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あなたを守る傘になると決めて…⑪新たな友

………

……

 佐和山の麓に井伊家が住まう屋敷があるのだが、その山麓沿いに少し進むと、豪徳庵(ごうとくあん)という名の小屋がある。


 この小さな庵の場所には、龍潭寺(りょうたんじ)という浜松にある同名の寺の分寺が建立されることになる。

 その龍潭寺は、この頃の井伊家の菩提寺だ。

 関ヶ原の合戦以降、彼らの所領が、出身地である井伊谷からここ佐和山に移されたこともあって、その分寺が作られることとなるのである。

 そして、その龍潭寺のかつての住職であり、名高い和尚であった南渓瑞聞(なんけいずいもん)の弟子でもある昊天宗建(こうてんそうけん)なる人物がその建立に携わっている。

 なお、この昊天は、かの女城主で有名な井伊直虎と彦根藩初代藩主の井伊直政の、龍潭寺における兄弟子としても知られており、南渓和尚と兄弟子の傑山(けつざん)の二人が亡き後は、龍潭寺の住職を立派に勤めていた。



 慶長11年(1606年)3月22日 早朝――


 さて、そんな井伊谷ゆかりの豪徳庵の周辺をぶらりと散歩している俺と井伊直孝の二人は、ちょうど良い大きさの石に二人で腰掛けて、少し休憩を取ることにした。


 …と、その時であった…



ーーニャア…



 と、子猫の鳴き声が、どこからともなく聞こえてきた。

 俺たち二人はその鳴き声の持ち主を、顔をキョロキョロさせて探す。


 すると…


「おっ!かようなところにおったのか」


 と、直孝が豪徳庵のすぐ近くの少し大きな窪みとなっている場所で、その子猫を見つけた。その窪みは水が張っていたのだろうか、かなりぬかるんでおり、子猫はそこから動くことが出来ない様子であら。



「むむむ。これは危ういところであったようだのう!」


 そう声をあげた直孝の近くには、子猫の母猫と思われる猫もいるのだが、心配そうに周囲をうろうろしているだけで、どうやら助けることが出来ないらしい。


 すると、なんと直孝は袴が汚れることもいとわずに、その泥の窪みの中に入っていったのだ。

 そして、穴にはまっていた子猫を優しい手つきで取り上げると、母猫の元へと返してあげた。



「もう離れるでないぞ」



 そう優しく声をかけた直孝に対して、


ーーニャア!


 と、子猫と母猫が、さながらお礼を言うように鳴くと、そのまま山の方へと去っていった。

 

 直孝の着物は泥にまみれ、その顔にまで泥がついている。


 その顔を見た俺の心の中に、急に彼に対する親近感がわいてきた。

 俺はその時ようやく気付いたのだ。


――昨日の彼の姿は仮初めの姿。今の心優しき姿こそ本来の彼の姿である


 そう思えた時、鼻の上を泥で黒くそめて、子猫を助けた充実感にひたっている直孝を見た時、


「はははっ!泥が鼻の上についておるぞ!」


 と、思わず大笑いしてしまったのだ。


 すると直孝は、いたずらっ子のような顔つきになる。

 彼の瞳からは、俺に対して親近感を覚えているような人懐っこい色が感じられる。

 すると…



「何をっ!ではこれでどうだ!?」



 と、なんと泥まみれの真っ黒な手で俺の顔をこすったのだ。

 当然俺の顔は真っ黒になる。そして、泥が口の中にも入ってきた。



「ちょっと!何をするのだ!」


「はははっ!これで秀頼殿の顔も泥だらけじゃ!」


「やったなぁ!これでもくらえ!」



 と、俺は近くの泥を丸めると、それを直孝に投げつけた。

 ビチャッという音ともに、直孝の顔面に直撃した。



「おお!我ながら見事じゃ!!」



 きゃっきゃっと俺がはやし立てると、顔を真っ黒にした直孝は、青筋を立てる。



「何を!ならばこうじゃ!!」



 なんと泥を手ですくって俺に浴びせてきた。



「ぎゃぁ!!」



 俺もこの一撃で目だけを残して顔が真っ黒に染まる。

 こうなってしまうと、もう俺たちは止まることを知らなかった。



「うぐっ!このっ!」


「くっ!えいやっ!」



 互いに手元の泥をとにかく相手に浴びせ続ける。


 途中からはなぜか急に可笑しくなって、互いに大笑いしながら泥合戦は続いた。



「ははは!えいっ!」


「はははっ!!そりゃっ!」



 しばらく時間を忘れるほどに楽しい時間は続く。

 先ほどの猫の親子が、どこか困ったような顔をして俺たちを見つめている、そんな気がしてならないが、俺たちは笑うことと泥をかけることに熱中していたのだった。


 そして、俺は思わず声を上げた。



「ははは!!もう参った!!直孝殿の勝ちでよい!」


「はははっ!いや!秀頼殿の勝ちじゃ!降参と言いかけたところだったのだ!」


「では引き分けとしようじゃないか!」


「はははっ!よい!そうしよう!!」


「ははは!!」



 全身泥だらけの男二人は、地面に寝そべったまま、しばらく笑い合った。


 こんなに馬鹿なことをやって他人と笑い合えたのは、どれだけぶりだろうか…

 確かに同年代の友たちとは時折いたずらもしたが、ここまで派手にやったことはない。


 俺は心の底から楽しくて、笑いが止まらなかった。


 そして、それは隣の青年…井伊直孝も同じであったようで、彼もまた延々と笑い続けていた。


 しばらくしてようやく笑い疲れた俺たち。


 それでもなお、寝そべったまま、互いに気分良く春の青空を見つめていた。

 

 そんな中遠くを見つめたまま、直孝が突然口を開いた。

 それは彼が家中で厳しく振舞っているその理由についてのことだった。



「その昔…まだ父上が幼かった頃の話しだ」


「ふむ」



 俺は相槌を打つ。直孝は続けた。


「井伊家はお家が潰れてしまうほどの危機に陥ったことがあったそうだ」


「ほう…」


「かつて織田、徳川、今川の三家の争いに巻き込まれた間にあって、多くの優秀な家臣たちを亡くしてしまったそうだ」



 直孝は自分のことのように沈んだ表情を浮かべている。俺もそんな彼の痛みが伝わってきて胸が苦しくなった。

 

 この頃の井伊家と言えば、当主である井伊直盛とその跡継ぎである井伊直親の二人を相次いで亡くした。

 そしてかの次郎法師こと、女城主井伊直虎がその跡を継いだ訳だが、井伊谷譜代の重臣たちもまた戦さでその多くを亡くしてしまったのである。

 この時の井伊直虎はまさに孤立無援…

 直孝が「お家が潰れてしまう程の危機」と表現しても仕方のない絶体絶命の危機であったに違いない。

 

 そんな風に眉をしかめて悲痛な面持ちの俺を見て、彼は少しだけ驚いたようだ。

 それでも彼は続けた。

 


「家臣たちのまとまりを欠いた結果…直虎様が絶大な信頼を寄せていた一人の家臣が、なんと謀反を起こして、本拠地である井伊谷を乗っ取ってしまったのだそうだ」



 その話しはどこかで読んだ気がする。しかしこうして井伊家の者から話しを直接聞くと、その苦しみが伝わってきて、書物で読んだ際とは感じ方が全く違った。

 黙って直孝を見つめている俺に対して、空に目を向けたまま彼は続けた。



「その危機を救ったのが、大御所様であった。

大御所様は、井伊谷に優秀な自らの家臣を送りこみ、直虎様をお助けになられた」


「ふむ」


「もちろんそれがしの生まれるより遥か昔の出来事であったが、それがしはその大御所様の大恩を忘れるわけにはいかぬ」


「そりゃ、そうだのう…」


「そして…直虎様が命を張って守り抜いた、この井伊のお家も絶対に守らねばならぬ!」


 そう力強く言った直孝の顔は泥にまみれながらも、紅潮しているのがよく分かった。

 直孝は続ける。



「しかし…父上が亡くなり、恥ずかしい話しではあるが、お家は再び窮地を迎えているのだ…」


「そ…そうなのか…」


「ああ、井伊家の重臣たちの間のいざこざが、とどまることを知らんのだ…」



 井伊直政が亡くなって以降、病気がちの嫡男井伊直継が家督を継いでからは、家老たちによる執政が始まった。

 しかしその家老たちは、古く井伊谷からの者、旧武田家の者、徳川家康から派遣された者と、その出身の違いがそのまま派閥となって、いざこざにまで発展したと、何かで読んだ覚えがある。

 恐らく彼はこの事を言っているのだろう。



「兄上は見ての通り、とても心やさしきお方。

俺は、そんな兄上の優しさに付け入る家臣たちがどうしても許せんかった。

このままでは、かつて直虎様が苦しまれたように、信頼している家老たちの中で、お家を乗っ取ろうと画策する者が出てくるのではあるまいか、と勘ぐってもおかしくはないであろう。

しかし、俺は遠く江戸で将軍様に仕える身。

お家のために何も出来ぬもどかしい日が続いた」


「ふむ」


「そしていよいよ将軍様に、家老同士の対立に関する陳情が届くまでになってしまったんだ。

そこで俺は江戸にいながら、ようやく覚悟を決めたのだ。

俺が鬼になる…と…」


「なるほどのう…だから昨日はあのように、険しい表情でおられたのか…」


「その通りだ。

気の緩みは、そのまま余計な事まで考えてしまう隙となる。

それがそのままお家騒動の種となる…そう信じておるからな。

その根を絶たねば、いつまで経っても井伊のお家はまとまらぬ」


「だから直孝殿は家臣たちはおろか、家中のもの全員を、厳しくしつけた…ということか…」



 俺の言葉に、微笑みながらうなずく直孝。



「そしてこの頃ようやく家臣たちのいざこざは収まった。

何かを考える余裕がなくなったこともある。

しかしそれ以上に大きかったのは、みなの共通の敵が生まれて、団結し始めたことじゃ!」


「まさか…」



 俺はその言葉に驚きをあらわにした。

 そんな俺に向けて、直孝はみるみるうちに硬かった表情が崩れて笑顔になる。



「ははは!そう、彼ら全員の敵が、この俺になったのだ!

皮肉なことに俺が家臣たちの敵となったことで、家中がまとまったのだ!ははは!」



 そう笑い飛ばす直孝。しかし俺は笑わなかった。その代わりに、尊敬の眼差しを彼の瞳に向ける。

 その視線に気づいたのか、直孝は恥ずかしそうに続けた。

 


「家中をまとめる為、あえて鬼となって、自分を悪者にしたてる…

どんなに嫌われてもいい…

お家がそれでまとまるなら…

兄上がそのことで井伊家の当主として、立派に勤めあげられるのであれば、俺が泥をかぶっても構わん!

そういう覚悟でいるのだ…」



 強い…


 この覚悟こそが、武士として、いや人として、本当に強いと思える人物だと、俺は素直に思えた。

 


「不思議だ、と言ってしまった件、誠に申し訳なかった」



 俺は素直にそう謝る。

 そんな俺を目を丸くして見た直孝は、

 


「よしてくだされ!

他人から見れば『不思議』と思われるのは当たり前のことなのですから…」


 そう言うと、再び気恥ずかしそうに顔をそらしたのだった…


 俺はこの時思った。


 こういう人が歴史を作っていくのだろう…と。


 そして、俺もこういう人間になれるだろうか…

 いや「なりたい!」と素直に、その姿に憧れを抱いたのであった。


 そんな風に胸を高鳴らせている時、直孝がつぶやいた。



「秀頼殿は不思議なお方だのう…」


「むむっ?今度はわれが『不思議』の対象となってしまったのか!?」


「はははっ!すまぬ、すまぬ!深い意味はないのだ!

では、そろそろ戻りましょう。

しかし、この泥をどこかで落とさぬと行けませんな!」



 そう笑顔を向ける直孝。その顔は太陽のようで、俺にはまぶし過ぎて、凝視することは出来なかった。


 

ーーニャア!



 どこかで子猫の喜ぶ声が聞こえた気がする。

 それは『心やさしき鬼』に向けられた、感謝の気持ちのように思えてならなかった。



「豪徳…と、猫…

まさか…いや、あり得ぬ…」



 それは後世になっての逸話。

 

 江戸のとある寺の前で井伊直孝に対して、一匹の猫が手招きするように彼を呼んだ。その呼びかけに応じて彼が寺に入った瞬間に、大雨が降り始めたという。

 すなわち、猫が彼を大雨から救ってくれたのだそうだ。

 その寺は後の豪徳寺。

 大雨から藩主を救った寺として、当時崩れかけであった豪徳寺は井伊家によって立派に立て直された後、井伊家の菩提寺となる。

 そして直孝を救った猫は、「招猫観音」として祀られて『招き猫』としてその名を残すことになるのだが…



「まさか、その時の猫が今日の…?いや…まさかのう…」


「むむっ?どうしたのですか?秀頼殿」


「いや、なんでもない!

しかし、早く戻らぬと怒り出す者がいるのじゃ…

かくなる上は…」



 そう言って俺は走り出した。

 突然のことに直孝の反応が遅れる。



「競走じゃ!!ははは!」


「お待ちなされ!!抜け駆けとは!!おのれ!」



 こうしてまた一人、俺には尊敬する友が出来た。


 そんな素敵な春の朝であった。

 

 

 

そして、その「招き猫」と「彦根城」をモチーフとしたキャラクターが「ひこにゃん」となるわけですね。



そして、放映中の大河ドラマのネタバレになるような記載があるのですが、失礼いたしました。


なお、井伊直孝公ですが、その出生には様々な説があるようです。

一般的には、井伊直政公の正室の侍女の子とされているようですが、中には徳川家康公の隠し子という説も…

いずれにせよ生まれた直後から上野安中の寺に預けられて、井伊直政公との初対面は、なんと関ヶ原の合戦の翌年。すなわち直政公が亡くなるわずか一年前であったとのこと。

兄の直継(当時は直勝と名乗る)とはあまり面識がなく、当たり前ではありますが、井伊家の家臣団とも、ほぼ顔を合わせることもなかったことでしょう。


さて次回は、佐和山城にまつわるお話しになります。

秀頼たちが『幽霊騒動』に巻き込まれてしまいます!



どうぞこれからもよろしくお願いします!

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