1通目の書状
◇◇
慶長5年(1600年)8月26日――
とある偉丈夫が、大坂から遠く離れた城の奥に一人で佇んでいた。
その雰囲気は他を寄せ付けないほどに静かな怒りに満ちており、結ばれた口元と閉じた目元にははっきりと無念さが浮かんでいる。
いつでも出陣できるように…であろうか。甲冑姿に身を包み、傍らには大きな槍が置かれていた。
しかし本来であれば遥か東の関ヶ原で振るわれるはずのその槍は、謹慎の名の元に九州に置かれた主人とともにその刃を虚しく光らせるより他なかったのである。
広い部屋に聞こえるのは、秋を感じさせる風の音のみ。
そんな爽やかさを感じさせる季節を迎えようかという中、部屋の中の熱気は、そこが火の国と呼ばれるにふさわしい程の無念の熱気に包まれていた。
そんな静寂をさくように、1通の書状を持った大柄の一人の男が大きな音を立てて、その偉丈夫のいる部屋に入ってきた。
彼は薄目を開けて、その男が誰かを確認する。
しかしすぐに目を閉じると、男を静かな口調でたしなめた。
「なんだ覚兵衛…あわただしいぞ」
「はっ…これは失礼いたしました」
しかし肩で息をしているその息使いは、その書状が重要人物からのものである事は、目を開かずに耳を立てているだけで明らかだ。
「主計頭様、これを…」
覚兵衛と呼ばれた男は手にしている書状を差し出した。
さすがに目をつむったままでは書状は読めぬ。彼は少々だるそうに目を開くと、書状を手にした。
差し出された書状…その送り主の名前から確認する偉丈夫。
彼はそれを確認すると、それまでの表情を一変させた。
気だるそうな雰囲気は一変し、自然と背筋が伸びている。
そして爆発音のような大きな声で覚兵衛を問いただした。
「な、なんと!!秀頼公だと!?覚兵衛!!これは誰が持ってきた!!」
「はっ!!なんでも霧隠才蔵とか申す忍者の組頭の者の手のものです!」
「霧隠だと…ふむ…どこかで聞いたような…」
そう悩んだのも束の間、すぐに書状を広げて目を通す。すると見る見るうちに大きな目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
とある事件をきっかけに感情をあらわにすることがなかった覚兵衛の主人である偉丈夫。
しかしそんな彼が人目もはばからずに、ほろほろと涙を流している様子に、覚兵衛はひどく驚いた。
「か、主計頭様…いかがなされましたか…」
「これを読んで泣かずして、俺は奉公していると言えるのか」
と、彼は読み終えた書状を覚兵衛に手渡した。その手は震えている。
よほど大事だったに違いない、そう感じた覚兵衛も急いで目を通す。そんな彼にもうっすらと目に涙がたまってきた。
「これは…なんとしたことでしょう…ああ…おいたわしや…
主計頭様…いかがなさるおつもりでしょう?」
「愚問だ!覚兵衛!!すぐに隈本を発つ!急ぎ準備をいたせ!」
「御意!!」
そう指示を出すとともに、主計頭――加藤主計頭清正は、その大きな体からは考えられないほどの機敏な動きで、傍らの兜と槍を手にすると、大股で部屋を後にした。
秀頼が送った3つの書状のうちの1通――その宛先は加藤清正であった。
加藤清正は現在徳川家康により「謹慎」を言いつけられた身である。
関ヶ原の戦いで奸臣石田三成を討ちたい、そんな気持ちを封印し、彼は苦悶のうちに日々を過ごしていた。
しかし彼に届いた書状は封じられた彼の感情を爆発させるには十分な内容だったのである。
その書状には、こう書かれていた。
――
今私は毛利大納言(毛利輝元のこと)に「庇護」という名目の元、大坂城に人質のように囚われています。
「石田冶部危うし」となった場合、この身はどうなるのか、不安な毎日に夜も眠れず過ごしております。
ああ、ここに主計頭殿がいらしたら、どんなに心強かったものか。
御身は内府殿の預かりという事を承知の上でお頼み申す。
どうか私を救いに大坂城まで急行してはくれまいか。
その際は山陽道を通り、必要とあらば毛利大納言の城を攻めよ。
――
囚われの身を嘆く哀れな少年の姿が目の内に浮かんできそうな内容。
そして宛先である加藤清正への強い信頼が伝わる懇願。
この文を読んで心が動かないほど、加藤清正という人間は冷酷ではなかった。
主君の為なら火の中、水の中どこへでも駆けつける程の熱烈な忠義心が、彼の行動を即座に決定付けたのであった。
かくしてここに歴史は動いた。
本来であれば黒田如水と連携して九州の反乱分子を抑えていくはずの加藤清正は、山陽道を通り大坂城へと兵を進める決意を固めたのである。
それは「加藤の毛利攻め」を同時に意味していた。
慶長5年8月29日――
名城である隈本城の敷地内に加藤清正の大いなる忠義の魂の言葉が響き渡っていた。
「みなのもの!!よく聞け!!ここが忠義の見せどころ!亡き太閤殿下のご厚意に報いるのは今を失くしていつ訪れよう!」
「おおお!!!」
彼のもとにいる軍勢は約3,000人。一見すると寡兵に見えるが、朝鮮の役でも活躍した精鋭たちばかりである。それに行軍速度と距離を考えると、この人数が限度であった。
残りのうち2,000人は森本儀太夫という加藤三英傑のうちの一人が率いて、隈本城の南に位置する宇土城への攻撃にあてることにした。
ここは西軍に属する小西行長の居城であり、謹慎中に徳川家康より攻略を命じられた城でもある。
彼は豊臣秀頼と徳川家康の二人の顔を立てるよう、その兵を分割したのであった。
なお加藤三英傑の残りの二人、飯田覚兵衛と庄林隼人は加藤清正とともに大坂を目指すことになっている。そして約1,000人の兵は守備兵として隈本城に残ることにしたのだった。
これで全ての準備は整った。
書状からわずか3日のうちに準備が整ったところから見ても、いかに加藤清正が関ヶ原での大戦に参加したかったかがうかがいしれよう。彼はいつ出陣の下知がくだってもいいように、常に準備を怠らなかったのである。
今、火の国熊本はその名に恥じない熱気に包まれていた。
そしてその熱気は、一人の男の出陣の合図とともに大きな炎となり一団を包んだ。
「みなのもの!!!進めぇ!!」
加藤清正動く――
この時、一人の間者がその情報を持って、熊本から大坂城に向けて音もなく去っていった。