第二次柳川の戦い㉖ 瞳の色
◇◇
大友義統が徳川勢に寝返ると、彼の側近である泰巌は、三千の兵を率いて、高良山の麓をつたい、飛岳を、立花宗茂の背後を取るようにして進んだ。
小高い飛岳の麓からは、少し離れた久留米城前の戦況も何となく分かるため、立花宗茂は大友義統が寝返ったこと可能性が高いことを予感していた。
そして、その一軍である泰巌率いる軍勢が姿を消していることも気づいたのである。
既に本多忠勝は軍を引き、由布惟信が当たっている榊原康政の軍も潰走を始めている。
しかし、十時連貞が相対している若い奥平家昌の軍は、まだまだその士気は衰えておらず、立花四天王の一人である連貞相手に互角以上に戦っていた。
その上で消えた泰巌の軍から奇襲を受けようものなら、大きな痛手を食うだろう。
先の戦いで、泰巌の高い用兵術のことを宗茂は知っており、それを脅威に感じていた。
それに、先ほどの本多忠勝との一騎打ちで、立花宗茂個人の消耗が激しすぎており、一旦態勢を立て直したいというのが、彼の本音であった。
そこで彼は苦渋の決断を下したのである。
「皆の者!高良台まで退く!そこで島津殿と合流するのだ!」
と、号令をかけたのだった。
………
……
黒田如水は、千五百の兵を率いて、徳川秀忠の一万五千の軍の目の前で陣を敷いた。
そして彼は、一人で徳川秀忠を訪ねたのだった。
「やあ!黒田殿!よくぞ来られた!」
と、徳川秀忠は、いつもと変わらぬ笑顔で如水の来訪を迎えた。
ーー相変わらずよく分からないお方だ…
と、如水は秀忠の喜びに満ちた顔を見て、以前と変わらぬ印象を持った。
ちらりとその秀忠の横にいる本多正信の方を見ると、彼は警戒心を前面に出している。如水にとって、この正信の表情の方が、見ていて安心させられるものだ。
ーー右大将はこたびの戦の状況を把握されていないのか…?
そんな風にいぶかしく思っていると、秀忠が明るい声で切り出した。
「われは父上の申しつけの通りに、柳川城の開城から始めようと軍を進めたのだが、見ての通り立花や島津らの抵抗が激しくてな。
こんな時に黒田殿の神算があれば…とちょうど思っていたところなのだ!
ささっ!この若輩者のわれに何か献策をしておくれ!」
如水をじっと見つめる秀忠。その瞳は期待に輝き、如水のことを『敵方』などとは一切考えていないのであろう。
如水はこの瞳が苦手であった。
人はその瞳のどこかに必ず「醜さ」を隠し持っていると、如水は信じていた。
それは、相手に媚びて、騙して、そして時には恐喝してでも、自分の利益を得ようと、誰しも考えているということだ。
もちろん程度の大小はあろう。それでも、例えいかなる聖人君子であっても、それらは必ず隠し持っているものだ。
しかし目の前の徳川秀忠という人間はどうであろう。
彼はいつも媚びない、騙さない、そして高圧的に脅してくることも決してない。
それは自分の利益を追求しているのではなく、自分の属している徳川家という組織の利益のみを求めており、その為に聞きたいことを聞き、話すべきところは話すという、どこまでも合理的に思えたのだ。
ーーまるで人形を相手にしているようじゃ…
そう…言わば、秀忠は人間的でない。
常に同じ色で同じ温度。
しかし如水は人間が好きなのだ。
会話の内容で変わりゆく、相手の瞳の色や温度を感じることを、こよなく愛しているのである。
ーー面白くないのう…
如水はいつしかのように再び心のうちで舌打ちをすると、覚悟を決めて、ぐっと腹に力を入れた。
ーーその色をわしが変えてみせようではないか…
と、まるで挑戦者のような心持ちで、彼は秀忠に語り始めた。
「右大将殿もご存知の通り、ここ久留米を舞台として、大規模な戦が始まってしもうた。
戦は苛烈を極め、わしの見立てでは双方に多大な被害が出ておる」
そこで一旦話を切って、如水は秀忠を見た。
秀忠の表情は曇っているが、その瞳の色は全く変わっていない。
「それは悲しいことだ…」
と、取って付けたかのようにいかにも悲しげに秀忠は漏らす。そんな彼の反応すらどこか人間味を感じない。
如水は続けた。
「その上悪いことに、戦況は右大将殿にとって思わしくございませぬ。鍋島殿は龍造寺に足止めされ、島津が大軍を率いて右大将殿の陣に向けて接近し、その上本多殿や榊原殿といった徳川家の誇る猛将たちは立花によってもはや虫の息。さらに右大将殿のすぐ背後には既に大友の軍が迫っておる」
再び話を切る如水。
――全てお主が仕組んだ結果ではないか!
と、さながら掴みかからんばかりに殺気を送る本多正信の視線が、如水にとっては、むしろ心地良い。
だが、当の徳川秀忠は、ただ悲痛な面持ちを浮かべており、その上その瞳の色は、如水に対する期待感に溢れていることに変わりはない。
如水は苦々しく思い、語気を強めて続けた。
「さらにここ九州には、本来源氏の長者として仕置きを下す徳川内府殿がおらぬ始末。
右大将殿。こうなっては、戦況の上でも、戦を続ける大義の上でも、どうにかなるものではございませぬ」
「そうか…日の本の張良とも言える、黒田殿でもどうにもならんのか…」
と、秀忠は肩を落としながら漏らした。如水はその様子に相変わらず面白くない顔で冷たい視線を向けている。
そして、一呼吸おいて、ひと際大きな声で宣告した。
「ついては、これ以上いたずらに戦を続けて兵を減らすことは、下策と言えよう。
内府殿が来られない以上、一旦兵を九州から退かれたらよろしい。
あとの事は、この黒田如水が豊臣秀頼殿の名代となって、裁こうではないか。
立花や島津には戦を起こした責任も取ってもらわねばならぬゆえ、より一層厳しい態度でのぞむゆえ、徳川殿は九州から手を引いてくだされ」
この如水の言葉は「九州は豊臣が治める」と言っているに等しいほどに、大胆な発言であった。
それも全く瞳の色が変わらない秀忠を揺さぶる為であることは言うまでもない。如水は、じっとその瞳の色が変わる瞬間を待った。
胸の動悸が早くなる。
――さあ、どうじゃ!!
と言わんばかりに余裕の表情を秀忠に向けて、その時を待っていた。
しかし…
秀忠の瞳の色は全く変わらなかった…
その瞳を見て、如水の胸の内はますます燃え上っていたが、同時に焦りのようなものも生まれ始めていた。
――なぜ変わらぬ… なぜなのじゃ…
そんな如水の困惑など全く気付かぬまま、秀忠は表情を引き締めると一つの決断をくだした。
「では仕方あるまい。
鍋島殿が道を開くのを待って、再び柳川城へ軍を進めよう」
その決断に如水は思わず反論した。その如水の瞳は、彼が言う人間味に溢れるほどに色を変化させているのを、彼は気付いているだろうか。
「右大将殿!それはなりませぬ!今動けば大友が背後から襲ってくるでしょう!そうなれば前方に待ちかまえる島津と挟撃に合い、さらに立花から横やりを入れられれば、それで右大将殿の軍は壊滅してしまうに違いありませんぞ!
即刻兵を退いて、九州から出ていくべきじゃ!」
顔を真っ赤にして如水は唾を飛ばす。
しかし、その如水を見つめる秀忠の瞳は、全く色がない。
それは如水の言葉を持ってしても、彼の鉄の意志が全く揺らいでいないことを意味しているに他ならない。
「黒田殿。例え戦況が不利であっても、われは父上からの『九州の仕置きは任せる』という命に背くわけにはいかないのだ。
われは源氏の長者である父上の、言わば家臣である。
家臣が君主の命に従わずに、勝手に戦場を離れるなど、どの道理を持って説明できようか」
「そのお父上である徳川内府殿は、天下を治める豊臣秀頼様の家臣とも言えよう。
その秀頼様の名代であるわしが、『兵を退け』と申しておるのじゃ。
それに右大将殿は背くつもりなのか?」
如水の豊臣家を盾にとった脅しとも言える言葉に、秀忠の傍らの本多正信は、意外そうに如水を見つめた。
――焦っておるな…黒田殿は…
と、正信は如水の心を見透かしていた。その彼の考える通り、自分の言葉に全く動じる様子がない秀忠に対して、如水は焦っていたのだ。
なぜなら…
――この男… 必ずやいつか豊臣秀頼様の脅威になるであろう…
と、この時確信していたからである。
その為、なんとしてもここで秀忠に「失態」を侵してもらわねばならなかった。
徳川家の跡継ぎである彼の失態は、そのまま徳川家の信用を落とすことも意味する。しかし、それはあくまで副次的な目的だ。
真の目的は、ここで徳川秀忠という男が脅威である大きな要因とも言える、その瞳に一切見られない「色」を与えることであったのだ。
なぜならかつての彼の君主である豊臣秀吉は、相手の瞳の色を自分色に染めてしまうことの天才であり、その類まれなる能力を幼い豊臣秀頼にも垣間見れていたからだ。
しかし、その瞳にそもそも色がつかない相手であれば、その能力を活かすことは出来ない。
そのような人物など、この世にいるものか…と高をくくっていた如水であったが、それに当たる人物が目の前におり、しかもその彼が豊臣家にとっては最大の障壁となるであろう、徳川家の跡継ぎなのだ。
如水にとって、秀忠と対峙するのは、この九州の件が最初で最後であろう。
――この機会を逃せば、二度と訪れることはない…
その事が如水を焦らせ、脅しとも言えるような拙い言葉となってしまったのであった。
そして、その言葉に対して秀忠は、全く動じることなどなく、堂々とした態度で答えた。
「黒田殿。先ほど申し上げた通り、われは父上の家臣であり、例え父上が豊臣秀頼殿の家臣であったとしても、われにとっては、豊臣秀頼殿は命令をうけるべき君主ではない。
武家の棟梁たる源氏の長者である徳川家の一員であるわれが、この順逆を犯して、天下に示しがつくであろうか。
黒田殿の言う通り、今のままでは、われの軍は窮地に立たされ、多くの兵を傷つけてしまうことになるかもしれない。
それでも目先の利にとらわれて、守るべきことを守らずに逃げ帰るくらいなら、われは父上の目指す天下泰平の大願成就の為にこの意志を貫き、一時の屈辱を味わうことを選ぼう」
「それによって右大将殿のお命が危ういものになっても…ですかな?」
と、如水の目が怪しく光る。その目を見た本多正信と、この頃徳川秀忠の護衛役であり、兵法指南を担っていた柳生宗矩の二人が、如水の目の前に立ちはだかった。
一触即発とも言えるその空気…
それでも、秀忠の瞳は無色のままであった。
「本多佐渡殿に柳生但馬殿。何も心配などいらぬ。黒田殿にわれを害する理由などないではないか」
その言葉に二人は元居た場所に戻る。
再び秀忠と如水の間に空間が生まれると、如水は秀忠の次の言葉を待った。
そして秀忠は、相変わらず淡々とした口調で続けたのであった。
「もし…もしわれがこたびの戦で命を落とすことになろうとも、それが天下泰平の世を作る道筋に反するものでなければ、それは仕方のないことだ。
われ一人の命で徳川の家が騒ぎになるようであれば、徳川はそれまでの家であり、天下を支えるにはふさわしくない、ということであろう。
ゆえに、われはわれが成すべきことの為に、真っすぐと進むだけである」
その言葉に如水はついに観念した。
――この男… 強い…
そう思うと同時に、如水は一つの決意を固めた…
――この戦で亡き者にせねばならぬ…
そして如水は、秀忠に対して訣別とも言える選択を迫ったのであった。
「そうか… ではどうしても柳川城に兵を進めるということであれば、目の前に陣を張ったわしの軍を蹴散らしてから進まれるとよい。
じゃが、もしわしの軍を攻撃したならば、それは徳川が豊臣に弓を引いたことを同じになるが、それでもよいのだな?」
「その理屈は通りませんぞ、黒田殿。
天下泰平と九州の平和を思って、豊臣秀頼殿の代わりに仕置きを決めている父上の意向に反したとなれば、われは天下に背いた者として、黒田殿を裁かねばならぬ。
秀頼殿もそんなことは望まれておられないであろうに…
考え直しておくれ、黒田殿」
全く色のない瞳…それは言い方を替えれば、透き通って濁りが全くない、ということだ。
その瞳の色は、その言葉に乗り移る。
如水を諌め、そして心配するその秀忠の言葉には、虚飾など全く感じられない。
――わしの完敗じゃ…
と、先日味わったばかりの敗北感を再び同じ相手に抱いたのであった。
…と、その時であった…
「申し上げます!!」
と、一人の若い兵が、何かに駆り立てられるような大声を上げながら、その陣幕のそぐ側まで駆けてきた。
秀忠はその声の方を見ると、通る声で答えた。
「なんだ!?申してみよ!」
「はっ!!」
と、短く答える若い兵。
しかし次に発せられた彼の言葉は、如水の悲壮な決意を奈落の底まで突き落とすような、凄まじい衝撃となったのである。
「敵方の大友義統殿が寝返り!!
右大将殿のお背中を守る為に、藤堂殿らの軍と合流したとのこと!!
右大将殿にご報告差し上げたいと、ここまで来られております!!」
その報告に秀忠の顔色が喜色に染まった。
「おお!そうであったか!!よし!通せ!!」
「右大将殿!お待ちなされ!もし、それが偽りであったなら…」
と、思わず正信が口を出す。
「偽りなどではない!!戦の始まる前から徳川内府殿より指示を受けていたのだ!」
と、陣幕の外で声がしたと思うと、大友義統がその手に一通の書状を持って、その中に入ってきた。そして、それを秀忠らの前に出す。
「おお!これは確かに、父上からのものだ!よくやってくれた!大友殿!!」
「はっ!ありがたきお言葉にございます!
既になおも抵抗を示した吉弘統幸、吉岡杏の軍勢を討ち果たし、わが家臣の泰巌が、立花宗茂の背後をつくために動いております!
どうか右大将殿におかれましては、安心なさってそのお役目を果たしてくださいませ!」
と、大きな声で言うと、驚愕に未だ目の焦点が合わない如水の方をちらりと見た。
「これはこれは、九州取次の黒田殿ではございませんか。
こたびの戦では、随分と派手なご活躍でございましたな…」
と、如水に小さな声で言った。如水は額に汗を浮かべながら、義統の目を見る。
――この色じゃ…
そこには如水が秀忠に求めた、野心と欲望に満ちた色にあふれていた。
「派手な活躍…?どういうことだ?」
「ほぅ…右大将殿にはご報告されておりませんでしたか…黒田殿が、こたびの戦で果たしたお役目のことを…」
と、義統はニタリと口元を歪めて答えた。
「では…それがしはここで…」
と、如水が逃げるようにしてその場を離れようとした、その時であった。
如水の心を、完全に打ち砕く報告が、再び陣幕の外から聞こえてきたのであった…
「鍋島直茂殿と寺沢広高殿が敵軍を撃破!!柳川城までの道が開けました!!」
――まだだ… まだ島津がおる…!
と、心の中ですがるように唱える如水。彼はその報告で意気が上がる秀忠の目を避けるようにして、陣幕の外に出た。
そのすぐ後に如水と、また別の若い兵がすれ違う。
そしてその若い兵の報告が、如水のすがっていたものすら奪い去ったのであった…
「ご報告申し上げます!!島津義弘の軍勢が、突如現れた大軍によって、筑後川付近で足止めされております!!
既に黒田長政殿と細川忠興殿は兵を引きあげて、こちらに向かっておられるとのこと!!」
「よし!!これで全ての障害は取り除かれた!!!われは柳川城に向かうぞ!!みなのもの!早速進軍の支度を開始せよ!!」
――おおおおっ!!!
まさに大嵐が全てをなぎ倒して去っていくように、このわずかな時間で、如水が戦の前に積み上げてきたもの全てが粉々に破壊され、戦の形勢は、見事に逆転していた。
如水がこの陣屋を訪れる前に感じていた一抹の不安は、そのまま現実となって彼を地獄の底へといざなったのである。
如水は力ない足取りで徳川軍の外へ出た。
その視線の先には、彼の帰りを待つ、小さな軍勢。
徳川秀忠の軍一万五千の真正面に置いた黒田如水の軍、わずか千五百…
空は暗く、昼間だというのにまるで夕闇に包まれているようだ。
自然と彼の足は重くなっていた。
――ば…ばかな…これではまるで…
目の前が暗闇に覆われる如水に、晩秋の冷たい雨が容赦なくうちつける。
背後で熱に包まれて喊声を上げる徳川の兵たちをよそに、如水の周囲からは、びしゃびしゃという彼が雨に濡れた地面を歩く音しか聞こえてこない。
そんな如水の胸のうちに、ふと一つの疑問と、影が浮かんできた。
――なんじゃ…この違和感…これではまるで…
徐々に大きくなるその影…
――戦が始まる前から、結果が仕込まれていたようじゃ…
そしてその影がみるみるうちに、鮮明にその姿を現すと、半ば意識を失っていた如水は、その頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えたのだった。
――徳川家康…
ぎりっと如水は歯ぎしりする。
彼はようやく気付いたのだった…
全てはこの場にはいない徳川家康の思い描いた通りに進んでいたという事に…
如水を見降ろしながら高笑いしている家康の様子が胸に浮かぶと、悔しさのあまりに、噛んでいた唇から血がにじんだ。
しかし同時に、徳川家康と徳川秀忠との親子に対して、全く歯が立たなかった事を素直に認めざるを得ない現実を、彼は冷静に受け止めようと必死に心を落ち着かせていたのである。
そして彼は…
――負けじゃ…
と、最後はその顔を穏やかなものに戻し、自分の兵をまとめると、戦場から去っていったのだった…
◇布陣図
目まぐるしく変わっていく戦況…
しかしそれは全て徳川家康の手の内でした…
さて、緊迫した物語が続きましたので、次回は肩の力を思いっきり抜いていただけるような物語にいたしました。
私の好きな薩摩の人々のお話になります。
では、これからもよろしくお願いします。




