あなたを守る傘になると決めて…⑨突然の来訪
◇◇
慶長11年(1606年)3月20日ーー
俺、豊臣秀頼、とその一行は、大坂城を出たその日のうちに京に到着した。
「わぁ!!秀頼さま!!この髪飾り素敵です!!」
いつの間にか駕籠から降りた千姫が、目を輝かせて俺に物欲しそうな視線を向けている。
俺はため息をついて、彼女をたしなめた。
「こら、お千!ちゃんと駕籠に乗っていなくては駄目ではないか。
何かあってからでは遅いのだぞ」
「千は大丈夫にございます!」
なぜか自信満々の千姫。俺は不思議そうに問いかけた。
「なぜそのように言い切れるのだ?」
すると千姫が俺の手を取って、無邪気な笑顔で答えた。
「だって、秀頼さまがどんな時も千を守ってくださるから!」
俺はそんな彼女の一片の欠けらもない俺への信頼の言葉に、胸が張り裂けるような思いと、めまいが同時にした。
ーーどんな時も俺が千姫を守る…
彼女はそう信じている。
そしてこの思いは、この後変わることはないだろう。
しかし…
史実の俺は…
その思いに応えると言えるのであろうか…
それはもちろん大坂の陣でのことだ。
落城寸前の大坂城で、史実の俺は千姫を堀内氏久に預けて、彼女を徳川秀忠のもとへと送り届けることで、彼女の窮地を救うことになる。
そして彼女の無事を知ってか知らずか、俺は淀殿らとともに自害したとされている。
この史実は…いや、未来の事実と言うべきか、その事は、果たして彼女の「どんな時も守ってくれる」という期待に応えたと、胸を張って言えるのだろうか…
「…さま!?秀頼さま!!」
千姫の大きな声の呼びかけで、俺はふと目を覚ました。そんな俺を心配するように、千姫の大きな瞳が俺の顔を覗き込んでいる。
「す、すまん。もう大丈夫だ」
俺は千姫が安心するように、その頭をそっとなでた。嬉しそうに目を細める千姫。
そんな俺たちに冷ややかな目を向けていたのは甲斐姫であった。
「街中で夫婦が仲良くするのは良いが、お互いの名前を言う時は、もう少し声は抑えた方がよいと思うぞ」
そう彼女がため息混じりに言うと…
ーーおおっ!豊臣秀頼様だ!!
ーー千姫様もご一緒だぞ!!
そのさざ波のようなざわめきは、一気に大波のような歓声に変わっていった。
ーー秀頼様ぁぁ!!団子を食べていってくだせぇ!
ーー千姫様!!きゃあ!可愛い!!
ーー秀頼様!こっちを向いてくだされ!
そんな人々の熱狂的な声に包まれて、俺たち一行は、町民たちによってたちまち囲まれてしまった。
大変な騒ぎに俺は困惑しながらも、千姫の手をしっかりと握り、その場から駆け出した。
突然のことに町民たちは驚き、俺たちをただ見つめているより他ないようだ。
そして人々の囲みを抜け出すと、彼らの方を振り返って大きな声で告げた。
「皆の者!今日のところは申し訳ない!
お千と俺はこれから行かねばならぬところがあるのだ!
また今度必ず二人でゆるりと過ごしにくるゆえ、さらばじゃ!」
俺は千姫の手を引いてまた走り出す。
京の街をなでる春の風に負けないくらいに、爽やかな風となって俺と千姫は一気に駆け抜けていった。
その途中で千姫が、息を切らしながら俺に話しかける。
「秀頼さま!今度二人で京をゆっくりと過ごしていただけるのですか!?」
「ああ!もう少し歳を重ねて、お千が大きくなったその時は、二人で京の街を散歩しよう!」
「嬉しいです!約束ですよ!」
「ああ!約束だ!」
果たしてこの約束は叶えられるのだろうか…
歴史が変わらない限りは果たされることはないのだろうか…
春の日に似合わぬ、心にわいた暗い影を振り払うようにして、俺は千姫の手を少しだけ強く握って、京の目的地に向けて走っていったのであった。
………
……
同日、昼過ぎーー
京のとある屋敷は、あまりに突然のことに大混乱となっていた。
「なんと!?それは誠か!!?」
「はい!誠にございます!!」
「有楽斎はどうしたのだ!?あの者から事前に連絡はあったのか!?」
「いえ!どうやら評定で決められたことではなかったようで、一切報告はなかったと、本多正純様も顔を青くされておられます!」
「ええい!あの役立たずめ!もうよい!
とにかく支度をいたせ!早く!」
「はっ!」
そう屋敷の主人が大きな声で命じると、彼の小姓は飛ぶようにその部屋をあとにして行った。
その小姓と入れ替わるように、一人の女性が部屋にゆっくりとした足取りで入ってきた。
そして、不機嫌そうに親指の爪を噛む主人に向けて、眠気を誘うようなのんびりとした口調で言った。
「大御所様。ちょっと騒ぎ過ぎなのではございません?」
この女性が呼びかけた通り、この屋敷の主人は「大御所」…すなわち徳川家康その人であった。
そしてこの女性は、彼の側室である阿茶の局。
何かに焦る家康に対して、どこまでも余裕のある表情を浮かべている阿茶の局は、まさに対照的とも言える姿であった。そんな彼女に対して、家康はいらいらして声を上げた。
「突然の訪問してくると言うものだから、大騒ぎするのは当たり前であろう!全くもって準備などしとらんのだから!」
「まあ!孫娘の婿と、孫娘の二人を迎えるのに、準備など必要ありますまい。
一体何をご準備されるというのでしょう?」
そんな阿茶の局の驚いたような問いかけに、家康はどこかばつが悪そうに目をそらした。
実はこの時、二条城にある家康の屋敷の元に、京の街に突如として豊臣秀頼と千姫の二人が現れて、二条城に向かっているとの連絡が入ったのである。
何度も秀頼の来訪を促していた家康であったが、つい先日正式に断られたばかりであり、まさかこの日にやって来るとはつゆにも思っておらず、慌ててしまったのであった。
「いや…なんだ。わしはお主からいつも怪しい薬しかもらわんから、子供の喜びそうなお茶菓子もないしだな…」
「あら!わらわのせいでご準備が足りないと、おっしゃるのですか?」
「い、いや!そういう事を言っているのではない!
例えば、夕げを食べていくとなれば、食事も必要であろうし、もし泊まっていくとなれば、寝床の準備も必要であろう!」
徳川家康という男は、とにかく形式と段取りを重んじる男であることを、阿茶の局はもちろん知っていた。そんな家康に対して、事前の連絡もなく来訪してくるのだから、これが外様大名なら門前払い、譜代の家臣であっても別棟の客間にて散々待たされたあげくに、そこでわずかな時間だけ話しをして終わりというのが、関の山であろう。
しかし相手は義理の孫とは言え、豊臣家の棟梁なのだ。
邪険には扱えぬという、家康のその気骨は、曲がったことを許さぬ三河武士の魂のようなものを垣間見たような気がして、阿茶の局は思わずクスリと笑ってしまったのであった。
「何がそんなにおかしいのじゃ?」
ぶすりとした表情の家康が、そんな彼女の様子を面白くなさそうに見る。
「いえ、わらわは単に、少し前までは『秀頼を二条城に呼びつけろ』と厳しく言いつけておられた大御所様が、いざ秀頼殿がお見えになられたら慌てふためいておられるのがおかしくてならないのです。ほほほ」
「ふん!なんとでも言え!」
そう家康が拗ねてそっぽを向いた時であった。
ーードタドタドタ…!
という複数の足音がしたと思うと、
「申し上げます!!」
という若い小姓の慌てた調子の声が、襖の外から響いてきた。
家康は何事かと顔を上げて、
「なんだ!?騒々しい!外からではなく、中に入るがよい!」
と、強い口調で返す。
すると…
「ではそうさせてもらいます!」
と、先ほどの小姓とは明らかに異なる少年特有の高い声がしたかと思うと、
ーーピシャリ!!
と、襖が勢いよく開けられた。
そこには…
「お久しぶりにございます!お祖父様!!
豊臣右大臣秀頼にございます!!」
と、満面の笑みを浮かべた秀頼の姿があった。
彼のことは準備が出来るまでは別棟で待たせていたはずである。それが今目の前にいるのだから、家康の驚きようは半端ないものであった。
「ひ、秀頼殿…なぜここにおるのじゃ…」
そう口を開けたまま、まるでお化けでも見ているような顔で問いかけた家康に対して、どこまでも明るい声で秀頼は答えた。
「ははは!何事も待つのが嫌いな性格は、父譲りなようです!お許しくだされ!!」
「し、しかし、こちらにも準備というものが…」
と、家康が小言を漏らそうとしたその瞬間であった。
「おじじさまぁぁぁぁ!!」
千姫が秀頼に負けないくらいの眩しい笑顔で、家康の大きく肥えた腹に向けて突進していった。
ーーボフッ!
大きな音を立てて千姫が家康の大きな腹の中に、顔をうずめるようにして抱きつく。
千姫にとっても随分と久しぶりな祖父との再会に、その喜びを弾けさせたのだ。
「おお!お千か!また随分と大きくなったのう!」
と、千姫に抱きつかれた家康は、先ほどまでの不機嫌そうな顔を一変させて、目じりを下げて彼女の頭を優しく撫でている。
「おじじ様にお土産をお持ちしました!!」
そう千姫が嬉しそうな笑顔で言うと、背後に控えていた高梨内記の娘が、一つの包みを家康の前に差し出した。
「どれどれ、何かのう…」
目に入れても痛くないほどに可愛い孫娘からの贈り物に、家康は目を細めながらその包みを開ける。
「おお!これは、おかき…であるな!」
「はい!!大坂城の菓子職人とともに、お千と秀頼さまもお手伝いしてお作りしたのでございます!」
「おお!それは誠か!嬉しいのう!」
それは、もち米を材料とした米菓である「おかき」であった。かつては太閤秀吉も好んで食べたと呼ばれるその菓子を、千姫と秀頼は自ら菓子作りを手伝って持ってきたのであった。
「早速いただくとするかのう…どれどれ…」
と家康は毒見などさせずに、一口それを頬張ると、ぼりぼりと音を立てながら、美味しそうな顔をしている。
「うまいのう!お千の手作りともなれば格別じゃ!」
その言葉に千姫は嬉しそうに、「きゃっきゃっ」とはしゃいでいる。
そんな家康と千姫のやり取りを、微笑ましく見つめていた阿茶の局は、何か思い出したように秀頼の方に視線を向けると、穏やかな口調で問いかけた。
「ところで秀頼様。突然お越しになられるとは、何か大御所様に御用でもおありだったのでしょうか?」
その阿茶の局の振りに、秀頼はにこやかな表情のまま、軽く姿勢を整えた。
家康は口の中のおかきをボリボリと噛みながら、その視線だけは秀頼の方へと向ける。
ほんの一瞬だけ、なんとも言えぬ緊張が走ったのを阿茶の局は見逃さなかったが、それを打ち消すような秀頼の元気な声が部屋に響いた。
「はい!近頃、お顔をお見せする機会がございませんでしたので、久々にお祖父様にお千とともに元気な姿をお見せいたしたく、やってまいりました!」
「あら!そうでしたの。それにしては随分と急なご来訪ですこと。何か他に京に用件があられるとか?」
優しい口調ではあるが、阿茶の局は秀頼の真意を引き出そうと、鋭く踏み込んでくる。しかし秀頼はあくまで自然な笑顔のまま、素直に質問に答えた。
「いえ!これから向かう場所の道中でございましたゆえ、お立ち寄りした次第にございます!
急な来訪となってしまった事につきましては、深くお詫びいたします」
軽く頭を下げた秀頼に対して、ようやく口の中を空にした家康は、一口だけ茶をすすると、こちらも穏やかな口調で告げた。
「いや、詫びにはおよばん。こうして元気なお主らの顔を見られただけでも嬉しいというものじゃ。
ところでこれから向かう場所とは、どこなのじゃ?」
きらりと家康の目が光る。その視線を笑顔のまま受け止めた秀頼は、今までの元気な口調のまま答えた。
「江戸にございます!!」
その答えに家康と阿茶の局の表情が驚きに変わる。
「な…なんだと…江戸…とな…」
「はい!江戸の義父上にも、千姫とともに顔を見せてこようかと思っております!」
「お主らだけで…か!?」
「いえ!われの養育係である甲斐殿と、明石全登殿、それにお供が十名程度にございます!」
「たったのそれだけの人数で…」
家康には衝撃的な事が多すぎて混乱していた。
まず、事前の連絡もなく大坂城から遠く離れた江戸に行くということ。
次に、その江戸訪問の目的が単なる顔見せであるということ。
最後に、豊臣家当主とその正室の移動にも関わらず、そのお供がわずか十名程度であるということ…
特に最後の懸念事項については、滅多に動じることのない阿茶の局であっても驚きを隠せない様子であった。
「秀頼様…いくら大御所様の手によって乱世の世の中が収まったと言えども、まだまだ物騒でございます。
豊臣家の当主とその正室の行列にも関わらず、その人数がわずか十名程度というのは…
御身が心配でございます」
その言葉を聞いた瞬間、千姫の顔がみるみるうちに心配そうなものに変わった。
「おじじ様…江戸への道中はかように危ないものなのでしょうか…千は心配でなりません」
「お千!心配するでない!いざとなれば、この秀頼が自らの手でお千を守ってしんぜよう!!」
と、秀頼は子供らしい無鉄砲さを前面に押し出して胸を張っている。
その様子に、呆れたような笑顔を見せた家康が口を開いた。
「ははは!秀頼殿。いかに秀頼殿が勇敢であっても、大人数の野盗に囲まれてはどうにもなりますまい!
よし!この家康にお任せあれ!
二条城に勤めている者たちのうち何名かをお供に加えようではないか!」
「お祖父様!それでは二条城の守りが手薄になられてしまうのではありませんか!?」
「ははは!!秀頼殿はかような事を気になされなくてよい!この徳川家康、城から千人の兵がいなくなろうとも、びくともせぬわ!ははは!!」
そんな風に大笑いしている家康を見て、頭を下げた秀頼。
「では、お祖父様のお言葉に甘えて、二条の兵を借り受けさせていただきます!
ほれ!お千もお礼を言うのだ!」
「はい!おじじ様!ありがとうございます!」
「よいよい!ではすぐに支度をさせるゆえ、しばらくはこのおじじの話し相手になってくれんかのう」
「はい!もちろんにございます!よいですよね?秀頼さま」
「もちろんだ!ゆっくりと過ごさせていただこう」
「うむ!では今宵は泊まっていくといい。明日朝にはお供の者たちを用意しておこう」
「ではお言葉に甘えさせていただきます。何から何までありがとうございます!」
「気にするでない!ははは!今日は良い一日になりそうじゃ!ははは!」
秀頼が思いの外素直に自分の言う事を聞いてくれてくれた事が気持ちよかったのか、それとも久々に孫と過ごす一日に心が躍ったのか、どちらかは分からないが、家康はそれはもう上機嫌なまま、その日を過ごしたのであった。
………
……
慶長11年(1606年)3月21日――
俺、豊臣秀頼と千姫ら一行は、この日の朝一番に出立することになった。
「では道中の案内をさせていただきます。
それがしは京都所司代、板倉勝重が嫡男、板倉重宗、こちらはわが弟、板倉重昌にございます。
道中、危険を事前に察知した上で進みますゆえ、どうぞご安心くださいませ」
「板倉重昌にございます!兄はこう申しておりますが、道中何かあれば全てこの重昌が見事に裁いてみせましょう!ゆえにご安心くだされ!」
と、俺よりも歳が十ほどは違うであろう、若い青年の兄弟が俺の前で軽く頭を下げた。
そう言えば、彼らの父である板倉勝重という家康の家臣は、堅物と剛の者ばかりの三河武士の中において、彼らにはない非常に頓智のきく人と聞いた覚えがある。
そんな父を持つ二人であるが、生真面目で何事にも慎重に進める人物が兄の重宗。そして弟の重昌の方は、父の頓知を継ぎ、さらに自分の能力を過信するきらいがあるような気がする。
二人とも優秀な人物であることはその目を見ればすぐに分かったが、同じ父から生まれても、ここまで性格が異なるとは思いもよらなかったので、俺は面食らってしまった。
そんな俺に対して、兄の重宗が低い声で言った。
「では出立いたしましょう」
「ああ、よろしく頼む」
と俺も気を取り直して、彼ら兄弟に向かって頭を下げた。
そして…
「お祖父様!では行ってまいります!くれぐれもお体には気をつけてお過ごしくだされ!
そして、阿茶の局殿!色々とありがとうございました!」
と、元気よく見送りにきた家康と阿茶の局の二人に声をかけると、馬の腹を蹴って再び江戸への旅路へと進めていったのだった。
既に前日のうちに家康があれやこれやと手を回してくれており、この日は淡海(琵琶湖のこと)沿いを進み、近江国の佐和山城に泊まることとなっている。
この佐和山城の訪問については、実は俺からのたっての希望であったのだが、家康は特に何かを疑うこともなくそれを快諾し、既に使者を送ってくれていたのであった。
佐和山城…
俺はどうしてもこの目で見ておきたかったのだ。
なぜならそれは、かつて徳川家康との一大決戦に挑んだ石田三成の魂が込められた城であったからであった。




