悠久の時を超える石
◇◇
――ピッ…ピッ…
一定のリズムを刻んだ機械音が、とある部屋に響いている。
無機質な白を基調としたその部屋のちょうど真ん中のベッドに、一人の少年が横たわっていた。
ここはとある病院の一室。時代は、現代。場所は日本。
すやすやと寝息を立てたその少年の様子は、まるで長い夢の中にいるようにしか思えないほどに穏やかで、病に冒されているような悲壮感はその表情からうかがい知ることは出来ない。
そして、その隣の椅子に座っている彼の母親もまた、春のうららかな陽射しに当たりすぎたせいか、うつらうつらと頭を上下に揺らしていた。
春の夕刻は、病院の中をオレンジ色に染めている。
そんな病院の廊下を、一人の少女が高い足音を響かせて歩いていた。
その少女の表情は決して明るいものではない。
それでも彼女は一つの希望を胸に抱きながら、この廊下を歩いていたのである。
――今日こそは目を覚ましてくれるのではないか…
と…
――ガラガラガラ…
扉が開けられたその音に、少年の母親は、ふとその意識を戻した。
「あら?麻里子ちゃん。今日はずいぶんと早いのね」
と、母親らしい優しさをそのまま口調にのせたような声で、その少年の母親は少女に向かって声をかけた。
「はい、おばさん。たっちゃんの様子はいかがですか?」
と、少女は開口一番、横たわる少年の様子をうかがった。
「うーん、今日もだめみたい」
「そうですか…
あっ…これママからです。おばさんとおじさんによろしくって」
と、少女は少年の母親に対して、彼女の母親の手作りのクッキーの入った包みを手渡した。
「いつもいつもありがとね」
「いえ、せめてこれくらいの事しか出来ませんから…」
と、少女は肩を落とす。
「ほら!太一!今日も麻里子ちゃんが来てくれたわよ!!」
と、穏やかな表情で横たわっている少年に向けて母親は、少しだけ声の調子を強めて話しかけるが、少年は全く反応を示さない。
――ピッ…ピッ…
という機械音だけが、虚しく部屋の中に響くだけだった。
「ごめんね…どこも体は悪くないようなのだけど…意識だけが戻らないのよ」
と、少年の母親は、この時初めてその表情に影を落とした。
その様子に少女は、少年の母親を励まそうと、わざと明るい声で言った。
「たっちゃんは昔から寝るのが好きでしたから!ちょっとだけ長くて深い眠りについているだけかもしれませんよ!」
少女の気遣いが、少年の母親の心にしみる。
「ふふ、麻里子ちゃんはいい子ね。ありがとう。麻里子ちゃんのおかげで、おばさん元気が出てきたわ」
頭を下げる少年の母親に対して、少女は顔を赤らめると、懸命に手を振った。
「いえいえ、そんな私は…
今日は一人で帰ります!暗くなる前に家に戻れそうですので!」
「はい、ではお母様とお父様によろしくね」
「はい!ではさようなら!」
「さようなら」
と、少女は最後まで元気な姿を繕って、部屋の外に出た。
そう…
部屋で横たわっていたのは、近藤太一。
彼が彼の家の玄関先で突然倒れたのは、この日から4日ほど前の事であった。
誰かが倒れた大きな音に、隣の家に住む彼の幼馴染の八木麻里子が気付き、倒れた彼を見つけた時には既に意識を失っていた。
急いで病院に運ばれたものの、彼は意識を取り戻すことはなかった。
その後、体のすみずみまで検査したのだが、意識が戻らない原因は全くの不明。
呼吸も落ち着いている為、今は腕に大きな点滴を刺しただけで、その他の医療器具は特に取り付けられていないのだ。
病院の外に出た麻里子は、深いため息をついた。
その表情は、病室にいた時とは比べ物にならないほどに暗い。
誰もいないバスに乗り、その病院が遠く見えなくなったところで、彼女はハンカチを手に顔を覆った。
――どうして…どうして意識が戻らないの…
と、彼女は太一の戻らぬ意識のことを想い、涙にくれる。
――あの時、もう少し私が一緒にいてあげられていたら…
彼が倒れたのは、彼女と家の前の道で別れたその直後だったのだ。
その倒れた時に、もし彼女が一緒にいたなら、もっと早く応急処置が出来たのではないか、と彼女は悔やんでいたのである。
しくしくと彼女が声を殺して泣くその声は、バスの運転手までは届いていないだろうが、その姿は誰がどう見ようとも、胸を痛めて泣き続けている哀れな少女そのものであったのだった。
…とそんな時であった…
「どうして泣いているの?」
と、麻里子のすぐ横から、可愛らしい少女の声が聞こえた。
しかしバスはどこかで止まった形跡はなく、誰もいないはずの彼女の隣の席からしたその声に、彼女は思わず泣きやんでその方を見た。
そこには…
フードを深くかぶった女性の姿。
「あなたは…誰?」
と、麻里子は恐怖を押し殺して、震える声でたずねた。
「…言えない…」
「そう…では、何をしに来たの?」
きっと幽霊か何かを見ているのだ…と、普段はそんなものを信じない麻里子であったが、今は信じざるを得ない。なぜなら目の前にその姿がはっきりと映っているからだ。
「訊きに来たの」
「何を?」
その麻里子の問いかけに、謎のフードの女は一呼吸置いた。
そしてその言葉に、麻里子の目は大きく見開かれ、さながら時間が止まったような感覚に襲われたのである。
それは…
「彼に会いたい?」
というものだったのだ。
眩暈を覚えた麻里子であったが、何とかそれを踏みとどまると、問い返した。
「彼…って、誰のこと?」
「秀頼様…いえ、ここでは近藤太一」
さらに強い刺激が麻里子の脳をぐらりと揺らす。
「なぜ、あなたがたっちゃんのことを知っているの?あなたは一体何者なの?」
と、麻里子はその口調を強めて問いかけたが、女は首を横に振るだけで、その質問には答えなかった。
「答えて…彼に会えないから、あなたは毎日泣いているの?」
再度問いかける謎の女に対して、麻里子は…
首を縦に振った――
そしてそれでも気丈に感情を押し殺すように、麻里子は謎の女に向けて、静かに言った。
「会いたいよ…会って元に戻るように叱ってやらなきゃ気が済まない…気がすま…ううぅ…」
と、最後は言葉にならずに泣き声にまぎれる。
そんな彼女の様子を見て、謎の女は言った。
「秀頼様は…彼は『みなを笑顔にしたい』と言ってた。でもいつも彼の側にいたあなたが笑顔ではなく、毎日泣いてる…」
「何なのよ!!秀頼って何よ!たっちゃんと秀頼って言う人が何か関係があるっていうの!?もう訳分からないよ!!」
と、麻里子はとうとういら立ちを爆発させるように、バスの中で大声を上げた。
しかしバスは動いているかも怪しい、なんとも不思議な空間の中に彼女は存在しており、その運転手の姿は見えない。
そんな取り乱す麻里子に対して、謎の女は淡々と言った。
「秀頼様…豊臣秀頼様は今は近藤太一と同一人物」
「豊臣秀頼…?あの豊臣秀頼が…?何を言っているの??彼は四百年以上も前に亡くなっているじゃない!?」
「その悠久の時を遡って、近藤太一は秀頼様の中で生きているの」
「どうして?」
「わらわが見つけて、彼が望んだから」
「あなたが見つけた?たっちゃんが望んだ?」
その問いかけに謎の女はこくりと頷いた。
あまりに非現実的な物言いに、麻里子は全く信じられない状態であったが、もはや太一の意識を取り戻すには、この謎の女に頼るより他ないような気がしてならなかった。
「どうすれば…どうすればたっちゃんに会えるの…?どうすればたっちゃんの意識を戻せるの?」
その問いかけに謎の女は、きゅっと唇を噛んだ。
そして…
「秀頼様は…あなたの笑顔も望んでらっしゃるはず…だから、わらわはあなたを笑顔にする為に、あなたを彼に会わせる」
と、どこか悲壮な決意を込めてその女が言った。
麻里子はぐっと拳を固く握る。
そして女は続けた。
「でもいくつか条件がある。
一つは、もしあなたが彼に会いに行けば、今ここにいるあなたは意識を失う。近藤太一のように…それでもいい?」
「でも、たっちゃんと私が一緒にこっちに戻ってくれば、二人とも意識を取り戻せるのでしょ?」
「うん…」
「なら、それでいい!でも意識の戻し方を教えてくれなきゃ困るわ!」
「うん…これを…」
と、謎の女は一つの綺麗な石を取りだして、麻里子に渡した。
「これは…?」
「この石を強く握って願えば、悠久の時を超えられる」
「じゃあこれをたっちゃんと一緒に握れば、この時代に戻ってこれるというわけね」
その問いかけに、謎の女は、小さくうなずく。
そして麻里子は決意を固めたように、表情を引き締めながら言った。
「じゃあ、始めてちょうだい!その悠久の時を超えるとやらを!」
「待って!一つだけ条件がある!」
「条件って何?」
すると謎の女は、麻里子に訴えかけるような切ない声で懇願した。
「必ず皆を笑顔にして!お願い!秀頼様に関わる皆が笑顔になったら、その石を使って!」
その言葉は、麻里子の胸に深く刻まれる。
フードを深くかぶっているため、表情は全く分からないが、その瞳には光るものを浮かべていることは、容易に想像がついた。
そんな謎の女の、切なくて、悲しくて、どうしようもならないその想いに、麻里子は「なんとしてもその願いを叶えてあげたい」と、燃えるような使命感を心に秘めたのである。
――彼女… もしかしたら…
と、この時点で一つの予感が、麻里子の頭の中をよぎった。
しかしそんな事は、今目の前の、触れたら壊れてしそうなほどに、儚い女性の想いには全く関係のないことであり、彼女はそれを胸にしまった。
そして、彼女は小指を謎の女に差し出す。
「なに?」
「小指を出して」
恐る恐る謎の女が、小さな小指を差し出すと、麻里子はそれを自分の小指と結んだ。
「指きり!必ずその願い、私が叶えてあげる!任せてちょうだい!!」
と、驚きを隠せない謎の女に対して、力強く麻里子は言ったのだった。
そして…
八木麻里子は、病院からの帰りのバスでその意識を失った。
それは、彼女が悠久の時を超えて、近藤太一のいる時代へと旅立っていったことを意味していたのであった。




