帰還と完成
◇◇
慶長11年(1606年)3月1日ーー
いよいよ春本番を間近に控えたその日。
「では、いってきます!母上!お千!」
俺、豊臣秀頼は、心配そうに俺を見つめている目の前の二人にそう告げた。
この言葉の通りに、今から俺は大坂城を発とうとその準備を終えて、二人が過ごしている奥の間に挨拶をしに来たのであった。
その挨拶に淀殿が感慨深げに
「はぁ…秀頼ちゃんにもこんな日が来るなんて…
母は嬉しいのやら、悲しいのやら…」
と、袖を濡らす振りをして言葉を漏らせば、
「千にとっては悲しいだけです!秀頼様が手の届かぬところへ行ってしまわれるなんて…」
と、千姫が瞳を潤ます振りをしながら、とても悲しんでいるとは思えぬ口調で、震えた声を張り上げている。
俺はそんな二人を見て、「はぁ」と大きなため息をつくと、
「たかだか堺の港に行ってくるだけです。
まるで遠い異国の地へと旅立つような物言いは、おやめくだされ。
そもそも甲斐殿の出したわれの外出許可の件には、二人とも賛成していたではございませんか」
と、二人に向けて苦言を漏らした。
この日俺は、とある目的の為に大坂城から堺の港まで出かけるのだが、わずか一刻(約2時間)程で帰ってくる予定であり、二人がまるでこの世の終わりのように心配する意味がよく分からない…
「それは秀頼ちゃんの姿があまりにも凛々しかったゆえ、つい勢いに負けて頷いてしまっただけです。
どこにも行って欲しくない、というのが親心というものでしょう」
「千は、千を大坂城に置いて秀頼様がどこかに行ってしまわれるなんて、承知した覚えはありませんゆえ!」
と、その言葉の内容は別々であるが、その恨めしそうに俺を見つめる瞳は全く同じ色をしている。
なんだか最近、この二人がますます似てきているような気がするのだが、俺の勘違いであるということにしておこう。
そんな風に俺に対して「行かせまい」と縛りつけるような視線を送ってくる二人を前にして、苦笑いを浮かべていると、
「秀頼様…そろそろご出立のお時間にございます」
と、部屋の外から穏やかな真田幸村の声が聞こえてきた。この日は彼と二人で出ることになっており、出立の時間を知らせに来てくれたのである。
その声こそ、「天からの援け」とばかりに、俺は黙って頭を下げると、さっと振り返り黙ってその場を離れようとした。
ところが、そんな俺の背中に向けて、いかにも名残惜しげな言葉が絡みついてくるのだから、たまったものではない。
「秀頼ちゃん。分かっていると思うけど、源二郎にそそのかされて変な遊びをしたら、ただじゃおきませんからね」
「そうですよ!また、変なおなごに手を出したら、千は絶対に許しません!」
「まぁ、秀頼ちゃん!以前にそんな事があったのですか!?
わらわの知らないところで…許しません!
一体どんなおなごですか!?」
「おかか様!それは、あざみとか言うおなごでして、事もあろうに、この千に鼻の下を伸ばされて惚気けておられたのですよ!」
「まぁ!!それを聞いたら余計に心配になってまいりました!」
「はいっ!おかか様!ここは一つ、千もお供すべきかと…」
「いえ!わらわが一緒に…源二郎もいることですし…」
そんな妙に息のあったやり取りを聞き流して、俺は足早に部屋を後にしたのであった。
「ちょっとお待ちなされ!秀頼ちゃん!わらわも一緒に!」
「いえ!秀頼さま!!千が一緒に!!」
何やら部屋の中からどかどかと二人が動く音がしてきたので、
「走るぞ!幸村!!」
「えっ!?ちょっと!秀頼様!?」
俺は幸村の手を取ると、二人の手が俺の背中を掴むその前に、大坂城の中を走り出したのだった。
そして、最後に…
「源二郎!!あの時の『条件』を忘れてはなりませんよ!!」
と、淀殿の大きな声が響いてきたと思うと、幸村の滅多に変わることのない顔色がサッと青色に変わったのだが、今の俺はそんな事に構っている暇もなく、何度も何度も友たちと駆け抜けたこの城の中を、風のように進んで行ったのだった。
………
……
どうにか淀殿と千姫の追走を振り切った俺と幸村は、途中で馬に乗ると、そのまま大坂城の惣構えの外に向かっていく。
そしてついに、雄大な大手門をくぐると、いよいよ城外に出たのだった。
「おおっ!」
と、俺は思わず声を漏らしてしまった。
いつもは物欲しげに天守閣の上から見ることしか出来なかった大坂城の外に、まさに今、一歩踏み出したのである。
そして城外から見る大坂城の姿もまた俺にとっては感動的な光景であった。
そんな風に言葉につまる思いをしている中、一人の男が俺に声をかけてきた。
「秀頼様、お久しぶりにございます」
その言葉に俺は振り向くと、目の前には背筋を伸ばしたまま、軽く頭を下げる老人の姿。
その老人を目にした瞬間に、俺は顔を綻ばせると、湧き上がる喜びを口調に乗せて、
「やあ!桂殿!久しいのう!元気にしておったか?」
と、声をかけた。
「はい、おかげさまでこの通り、悪いところ一つなく元気にしております」
「お主は相変わらず固いのう!
まあ、そんなところが桂殿らしくてよいのだが…はははっ!」
と、俺はおかしさ半分、嬉しさ半分で、思わず大きな声で笑ってしまったのだが、その老人は凛々しい顔つきで、相変わらず頭を下げていたのだった。
そんな絵に描いたような生真面目な老人は『豊臣七星』のうちの一人、桂広繁。
ここのところ彼が大坂城に顔を出すことが少なかったのは、もっぱら大坂城の弱点とされている南側の防御を固めるための整備に力を注いでもらっていたからである。
それは、城の南の長居という場所に、学府の倉庫の建設という名目で砦を、次に大坂城の外堀に隣接する形で出城を築いてもらったのであった。
なお後世においてその出城は『真田丸』と呼ばれるものであるが、大坂の陣の寸前に造られたそれと比べると、縄張りは「築城の天才」こと加藤清正に任せ、「籠城の鬼」こと桂広繁がその普請にあたった為に、より強固なものとなったのは言うまでもないだろう。
もちろん幸村自身の意見を基礎として取り入れている為に、史実と同じ機能は果たせるはずだ。
その他にも細部に渡って様々な修繕やら、改築やらを、彼自らの考えによって任せていたのだが、生真面目な彼は、ほとんど城にも顔を出さずに、その仕事に没頭して、畿内のあちこちを飛び回っていたようであった。
しかしこの日ばかりはその足を止めてもらい、俺と共に堺の港に足を運んでもらうことになっており、この大手門で待ち合わせていたのである。
そして、あまり再会を懐かしんでいる暇もないことに気付いた俺は、
「では、行くとしようか!」
と、なおもかしこまっている広繁と、隣にいる幸村の二人に声をかけた。
「そういたしましょう」
先導役の幸村はそう答えると、馬の腹を蹴って堺の方へと前進を再開した。
そして、俺と広繁の二人も、馬にまたがって彼の背中を追いかけていったのだった。
………
……
大坂城から堺の港までは、さほど遠く離れているわけではない。
ましてや馬を飛ばしていくのだから、せいぜい四半刻(約30分)もあれば着いてしまう。
その道中、俺は広繁に対して、どうしても訊いてみたかったことを問いかけてみることにした。
「桂殿、一つよろしいかな?」
「何でございましょう?」
「もし…」
その質問は、「避けては通れない未来」のこと。
いや、むしろ「避けて通らねばならない未来」と言えるであろう。
その事について、俺は「籠城の鬼」である桂広繁に意見を訊いておきたかったのだ。
それは…
「もし、大坂城の外堀と内堀がともに埋められたら、桂殿はどのように大坂城を守りますかな?」
というもの。
広繁はその問いかけに、目を大きくすると、
「ははは!秀頼様はそれがしを試されてらっしゃるのでしょうか?」
と、大声で愉快そうに笑いはじめた。
「いや、至って真面目に問いかけたつもりであったが、それほどにおかしな問いかけであろうか…?」
と、俺は眉をしかめて広繁をちらりと見た。
そんな俺の表情をさとってか、広繁は顔を引き締めると、俺に説くように話し出した。
「これは失礼いたしました。
しかし、外堀と内堀を埋めた城を守るとなれば、言わば兜と鎧をなくして、刀や槍と対峙するようなもの。
もはや籠城戦にはなりますまい。
敵に攻められぬよう、城の外で戦うより他はございませぬ」
「あはは…そ、そうであるよな…
さすがのお主をもってしても、それは無謀な話しということか…」
やはりそうか…
大坂の陣において、この二つの堀が埋められた史実を知らぬ者が、その事を聞けば、たとえ広繁でなくとも同じ事を思うに違いない。
しかし、今までの『歴史は変わらない』という真理がある以上、これは笑い話で済まされるような状況ではないのだ。
なんとしても、「外堀と内堀を埋められる」という歴史だけは歪ませねば、豊臣と大坂城に、『滅亡』以外の未来はない。
そんな風に逡巡していた俺の顔は、どこか暗いものを携えていたに違いない。
そんな俺を横目で見た広繁は、
「外堀と内堀を破られるような事態にならぬように、より防御を固めますゆえ、ご安心くだされ!」
と、大きな声で俺を励ました。
生真面目な彼は、俺を気遣っている調子が全く隠せないようだ。
そんな彼の気遣いに、俺は口もとを緩ませて、
「桂殿の言葉、本当にありがたい。頼りにしておるゆえ、よろしく頼む」
と、言うより他なかったのであった。
さて、そんな会話をしているうちに、いつの間にか堺の街へと入っているようだ。
その賑やかさ、活気の良さは、その街が後世になって「諸国の台所」とか「天下の台所」とか称されるに相応しいものと言えよう。
人々はみな笑顔で行き交い、全国から集められた様々な交易品を売り買いしているようだ。
そんな街中を馬を下りてしばらく歩いていくと、いよいよ目的地までたどり着いた。
「親父殿!!こっちでっせ!!」
そんな豪快な声がした方をしたへと目を向けると、堀内氏善が笑顔で俺に向けて手を振っている。そして、その横には大谷吉治の姿。さらには、もう一人若い女性がうつむいたまま、吉治の背後に隠れるようにして立っていた。
この活気ある街の中にあって、明らかに似合わない影を顔に落としたその女性。
本来であれば、その大きな瞳の持ち主は綺麗な顔だちなのだろうが、やつれたその表情だけを見てしまえば、触れれば壊れてしまいそうな、儚さしか感じることが出来ない。
「吉治、その背後のおなごはどちら様かな?」
と俺がたずねようとした事を、吉治の義理の兄である幸村が静かな声で問いかけた。
いつも通りの穏やかな微笑を浮かべているが、女性とは言え部外者を連れてきたことへの警戒心が、言葉尻には感じられる。
俺はそんな彼女の近くまで近づくと、その哀しみを映した瞳をじっと見つめた。
彼女は俺の瞳に耐えられないのか、すぐにその透き通るように白い顔をそらした。
それでも俺は穴が開くほどに彼女を見つめる。
「ひ、秀頼様…?」
と、吉治が普段と調子の異なる俺の様子に、慌てた様子で声をかけてくると、それを幸村が先ほどから変わらぬ表情のまま制した。
俺は集中して彼女を見つめ続ける。
周囲の喧噪はその音を消し、俺の耳からは彼女の鼓動が、心の内に直接響いてきた。
そして…
俺の意識は、彼女の心の奥底に到達した。
その光景は…
闇に覆われた洞窟――
俺は一歩また一歩とその洞窟の中に足を踏み入れる。
ひんやりした洞窟の中のわずかな光を頼りに進んでいくと、
悲しみ…苦しみ…憎しみ…悔しさ…
様々な負の感情が、さながら煉獄に苦しむ亡者のように、俺の足元にまとわりついてきた。
それらを振り払うようにしながら進んでいったその先には、ほのなか光の壁に包まれた彼女が、うずくまって座っていた。
そこに浮かびあがってきたのは、同じく光に包まれた老婆と老人の姿…
彼らは言葉を発することなく、俺をじっと見つめている。
敵対するでもなく、かと言って味方するでもない、不思議な視線。
それは彼女の心の核を守っているような、そんな強い愛情を感じた。
俺はそっと、その光に触れてみる。
その瞬間――
「秀頼様!!」
という吉治の大声に、俺の意識は元の世界に戻ってきた。
再び周囲の喧噪が、耳の中に入ってくる。
「お、俺は…」
と、自分でも不思議な感覚に戸惑っていると、その頬が涙に濡れている事が分かった。
その涙を彼女は、驚いた表情を浮かべて見つめていた。
「す、すまぬ…もう大丈夫だ…」
と、俺は周囲の人々に声をかけると、あらためて彼女に視線を向けた。
極力怖がらせないように、優しい視線を向ける。
「お主、名前を何と言う?」
彼女は、ぽつりとつぶやくように答える。
「杏… 吉岡杏…」
その後の言葉を継ぐように、吉治が続けた。
「この杏殿は、それがしが如水殿がご逝去された事を確かめに九州に赴いた際に、途中の山寺で倒れている所を、水と食事を与えて助けた者にございます。
その後、体力を取り戻したかと思えば、すぐに刃を己の喉にあてて死のうとするので、しばらく気力を取り戻すまでは、姉上…すなわち幸村殿の奥方様と、高梨内記殿の娘とか申す千姫様の侍女にお預けいたしております。
今日は少しでも気が晴れればと思い、ここまで連れだしたのですが…
もしお邪魔ということでしたら、それがしが大坂城まで送り届けます」
と、彼女の前に立って頭を下げている吉治に対して、俺は頭を上げるよう促した後、
「いや、よい。杏殿にもいてもらって構わぬ」
と、言った。
そしてあらためて彼女に向き合うと、
「杏殿…何があったかは聞かぬ。
しかしこれだけはお伝えしておきたい。それは一度大坂城に入ったからには守ってもらわねばならぬ条件じゃ」
と、表情を引き締めて話した。
その俺の表情に彼女は警戒したのか、視線を下に落として表情を暗くする。
そんな彼女に対して、俺は優しく告げた。
「笑顔じゃ。自然な笑顔が作れるようになるまでは、大坂城を出ていくことは許さんぞ」
俺自身が笑顔になって彼女にその顔を見せると、彼女は再び驚いた表情を浮かべる。
そして、最後に俺は彼女に、
「お主が笑顔になる事は、お主の閉ざした心を守っておられる老婆と老人のお二人も望んでおられるはずじゃ」
と、言ったのだった。
みるみるうちに、杏の顔がくしゃくしゃになると、その大きな瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。
涙とともに今まで抑えに抑えてきた感情が、とめどなく溢れてきたのだろう。
しかし、彼女はその場で号泣することも嗚咽をもらすこともなく、自身の袖で乱暴に涙をふくと、
「ありがとうございます」
と、気丈にも俺に頭を下げたのであった。
「では、そろそろ到着の時間でしょうから、急ぎましょう」
幸村がその様子が落ち着いたのを見計らって、俺たちを催促すると、港の方へと足を向けた。
すると、海の方を見つめた氏善が大声を上げる。
「おお!!見えてきましたぜ!!あの船じゃ!!おおーい!!」
と、一艘の大きな船に向けて、大声を上げて手を振りながら駆け出した。
みな一斉に氏善の背中を追いかけていく。
俺も先ほどまでのどこか重々しいやり取りから、すぐに気持ちを切り替えて、その船を見つめると、
「いよいよだ!いよいよ帰ってきたんだ!!」
と、興奮しながら、その船の停留所に向かって走ったのだった。
そう…あの船に乗って、堺の港に帰ってくるのは…
『豊臣七星』のうちの一人、明石全登。
豊国学校の人材集め、という長い旅路を終えて、この日ようやく帰国してきたのである。
そして彼の帰国は、すなわち『豊国学校の完成』を意味しているのであった。
 




