将来は徳川家康を継ぐことを約束された徳川信康であった。
その信康に対して、二人の母の瀬名姫がやはりピリリと斬れ味の良い刃物のような口調で言ったのだった。
「これ、信康。お亀に結婚の話しなどまだ早すぎます」
「母上!わらわは結婚などしとうございませぬ!
母上や兄上とずっと一緒に暮らしとうございます!」
亀姫は、今川義元が非業の死を遂げた、かの桶狭間の戦いよりわずか一ヶ月後に産まれた。
この桶狭間の戦いの後、徳川家康は岡崎城に入ると、将来を見越して、これまでの今川氏の支配から抜け、織田信長に接近した。
しかしそれと同時に今川館(後の駿府城)に取り残される形となった瀬名姫、信康、そして産まれたばかりの亀姫の三人の親子と、亀姫の祖父母は、今川義元の跡を継いだ今川氏真によって幽閉されてしまったのである。
そして、幽閉は二年にも及んだ。
その間にも今川氏真は、徳川と織田をなんとか引き離そうと、人質であった彼らに対して、必死になって様々な威圧をかけてきた。
そしてついに、亀姫も懐いていた彼女の祖父と祖母の二人が、悲嘆にくれて自ら命を絶ったのである。
「なんで?なんでじじ上とばば上は死んでしまったのだ?」
亀姫の幼心にも、哀しみとともに、自分たちの身の危険を感じたのではないだろうか。
それでも亀姫の母である瀬名姫は、表情一つ変えずに毅然とした態度で、
ーー大丈夫です。必ずお前たちの事はわらわが守ります
と、亀姫と信康に言い聞かせ続けた。
亀姫はそんな強い母の姿を見続けて育ってきたのだ。
今川館からの幽閉が解けた後、徳川家康は嫡子の信康は岡崎城に迎えたものの、正室の瀬名姫のことを城には入れずに、岡崎郊外の屋敷にて、さながら幽閉のような生活をさせた。
この頃の事を亀姫自身は多くは語らなかったと言うが、まだ幼かった彼女は母である瀬名姫とともに過ごしていたのではなかろうか。
つまり亀姫は長くてつらい幽閉を終えた後も、家族団欒を知る事なく過ごしてきたのである。
そしていよいよ瀬名姫が岡崎城への入城が許されたのは、なんと元亀元年になってからであり、それでも徳川家康は新たな居城である浜松城に移った後であった。
つまり彼女は…
家族の愛情に飢えていた。
そしてこの日、岡崎城にいた瀬名姫、信康、亀姫の三人は、初めて浜松城に赴くとともに、亀姫にとっては父親である徳川家康が、姉川で行われた大きな戦さから凱旋してくるのを出迎えることとなったのである。
浜松城行きが決まった時の亀姫の喜びようと言ったら、まさに正月と盆が同時にやってきたようであったらしい。
ーー今日こそは、父上と母上、それに兄上と皆で楽しく過ごせるに違いない!
そう彼女が胸を躍らせていたのも無理はないであろう。
彼女は興奮抑えらぬ様子で、ちらりと横を見た。
するとその視線の先に、とある一家が目に止まった。
兄の信康や自分よりも少しだけ年齢は上の少年に、笑顔で話しかけている自分と同じくらいの年齢の少女、それに何名かの少年らと大人たち。みな笑顔が印象的で、亀姫は思わず見とれてしまった。
「あの方々は…」
すると瀬名姫が苦々しい顔で答えた。
「あれは、奥平の一族です。ろくに知行も持たぬ田舎侍です。それにわれらが敵の武田とつながりも噂されておる一族じゃ。
お亀とは一生縁のない身分の低い者たちゆえ、目を向ける必要などないのですよ」
「ふーん、そうなのですか…」
この頃の奥平家は苦境の真っ只中にあった。
元より今川家の従属していた小さな豪族にすぎなかった彼らであったが、当主の奥平定能が徳川家康に引き抜かれたところから徳川家の家臣の一族として扱われるようになったものの、その知行の多くは徳川家とは敵対している者たちの影響が残る土地など、決して優遇されているとは言えない立場であった。
またこの頃、三河侵攻を虎視眈々と目論んでいた武田信玄と何度か書状をかわしたとの疑惑も向けられ、領地を離れて姉川で戦う徳川家康の背後をつかれない為にも、その家族は浜松城に留め置かれ、当主の定能は姉川の合戦に参戦を余儀なくされたのであった。
しかしそれでも彼らは明るかった。
いや、苦境だからゆえに、彼らの団結を強くしたのかもしれない。
そんな奥平家の笑顔の様子が、幼い亀姫には羨ましくてたまなかったのである。
この時十五歳の少年、奥平貞昌(後の奥平信昌のこと)もそんな奥平家の輪の中にあったうちの一人であった。むしろ中心人物であったと言っても過言ではないであろう。なぜなら、彼は奥平家の嫡子であったからであった。
ところが瀬名姫には彼らの様子は面白くないものであったようだ。
それは彼らの家族の姿が自分の理想とする形であったからであろうか、それとも徳川家を脅かす敵とつながっていると噂されているからだろうか…
いずれにせよ、亀姫は奥平家の近くから引き離され、家中の者たちが家康を迎える謁見の間の中でも、上座の方へと三人で移っていったのであった。
そして…
「殿が戻られましたぁぁぁ!!」
という浜松城の小姓の大きな声が部屋中に響いてくると、
――ワァッ!!
という大歓声が上がった。
まだ背の低い亀姫からは、どこに父がいるのかは分からない。
それでも彼女は、
――もうすぐ父上がこられる!
と、胸を高鳴らせていた。
きっと自分たち三人を見たら、顔を綻ばせるに違いない。
そして自分のことをぎゅっと抱きしめてくれるに違いない…
そんな胸をはちきれんばかりの大きな期待に彼女の胸の内の時はゆっくりと刻んでいたのであった。
そして…
ついにその時は訪れた…
ひときわ目立つ甲冑に身を包んだその人を見た瞬間…
彼女は満面の笑みを顔に浮かべると、大声で喜びを爆発させようとした。
「ちち…」
しかし…
「おちちうえさまぁぁぁ!!!」
亀姫の背後から無邪気な幼な子の声が聞こえたかと思うと、まだ五歳くらいの小さな女の子が、亀姫の横を走り抜けていって、そのまま徳川家康の胸に飛び込んでいったのである。
「おお!督か!うんうん!元気でやっておったか?」
「はいっ!!毎日お父上様の戦勝を、母上様とともにお祈りしておりましたぁ!」
「そうか!そうか!督は良い子じゃのう!父は督のおかげで勝利できたと言ってもも同然じゃ!!ははは!!」
この少女は督姫と言って、徳川家康にとっては長女亀姫の後に生まれた次女にあたる。
そして…
「うむ、無事戻ったぞ。出迎え御苦労であった」
と家康が次に声をかけたのは、正室の瀬名姫ではなく、家康にとって最初の側室である西郡の局であった。
家康はこの頃、まだ幼さも残る彼女のことを寵愛してやまなかったのである。
すると西郡の局が、どことなく気まずそうに頭を下げた。
「おかえりなさいませ、殿。
あちらに築山様(瀬名姫のこと)と信康様、それに亀姫様の三人がお見えにございます」
その言葉に家康は、ちらりと亀姫らの方を見た。
亀姫は今度こそ自分の番だと思い、父に向けて声をかけようとした。
ところが…
その家康の視線はどこまでも冷たいものであった…
――なぜ…?なぜそのような目を向けられるのですか…
亀姫はその視線を見た瞬間、思わず喉元まで出かけた言葉を失ってしまったのだった。
そんな彼女の様子を見た後、口を開いたのは瀬名姫の方であった。
「おかえりなさいませ、殿。お味方の勝利、誠におめでとうございます。
しかし当家の差しあたっての敵は、朝倉でも浅井でもないはず。
あまり織田信長の良いように扱われて、お家の危機を見過ごすことなきよう、お願いいたします」
戦勝に沸く部屋の中にあって、まるで冷水を浴びせるような瀬名姫の辛口な指摘に、周囲は凍りついた。
それまで目に入れても痛くない幼い愛娘の出迎えに溶けるような顔をしていた家康も、みるみるうちに険しい表情へと変えていった。
この頃若い家康であったが、彼が睨みつけると、圧倒するような威圧感を身につけていた。
そんな彼の視線に対しても、どこまでも冷たい視線で受け止める瀬名姫。
そして彼女は、口元を緩めて罵るように言ったのだった。
「わざわざ岡崎からわらわたちがやって来たのは、殿が勝ちに浮かれていたら諌めねばと思ったからにございます。
そしてその甲斐あって、こうして殿は久々に会った子供たちをその腕に抱くこともなく、まるで鬼のような形相をされておられる。
それでよいのです。
信康、亀。もう行きますよ。これ以上長居は無用じゃ」
呆気にとられている信康と亀の手を強く引いて、その場を離れる瀬名姫。
お祝いする雰囲気を壊した三人に向けられる視線は、驚きに満ちていた。
亀姫にとってはその視線が痛かった。
しかし何よりも、父が母に向けた先ほどの恨むような視線に、彼女の心は粉々に打ち砕かれていたのである。
――わらわはただ、父に抱きしめて欲しかっただけなのに…家族で笑いあいたかっただけなのに…
彼女の望んだ、たったひとつの『夢』はこうして終わりを告げようとしていた…
母に連れられて部屋を後にしていく亀姫。その背中からは父の視線もきっとあるだろう。
いや…もうその視線は、父の新たな家族である、督姫や西郡の局に向けられているかもしれない。
自分の知らない、慈愛に満ちた視線を向けているのかもしれない。
彼女は悲しかったし、悔しかった。それでもその細い瞳に涙を浮かべなかったのは、彼女の生来の性分によるからかもしれない。
そんな時であった…
凍りつく部屋の中にあって、その片隅だけは、小さな家族が互いに笑顔を見せて、暖かな雰囲気に包まれているのが、亀姫の目に飛び込んできたのである。
先ほどの奥平家だ…
まともな知行もない小さな豪族であり、しかも裏切り者の疑惑がかけられた小さな一家。
一方の自分は、三河国と遠江国にまたがって、今や次代の寵児となった織田信長に絶大なる信頼を寄せられている徳川家の姫。
それなのに、なぜ奥平家はかくも幸せそうで、自分は不幸なのだろう…
彼女の中に言い得ぬ怒りがふつふつと沸いてきた。
それは言わば、醜い嫉妬以外の何物でもないのだが、今の彼女にその感情の良し悪しを判断している余裕などなかったのである。
そして彼女は…
「鬱陶しいのじゃ!!!お主ら!!」
と叫ぶと、なんと奥平家の中の中心にいた少年に突然飛びかかったのである。
その少年とは、奥平貞昌であった。
――パァァン!!
突如として襲われたことに身構えが出来なかった彼は、まともに亀姫の平手打ちを食らう。
当たりどころが悪かったのか、貞昌は気を失うように後ろに倒れかかった。
「貞昌様!!なんじゃ!!?お主は!?」
先ほどまで一族で団欒していた奥平家に緊張が走ったかと思うと、敵意むき出しの視線が亀姫に向けられた。
それでも亀姫は、
「うるさい!!お主らなんかいなくなってしまえばいい!」
と、なおも取り乱している。
すると
――パァァン!!
と再び乾いた平手打ちの音が響いた。
その音ともに、亀姫が床へと倒れ込んだのであった。
その様子に、さっと周囲の顔色が青ざめる。
なぜならその平手打ちを亀姫に喰らわせたのは、なんと彼女と同じくらいの年齢の一人の奥平家の少女であったからであった。
亀姫は驚きの表情を浮かべていたが、赤くなった頬をさすりながらきりっとその少女を睨みつける。
「な…何をするか!!?徳川家の姫のわらわに向けて平手打ちをするとは!!」
するとその少女は、大声で言い返したのであった。
「黙らっしゃい!!わが夫に危害を加えんとするものを、平手打ちにして何が悪い!!この手が刀でなかったことに感謝しなさい!!」
その言葉に亀姫は目を丸くして怒りを忘れて驚いたのである。
「夫…お主…そこの者の妻なのか…?」
自分と同じくらいの年齢…それなのに、夫がいる。そしてその夫を守る為に、例え相手が主家の姫であっても立ち向かう…
その姿に亀姫は心を打たれたのであった。
亀姫の生誕は、1560年6月とされており、桶狭間の戦いのわずか1カ月後でした。
(すなわち桶狭間の戦いの際に徳川家康を送りだした瀬名姫のお腹はかなり大きかったはずですね…某大河ではその様子は描かれていなかったようですが…)
そして生まれながらにして人質という過酷な運命を背負って生まれてくるのです。
さらに言えば、母の瀬名姫は人質交換後も、家康の母である於大の方との不仲もあり、岡崎城には入れてもらえずに、築山という場所で過ごしたとのことで、亀姫は家族の愛情をその身に受けて育てられたというわけではないのではないかと思われます。
亀姫が瀬名姫と共に暮らしたのか、それとも兄信康とともに岡崎城にて暮らしたのかは分かりませんが、父である家康公と母の瀬名姫の仲はこの頃から既に冷めていたことは想像に難くありません。
この後家康公は、西郡の局(督姫の母)、おこちゃ(結城秀康の母)、西郷卿(徳川秀忠、松平忠吉の母)と次々と側室を置くことになり、それぞれ子を設けていくことからも、彼と正室の瀬名姫との関係がうかがいしれます。
そんな中にあって亀姫はどのような心持ちで育ったのでしょうか…
さて、次回はいよいよ長篠の戦いが勃発します。
歴史の教科書に載るような表向きの戦さの裏には、巻き込まれていった家族の悲哀が少なからず存在するのではないかと思っております。
そんなことを心に感じられるお話しにいたしたいと思っております。




