【幕間】耄碌する暇なし
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慶長11年(1606年)3月21日――
京の二条はこの日も快晴。春らしいうららかな陽射しの中、徳川家康と阿茶の局は、この日に発った豊臣秀頼を見送ると、屋敷の中へと戻っていった。
「最後の最後まで、少年らしく爽やかな装いで行きおったのう」
家康は屋敷の中に戻るなり、かたわらの阿茶の局に漏らした。
「ふふ、それが何か問題でも?」
「いや…しかし…」
何か奥歯に物が挟まっているような家康の様子に、阿茶の局が流れるように言った。
「有楽斎殿のおっしゃる通り、偉大すぎる父をもった暗愚の将と甘く見てはならぬ、わらわにはそう思えてなりませんでした」
「ふん!そこは『あまり気にする事はございませんよ。お千も秀頼殿も子供らしくて、可愛かったではございませんか』とたしなめてくれると思っておったのに…
せっかく孫娘との楽しいひと時を過ごした余韻に浸りたくとも、お主のその物言いのおかげで台無しじゃ」
「ふふ、男というのは例え大御所様であっても、面倒くさい生き物でございますのね」
「もうよい…先ほどお主が言った事の真意を申してみよ」
と家康はため息まじりに、阿茶の局に催促すると、彼女の目が細くなる。
「ふふ、既に大御所様もご存じなのでしょうに…相変わらずいじわるなお方ですこと…
では逆におうかがいいたしましょう。
もし、秀頼殿が、大勢のお供を引き連れて二条の屋敷に来られたら、どうなされたおつもりでしょう」
「どうも何も、変わらずに歓待したわい。たかだか百や二百の人数くらいで、怖じ気づくわしと思うてか?」
「いえ、そうではございません。
恐らく大御所様でなくとも、その様子を見れば『油断ならぬ』と、気を引き締めたのではございませんか」
「すなわち秀頼は、わずかなお供だけで江戸まで行こうとする無謀さを見せることで、『天下を治める器量なし』と油断させた…と言いたいのか」
そうしみじみとつぶやいた家康に対して、阿茶の局は少し冷ややかな視線を浴びせた。
「よもや大御所様は、本当に油断されたのではございませんか?」
「ば、馬鹿を申すな!油断などするのものか!」
「はぁ…周囲に敵がいなくなると、男というものは、大御所様であっても耄碌されてしまわれるのでしょうね…」
「ぐぬぬ…可愛い孫娘と、健気に頭を下げるその婿の姿を見れば、誰でも油断してしまうのは恥じる事ではないわ!」
家康は顔を真っ赤にさせてそう抗議しているが、阿茶の局はそんな家康に対して、愛おしそうな目を向けて微笑んだ。
「そう素直におっしゃる所が、大御所様が大御所様であるゆえんなのかもしれませぬ」
「何が言いたいのか今一つ分からんが…まあよい。続けよ」
「はい。つまり秀頼殿は最初から大御所様よりお供を借り受けるおつもりであった…ということにございます」
「なにっ!?」
「ふふ、考えてもみてください。
秀頼殿にとっては大御所様からお供を借り受けることに利点しかございませぬ」
「つまり…『道中の安全』以外にもある…ということじゃな?」
「ふふ、もちろん。
まずは、『通行の手形』。
江戸に行かれるということであれば、その道中はほとんど、徳川の譜代の大名たちの領地にございます。それゆえ大御所様から直々に借り受けた者たちの存在は、そのまま各大名たちに警戒されることなく彼らの領地を通りぬける、何よりの手形となりましょう」
「ふむ…確かに、豊臣の者たちだけなら、下手をすればわしにうかがいを立てる為に、力づくでも引き止めかねない者たちばかりだからのう…」
「ええ、それこそが三河武士の気骨なのでしょうが、それが過ぎると少し困りものですね…」
「まあよい。まだ続きがあるのであろう。申してみよ」
「はい、次に、『大御所様と将軍様に対して敵意ないという証』。
大御所様から借り受けたお供は、言わば秀頼殿の目付とも言えましょう。もし秀頼殿に不審な動きがあれば、たちまちそれは徳川に筒抜けになってしまいます。それを許すという事は、すなわち敵意がないという証でございましょう」
「そしてもう一つ…であろう?」
「あら!やはり大御所様も分かってらっしゃったのですね!」
と、嬉しそうに両手を合わせる阿茶の局に対して、家康は眉をしかめた。
「お主がわしの眠っておった猜疑の心を揺り起したのであろうに…
まあよい。では最後はわしから言うか…」
「ええ、お願いいたします」
「ずばり『臣従の拒絶』であろう」
この言葉に阿茶の局は黙って家康を見つめていた。
その様子を見て、家康はゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「形だけとはいえ、わしから借り受けたお供たちは、秀頼の言わば『お付きの者』として江戸に向かったことになる。
その様子を見れば、どの大名でも『大御所はまだ豊臣を丁重に扱っている』と思うであろうな…
すなわち秀頼は、東国の大名たちに対して、口には出さぬだろうが、そのように宣伝する為に、わしからお供を借り受けて江戸へ向かったと…」
「しかし、そうする事は秀頼殿の利点になるのでしょうか?」
「ふん!お主が勝手に言ったことであろうに!まあよい…
それは利点になるであろう。
徳川が丁重に扱う大名を、今後も邪険に扱うことは出来ぬ。
今後の外交で軽んじられないようにする為には、何よりの牽制となろう」
「つまり…」
「ふん!そこまで言わせるか!
つまりは、この先を見越した外交の先制と言えるであろうな」
そこで一旦話しを切ると、家康と阿茶の局は向き合う形で互いの表情を見ている。
阿茶の局はいつも通りの穏やかな表情だ。
しかし…
徳川家康は違った――
昨日までとは違う若々しい炎が、そのつぶらな瞳の中で燃え始めている。
そして、どこか肌の張りも出てきたように思えるから不思議である。
つまり、彼は明らかに若返っていたのである。
「大御所様。どうやら耄碌している暇などございませぬようですね」
「ふん!もとより耄碌などしておらんわい!」
そう言ってそっぽを向く家康に対して、ほのかに頬を紅く染めた阿茶の局は、自身の興奮を抑えるように静かな声で言った。
「ふふ…しかし秀頼殿にとって、こたびの件、一つ大きな『不利益』がございました」
家康はその阿茶の局の様子に眉をしかめる。
「どういうことじゃ?」
その問いかけに阿茶の局は、眩しいものを見るように目を細めて言ったのであった。
「大御所、徳川家康公の目を覚ました事…全ての利点をかき集めても、かなわぬ程の大きな不利益に存じます」
………
……
同日――
京から少し離れた山奥…
そこには二人の老人が、いつも通りに碁盤を介して対峙していた。
しかし、その碁の勝負は、もはや勝負とは言えぬほどに、敵対心のかけらも感じられない。
もはや傍目から見ればそれは、やる気の「や」の字もない、単なる石を打つ作業のように思えるに違いないであろう。
その山奥とは、紀伊国の九度山。
碁を打つ二人とは、真田安房守昌幸と高梨内記の主従であった。
耄碌――
まさにこの言葉は、今のこの二人の為にあるような言葉なのかもしれない。
そしてこの対局においてお決まりの話題へと移っていったのであった。
「殿…今一つそれがしには理解に苦しむのですが…
なぜ『あの時』、殿は動かれなかったのでしょうか…?」
そう問いかけた内記に対して、昌幸は呆けた目を向けた。ここ二年ほどでその瞳の光は薄くなり、顔には彫りが深くなった。そして何よりもその髪が白一色に染まったのが、彼がすっかり老けてしまっていたことを象徴していたのだった。
そんな彼はぼそりと答えた。
「もう何度目じゃ?その問いかけは…とうとう呆けてきたか?内記よ…」
その昌幸の問いに、内記は必死に手を振ってそれを否定した。
「殿!殿には言われたくはございませぬ!
わしはこの通り、ピンピンしておりますぞ!」
「はんっ!ではなぜ同じ事を何度も訊くのだ?」
「いやはや…何度うかがっても不思議でならないのです。
もし、あの時に動かれれば、今頃伏見の城に座られているのは、家康ではなく殿だったのではないかと、今でも思っているのですが…」
内記の言う『あの時』とは…
言わずもがな、先の九州で起こった乱の時である。
真田昌幸は、黒田如水と結城秀康とともに周到に天下転覆の計を練ってきた。
そして、黒田如水が九州で乱を引き起こし、徳川秀忠の軍を九州に引きつけ、結城秀康が京の屋敷にて徳川家康を足止めしたところで、東国で真田昌幸が反乱を起こす…
九州、畿内、関東と日本全体を巻き込んだ壮大な計は、昌幸の働き次第では十分に成し得る可能性を秘めていた。
しかし昌幸は、嫡子である真田信之に対して、他愛もない書状を送ったきり、全く動かなかったのである。
そうこうしているうちに、如水が裏で糸を引いた九州の乱は、徳川軍の勝利で幕引きをし、それを知った家康の軍は解散となって、その一部は引き続き畿内にとどまったのであった。
内記には、あれ程熱心に協議を重ねてきたにも関わらず、昌幸が何もしなかった事が不思議でならなかったのだ。
「では一つだけ教えてくだされ!」
「碁を打つ手を止めぬと約束すれば教えてやらんでもない」
と昌幸は碁盤から目を離すことなく、パチリと石を置きながら言った。
「かしこまりました。ではうかがいます」
そう言った内記は、パチリと石を置いた。そして問いかけた。
「殿はいつから動く気がなかったのでしょう?」
「最初から…じゃ」
「なんですと!?」
内記は驚きのあまりに手が止まる。
その様子を昌幸は、ぎろりと睨みつけた。
「おいっ!早く打たんか!」
「す…すみませぬ…!」
そう慌てて内記は謝ると、パチリと石を打った。
そして引き続き問いかけたのである。
「最初とは…いつからにございますか!?」
「最初とは…あの年の正月」
「なんと!?如水殿がここ九度山に来られて、久しぶりに楽しい酒を飲んだあの時でしたか!?」
「だから手が止まっておる!」
ーーパチリ!
「どうしてそう決められたのですか?」
その問いかけに、今度は昌幸の手が止まった。
「殿…?いかがされたのですか…?」
心配そうに内記が昌幸の顔を覗き込む。その視線に対して、眉をひそめた昌幸は、
ーーパチリッ!
と、力強く石を置くと、少し声を大きくして言った。
「顔を見つめるでない!男に見られても気持ち悪いだけじゃ!」
「これは、したり!
しかし、まだそれがしの問いに答えていただけておりませぬ!」
「はんっ!もう先が短いその身で好奇心ばかりは衰えぬようで、羨ましいばかりじゃのう!」
ーーパチリ
「殿…それがしは長い事殿にお仕えしてまいりました。
そのそれがしに対して、殿は隠し事をされるとおっしゃるのですか…
世知辛い世の中ですなぁ」
ーーパチリ
「はんっ!別に隠し事などしとらんわ!ただ…」
ーーパチリ
「ただ、なんでございましょう?」
ーーパチリ
「ちと言いづらいだけじゃ…」
ーーパチリッ!
力強く石を打つと、内記はぐっと目に力を入れてたずねた。
「おっしゃってくだされ!殿のためにも!」
ーーパチリ…
「わしの為…?」
ーーパチリッ!
「そうでございます!殿の為にございます!」
ーーパチリ…
「はんっ!よく分からんが…まあよい…
お主も知っておろうが、わしは何人もの人の死をこの目で見てきた。
それは直接見たというのではなく、その者たちの死の寸前の様子を見てきたということじゃ。
古くは武田信玄公、長篠の戦いにて散っていった、山県、馬場などの武田家譜代の重臣たち、北条氏政殿、そして豊臣秀吉公…」
ーーパチリ
「確かにおっしゃる通りですな…」
ーーパチリ…
「多くの死を見てきたゆえに、分かるようになってしまった事があるのじゃ…」
ーーパチリ…
「まさか…それは…」
ーーパチリ…
昌幸の碁盤を見つめる瞳が弱々しい。
彼はより一層湿り気のある沈んだ声で言ったのだった。
「死相…というやつを…」
三度内記の手が止まった…
「なんと…」
しかしこの時ばかりは、昌幸はそれを咎めることはなく、彼はぼそりと続けたのだった。
「あの時、如水殿の顔を見た瞬間に分かったのだ…
『こやつは近々死ぬであろう…』と。
そして、如水殿もそれを分かっておった。
自身の死が近いということをのう。
無理をせねばあと二年は生きられたであろうな。
しかし如水殿は、そうしなかった。
あやつは自身の命を燃やし尽くす事を選んだのじゃ」
昌幸の顔に暗い影が落ちる。それはさながら夕日が落ちる寸前の空の色のようで、哀愁が漂っている。
「殿…殿はそんな悲壮なご覚悟を決めておられた如水殿を見放した…ということでしょうか…」
「見放す?人聞きの悪い事を言うでない!
如水殿が見放されておったのは、天運と時の運。
あやつにもう少し時間があれば、状況は変わっておったやもしれぬ」
ーーパチリ
内記は思い出したかのように、石を打った。
そして独り言をつぶやくように言ったのであった。
「つまり如水殿は、最初から勝てる見込みがない戦いに挑まれた…と」
ーーパチリ
「そういうことになるな」
ーーパチリ
「ではなぜ…負けると分かっておきながら、戦いに挑まれたのでしょう…」
ーーパチリ
「はんっ!そんな事知るか!ただ…」
ーーパチリ
「ただ…?」
ーーパチリッ!
今度は昌幸が力強く石を打つ。
そして…
「あやつがまことの武士であったから…であろう」
と、顔を上げて低い声で言った。
ーーパチリ…
「武士であるから…」
ーーパチリッ!
「もう勝てぬと決まった時点で、人生を嘆くことは楽じゃ。ままならぬ事に愚痴を言うのも楽。
しかし、決して嘆かず、決して愚痴を言うことなく、口を真一文字に結んで、その勝てぬ相手に戦いを挑んで華々しく散ることこそが、まことの武士の道というものじゃ」
ーーパチリ
「武士の道…それがしにも歩めますかのう…」
ーーパチリッ!
「はんっ!心配するでない!お主はもう歩んでおるではないか!はははっ!」
そう笑い飛ばすと、昌幸は碁盤の方へと視線を移した。その意味を理解した内記は、額をびしりと叩きながら口をへの字にした。
「これは、したり!また負けてしまいました!」
「はははっ!負けると分かっていて、何度も挑むのだから、お主は立派に武士の道を歩んでおる!」
そして、内記は最後にたずねた。
「では、殿が如水殿とともに動かれなかったのは、如水殿が負けると分かっていたから…ということにございますな?」
「はんっ!別に負けるのは構わんが、徳川家康に負けるのだけは絶対に嫌だった、というだけじゃ!
それに…」
「それに?」
そこで一旦話しを切った昌幸は、内記を見つめた。
その瞳は、近頃めっきり影をひそめた『比興者』の色に染まっている。その事に内記は、この上ない喜びを感じていた。
そして昌幸は強い口調で言ったのだった。
「それに、まだわしには死相はでておらん!」
「それでこそ殿ですじゃ!
しかし、どのようにこの後は動かれるつもりですかな?」
内記は当たり前のことをさりげなく問いかけた。
「はんっ!そんな事、わしに分かるものか!」
「な…なんですと…!?」
「はははっ!天運は山や林のようにどっしり構えて、座して待つ!
慌てず騒がず、動く時をじっくり見定めて、ここぞという場面では躊躇せずに疾風の如く動き、烈火のごとく攻め立てる!
これが武田家の武士としての心得よ!」
…と、その時であった…
真田昌幸にとっての天運が、九度山に舞い降りてきたのは…
しかしそれは決して彼が再び世に出て徳川家康と戦うことを意味してはいなかった。
それを天は望まなかったようである。
されど、彼の全てを託すことになる人物が、本人の意思に関係なく訪れてきたのだ。
昌幸は部屋の外の人の気配に気づくと、声をかけた。
「誰じゃ?人が上機嫌に笑っているところを邪魔するのは!」
「佐助にございます」
「ああ…源二郎の使いか…
どうした?源二郎の書状でも寄越しに来たのか?」
「はい…それともう一つ…」
少しだけ言葉につまった佐助という男に対して、昌幸は苛立ちながら言った。
「なんじゃ?もう部屋に入って申してみよ!」
「はっ!」
と、佐助は短く返事をすると、スッと襖を開けた。
そこには…
佐助という忍び装束に身を包んだ男の他に、もう一人の人物が立っていたのである。
「なんじゃ?お主は…?」
その問いかけには、本人の口からではなく、佐助の口から答えが発せられた。
「源二郎様がここにお送りするようにと…」
昌幸はあらためてその人をじっくり見る。
線の細い少女だ。明らかに栄養が足りていないように思える。そして、彼は冷たく言い放った。
「ああ…見ての通り、流された身でな。
侍女を雇い入れる余裕などない。
源二郎の好意には申し訳ないが、大坂城で過ごした方が、良い生活が送れることであろう」
暗に「帰れ」と言っているようなものであった。
しかし…
少女は、その細い身体のどこから声を出しているのか分からないほどの大きな突き刺す声で懇願したのだった。
「どうか!!どうかこの吉岡杏に、真田安房守殿の、全てをお教えくださいませ!!
この通りにございます!!」
そのあまりの気迫に、昌幸は圧倒されると、思わず目を見開いた。
そして一つ問いかけたのである。
「なぜじゃ?なぜこのわしに教えをこう?
わしの全てを教わって、誰と戦うつもりなのじゃ?」
その問いかけに、杏は顔を上げると、キリッと瞳に炎を宿らせて答えたのであった。
「大友義統…そして…徳川家康!!」
その言葉を聞いた瞬間に、昌幸は悟ったのであった。
ーーこれこそわしの天運じゃ!
と…




