あなたを守る傘になると決めて…⑬佐和山で待つ夢(2)
◇◇
「うむ…残念だが、そういった部屋があったこと自体、初めて知ったぞ」
そう答えたのは、井伊直孝であった。
俺、豊臣秀頼と千姫、それに高梨内記の娘の三人は、『幽霊が出る』という噂の部屋を出た後、元いた部屋に戻ってきた。
なお、泣き叫びながら部屋を飛び出していった千姫は、内記の娘が元いた部屋で面倒を見ている。
その千姫はしばらく泣いていたが、安心したのと泣き疲れたのとで、今はぐっすりと寝ているようだ。
その様子を見てほっとした俺は、彼女らを部屋に残して、井伊直孝に今日の出来事を相談しにいったのである。
しかし残念なことに彼は、この屋敷の事は全くといってよい程に把握していなかった。
元々、彼は江戸城に勤めており、この屋敷にいることは滅多にない。
今はたまたま彦根城の普請の目付をかねて、この屋敷にて過ごしているが、その間も暇を見つけては家中の者たちへのしつけで忙しくしており、くまなく屋敷の細部まで確認したことはなかったそうだ。
「しかし、幽霊が出るなど…ありえぬ話しなのだがなあ…」
直孝は不思議そうに首をかしげている。
「うむ…われもそう思っていたのだが…いかんせん、女のすすり泣く声が聞こえてきたのだ…」
ちなみに俺は、あの部屋で見た幻影については直孝に話しをしていない。そんな事を話せば、ますます怪訝な顔にしてしまうだけだと思ったからだ。
しばらく考え込んでいた直孝であったが、眉をひそめる俺の様子を見て、ポンと手を叩いた。
「よし!ではそれがしもその部屋に行ってみるとしよう!」
俺は直孝の言葉に、ぱっと表情を明るくすると、
「おお!そうしてくれるとありがたい!共に行って、もう一度部屋の中を調べてみようぞ!」
と、彼と行動を共にすることにしたのだった。
すると、直孝がもう一つ提案してきた。
「この屋敷のことは、兄上が一番知っております。
兄上にも共についてきてもらいましょう」
その提案に異論などあるはずもない俺は、こくりと頷く。そして俺たちは、早速井伊家当主の井伊直継のもとへと急いだのだった。
………
……
一向に止む気配のない雨が外で降りしきる中、俺と井伊直継、直孝の兄弟、それに井伊家の筆頭家老である木俣守勝、そしてなぜか甲斐姫も含めた五人は、屋敷の一番奥の部屋へと進んでいった。
「なぜわらわも行かねばならぬのだ!?」
そう頬を膨らませている甲斐姫。
そんな彼女に向けて俺は笑顔で言った。
「まあよいではないか!
それとも何かい?天下の大坂城で『鬼』とまで言われている甲斐殿と言えども、幽霊にはかなわないってことですかい?」
「おい…秀頼殿…発言には気をつけよ」
「ひぃっ!やはり鬼は幽霊より恐ろしい!」
「なんだと!!うら若きおなごに向かって『鬼』とはなんだ!!」
などと俺と甲斐姫のおかげで、緊張感のかけらもなく廊下を進んでいく一行。この雰囲気を作ることが出来るのも、甲斐姫の特長であり、俺が頼りにしているところだ。もちろん今回の事で彼女に付いてきてもらったのは、直孝が家中で見せる、息がつまりそうな空気の中にいるのは、たまらないからというのもある。
しかしそれよりも…
もし俺の推理が正しければ、彼女なら力になってくれるかもしれない、そう思ったからであった。
そしていつの間にか外が見渡せる廊下まで出てきた。
そう言えば、あの時見た笠もかぶらぬ僧は一体何者だったのだろうか…
あの石田宗應と瓜二つの若い僧は…
すると…
再び現れたのだ…
笠をかぶらぬあの僧が…
「お主は一体何者なのだ…?」
俺は彼に部屋の中から尋ねた。
しかし…
その若い僧は何も答えない…
その代わり俺をじっと見つめていた。
それはとても哀しい目…
そして、何かを伝えようとしている気がしてならない。
「何か言いたいことでもあるのか?」
そう尋ねたが、うなずきもしなければ、首を横に振ることもない。
そしてそのまま先に見える大木のある方へと向かっていってしまったのであった。
「一体なんなのだ…」
どんどんと離れていくその背中を見つめながら、俺がつぶやいていると、
「おい!秀頼殿!何をぼけっとしておるのだ!?」
と、甲斐姫の大きな声が響いてきた。
俺は慌てて、
「すまぬ!何でもない!」
と、大声で返事をすると、彼女の背中に向かって走っていったのだった。
………
……
「誰も部屋にはおらぬではないか!全く人騒がせな!」
再び一番奥の部屋に戻ってきた俺に対して、甲斐姫が不満をぶつけるように、俺に向かって文句を言ってきた。
確かにこの部屋には誰もいないようだ。
今回は、井伊直継が持ってきた明かりを頼りに部屋を見渡しているので、誰か隠れていたとしても絶対に見つかるはずだ。
そもそもあまり大きくなく、内装も質素なこの部屋には、隠れようにも隠れる場所がない。
「それに女の泣き声などしないではないか…」
と甲斐姫は半ば呆れた様子で俺を見ている。
確かに今は泣き声など全く聞こえない。
しかし、先ほど俺と千姫たちは、確かに女性の泣き声を聞いたのは確かだ。
となると、その女性は、俺たちが出ていった後にこの部屋から出たということであろうか。
だが、明かりをつけて見回しても、この手狭な部屋には隠れることが出来そうな場所はないように思える。
そうなると、考えられるのは一つ…
そしてそれは、史実の伊井直継の史実の逸話に関係しているのではないかと、俺は直感したのだ。
俺は直継に話しかけた。
「ところで、直継殿」
少し調子を落とした俺の声に、直継は目を丸くして返事した。
「なんでございましょう?」
「直継殿は、余計な殺生を好まぬ、心やさしきお人とうかがった事があるが、それは誠のことであるか?」
「心優しいかどうかは、自分ではよく分かりませんが、殺生を好まぬことは確かにございます」
直継は照れたように苦笑いを浮かべながら答えた。その様子からだけでも、純真な人であることは一目瞭然だ。
俺はそんな彼に向けて、一つの話しを始めた。
「これは聞いた話しなのだが、かつて彦根城の普請がなかなか思うように進まないことがあったようだな」
「はい…確かにおっしゃる通りにございます…」
この時点で直継は、何かに勘付いたのだろか…表情が暗くなった。その様子を見て、彼の家老である木俣守勝が口を挟んだ。
「豊臣殿…今ここでお話しするようなことではございますまい」
木俣守勝は杖をつくほどに、もう足腰が覚束ない老人であるが、その言葉はどこか脅迫するような凄みを感じさせるものであった。
みながその気迫に目を大きくしたが、むしろこの事で俺は確信した。
やはり…
その女性はここにいる…!
その時であった。直継の弟、井伊直孝が弾けるような声で言った。
「よいではないか、守勝。
秀頼殿、その話しに興味がある続けておくれ。
俺はそんな話しを聞いたことがなくてな」
直孝が知らないのか…そんな話しを、他家の俺が知っているというのは、普通に考えればありえない話しである。
しかし、かくなる上は仕方ない。
悩んでいる場合ではないのだ。
なぜなら、今この『幽霊騒ぎ』を解決しなくてはならない、そんな気がしてならないからである。
俺は直孝にうなずくと、話しを続けた。
「彦根城の普請が上手く進まないのは、普請に人柱…すなわち生け贄を捧げないからではないか、と周囲が言ったようだな」
「ええ…あの時は確かにそうでした」
「そんな中、普請奉行の子供である若い娘が…確か、名前はお菊と言ったか…
彼女が自ら人柱を名乗り出たと…」
「…はい、その通りにございます…」
「そこでお主はその娘を、木の箱の中に入れて人柱に捧げたところ、普請が上手く進み出した…」
ここまで話すと、弱々しかった直継の相槌が、完全に途絶えて、俺の言葉にうなずくだけとなってしまった。
それでもなお俺は続けた。
「しかし…実はお菊は生きていた。
直継殿は、人柱の木の箱の中には、誰も入れてなどおらず、ゆえに誰も死なずにすませた。
そして周囲が驚く中、直継殿は言ったそうだな。
工事が無事にすんだのは、普請奉行をはじめ、みなの努力によって成したこと。決して人柱によるものではない…と」
そこまで話した時点で、弟の直孝は何かに気づいたようだ。
「まさか…兄上…それでは、こたびのことも…」
その言葉に、直継は黙っている。
そして…
俺は熱い視線を直継に浴びせながら言い放ったのだった。
「やはり幽霊などここにはおらぬ。
すなわち、この部屋のどこかに女性がおるのだ。
それはどんな理由かは分からぬが、直継殿がその女性を家中の者たちにまで黙ってまで、匿っておられるからではないか?」
その俺の言葉に、その場の全員の瞳が大きくなった。
特に直継は顔を真っ青にして、
「そ…それは…」
と、明らかに動揺していたのだった。
…と、その時だった…
俺の頭の中に再び、この部屋が見た過去の記憶が、飛び込んできたのだ。しかし今回はその姿は目に浮かばずに、声だけが俺の胸の内に聞こえてくる。
ーー佐吉!何をやっているのです!早く逃げなされ!
ーー嫌にございます!兄上たちも、姉上も京にいて生死も分からぬ今、母上をおいてそれがしが一人で逃げる訳にはいきませぬ!
佐吉…石田宗應の幼名と同じ名前なのか…
そんな事を思いながらも、どうやらこの屋敷に危機が訪れていることは、その切迫詰まった会話からして、明白であった。
この屋敷が危機になったこと…
それは後にも先にも一つの出来事でしかない。
言わずもがな、その出来事とは…
関ヶ原の戦いーー
そしてこの会話は、石田宗應の妻うたと、その息子である佐吉の二人の会話であろうことは、想像に難しくはない。
その時…俺の胸の内に、
ーードタドタッ!!
激しい足音が外の廊下から響いてきたかと思うと、そこから大声が響いた。
ーー奥方様!佐吉様!敵方、小早川秀秋を先鋒としておよそ一万五千が迫っております!!
ーーな、なんと…
ーーこの屋敷が囲まれるのは時間の問題にございます!!とにかく法華口から城へとお入り下され!!
ーー佐吉!!早く城へとお逃げなさい!佐和山のお城なら、必ずやお主を守ってくれるでしょう
ーーならば母上も!
ーーなりませぬ!お前だけで行きなさい!
ーーなぜ!?なぜですか!?母上!
ーーわらわは…三成様と約束したのです。この屋敷を守り抜くと…
ーー母上…
ーーかような顔をするでありません。お前の父上は、どんな時でも冷静な顔を崩さないお人なのですよ
石田宗應の妻うたの決意は固いようだ。
佐吉は諦めたような声で言った。
ーー母上…では、お約束下さい。必ずや、生きてまたお会いすると…
ーーええ…家族みなでまたこの部屋で過ごすのが、わらわの『夢』なのですよ…
あの時、俺の胸の内に飛び込んできた風景は、まさにうたの『夢』であったのだろう…
日常の生活…家族が側にいることが当たり前の毎日…
そんな些細であるようなことが、この時代では当たり前ではなく、『夢』とまでなってしまうのか…
俺は胸の苦しみを覚える。
そんな中、佐吉が言った。
ーー母上…では、この戦さが終わったあかつきには、『左近の南天』の大木のもとで、またお会いしましょう
ーーええ。そうしましょう
ーー約束ですよ!母上!
この時から、俺の胸の内には、親子が手を取り合って涙を流している光景が浮かんでいた。
ーーええ…約束です!佐吉、どうか命だけは粗末になさらぬよう!それだけが、母の願いです!
ーーでは!母上もお命だけはお大事になさってください!
ーーええ。分かっております…では、もう行きなさい…早くしないと敵に囲まれてしまいます…
ーーううっ…分かりました…では…さらばです!!
別れの言葉を残して、佐吉がこの部屋から出て行く足音が俺の胸の内に響いた。
そして、その足音が遠く消えていったその時…
宗應の妻うたが、涙まじりに叫んだのであった。
ーーああ…気にも止めぬ過ぎ去りし日々が、こんなにも愛おしいとは!わらわは幸せ者だったのです!その事に感謝せねばならぬ身なれど、どうしてこんなに悔しいのでしょう…
なんと痛切な想いであろうか。
どれほどに無念であったのであろうか。
奪われるはずもない事が、失われていくその様を目の前にしても、妻として守るべきものを守り抜くその強さ。
俺の瞳から堰を切ったように、滂沱として涙が流れてくる。
そして…
俺の視界は今の風景へと戻ってきたのだった。
それでもなお、涙が頬を伝う。
この部屋の記憶…
それは『夢』と『絶望』の二つの記憶…
家族を想う母と子の記憶…
「ひ、秀頼殿…?いかがしたのだ…?」
甲斐姫が俺の様子に心配そうに声をかけてくると、その場の全員が俺の顔を覗き込んでいた。
しかし俺はその問いかけには答えなかった。
なぜなら俺は次に口にすべき事が別にあったからである。そして、俺はこの時、ここに潜んでいる女性が誰であるのか、さらには俺が屋敷の外で見た若い僧侶が誰であるのかを理解していたのだった。
俺は部屋中に響き渡る…いや、部屋の外にまで聞こえるように大声で言った。
「左近の南天…佐吉殿がそこでお主を待っておる!」
その直後であった。
ーーガタガタッ!
という大きな音がしたかと思うと、なんと部屋の壁がクルリと回転して、一人の女性が出てきたのだ。
「だ…誰だ!?お主は!?」
と、井伊直孝の口から驚愕の言葉が漏れる。
その女性の顔には大きな火傷の跡があり、その仕草から瞳は光を失っているのだろう。
両手で空をつかむようにしながら、その女性は大きな叫び声をあげた。
「佐吉!佐吉や!!」
そして…
その女性の姿を見て、声を聞いた甲斐姫が、驚いたようにその名を口にしたのであった。
「うた殿!!?うた殿ではないか!!」
と…
石田三成には、三男三女の合計六人の子供がいたとされております。
関ヶ原の戦いの時には、長女と次女の二人は既に他家に嫁いでおりました。
このうち次女は、牧村家に嫁ぎます。
そしてその子のうちの一人が、おなあという女性です。
彼女は、禅を石田三成の長男であり、自身の叔父にあたる宗享より習います。その後、徳川家光公の乳母である春日局の補佐にして、なんと家光政権にも重きをなした人となったとのことです。
さらに、そのおなあの娘が、お振りの方。
すなわち石田三成のひ孫にあたるその娘が、三代目将軍の徳川家光公の側室となるのです。
そしてそのお振りの方が産んだ娘は、徳川御三家のうちの一つである、尾張藩の当主徳川光友の正室として嫁ぎ、石田三成の血筋は、その後の尾張藩の血筋となって残っていくことになったそうです。(途中で嫡子がいなくなり途絶えることにはなりますが…)
さらに言えば、その尾張藩は幕末となると、徳川御三家にも関わらず、言わば尊王攘夷の中心となって、江戸の徳川政権と対峙していくことになったわけです。
初代藩主である徳川義直公が掲げた「尊王攘夷」の意向が幕末まで生きていたという説が一般的ではありますが、石田三成の『徳川憎し』の想いの欠片が幕末まで残っていたと考えても、面白いのではないかと思ってしまうわけであります。




