あなたを守る傘になると決めて…②表向きと裏側
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慶長11年(1606年)3月2日ーー
学府の完成を宣言した後に俺、豊臣秀頼は、学府内のとある屋敷の中に入った。
この学府を訪れたのは、明石全登が連れてきた異国の研究者たちを学府まで送り届けて、学府の完成を宣言するのが、言わば「表向き」な目的であった。
これからもう一つの目的…
すなわち「裏」の目的をなす為に、広い学府の中でも最も奥まったところにひっそりと建てられたこの屋敷を訪れていたのだった。
「今、研究者たちに対する、学府の説明を一通り終えました」
そのように報告しながら、石田宗應が部屋に入ってくると、彼は空いている席に腰をかけた。
実は、この静かなところにある屋敷は、石田宗應が利用している、学府の学長の屋敷である。
武士も町民も、豊臣も徳川も自由に出入り出来るこの学府の中にあって、この屋敷だけは奥まった藪の中に静かな佇まいを見せていることもあるだろうが、周囲に人が全くいない。
それもそのはずである。
ここの屋敷とその周囲は、基本的には学長の許可なくては立ち入りが禁じられているからだ。
なぜなら、各研究者たちの発見や発明は、この屋敷に一旦集約され、その成果が研究者独自のものであることを証明する、いわゆる特許を発行する機関の役割をこの屋敷は担っているからである。
すなわち研究者たちの命とも言える機密事項が、鍵付きの蔵に厳重に保管されており、たとえ天子様であっても、容易に立ち入りが出来ないようになっているのだ。
もちろんこのことは、徳川の代表である京都所司代の板倉勝重を通して、徳川家康からもお墨付きを得ている為に、たとえ徳川の者であっても、事前の許可なくして屋敷の周囲を囲っている生垣に近づくことさえ出来ない。
なおこの屋敷の天井は吹き抜けとなっており、天井からの侵入はほぼ不可能。その上、屋敷の周辺には、屈強な一領具足たちと霧隠才蔵らの忍び衆が警備に当たっているために、余程なことがない限り、間者が潜り込むことが出来ない。
すなわち、密室での会議が可能な場所であった。
さてその部屋の中であるが、書棚、机や椅子は全ての洋風の物。きっちりした宗應の性格を表すように、全ての書類は整然と置かれており、まさにちりひとつ落ちていないほどに、清潔感のある空間である。
彼が普段職務を遂行している机の前には、十名程が着席できるような長机と椅子が並べられており、少人数で打ち合わせが出来るようになっている。
その椅子のうちの一つに俺は座っており、俺の他にもずらりと知った顔が一同に会している。
俺は宗應が椅子に腰掛けるのを見ると、
「うむ、ご苦労であった。これで全員が揃ったな」
と、この場にいる全員を見渡した。
ここに集結しているのは、俺が頼みとしている面々。
豊臣の『盾』、真田幸村。
豊臣の『剣』、甲斐姫。
豊臣の『大鎧』、大崎玄蕃。
豊臣七星、石田宗應。
豊臣七星、明石全登。
豊臣七星、堀内氏善。
豊臣七星、大谷吉治。
豊臣七星、桂広繁。
以上の八人に、俺を含めた九人が椅子に座っている。空いているもう一つの椅子には、豊臣七星のもう一人、加藤清正が座る予定であったが、将軍徳川秀忠の号令による江戸城増築の普請の為に、江戸へと駆り出されており、残念ながらこの場に出席する事がかなわなかった。
「おい、秀頼殿。わらわはこう見えて忙しいのだ。
しかも、おなごはわらわだけときている。
こんなむさ苦しいところなど早く出たいゆえ、用があるならとっとと始めよ」
と、甲斐姫が腕を組んで苦々しい顔をした。
ちなみに彼女はこの後にこれと言った用事があるというわけではないのであろうが、恐らくは、大坂城を出る時に、淀殿に散々恨めしい言葉を浴びせられて、苛々しているだけだと思われる。
しかし、俺としてもここでのんびりと井戸端会議をするつもりもない。
俺は、甲斐姫に対して大きくうなずくと、腹を決めて、「裏」の目的を話した。
「皆の者、忙しい中集まっていただき、かたじけない。
皆を集めたのは、他でもない、『幕僚会議』を行う為だ」
その俺の言葉に、ピリリと空気が引き締まった。
「幕僚会議?何の事だ?わらわは聞いてないぞ」
この事は、彼女だけではなく、この場にいる全員が感じた疑問であろう。
その疑問に俺は答えた。
「甲斐殿、すまぬ。ここで会議を開くことは、誰にも告げておらぬ」
「なぜだ…?評定なら大坂城で行えばよいではないか?
こんな陰気臭いところで、コソコソとやるなんて、男らしくないね。
それにわらわは、秀頼殿の帷幕の内の将になった覚えなどない」
「それは、大坂城では出来ぬからだ。
そして今ここで、お主らを豊臣の幕僚に任ずる。
正確にはお主らに加えて、江城(江戸城のこと)の普請にあたっている加藤清正殿を含めた九人だ」
「まあ、幕僚の件は当主である秀頼殿に命じられたら、引き受けるより他に仕方あるまい。
しかし、大坂城で会議が出来ないのはなぜだい?」
そう問いかけた甲斐姫の目が鋭く光る。
俺もグッと瞳に力を込めて答えた。
「大坂城には既に複数の間者と密通者がいるからである」
それは想定外だったのだろうか。
俺の声が響くと同時に、皆が目を大きく見開いた。
しかし甲斐姫だけは、俺を疑うように、目を細めると、低い声で問いかけた。
「誰に雇われた密通者だ?」
「徳川家康」
今度は目を見開いただけではなく、全員が驚愕に、ざわついた。
しかし、甲斐姫だけは冷静であった。
「なぜ密通者がいると分かる?」
俺は目にさらに力を込める。
「目を見れば分かる」
「ほう…目…ねえ…」
と、甲斐姫はニヤリと笑うと、続けて問いかけてきた。
「では、ここにいる者たちの中には、密通者がいないと、目を見て判断したというのか!?
はははっ!こりゃあ、傑作だねえ!」
そう笑い飛ばす甲斐姫に対して、俺はムッとしながら答えた。
「甲斐殿がいかに笑おうとも、俺には分かるのです!」
その俺の言葉の瞬間…
甲斐姫の表情が、今まで以上に厳しいものに変わった。
「もうよい…冗談はそこまでにしておきな…
お主は何者なのだ?
丁度よい機会だ。
聞かせてもらおうか…」
今度は俺の表情が、ガラリと変わる。
豊臣七星の面々と真田幸村は、俺の秘密については知っていることであり、彼らも俺と同じように額に脂汗を浮かべている。
その様子に甲斐姫がため息をついた。
「はあ…お主らは知っているということかい…全く…
もう何を言われても驚かないし、ここだけの事にしておいてやる。
早く明かしてみよ!」
そんな甲斐姫の威圧感に対して、俺もまた「はあ…」と大きなため息をつくと、再びグッと腹に力を込めた。
この場で俺の秘密を知らないのは、この甲斐姫と大崎玄蕃の二人だけ。
そして今後この二人を「幕僚」として頼むためには、彼らにこのまま秘密にしておくというのは色々と困難が生じる可能性が高いと俺自身も思っていたところだ。
俺は覚悟を決めて、自分の事を打ち明けることにしたのだった。
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……
「なるほどねえ…通りで違和感があったわけだ」
と、甲斐姫は俺の秘密を知ると、どこか疲れた様子で肩の力を抜いて、椅子にもたれかかった。
一方の大崎玄蕃は、聞いている最中は驚いた表情を浮かべていたが、俺の告白が終わると、小さくうつむいている。
「…で、どうなのだ?」
と、俺が問いかけると、天井を見ていた甲斐姫はちらりと俺の方に目を向けた。
「どうなのだ…と言われてもねえ。驚いたということと、にわかに信じられんとしか言えんだろう。
それに今まで騙されていたようなものだ。騙されて続けていた自分が情けなくて仕方ない」
「それはそうだと思う。当たり前であるな…では、やはり俺の事は信頼してもらえないのだろうか…」
俺はそう言うと、がくり肩を落とした。
ある程度予想していたとは言え、やはり人から信用の目を向けられないこの瞬間は心にこたえる。
そして甲斐姫はゆっくりと席を立ち上がった。
その表情はどこか思いつめたように重い。
俺はその様子に目を向けるだけで、何も口にすることが出来なかった。
俺が秘密を隠していたこと、さらに自分が守るべき豊臣家の嫡子が、その中身は得体の知れない男であることに失望した彼女は、恐らくここから出ていくつもりであろう。
もしかしたらこのまま大坂城には戻らずに、元いた鎌倉の寺へと帰ってしまうつもりなのかもしれない…
いつも真剣に俺に向き合い、俺の未来の為に厳しく指導してくれた彼女との別れ方が、このような形になってしまうことに、俺の胸は鋭利な刃物で突き刺されたような痛みを覚えている。
自分の席を立ち、つかつかと部屋の中を歩いていく甲斐姫。
俺はその様子を見ることも出来ず、わなわなと震えながら下をうつむいていた。
もうすぐこの部屋を彼女は出て行く…
そうなればもう二度と会えないだろう…
厳しい中でも、時折見せる笑顔は、俺の事を本当の息子に向けるそれのように輝いていたことを思い出すと、思わず俺の目には涙が溢れてきた。
――行かないでくれ…頼む…
そう心に浮かぶ言葉を、俺には口にする資格などない。
俺はただ黙って彼女の決断を見送るより他なかったのであった。
しかし…
彼女は部屋の扉の方ではなく、その逆側にいる俺の方へと足を向けた。
そして俺の背後にくると…
ふわり…
と、柔らかな感触と、甘酸っぱい匂いに俺は包まれたのである。
「えっ…?」
思わず俺は何が起きたのか分からずに、顔を赤らめて目を大きく見開いた。
それは…
甲斐姫が俺の事を背中から抱きしめたのだった。
「秀頼殿は、わらわが守る。淀殿に大坂城に呼びもどされた時に、そう心に誓ったのだ。
今更その事を変えるつもりはない。
だから安心せよ。ずっとお側におる。どこにも行かぬ。
それにこれからは、わらわの事を信じてくだされ。
わらわは秀頼殿の全てを受け入れよう。
ゆえに、これからは秘密など抱え込まずに、わらわに話してはくれまいか」
そう耳でささやくように甲斐姫が、優しい声で告げた。
俺は張り裂けそうなほどに高鳴った胸の鼓動に、どうすることも出来ずに、ただただ首を縦に振る事しか出来ない。
すると彼女は俺から離れて、自分の席に戻ったのだった。
幸村ら全員が彼女の大胆不敵とも言えるその行動の一部始終を見て、開いた口が塞がらない様子だ。
そんな彼らを見て、甲斐姫は再び苦々しい表情を浮かべて言った。
「わらわは忙しいと言っておろうに。よいから早く始めよ」
俺はその言葉にようやく我に返ると、
「そ、そうであるな!で、では早速始めるとするか!まずは…」
と、慌てて進行しようとしたその時であった。
「お待ちくだされ!!!」
と部屋中に響き渡るような大声がこだました。
俺も含めて全員が、あまりに大きな声に驚きを浮かべて、その声の持ち主の方へと視線を向けた。
その声が発せられたのは…
大崎玄蕃であった。
みなの視線を一手に受けた彼は、先ほどの俺と同じように、何かを決意した表情を浮かべている。
この時点で俺は、彼が何を決意したのかを理解していた。
そしてその決意をかなえてあげようと、彼に問いかけたのである。
「玄蕃殿。何か思いつめたような顔であるが、何か言いたいことがあるなら、今ここで話してくだされ」
恐らく彼は、俺が彼の抱えている秘密について気付いていると分かっていたのかもしれない。
俺の方を見て、こくりとうなずくと、彼は重い口を開いたのであった。
「それがしにも大きな秘密がございます」
そう切り出した玄蕃。みなその様子を固唾を飲んで見つめている。
そして彼は大きく深呼吸をすると、その秘密を語った。
「それがしの名は、大崎玄蕃…しかしそれは『仮』の名前…本当の名は…」
俺はここで全員の顔を見渡した。
みな一様に玄蕃をじっと見つめ、息を飲んでいる。
しかし、真田幸村と石田宗應の二人だけは、いつも通りの穏やかな表情だ。
恐らくこの二人は既に彼の秘密の事に気付いているのだろう…
そしてついに、玄蕃は低い声で、ぼそりとつぶやくように秘密を打ち明けた。
「それがしの本当の名は、武田四郎勝頼…にございます…」
その言葉に甲斐姫などは、俺の秘密を聞いた時以上に驚いて、大きな瞳をより大きくしていた。
「ば…ばかな…生きておったとは…」
と、思わず堀内氏善が驚愕の言葉を漏らした。
そして、その氏善の隣に座っていた大谷吉治が思わず立ち上がると、
「証は…?玄蕃殿が武田勝頼殿であるという証はございますのでしょうか?」
と、未だに信じられないといった様子で、玄蕃に問いかけた。
「証…にございますか…それは…」
と、玄蕃は下をうつむきながら戸惑っている。
そこに俺は鋭い声で横から口を開いた。
「その件については、必要ない!」
今度は全員の視線が俺に集まる。
そして俺はその場にいる全員に向けて言ったのだった。
「俺はみなが例え、『実はそれがしは、織田信長である』と言われたとしても、その扱いを変えるつもりはない!
ここに呼んだ者はみな、俺が心から信頼する者だけである。
それは玄蕃殿にしても同じ事。
俺は玄蕃殿が、どれほど妻想いで、心清らかな人間であるかを知っておる。
そして今まで学府の運営に力を注がれていた事や、京の貧しき人々に対して、隠れて様々な施しをしていたことも知っておる。
俺は『人』を見ておる。それは名前や地位や家柄などではない。
そして、これから大事を打ち明けるに値する者を、言わば俺の体の一部である者たちがここにいる者なのだ!
ついては、玄蕃殿が『武田勝頼』という名であるか否かなど、今は無用なことである!」
その言葉に吉治は目を見開くと、納得した様子で
「出すぎた真似を…秀頼様、そして玄蕃殿、すみませぬ」
と頭を下げて着席した。
その様子を見計らって、俺は玄蕃の方に視線を向ける。
その玄蕃の瞳からは、驚きと感謝の二つが浮かんでいるようであった。
「それでよろしいかな?玄蕃殿」
俺は努めて優しい口調で、そう問いかける。
すると玄蕃は、
「ありがたき幸せにございます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
と、深々と頭を下げたのであった。
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……
屋敷の外は春まっ盛り。穏やかな空気の中、小鳥たちが平和そうにさえずっている。
しかし、屋敷の中はまるで夏のような熱気に包まれていた。
それでも俺と大崎玄蕃の二人が秘密を打ち明けたことで、全てのしこりが取れて、何か晴れやかな気持ちになった。
そして俺はいよいよ本題を語ることにしたのである。
その場で立ちあがって、全員をみつめる。
みな俺の次の言葉を待っているようだ。
俺は今まで以上に、瞳と腹に力を込めて、言葉に魂を込めて告げた。
「本日より、豊臣家の政治は、ここ学府と大坂城の二元政治とする」
「二元政治…具体的にはどういう事にございましょう」
石田宗應が、みなを代表するように冷静な口調で、俺に問いかけた。
そして俺は一気にその真意を話し始めた。
「大坂城での評定は、大名たちや朝廷との外交、城内の人事、予算の振り分け、寺社仏閣の修繕、領内の年貢や民たちの施しなど、いわゆる豊臣家の政治について話し合い、決めることとする」
「では、ここ学府では何を決めるのでしょう?今の事を聞けば、他に決めることなどないように思えるのですが…」
そう宗應は漏らしながらも、既に彼は何かに気付いているようだ。
流石は石田宗應…と、俺はつくづく彼が味方でよかったと、その慧眼に畏怖の念を抱いた。
そして…
この学府で話し合う内容について話し始めることにした。
「大きくは二つある」
「その二つとは…?」
「一つは、軍事!」
その言葉に、武士らしく皆の目は鋭く光る。
しかし宗應だけは、ニヤリと笑みを浮かべた。
恐らく彼は気付いているのだ…
真の目的は、次に俺の口から語られることであると…
そして、その事が言わば彼の「念願」であるということも…
俺はそのもう一つの目的については、今この場においても、避けて通れるものなら避けたいものであるのは間違いなかった。
しかし、「歴史は変わらない」という、言わば普遍の真理を散々目の当たりにしてきた今、この事にこれ以上蓋をしておくわけにはいかないのだ。
そして既に密通者がいる大坂城において、絶対に話し合うことが出来ないこと。
そう…
その目的こそ…
「徳川対策… もっと言えば、徳川家康の攻略である!」
というものであった。




