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あなたを守る傘になると決めて…⑭佐和山で待つ夢(3)

◇◇

 慶長11年(1606年)3月22日――

 

 もうすぐ昼だというのに、空は厚い雲に覆われており、まだ雨が降り続いている。

 そんな中、井伊屋敷の大きな客間では、泣き疲れた千姫はぐっすりと眠っていた。その彼女の側には、最初は高梨内記の娘がついていたが、今は大蔵卿の姪である青柳がついていた。



「全く…人にお世話をおしつけて、自分だけどこかに行ってしまうんだから」


 と、青柳は既にこの部屋からどこかへ行ってしまった内記の娘の事を思い浮かべて、小さな口を尖らせている。


 そしてしばらく経ったその時であった。

 突然千姫が顔を歪めて苦しみ始めたのである。

 青柳はその様子に、慌てて千姫に声をかける。



「千姫様!大丈夫ですか!?」



 …と、その時であった。

 千姫は歪んだ顔のまま、苦しそうに言ったのである。



「い…行かないで…千を…ひとりにしないで…」



 それを聞いて青柳が優しく千姫の肩をつかむ。



「大丈夫ですよ!千姫様!私がお側におります!」



 しかしそんな青柳の呼びかけにも目を覚ますことなく、千姫はついに涙を流しながら叫んだのだった。



「もとの世界に戻らないで!秀頼さま!」



………

……

 千姫が苦しそうに寝言を発していたちょうどその頃。この屋敷の一番奥の部屋では、俺、豊臣秀頼を始めとする面々が、目の前に突如として女性が現れたことに驚愕の色を顔に浮かべていた。



「うた殿…?うた殿ではないか!」



 甲斐姫のその呼びかけに、この部屋の壁の中から姿を現した女性は、手を前に突き出しながら声をあげた。



「どなた様にございますか?

申し訳ございませぬ…わらわはかように目が見えませぬゆえ…」



 甲斐姫はそのうたの手に、そっと自分の手を合わせると、


「甲斐です。太閤殿下が室、成田甲斐にございますよ。うた殿」


 と、優しい口調で名乗った。

 するとうたは、慌てるようにその場に座ると、


「も、申し訳ございませぬ!甲斐様!

お顔が見えぬとはいえ、かように無礼な振る舞い…」


 と、必死に謝罪した。しかし甲斐姫は、


「顔を上げておくれ、うた殿。

しかし何があったのだ?かようなところに、潜むように暮らしておったというのか…?」


 と、彼女の背中を支えて問いかけた。



「いえ…それは…」



 うたは言葉を濁してうつむいている。その様子から、何らかの事情があることは明らかであったが、なぜか言い出すことをためらっている。


 そしてそんな彼女の様子に同調するように、部屋の雰囲気は明らかにギクシャクしていた。


 特に、当主の井伊直継と、筆頭家老の木俣守勝の二人は気まずそうに横を向いているのが目立つ。

 その様子に直継の弟である井伊直孝が、厳しい表情で直継に問いかけた。



「兄上!どういう事にございますか?

この方はどなたにございますか?」



 どうやら直孝はこの女性の正体に関しては何も知らないようである。詰め寄るような直孝に、恐らく何らかの事情を知っているのであろう直継は顔を青くして、なかなか口を開こうとはしない。


 部屋に緊張が走る。


 俺、豊臣秀頼は、


ーーそりゃあ、言えないよな…


 と、その場の雰囲気に飲まれながら、固唾を飲んでその様子を見つめていた。


 なぜなら、この「うた」という女性は、かの石田三成(今は石田宗應)の妻なのだ。その石田三成は徳川家康の仇敵と言っても過言ではない人であり、徳川家の家臣の中でも中核とも言える井伊家で、人知れずにその三成の妻が匿われていたとなれば、家中はおろか、徳川家全体を巻き込む騒動になりかねないのである。


ーーしかし…どうしてそのような危険を冒してまで、うた殿を密かに匿っていたのだろうか…


 当然この疑問は浮かんでくる。

 しかし…

 どうにも俺にも悩ましい性分があるようだ。


 それは…


 目の前で苦しそうに困っている人を見れば、放っておけないというものだ。


 それがまさに今は、井伊直継その人であった。


ーー全く…自分で自分に呆れるな…


 と、大きなため息をつくと俺は、部屋中に響く大きな声で言ったのであった。



「これは!石田宗應の妻、うた殿であったか!?

お主には失礼な話しだが、てっきり先の大戦でお亡くなりになられていたのかと思っておったぞ!」


「なにっ!?石田殿の奥方だと!」



 俺の言葉に直孝の顔色がさっと赤く変わる。

 それはうたという人に対する驚きと、今まで自分にそのような大事を隠していたことに対する憤りの二つが入り混じっていた。

 また、うた自身も突如として自分の正体が何者かの口によって明かされたことに、戸惑っている様子で下を向いてうつむいている。


 一方で、ますます苦しそうな表情を浮かべる直継。


 そんな彼に対して、俺は…


 深々と頭を下げた。


 突然の俺の行動に、直継だけではなく直孝までもが、その顔を驚愕に変えている。

 そんな中、俺は直継に大きな声で言った。



「石田殿は、今は豊臣家の家臣という身ではないが、この豊臣秀頼のまたとない友のうちの一人である。

そんな石田殿の妻のお命を、お救いいただき、感謝の言葉しかござらぬ!

わが義祖父(そふ)上の、徳川家康殿は、大変心広きお人であれば、石田殿のお子らのお命が全て許されたように、その妻であるうた殿のお命も許されるに違いあるまい!」


 

 そこで一旦話しを切ると、うたが俺が誰であるかを気づいたのだろう。必死に平伏しようとしている。さらに、自分の子供たちが全員助命されたことも初めて知ったのだろうか…その頬は暖かな涙で濡れていた。

 俺はその様子をちらりと見ると、先を続けた。



「いかなる事情があったかは知らぬが、貴重なお命を救っていただいた礼は必ずいたす!

少なくともこの事でお家が咎められるような事など、この豊臣秀頼の名にかけて絶対にさせぬゆえ、ご安心なされよ!」



 そう一気に言い切ると、直継が慌てるように話しかけてきた。



「お顔をお上げくだされ、秀頼殿。

今のお言葉を頂いただけでも、それがしにはもったいなきこと。

大御所様にしてみれば、かつての敵の大将とも言える方の奥方を匿い続けたことに変わりはござらぬ。

その件の処罰は元より受ける覚悟であった」



 その口調は、どこか諦めたように力が抜けているが、それ以上に彼の人の良さが滲み出ているような優しさが感じられる。そんな彼に、今度は直孝が問いかけた。



「しかし…ではなぜ兄上は…」



 その直孝の問いかけが終わらないうちに、井伊家の筆頭家老である木俣守勝が前に出てきて、その重い口を開いたのだった。



「その事は、それがしから話しをさせてくだされ…」


 こう切り出した守勝は、うたがこの屋敷に匿われるようになった経緯を、ゆっくりと語り出したのであった。


………

……

 慶長5年(1600年)9月17日ーー


 それは関ヶ原の地で一大決戦が行われてからわずか三日後のこと。



「進めぇ!!天下の大逆賊、石田治部(石田宗應のこと)の一族郎党はおろか、家中の者たちまで、皆殺しにするのだぁぁぁ!

殺せ!殺せ!殺すのだ!ひゃっひゃっひゃ!!」



 そう狂ったような奇声を発しながら大軍を佐和山城に向けて進めていったのは、小早川秀秋であった。

 彼は関ヶ原の戦いにおいて、石田方から一万の大軍ごと寝返るという徳川方にとっては勝敗を決するに相応しい大事をやってのけた。さらに、戦場においても、石田方の主力の一人であった大谷吉継の軍勢を撃破した。

 その事実だけに目を向ければ、十分に賞賛に値する働きであったのだが、それでも彼にとって、わずか数百の大谷吉治率いる軍勢に突破された「大学助の逆落とし」を食ったことは、彼の面目を丸潰しにしたのである。

 そんな彼に、その汚名をすすぐ絶好の機会として、石田三成の居城である佐和山城の攻略の先鋒が言いつけられた。

 功に焦っていた彼にとってはまさに千載一遇の機会。彼は喜び勇んで、もはや死に体となった佐和山城へと突撃していった。

 その数、およそ一万五千。

 その中には言わば彼の目付けとして、かつての井伊家当主、井伊直政と当時から井伊家の重臣である木俣守勝も含まれていたのであった。なおこの時、井伊直政の長男である井伊直勝(後の井伊直継のこと)は病弱の為出陣しておらず、次男の井伊直孝は徳川秀忠の小姓として秀忠と随行しており、佐和山城の戦いには参加していなかった。


 対する佐和山城には、石田三成の父である石田正継や三成の兄である正澄を始めとするおよそ二千八百の兵や家臣たちが立て籠っていた。


 三成の兄、正澄が攻め寄せる徳川勢を山頂の本丸前の広場で見ながら、兵たちを鼓舞した。


「必ずや治部少殿が徳川家康を破った後に、この城に戻ってこられる!

それまでの辛抱じゃ!!

石田と佐和山の強さ、逆賊徳川に見せてやれ!!」


ーーオオッ!!


 そう、この時まだ彼らには、関ヶ原の地での戦いの結果が知らされておらず、まさか既に「敗北」という形で決着が着いてしまったことなど、つゆにも思っていなかったのである。

 よって難攻不落と謳われたこの城に立て籠れば、三成の凱旋するその時までは持ちこたえると、この時全員が思っていたのであった。



「父上!!では、それがしは敵が押し寄せてくるであろう大手門の守備にあたります!

いくぞ!朝成(ともなり)!!」


「はっ!」



 本丸にいた正澄は、父正継にそう声をかけると、自分の息子である石田朝成とともに、わずかな兵を率いてその場を後にしていく。


 その息子の様子を見守っていた正継は、難しい顔をして、


「三成の正義を貫かせる為にも、ここでわしらが負ける訳にはいかん」


 と、腹に覚悟を決めて静かに天守閣の評定の間に、腰を下ろしていたのであった。



 こうして、佐和山城の戦いの火蓋は切って落とされたーー



 佐和山城の本丸へと続く道は、大きくは二つある。

 一つは、正面の大手門。一つは、大手門の右手の山麓からの水の手口門である。

 徳川軍は二手に分かれて各城門の攻略に取り掛かった。


 

「壊せ!壊せ!壊せぇぇ!!」



 必死の形相で秀秋が門の破壊を指示しているが、流石は「三成に過ぎたるもの」のうちの一つ、佐和山城の大手門だ。

 広い虎口に殺到した兵たちに、容赦のない鉄砲と弓の雨を降らせると、みるみるうちにその城門の前は小早川軍の負傷兵たちで溢れかえった。


 その様子に引き締まった顔のまま、石田正澄が自軍の兵を鼓舞する。


「守れ!!敵に将なしと見た!!

このまま、固く門を守るのだ!!」


 するとそれが聞こえたのか、小早川秀秋は顔を真っ赤にさせて激怒した。

 


「おのれ!!馬鹿にしおって!!

何をやっているのだ!!早く門を壊せ!!

早くしないと、田中ごときに遅れをとってしまうではないか!!」



 この時、田中吉政率いる兵たちは、水の手口門の攻撃にあたっており、秀秋としてはなんとしても、吉政よりも先に門を突破せねばならぬと焦っていたのであった。


 しかし城門は固く、なかなか攻めきれない。



ーーぐわぁぁぁぁ!!


ーーいてえよ…いてえよ…


 次々と石田方の射撃人よる犠牲が増え続けていく中、その様子を目付けとして後方で見ていた井伊直政の家老木俣守勝は、直政に対してたまらずに進言した。



「殿、このままでは小早川軍の犠牲は増すばかりにございます」


「うむ…しかし、ここと水の手口以外で攻め手がないようなら、仕方あるまい」



 そう答えた直政の表情は固い。そんな彼に対して、守勝が頭を下げて続けた。

 


「殿、それがしに考えがございます」


「なんだ?申してみよ」


「はっ!これより先に、石田三成の屋敷と、島左近の屋敷がございます。

その間に、秘密の抜け道である法華口門なる門があるとか…」


「屋敷を攻めるというのか?もう敵兵もおらず、いてもおなごや子供しかおらぬであろう屋敷を…」



 直政はそう言って顔を暗くしたのも無理はない。「井伊の赤鬼」と周囲から恐れられた彼であったが、無抵抗な女性や子供たちに、凶刃を向けるような荒い真似はしたくないのが本音であった。

 しかし守勝はそれをせよと進言してきたのである。

 だが、どうやらその真意は異なっていたようであった。



「いえ、屋敷を襲うようなことはせず、単に法華口を攻めるという振りをするだけにございます。

さすれば今大手門を固く守備している兵をそちらへ割く必要が出てまいりましょう。

そうすれば、門の守備が多少は甘くなるはずにございます」



 その言葉に少し考え込んでいた直政であったが、すぐにその迷いを打ち消すと低い声で守勝に命じた。

 


「なるほど…それは良い考えかもしれぬ。

早速前線におられる金吾中納言殿(小早川秀秋のこと)に伝えよ!」


「はっ!聞き入れていただき、ありがたきことにございます!

では、それがしが直接伝えてまいります!」



 そう喜色を浮かべた守勝。

 

 しかし彼はこの時想像していなかったのだ。

 

 この進言こそが招く惨劇を…



 この時、既に夕暮れは迫っていたのだが、実に五倍以上の戦力差にも関わらず、鉄壁の佐和山城は、石田三成の正義の心を持った石田兵たちによって全く崩れる気配すら見せていなかった。

 それどころか徳川勢の被害は増すばかり…

 

 思わしくない戦況を打開する策がなく、燃えるような焦燥感によって目の焦点が合わぬ不気味な顔をした秀秋が、守勝の進言を聞くや否や、飛び跳ねて喜びを爆発させたのは言うまでもない。



「ひゃひゃひゃ!!よくぞ申してくれた!

それだ!それしかあるまい!

平岡ぁぁぁぁ!!この大手門の攻撃はそちに任せる!

われは自らの手で法華口をとり囲もうぞ!!

ひゃひゃひゃ!!」



 秀秋は、家老の平岡頼勝(ひらおかよりかつ)に大手門の攻略を託すと、それを命じ終わったその次の瞬間には、馬上の人となって屋敷の方へと姿を消していったのであった。

 

 その異常とも言える秀秋の様子を見た守勝の胸の内には、何やらよからぬ不安がよぎる。


――あの目…尋常ならざる色を携えておった…


 その不安は徐々に彼の意志に反して大きくなっていくと、いてもたってもいられなくなってしまうまでになったのだ。

 守勝は馬にまたがると、胸の動悸を何とか抑えながら、近くにいた彼の小姓に努めて穏やかに声をかけた。

 

 

「このままそれがしは金吾中納言殿について屋敷の方へ向かう。

お主…申し訳ないのだが、殿にこの事をお伝えし、何かあれば駆けつけていただくように伝えておくれ」


「はっ!」



 その小姓は短く返事をすると、すぐに後方にいる井伊直政の方へと駆けていった。

 一方の守勝は、それを見届けずに自身が率いる軍勢に大きな声をかけた。

 

 

「われらはこれより金吾中納言殿の軍の後方にて支援を行う!みなのもの!続け!!」



 言い得ぬ不安の黒雲を振り払うように守勝は馬の腹を強く蹴る。

 

――何も…何も起きねばよいが…


 自分の直感が杞憂であることを願わざるを得ない守勝。

 

 

 しかし…

 

 

 その直感は見事に的中してしまったのであった…

 

 夕暮れに空が紫色に染まっていく中、守勝の先を行く兵の一人から大声が上がった。

 

 

「煙にございます!!どうやら屋敷から火が出ているようでございます!!」


「なんだと!!?」



 守勝は顔を青ざめながらそう叫ぶと、夕闇に目を凝らした。

 

 なんとそこからは確かに二筋の煙が前方から上がっているのが目に入ってきたのだ。



「しまった!!」


 

 そう…彼が悔やんだこと…


 それが示す事はただ一つ…

 

 小早川秀秋の軍勢が無抵抗な屋敷の人間の蹂躙を始めたということであった――

 

 

 

佐和山城の戦い。


その戦いは関ヶ原の戦いによって歴史に埋もれてしまった惨劇とも言える戦いでした。


多少の脚色はあるにせよ、このシリーズにおいては、その悲劇をお伝えいたしたく物語をつづっております。


次回からさらにクライマックスに向けて加速していきます。


どうか彦根城を訪れた際には、この物語の悲劇を思い出していただければ幸いにございます。


なお、石田三成の妻「うた」は、この佐和山城の戦いにて命を落としたとも、そうでないとも伝わっております。

拙作においては、井伊家にて人知れずかくまわれていたというフィクションにいたしました。





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