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あなたを守る傘になると決めて…⑦子離れ

◇◇

 慶長11年(1606年)3月4日 夜ーー


 大坂城内の奥の一室にて、三人の女性たちが酒を酌み交わしていた。

 こう言っては失礼かもしれないが、三人とも妙齢からは離れており、決して華やかとは言えぬ雰囲気であったが、それでも三人の作り出す独特の空気は、大坂城の奥を象徴するようにどこか垢抜けていた。


 その三人とは、豊臣秀頼の母である淀殿、その淀殿の乳母であり今や豊臣家の家老格である大蔵卿、そして秀頼の養育係であり亡き太閤秀吉の側室でもあった甲斐姫であった。


 しばらく他愛もない話しが続いていたのだが、甲斐姫が少しだけ表情を固くして、話題をこの日の昼に行われた評定のことに向けた。



「秀頼殿には驚かされたなぁ。よもやあの場で…」



 と、甲斐姫は、ここで一旦言葉を切って、ちらりと淀殿の方へと視線を向けた。

 その淀殿は、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべているが、普段と一つだけ異なる点を挙げるならば、その頬が酔いによって仄かに紅く染まっているところであろう。


 その変わらぬ様子に、甲斐姫はどこかほっとして言葉を続けた。



「あの場で、母である淀殿ではなく、別の者を指名するとは…」



………

……

 話しは少しだけ戻って、昼の評定。


 豊臣秀頼は、新たに家老として十一人を指名していた。

 そしていよいよ残り一人…


 秀頼はその名前を口にした。



「織田有楽斎…!」



 この言葉が出た瞬間に、その場はざわついた。

 それはそのはずだ。

 最後の一人には、秀頼の母であり、これまで当主秀頼の後見人として大坂城を取り仕切ってきた淀殿の名前が当然呼ばれると思われていたからである。


 しかしその名前は呼ばれることもなく、その代わりに呼ばれたのは、これまで今まで散々秀頼の事を馬鹿にしたような目を向け続けてきた、言わば秀頼の政敵である有楽斎。


 これには思わず有楽斎自身が口を開いた。



「な、なぜ、それがしなのでしょう…?」


「なんだ?嫌であったか?家老になるのは…」


 冷たい口調で秀頼が問い返すと、有楽斎は慌てて手を振りながら、


「い、いえ!も、もちろん、光栄なことにございますが…」


 と否定した。その様子に秀頼は、淡々とした口調で問いかけた。



「なぜ淀殿ではなく、自分の名前が呼ばれたのか…ということか?」



 有楽斎が驚きの顔のまま頷くと、秀頼はそれに答えた。



「こたびの人事によって、家老たちにはそれぞれ政務を担当してもらう事になる。

われには母上にお任せいたす政務はございませぬ」


「そ、それは、淀殿に適した政務がない…と…」



 秀頼は首を横に振った。



「では!なぜ!?」


「母上には豊臣家の家老よりも適した所でいて欲しくいただきたいと思っておるのです」


「それは…?」



 秀頼はこの時、有楽斎の方から淀殿へと向き直って、その強い意志を固めた視線を向けていた。


 そして…


 力強い声がその場にいる全員の心に響いた。



「母上には、豊臣家の母上となっていただきます!」



 淀殿はいつもの穏やかな顔。

 秀頼はそんな母を若き獅子のように、固い決意込めた猛々しい視線で、真っ直ぐに見つめている。


 そこには母子二人だけにしか分からぬ、言葉のいらない会話が交わされているようであった。


 秀頼は、引き続き心を込めた口調で話した。



「これからはわれと家老たちによって、豊臣家と大坂城を、この乱世の大海原に航海させて行こうと思う!

しかし、われは幼く判断に迷う時もあろう。そして、家中も知っての通りに意見が割れることもあろう。

そんな時に、母上にはその大いなる愛でわれらを助け、時には叱咤いただき、われらの行く末を後ろから守っていただきたいと思っておる。

そうするためには、母上が一家老として評定の場にいてはならぬと、われは考えたのだ。

母上!この秀頼の意見にご賛成いただけるでしょうか?」



 秀頼が淀殿に問いかけると、皆の視線が一斉に淀殿に集まる。そんな視線など構うこともなく、淀殿は変わらぬ微笑みのまま、秀頼に対して小さくうなずいた。



「もちろんですよ、秀頼ちゃん。

もはや秀頼ちゃんは立派な豊臣家当主。

ならば母であるわれは、その役目を秀頼ちゃんに譲るのが筋というものです」



 そう答えると、淀殿は視線を秀頼からその場にいる全員に向けた。

 そして変わらぬ表情のまま、声を少しだけ大きくして言ったのだった。



「今日この時をもって、わらわは大坂城の政務より引きましょう。

そこで皆の者に一つお願いがございます」



 淀殿の言葉に、有楽斎も含めた新たな家老たち全員が、姿勢を正す。

 その様子を見て、淀殿が微笑みを浮かべた後に、深く頭を下げた。



「秀頼ちゃんを…豊臣家当主、豊臣右大臣秀頼公をどうかよろしくお願い申し上げます!」



 大きな愛。深い愛。そして、乱世の荒波に息子を送り出す訣別の哀しき愛…


 様々な愛の形が、この言葉に込められているようで、聞く者全ての心に突き刺さった。

 片桐且元などは、すでに頬を涙で濡らし、能面のような大蔵卿でさえも、その瞳がうるんでいる。


 そして…


 淀殿の隣に座している秀頼は、彼女に対して頭を下げて、


「母上!われはこれから大きな挑戦をしてまいります!

それは、母上にも、そしてこの大坂城にいる人々にも、いや日の本にいる全ての民にも、明日の笑顔を作りたいが為にございます!

その苦難に満ちた道のりに、われは泥をすすり、血を流す覚悟にございます!

どうか!どうか母上においては、この不肖なる息子のことをこれからも、見守りいただきますよう、心よりお願い申し上げます!!」



 その秀頼の様子を、いつも以上に慈愛に満ちた微笑みで見つめる淀殿。


 こうして、淀殿による執政は終わりを告げた。


 誰しもが豊臣家の新たな船出に強い決意を胸に秘めた瞬間でもあったのだった…




 …が、しかし…



「おい!待たれよ。聞くのも面倒であったが、当然俺はこれからも家老なのであろうな?

淀に呼ばれたゆえ、わざわざ大坂城に来てやったのだ。

猿の息子の家老になるのは癪であるが、しかしそれも織田家の再興の為。

ここは大人しく引き受けてやってもよいと思っておる。

俺の気が変わらぬうちに、早く俺を家老に任ぜよ」



 そう吐き出すように言ったのは、織田信雄であった。その信雄を哀れな者を見るような視線を秀頼が向ける。



「なんだ?その目は?

今や織田家の序列第一位であるこの織田信雄に、猿の子風情が逆らうつもりではなかろうな?」



 その信雄の言葉を無視するように、秀頼は強い口調で言った。



「織田頼長!大野治房!」


「はっ!」


「ははっ!」



 頼長と治房が、頭を下げて大きな声で返事をすると、秀頼はその二人に向けて命じた。



「お主らは、こたびの人事で家老の身からは外れてもらうが、引き続き評定には参加し、その風紀を乱す者を罰する役割を担ってほしい!!」



 てっきり評定の面々からは外されると思っていた二人は、みるみるその顔を赤くして、さらに大きな声で喜びをあらわにした。



「ありがたき幸せ!!この頼長!精一杯勤めさせていただきたいと思います!!」


「御意にございます!大野治房!場を乱す者を断じて許しませぬ!!」


「うむ!二人とも良い返事である!!

では早速その任を命ずる!!」



 そう告げた秀頼は、織田信雄を指差して、雷を落とすような声で告げた。



「織田信雄をここから引っ張り出せ!!

かようなうつけがいるだけで、大坂城の品位が下がるというもの!

百害あって一利なし!!

ついては、豊臣領内への立ち入りを禁ずる!!」



 その言葉に、頼長を除く織田一門の顔色が一斉に青くなった。思わず何事にも争いごとを好まない織田老犬斎が口を出した。



「お、お待ちくだされ!いきなり領外への追放は重すぎますゆえ、ここは一つ穏便に…」



 そんな老犬斎の気苦労をぶち壊すように、信雄は怒声を上げた。



「ええい!!こちらが下手(したて)に出ておれば調子に乗りおって!!

お主の母である淀が頭を下げて迎え入れたそれがしを侮辱することは、淀を侮辱するも同じこと!!

かような無礼者が当主の大坂城など、すぐに潰れてしまうであろう!!それでもよいのか!!

よく考えよ!!猿め!!」


「よく考え、母の気持ちを汲み取ったからこそ、織田一門衆から、家老を二人残したのである!

それに信雄殿は、何かにつけて『めんどう』などと口にする愚か者を、過去の序列などにこだわって家老にする暗愚な将であると、われのことを思ったのであろうか!

もうよい!はやくこの者をつまみ出せ!

それでもなお抵抗するようであれば、斬り捨ててかまわん!!」


「な、な、なんだと!!織田家をなんと心得る!?」



 信雄は、秀頼の「斬り捨て無用」の言葉に、赤かった顔を青くさせて問いかける。その問いに、秀頼は冷静に答えた。



「天下にその名を残すべきと心得ます!」


「では!俺をぞんざいに扱うなど、もってのほか!!」


「いえ!信雄殿は、その織田家の名を磨き輝かせるには、足りない物が多すぎると思われます。

であれば、これ以上織田家の面目を潰さぬためにも、この後は徳川殿のお近くあたりで、ゆるりと茶の湯でもお楽しみになって余生を過ごされるがよいと思われます。

信雄殿の言う『面倒なこと』から離れてお過ごしくだされ」



 そう淡々とした口調で言い放った秀頼に対して、信雄はいよいよ逆上した。



「ええい!!この無礼者め!!

塚原卜伝に習いしこの一刀流の奥義を、その身で受けるがいい!!」



 と、怒鳴り散らすと、秀頼に向かって斬りかかった。

この時、信雄は最も上座に位置しており、秀頼のすぐ前に座していた為に、誰もその剣を止める事が出来ない。


 しかし…



ーードン!!



 という大きな音がしたと思うと、信雄はいつの間にか天井を見上げていた。



「な…なに…!?」



 と、信雄は、驚きの声を上げたのもつかの間、織田頼長、大野治房、そして末席から飛んできた真田幸村の三人によって取り押さえられる。


 そう…斬りかかった信雄に対して、秀頼は素手で対すると、目にも止まらぬ技で、信雄を投げ飛ばしたのであった。


 そして彼に向かって静かな口調で言った。



「嘘を言うでない。

お主は塚原卜伝殿から剣など習っておらぬであろう。

お主の義理の父上が、塚原卜伝殿の一の太刀を学ばれたのであって、お主は所詮はそれを真似ただけ…いや、真似にもなっておらん…単に名を騙っているだけ。

それは織田信長公の名を騙って、虚勢を張るその姿も同じ事。

斬られる価値もないことを恥じることもないのであろうが、母上の従兄にあたるお血筋ということに免じてこたびのことは不問とするゆえ、もう出て行け」



 織田信雄は口をパクパクと開けたり閉めたりしているが、何の反論も出来ないでいる。そんな彼を頼長と治房の二人が引きずりながら部屋の外へと連れ出していったのだった。


 あまりに衝撃的な光景にその場の全員が目を見開いている。そんな中、秀頼は、


「ふん。仮に信雄殿が塚原卜伝に習っていようとも、甲斐殿に習いし体術にかなうはずもない。

なぜなら『大坂城の鬼』こと甲斐殿こそ、天下一の師匠なのだからな」


 と、つぶやくと自分の席に着座したのだった。


 しかし、一同が顔を見合わせる中にあって、一人瞳の奥底に一つの疑惑の芽を出していた者がいた。

 その者とは、織田有楽斎。


ーーなぜ…なぜ信雄の義理の父である北畠具教が、塚原卜伝より『一の太刀』を伝授されたことを知っておるのだ…なぜだ…


 秀頼の態度の急変と、彼が知るよしもない事実を知っていること…


ーー何かがおかしい…


 そう一度芽生えた疑惑の芽はぐいぐいとその蔓を伸ばしていくと、彼の心を完全に捉えたのであった。


 そんな時だった。秀頼は有楽斎の方を向くと、淡々とした口調で告げた。



「そうだ…言い忘れていたことがある。

織田有楽斎。お主の政務を言い渡す」



 急に話しを振られたことに対してギクリとした有楽斎は、慌てて返事をする。



「はっ…よろしくお願いいたします」



 そして、秀頼は驚くべき仕事を言い渡したのである。


 まさに『型破り』な仕事を…



「お主は引き続き同じ仕事をせよ」


「はぁ…?今まで通り…でございますか…?」


 

 秀頼はその有楽斎の様子に、ニヤリと笑った。

 有楽斎の背筋に冷たいものが走る。


ーーもしや…いや!やはり…既に知っていたというのか…そんな馬鹿な…


 そう有楽斎が驚いたのもつかの間、秀頼はその仕事を告げた。



「徳川家康殿への密告!」



 この言葉に、再びその場の全員がざわつく。


――まさか、織田有楽斎殿が内通を…


 そんな猜疑に満ちた目が有楽斎に一斉に集まると、信雄のことを頼長と外に待機していた七手組に任せて部屋に戻ってきた大野治房が逆上した。


「おのれ!!裏切り者め!!」


 烈火のごとく怒りに任せて叫び、有楽斎の背後に飛びかかる。そして、いきなり羽交い締めにして、そのまま有楽斎の頭を床に押さえつけた。

 有楽斎は、強い衝撃にめまいを覚えながらも懸命にもがく。



「お、お待ちあれ!なんの証拠にかようなことをおっしゃるか!?」



 そんな有楽斎を見下ろすように冷ややかな視線を浴びせていた秀頼は、淡々とした口調のまま言った。



「証拠が欲しいのか?その証拠が出てくれば、いよいよお主を斬らねばならぬ。

お主だけではないぞ。

そこの老犬斎と、今は外にいる頼長と信雄も生かしてはおけんだろう。

それでもよいなら、すぐにでもその証拠とやらを出すが、それでよいのか?」


「そんな…そんなもの、あるはずもない!」


「あくまでしらを切るなら、それでよい。

しかし、われの良き友である霧隠才蔵という忍びをあまり甘く見ない方がよい」


「し…忍び…ですと…」



 この言葉に有楽斎が明らかにゾッとした顔をした。



「さあ、選べ!!この場で今までの悪事をばらされて、織田家の生き残りはうつけと裏切り者たちの集まりとして、その汚名を後世に残すか!

それとも、古きよしみを守り抜き、豊臣と支える柱となってその気高き家名を残すか!」



 もう言い逃れできんぞ、という秀頼からの威圧の目に有楽斎は観念したように声を絞り出した。

 


「…か、かしこまりました…徳川殿への伝達役の件…精一杯努めさせていただきます…」


「うむ、よかろう。評定で決まった事は、包み隠さずくまなく徳川殿に伝えよ。

ただし、評定の場で話し合われたことのみを伝えること!

それ以外の情報が漏れていたと知れたその時は、容赦せんことを肝に銘じよ!

さすれば、われらの考えが徳川殿にも正しく伝わり、敵意などないことが明確となるであろう」



 と、告げると秀頼は治房に対して「もう放してよい」と、穏やかな声で指示をした。

 

 そして、依然として顔を青くしている有楽斎に向けて、先ほどよりもさらに鋭い視線を向けた。

 


「それと…分かっておろうな…もう一つお主のすべき事を…」



 その目を見て、有楽斎は再び悪寒が全身を駆け巡ると、一気に汗が噴き出した。

 

 

「そ、それは…」



 と、言葉につまる有楽斎。しかし、秀頼はその瞳を離さなかった。

 

 

「余計な言い分は必要ない。『やる』か『やらぬ』か…そのどちらかで答えよ」



 この秀頼からの「もう一つの仕事」の要求とは…

 

――この有楽斎に対して、反間(はんがん)をせよ…と…


 そう、反間…すなわち徳川の事を探り、秀頼に報告をする、後世で言う「二重スパイ」をせよ…という事だ。

 

 有楽斎は、もはや何を要求されようとも逃れようがないことを(さと)って、コクリとうなずいた。

 その有楽斎の様子を見て、秀頼は満面の笑みになる。



「ははは!冗談じゃ!徳川殿にわれらの政務の事を報せるだけでよい!

われがしっかりと領内の発展に尽力してくれていることが分かっていただければ、徳川殿も安心されるに違いない!ははは!」



 そんな風に爽やかな春の風のように笑い飛ばす秀頼を見て、有楽斎は全身の力が抜けてしまったかのように、ガクリと肩を落としたのであった。

 

 秀頼はすくりと立ち上がると、全員に目を向ける。その目は一つの事をやり遂げた輝きに包まれていて、見るにはまぶしすぎるほどだ。

 そして広い部屋中に響く大きな声で言った。

 

 

「皆の者!!これで人事は全て決した!!

これよりこの面々で、豊臣家を天下にその名を轟かせる名家となるように、家中の者たちと全ての民を笑顔にする為に、粉骨砕身となって善政を引こうぞ!!」


――オオッ!!


 と、秀頼の号令に、その場の全員が部屋を震わせるような声で返事をする。

 その返事には、力強く前に進もうという希望の色が濃い。

 

 太閤殿下亡き後、停滞していた豊臣家の政治がいよいよ動き出す…

 その事に皆が胸を躍らせていたのであった。

 

 

 そして…

 

 

 この日、人事とともにもう一つの決議が行われた。

 


――徳川家に臣下の礼を取る為に、徳川家康の言いつけを守り、二条城へ秀頼が赴くべきか否か…



 その結果は…

 

 『否』と結審された――

 

 

………

……

 こうして豊臣家にとっては長い一日が終わろうとしていた。


 そして、この日の夜、甲斐姫の提案によって、淀殿と大蔵卿を含めた三人で、久しぶりに酒を酌み交わすこととなったのである。


 

 三人とも昼の評定の件に思いを馳せているその間に、淀殿が口を開いた。

 

 

「若鳥が巣立っていく時の親鳥の心境とは、かように清々しくも、悲しいものなのですね…」



 そのしみじみとした言葉に、二人は声を出す事が出来ない。

 そして淀殿はそんな二人に向けて微笑みを浮かべて言った。

 

 

「秀頼ちゃんのこと…くれぐれもお願いしますね。

ああ見えて、まだまだ甘えん坊なところがございますゆえ…ふふ」



 その淀殿の言葉に二人は軽く頭を下げる。

 

 そこは言葉に出なくとも疎通している不思議な空間であり、彼女らはそろぞれに酒を口にしながら、それぞれの思いを通わせていたのであった。

 

 

 …と、そこに、音もなく酒を瓶を一人の侍女が替えにやってきた。

 

 その流れるような手つきなのか、それともわずかな明かりの上からでも分かる春の花を思わせる美しい横顔なのか、どちらかは定かではないが、淀殿はその姿がふと目に止まり、声をかけた。

 

 

「あら…初めて見る顔のようですが…」



 そんな淀殿の呼びかけに、静かに部屋を退出しようとした侍女は、その場で座って深くお辞儀をした。

 その様子をちらりと見た大蔵卿が淀殿の問いかけに答えた。

 

 

「この者は今年に入ってから、わらわの侍女として働かせている者にございます」



「ふふ、そうでしたの。お名前は何と言うのです?」



 と淀殿は大蔵卿の背後にいる侍女に向かって声をかける。

 すると、大蔵卿がその侍女の方を見て命じた。

 

 

「奥方様の問いかけにお答えなさい」



 その命令を待って侍女は顔を上げる。

 その凛とした佇まいと、どこか強い意志をともした瞳に、淀殿は何か心を動かされるものを感じたようで目を細めた。

 そして侍女が透き通った声で返事をした。

 


「はい、かしこまりました。

淀様、はじめまして。伊茶と申します」



「伊茶…ですか。初めて聞く名前ですね」



 その淀殿の言葉に大蔵卿が口を開いた。

 

 

「わらわの妹…今は真野頼包(まのよりかね)殿に嫁いだ者ですが…その妹とこの者の母が昵懇の仲でございますゆえ、妹がわらわの侍女にと推挙してきたのでございます」


「あら、そうでしたの。なかなかの器量の持ち主のようね」



 そう漏らした淀殿に、真っすぐな瞳を向けている伊茶に対して、大蔵卿が鋭い口調でたしなめた。

 


「これ、奥方様よりお褒めになられたのです。言うことがありましょう」



 伊茶は慌てて頭を下げると、

 

「ありがとうございます」


 と、礼を言った。

 

 

「ふふ、なかなか見どころのありそうな方ですね。

これからも豊臣家の為に、よろしくお願いしますよ」


「はい!」



 そう若々しい元気な声を発すると、伊茶はその場をあとにしていったのだった。

 

 その様子を眩しいものでも見るように、目を細めて見つめていた淀殿。彼女は大蔵卿にもう一つ問いかけた。

 

 

「そう言えば、真野殿の娘…青柳(あおやぎ)でしたか…彼女も、先ほどの伊茶と同じくらいの齢であったかと思いますが、お元気ですか?」



 この青柳という女性は、言わば大蔵卿の姪にあたる人物である。

 彼女はどんな時も最前列に立つ大蔵卿とは異なり、かなり奥手な性格だと淀殿は聞いていたようで、この時ふとその様子が気になったようであった。

 

 

「ええ、あまり外にも出ずに大人しすぎるのが気がかりですが、今は千姫様の侍女として元気にやっておりますよ」


「そうですか。それは何よりです。これからは彼女らのように若い人々が、大坂城の奥も支えていくのでしょうね」



 と、淀殿がしみじみと漏らすと、それまで黙って聞いていた甲斐姫が言った。

 

 

「ははは!わらわたちも、まだまだ色気も活力も若い者には負けてられません!これからじゃ!」


「ふふ、『若い者』というあたりが、もう年寄りの始まりかと」



 と、三人は先ほどまでのしんみりしたものから、少しだけ明るいものに雰囲気を変えて、春の夜を楽しんでいたのであった。

 

 

 



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