あなたを守る傘になると決めて…⑧賭け
◇◇
慶長11年(1606年)3月5日――
この日も大坂城では、俺、豊臣秀頼と家老たちによる評定が行われた。
議題は…
「寺社への修繕の計画の件である」
というもの。これは「寺社にて、鉄砲の部品製作と硝酸作りの二つを押し進める」という、先の幕僚会議で決定した事項を成す為の、予算と段取りの議決である。
無論、この大坂城の評定では表向きの「寺社の修繕」とだけを取り上げ、裏の目的は伝えていないのは、この評定の内容は徳川家康に筒抜けであるという事を踏まえてのことである。
修繕させる寺社の順序や予算は、昨日までに全て堀内氏善と、街の整備を得意とする安井道頓に計画を立てさせた上で、その計画通りに進めるか否かを話し合ったわけであるが、この場で反対する意味もない家老たちの全会一致で可決された。
そして、翌日もまた評定。
今度は少し先にはなるが、9月にはなるが松平忠輝を大坂城に招いて饗応を催すという件を話し合うこととなった。
こちらも「松平忠輝を調略する」という、裏の目的なぞは口が裂けても漏らす訳にはいかないわけで、表向きとして「婚姻を控えた松平忠輝を祝う為」というのが目的であった。
饗応の準備の取り仕切りは大野治長、徳川宗家へのうかがい立ては織田有楽斎、松平忠輝への働きかけは織田老犬斎が行うこととして、この件も可決された。
さらにその翌日から三日間、すなわち3月7日から3月9日の間は、今度は山積みとなっていた豊臣家の当主としての仕事に追われる一日を送った。
各予算振りに対する決裁、右大臣叙任に伴う大名たちの祝い品に対する返礼の決裁、朝廷や寺社関連の行事、そして町民たちからの都市整備に関する陳情などなど…
どうやら今までは片桐且元が中心となって、これらの決裁を行っていたようであったが、これからはなるべく俺が中心となって行うようにした。
こういった細かい部分でも、何らかの落ち度があれば、徳川からつけいる隙となりかねないからである。
またこれからは農業や漁業の促進や軍備などに相当な予算消化を考えており、余計な出費を抑えておきたいというのが本音であった。
この日までに決裁した内容に基づいて、特に予算部分については津田宗凡にある程度の決裁権を与えることとしたのだが、いくら底なしと言われるほどに潤沢な金銀を抱えている大坂城とは言え、このままでは数年後には底をついてしまう事が想定された。
「うむ…次回の幕僚会議では、この辺りの対策も練らねばならんな…」
と、俺は独り言を漏らしながら、次から次へと目の前に出される決裁を待つ書類の山に目を通し続けたのであった。
そして…
慶長11年(1606年)3月10日――
この日、ようやく政務がひと段落した俺は、いよいよ母である淀殿に一つの頼みごとをする為に、俺の補佐を担当している真田幸村と、養育係である甲斐姫とともに、彼女のいる奥の間へと向かっていたのであった。
「なんでわらわも共に淀殿に頭を下げに行かねばならんのだ!?」
そう甲斐姫は頬を膨らませながら、俺に文句を言っている。
「まあまあ、甲斐殿。秀頼様は甲斐殿なら説得にお力を発揮できると信じているからこそ、協力を求めてらっしゃるのですし、ここは一つお力をお貸しくだされ」
と幸村が額の汗をぬぐいながら、甲斐姫に頭を下げるが、そんな幸村に対して彼女は、
「ふん!そもそも幸村が一人で頼みに行けばよかろう。淀殿も幸村と二人きりなら願い事などいくらでも聞いてくれるのではないか?」
と、何かいやらしい目をして、ねちっとした口調で言う。
一方の幸村は、その言葉に顔を真っ赤にして抗議した。
「ややっ!!何を言い出すかと思えば!!それがしと奥方様は甲斐殿がご想像されているような仲ではございませぬ!!」
「ほう…わらわが想像している仲とは、どんな仲なのじゃ?」
と、甲斐姫は心底楽しそうに、幸村をいじっていたのであった。
そんな会話のうちに、目的地である淀殿の部屋の前まで到着する。
そして俺は、閉められた襖の外から、中に向けて大きな声で呼びかけた。
「豊臣秀頼にございます!母上にお願いしたい儀がございます!お部屋の中に入ってよろしいでしょうか!?」
その言葉の直後に、
「どうぞ中にお入りなさない」
と、淀殿の涼やかな声とともに、スッと襖が開けられたのであった。
しかし…
「げっ!?」
俺は中の様子を見て、思わず声を上げてしまった。
なんとそこには穏やかな表情の淀殿の他に、もう一人…鬼のような形相をした千姫がいたのである。
俺たち三人は、その千姫から放たれる殺気に充満した部屋の中に、恐る恐る入ったのだった。
………
……
「ちょっと!!秀頼さま!!聞いておられるのですか!!?」
と千姫の高い声が部屋の中をこだましていた。
もうかれこれ四半刻(約30分)もの間、彼女の俺に対する文句を聞き続けていたのである。
「おい…今日のところは出直した方がよいのではないか?」
と、甲斐姫が俺の背後から、ひそひそ声で話しかけてくる。
「もう少しだけ様子を見てみよう…」
俺がそう甲斐姫に小声で返すと、
「またそうやって千を置き去りにして、内緒話ですか!!ここ数日間、さんざん千を無視しておいて、ようやく顔を合わせたと思えば、また千の知らない話しをして!」
と、千姫が顔を真っ赤にしながら俺に抗議したのであった。
つまり彼女は、俺が堺の港に明石全登を迎えにいった日から、昨日に至るまで共に過ごす時間が全くなかったことに腹を立てているらしい。
しかし決して全く顔を合せなかったという訳ではない。
毎日の朝稽古や朝げと夕げでは、わずかの時間ではあるが共に過ごしたので、俺としてはそれで十分であると思っていたのだが、彼女にしてみれば全くの不十分であったようだ。
「千を笑顔にしてくれるって約束していただいたのに!嘘つき!!」
こんな風に、彼女の俺に対する愚痴と罵倒はとどまることなく続いているが、これ以上長引かせる訳にもいかない。彼女に吐き出させるだけ吐き出させたところで、
「お千や。俺が悪かった。これからはなるべくお千と共に過ごす日を作るから許しておくれ」
と俺が頭を下げると、
「もう…約束ですからね!」
と、彼女はどこか嬉しそうにしながら、そっぽを向くと、ようやく落ち着いたのであった。
しかし…
千姫の「秀頼さまが相手をしてくれなくて寂しかった」という強烈な訴えの後に、俺がこれからするはずであった淀殿への願い事を口にするのは、非常にはばかれた。
俺が額の汗をぬぐいながら、苦しむような表情を浮かべると、そんな俺の様子を、淀殿は微笑みを浮かべながら淀殿は見つめている…
この時俺は気付いたのだった…
――淀殿は、俺が何をお願いしにきたのかを気付いていた…だから、千姫にこのような訴えをさせたというのか…策士め…!
「どうしたの?秀頼ちゃん。お願いごとがあるのではなかったかしら?」
「はっ…いえ、それは…」
涼やかな表情のまま問いかけてきた淀殿に対して、俺はどもる。
――くっ…このままでは淀殿の思い通りになってしまう…
「ふふ、変な秀頼ちゃん。もうお話ししたい事がないなら、今日はお千と過ごしてあげてくださいな」
「お、おかか様!?よろしいのですか!!?」
「ふふ、それは秀頼ちゃん次第ですよ。わらわは、わらわから巣立ちを終えた秀頼ちゃんを縛るつもりはございません」
――むむぅ…縛るつもりはない…ですと!?白々しい!かように言い出しにくい雰囲気を作っておきながら…
なおも困惑している俺に対して、千姫がつつと近寄ってくると、
「では、秀頼さま!これから歌留多をいたしましょう!」
と、満面の笑みで催促してくる。この笑顔を見るとついその誘惑に負けてしまいそうになるのは、俺の弱さだ。なるべく千姫を見ないようにしながら、
――よし!淀殿がそういうつもりなら…俺も俺の型を破る!!
そう腹に力を込めて、俺は大きな声で淀殿に向かって言った。
「母上にお願いしたい儀がございます!!
しばしの間、大坂城を留守にいたします!!その間、城中の件お願いいたしたく存じます!!」
と…
この願いは俺の背後にいる幸村と甲斐姫には話していたが、淀殿と千姫にはもちろん話しをしていない。
そう大きな声で頭を下げた瞬間から…
その場の空気が固まった…
中庭から聞こえてくる春を謳歌する小鳥の声が、この時だけは嫌に耳につく。そんな沈黙がしばらく続いた。
そして…
淀殿の恐ろしく低い声が響いた。
「どれくらい開けるのですか?」
さながら獲物を狙う蛇のような視線に、ちいさな蛙のようになってしまった俺の心は、あっさりと折れてしまい、正直に淀殿の問いかけに答えていった。
「一ヶ月ほど…」
「どこへ行くと言うのですか?」
「江戸…」
「何をしに行くと言うのですか?」
「将軍、徳川秀忠公に会ってこようかと…」
「わらわが許すとでも思っていたのですか?」
「ははは…それは…言ってみれば、何とかなるかな…と…」
そこで一旦話しを切る淀殿。
俺は恐る恐る顔を上げてその顔を見た。
その瞬間!!
――ひぃっ!!大蛇じゃ!ヤマタノオロチじゃ!!
と、俺は思わずのけぞりそうになるほどに淀殿のその表情に恐れおののいた。
先ほどまでの穏やかな微笑を一変させて、口を真一文字に締めて、俺を睨みつけるその顔は、まさに伝説の怪物「ヤマタノオロチ」を彷彿させるに十分であった。
俺はそのあまりにも恐ろしい姿の淀殿に対して、立ち向かう気力を失って、ちらりと背後を見る。
しかし…
幸村も甲斐姫も…
俺から目をそらした!!
――う…う…裏切り者ぉぉぉ!!くそ!!どうしたらよいのだ!!?
俺は頼るべきものを失い、ひどく狼狽する。
そんな俺に追い討ちをかけるように、淀殿は低い声で問いかけてきた。
「ちなみに…その一ヶ月もの間、お千はどうされるつもりですか?」
「そ、それは一ヶ月くらいなら、母上の元でちょっと過ごしてもらおうかと…」
「ちょっと…ですって…?」
と、俺の言葉に震える声が目の前から聞こえてきた。
――しまった!
と俺が思った時はもう遅かった。
ふるふると震えながら、右の拳に力を収束させていく千姫。
――まずい!!これはいつものヤツだ!!これはまずい!
俺に残された時間は少ない。
もし千姫のあの一撃をまともに食らえば、下手をすればその場で意識が飛んでいってしまうかもしれない。
そうなれば、願い事はかなわぬことになる。
――考えろ!考えるんだ!!何か糸口があるはずだ!!
俺は懸命に考えた。今までにないくらいに頭をぐるぐると回転させて、この場をしのぎ切り、なおかつ願い事をかなえる妙案を…
しかし…
「秀頼さまなんて…」
と、お決まりの台詞が始まる。
――もうダメだ!!
…と、その時であった…
俺の頭の中にその案が浮かんできたのは…!
人間は本当に追い込まれると、まるで天から降臨してくるかのように、名案が頭に浮かんでくるものなのかもしれない。
その案は、何か今の状況に足りない型をぴたりとはめるものであったのである。
そして、俺にその案を吟味している時間の余裕などなかった。
「お待ち下され!!お千に母上!!われに考えがございます!!」
その俺の突き破るような一声に、千姫の拳の震えが止まり、淀殿の見た者を抹殺するような威圧感が消えた。
「ほう…この後に及んで考え…とは…いいでしょう。これが最後の機会です。言ってごらんなさい」
淀殿が獲物を追い詰めるような鋭い目を向けたまま、俺に催促してくる。
しかしここで引いては念願など成就しない。
俺は覚悟を決めて、ぐっと身を乗り出すようにして言った。
「まずお千!!」
「今さら何ですか!?千を寂しい思いばかりさせて!」
「それが心配なら問題はない!!」
「どういうことにございますか!?もし千の事をないがしろにするような事であれば、即座にこの拳を振り抜きます!!そしておじじ様(徳川家康のこと)に言いつけます!」
固められた拳を振り抜かれるよりも遥かに洒落にならない事をさらりと言った千姫は、再び拳を固くするが、俺はそんな千姫の顔に近づきながら言った。
「お千もわれと共に江戸へ行くととしようではないか!!」
その瞬間…
再び辺りは固まった…
特に意表を突かれた形になった千姫は、驚きのあまりに目が大きくなり口は半開きのままだ。
そして…
しばらくすると、まるで冬の雪が春の陽射しで溶けていくように、千姫の顔がみるみるうちに興奮に赤く染まっていくと…
「秀頼さま!!だいっすきじゃぁぁぁぁ!!!」
と、抱きついてきた。
今までの怒りに我を忘れそうになっていたことが嘘のように、輝く笑顔を見せながら俺にまとわりついてくる。
本当は幼い千姫を連れていくことは危険を伴うものであるとは承知な上だが、江戸に向かうのであれば、徳川家の姫である千姫とともに同行した方が、待遇面も含めて何かと都合がいいはずだ。
それに今回の旅は、特に徳川家との対立を深めるような事を目的とはしていない。
むしろその逆…
すなわち徳川家康が隠居した徳川将軍家により接近して、一つの「念押し」をする為であるので、その点においては彼女と共に江戸城へと訪れた方が良い結果が生まれそうな気がしたのである。
何はともあれ、一つの危機は脱した。
すると残りは一つ…
むしろこちらの方が危機の主役と言えよう…
そう…淀殿であった。
「秀頼ちゃん。そんな約束をしてしまってよろしいのでしょうか?
わらわはまだ江戸への行くのを許した訳ではございませんよ」
淀殿は相変わらず今にも俺を一飲みしてしまいそうな視線を向けている。
俺は懸命に言った。
「母上!母上におかれましては、われの代わりを円滑に進めていただきますよう、われに案がございます!!」
「ほう…何でしょう?その案の内容次第では、秀頼ちゃんには久しぶりに『おしおき部屋』へ行ってもらわねばなりませんが…」
『おしおき部屋』…例の拷問器具がずらりと並べられたあの地獄のような光景が脳裏に浮かぶと、俺はめまいを覚えたが何とかそれを抑えた。
しかし、俺は一つの案に賭けた。
もし俺の考えが正しければ…
この案で淀殿は大人しくなる可能性があるはず!!
俺はその賭けに出ることにしたのだった。
そして…
俺が口にしたその案は、とある人物の顔から血の気を引かせたのであった――
◇◇
あの時の淀殿は、まさに「ヤマタノオロチ」のごとき怪物であった。
そして、俺はその目を見た瞬間に、一つのことしか思いつかなかったのである…
それは…
――いけにえを捧げるしかない…
ということだった…
………
……
慶長11年(1606年)3月20日――
この日俺たちは、大坂城から一路江戸を目指して出立の日を迎えた。
俺の江戸へ赴く目的は数々ある。
それらが全て達成することを祈ってはいるのだが、果たしてどうなることであろうか。
そして、俺と同行するのは、千姫、明石全登、甲斐姫、それに十名ほどの近侍と、千姫の侍女が二人。一人は、真田幸村が九度山から連れてきたという高梨内記の娘と、大蔵卿の姪にあたる、青柳という若い女性であった。
「では、行ってまいります!母上!」
「いってまいります!おかか様!!」
そう元気な声で俺と千姫が声を上げると、淀殿はいつも通りの優しい微笑みを見せた。
「いってらっしゃい。怪我と病には気をつけるのですよ」
つい先日のあの大蛇のような恐ろしい一面はすっかり影を潜め、心なしか浮足立っているかのようであった。
そして俺は、その淀殿の変化をもたらせた英雄の方へと目を移したのである。
「これも豊臣家の為…頑張っておくれよ!真田幸村!」
その俺の言葉に、幸村の表情が少しだけこわばったが、必死に笑顔を作ろうとしているのが分かる。
そう…俺は彼を『いけにえ』に差し出したのである。
――母上が円滑に城中の仕事が出来るように、幸村を常に側に置いておきます!!
この言葉の瞬間に、「ヤマタノオロチ」の怨念は静まったのであった…
「え、ええ…秀頼様もどうぞご無事で。お、大坂城のことは、それがしにお任せくだされ…」
さすがは「日の本一のつわもの」である。
淀殿が「もう逃がさぬぞ」と言わんばかりに、腕をからませている状況にも関わらずに、幸村は俺を安心できるように激励してくれたのだった。
「ふふ、源二郎とわらわが共におれば、大坂城は安泰じゃ」
と、淀殿は嬉しそうに笑みを見せると、内記の娘が、頬を膨らませて幸村をたしなめた。
「ちょっと!源二郎様!!いやらしいことをしたら、安芸様(幸村の正室のこと)に言いつけますからね!!」
「誰がいやらしいことなどするか!!いいからお主は早くここを発て!!」
と、幸村には珍しく感情をあらわにして内記の娘に抗議している。
「まったく!男など信用できません!!いざとなれば、その本性を現すかもしれませんゆえ、淀様!お気をつけくださいませ!!」
と内記の娘は最後まで文句を言っていたのであった。
――本性を現す危険性があるのは、母上の方でございます…
俺はその言葉はそっと胸にしまって、「頑張れよ」という視線だけを幸村に向けたのだった。
そして千姫が駕籠に入ると、いよいよ大坂城を出立する時間を迎えた。
今日も良い天気である。
俺は少しずつでも一つ一つ事が進んでいる充実感を胸に、江戸への旅路を一歩また一歩と歩み始めたのであった――




