第二次柳川の戦い㉔ 久留米の戦い(9)
◇◇
遠い九州の久留米において、黒田如水の神算鬼謀によって、反徳川勢が優位に戦を進めている中、そんなことを知るよしもない伏見においては、相変わらず徳川家康と本多正純による問答が続いていた。
「もう平八郎(本多忠勝のこと)の話はこの辺でよかろう。
もう一つ聞きたいことはなんじゃ?早く言うてみよ」
家康は、話を早々に切り上げたい空気を前面に押し出すようにして、次の話題に移ることを正純に対して催促した。
すると本多正純は、微笑を浮かべて問いかけた。
「殿は右大将殿(徳川秀忠のこと)に、九州の仕置きにおいて、戦も含めて全てをお任せすることで、右大将殿に殿の後継者としての器量を身につけて欲しい、そう思われてらっしゃるのは、まことにございますか?」
その問いかけに家康は、表情を変えずに答えた。
「その通りじゃ。この九州の一戦を乗り越えれば、秀忠の自信になるじゃろう」
「それは嘘にございましょう」
家康の答えに対して、間髪入れずに正純が弾けたように言葉を発すると、家康の目が丸くなった。
「な…何を言うのじゃ…」
「殿は九州におらずとも、その戦の采配を取られているのではありませんか?」
その正純に問いかけに、家康は驚きに固まったままだ。正純は畳みかけるように続けた。
「いえ… 戦はもう始まる前にその決着がついておられたのでしょう。
ですから右大将殿は、ただ九州に赴けば、それでよかった…
そして九州の仕置きの件は、全て右大将殿のお手柄とすることができる…
いかがでしょう?
お答えによっては、それがしは伏見の付近に待機させている五万の兵を即刻召集して、殿とともに九州にたたねばなりませんが?」
「五万だと…わしが連れてきたのは一万五千ほどなはずだが…」
その問いかけには正純は答えない。その代わりに、自分の問いかけに答えてほしいと言わんばかりに、家康に対して鋭い視線を向け続けていた。
その視線をしばらく見つめていた家康は、ふぅと大きなため息をつくと、背後の机の上から二通の書状を持ち出すと、それを正純の前に差し出した。
それらにすぐに目を通す正純。その顔は、自分の想定通りの内容であったのか、少しだけ頬を赤くしている。
「ふふふ…これが真実であれば、伏見の兵は故郷に帰しましょう」
「ふん!元よりその必要がないわ!全く…」
と、ぶつくさとぼやき始める家康。そんな家康を、正純は尊敬の念をこめて見つめていた。
そして彼は、二通の書状を家康の前にそっと返した。
その書状の送り主は…
島津義久…
そして、もう一通は…
大友義統…
徳川家康は、誰よりも慎重な人である。それは、彼が何に対しても、誰に対しても期待などしていなかったとも言えよう。
そんな彼が、自身の息子に期待するはずもなかったのだ。
大博打など打つつもりなど、毛頭なかったのだ。
つまり…
全ては徳川家康の手の内で進んでいたのであった…
◇◇
「この戦の重心、吉岡杏が確かにとらえました」
脇大将である吉岡杏のこの一言によって、大友軍の進軍は開始された。
立花宗茂が本多忠勝らを飛岳まで引き付け、島津義弘の脅威に対して、徳川秀忠の両脇を固めていた黒田長政と細川忠興の両軍がぶつかりにいった今、徳川秀忠の周囲に大きな空間が出来た。
ーー細川が動いたその瞬間に、徳川秀忠の軍の背後を取り囲んでくだされ
これが黒田如水から、大友軍に出された指示であった。
しかし、その大友軍が陣を敷いた高良山のふもとには、藤堂高虎、加藤嘉明、池田輝政の三軍が、大友軍の動きを牽制するように陣を敷いている。
これではいかに大友軍が大軍であったとしても、簡単に動くことはかなわない。
そこで大友軍は、当主である大友義統の側近である泰巌の献策により、軍勢を分けることにした。すなわち、吉岡杏、吉弘統幸、泰巌、大友義統の四隊に分けたのである。そして、杏は徳川秀忠の本隊に急襲をかけ、統幸は久留米城の門前に軍を進めて徳川軍の退路を断つ。さらに、泰巌と義統の軍は、藤堂、加藤、池田の各軍を抑えつつ、義統の軍だけはそこから脱して、杏の軍を助けて、徳川本隊を攻撃する。このような策を、泰巌が立てたのであった。
行軍開始の合図は、脇大将である吉岡杏に委ねられ、慎重に状況を見極めた彼女は、いよいよその命令を発した。
吉岡杏と吉弘統幸の率いる軍勢は、その機動力を最大限高める為に、およそ千人ずつ。彼らの軍勢は、一気に高良山を駆け下りると、左手に奥平家昌と立花軍が戦っているのを見ながら、その勢いを落とすことなく、久留米城の方へと一直線に進んでいった。
しかし、藤堂、加藤、池田の各軍も歴戦のつわものたちが率いる軍勢である。みすみす彼女らの進軍を見過ごすわけがなかった。だが、それを見越して、大友義統の本隊が、ゆっくりと進軍を開始した。
それは、もし吉岡杏と吉弘統幸の軍勢の背中を追えば、その背後から強襲せんという、一種の脅しとなった。
「ぐぬ… これでは動けん…せめて大友義統は俺が食い止める!!」
と、池田輝政は唇を噛むと、大友義統の軍に向けて進軍を開始した。
それを見た藤堂高虎は…
「背中などいくらでもくれてやるわ!!それでも右大将殿はお守りいたす!!」
と、その軍勢の向きを、吉岡杏らに向けると、横にいた加藤嘉明の軍もそれに「遅れをとるまい」とならったのである。
藤堂軍二千と、加藤軍二千の、合わせて四千の軍勢が、吉岡杏らに襲いかかってくる。
それを見て、吉弘統幸が吉岡杏の横に駒を進めると、こう言った。
「藤堂と加藤の軍は、それがしが抑える!
杏殿は先を急ぎなされ!!」
その統幸の言葉に、杏はその大きな瞳を見開く。
「それでは四千の兵を相手に、吉弘殿はわずか千でお相手することになってしまいます!
であれば、われも共に戦いましょう!」
その杏の真剣な面持ちに対して、統幸は笑い飛ばした。
「ははは!心配ご無用!!
事前の打ち合わせ通りならば、それがしが戦っている間に、殿の軍がやつらの背後を叩くに違いありませぬ!
だからここは、それがしだけで充分だ!」
「しかし…」
それでも杏は心配に顔を曇らせている。そんな彼女に対して、統幸は声を低くして言った。
「今が勝負所じゃ。杏殿の軍が徳川の背後をつかねば、この戦の勝利はあり得ぬ。
それがしのようなちっぽけな老骨の心配に目を曇らせて、この戦の大局を見失ってはなりませぬぞ」
「は、はい!」
と、彼女は気持ちを切り替えて明るい声で答えた。その笑顔につられるように、統幸も表情を崩した。
「何せ杏殿は大友家の脇大将なのだからのう!
さあ、ここでお別れだ!
あとのことは頼みましたぞ!
この戦が終わりましたら、それがしに一献お付き合い願いましょう!ははは!」
と、統幸は最後の最後まで笑顔を杏に向けて、その駒を離していく。
「はい!約束です!一献酌み交わしましょう!おばば様を交えて!」
と、最後は杏も華のような可愛らしい笑顔を見せて、答えたのだった。
だが…
この時、杏は考えもしなかった…
「一献酌み交わす」この小さな約束が守られることが叶わないことを…
この軽い調子の別れの挨拶が、わずかの期間の付き合いではあったが、彼女の最高の相棒であり、よき理解者であった、吉弘統幸との今生の別れの挨拶となるなど…
「行かせるかぁぁぁ!!」
藤堂高虎が大声で叫ぶ。
それに答えるように、吉弘統幸も叫んだ。
「ここは通さんぞぉぉぉ!!」
藤堂軍が吉弘軍に、物凄い勢いで突っ込んだ。しかし、その勢いは完全にせき止められた。
「次は俺だぁぁ!!」
と、その後すぐに、加藤嘉明の軍勢が、藤堂軍と同じくらいの勢いで突っ込んできた。
ーードシャッ!!
と、人と人がぶつかり合う鈍くて大きな音がしたと思うと、加藤軍の勢いもそこで止められた。
「ここを通すわけにはいかんのだぁぁ!!」
こうして、吉弘軍、藤堂軍、加藤軍の三軍入り乱れての大乱戦が開始された。
その一方、吉岡杏の軍勢は風のごとき速度で進んでいった。
そして…
いよいよ徳川秀忠が率いる徳川本隊を示す、三つ葉葵の旗印が目の前まで近づいてきたのである。その徳川軍は如水が事前に想定した通りに、その進軍をやめて、筑紫平野の中に陣を構えていた。
そこで、そのすぐ背後に彼女は陣を構えたのであった。
「全て黒田殿のおっしゃった通りだわ…」
と、杏は如水の考え通りに全てが進んでいることに感心して、思わず言葉が漏れてしまった。
ーードクンッ…
天下一の軍師とも言える如水の軍略を目にして、彼女の心の中で熱い何かが燃えて波打つ。彼女自身も不思議なほどに、その溢れる気持ちが抑えられないのを感じていた。
「われも…われもいつかは黒田如水殿のように…」
理由は全く分からない。
それでも彼女は、神算鬼謀の使い手に憧れを抱き始めた自分がいることに、この時初めて気づいたのであった。
そして…
ーー徳川秀忠の軍が柳川城に向かって再び進軍を開始したその時、その軍の背後から急襲せよ
と、その次の指示を実行するその時を待ち構えることにしたのであった。
………
……
ーー鍋島殿が道を開くその時まで、一旦待機いたしましょう。その頃には、島津義弘の軍勢も、黒田長政殿と細川忠興殿の軍勢によって抑えられていることでしょう
その本多正信の進言を取り入れた徳川秀忠は、久留米城から少し離れた場所で軍を留め置き、最前線からもたらされるであろう吉報が届くのを、首を長くして待っていた。
しかし、そんな秀忠にもたらされる物見からの報告は、どれをとっても面白くないものであった。
ーー鍋島直茂殿が苦戦!戦線を押し戻されている模様!
ーー田中吉政殿の軍が潰走!一方の島津軍は無傷!
そんな報告の中でも、秀忠を最も驚かせたのが、
ーー本多忠勝殿が苦戦!!騎馬隊は壊滅状態で、本多忠勝殿は単騎で立花宗茂に突っ込んでいった模様!
という、徳川が誇る天下無双の本多の騎馬隊が、壊滅的な打撃を受けているという事であった。
明らかに自軍が苦境に立たされている中にあっても、どこか飄々としているその秀忠の雰囲気に、本多正信は、眉をしかめていた。
ーー右大将殿は何をお考えなのだ…?苦戦していることをご理解されていないのだろうか…それとも、苦戦を知っていながらも、周囲を心配させまいと、雰囲気作りをされてらっしゃるのか…
と、秀忠の態度に対して、不安と疑問が絡み合っていたのであった。
そしてこの戦況…
反徳川勢は、柳川城への進軍を予想していたとしか思えないほどに、的確に軍勢を動かしてきていることに、正信は敵ながら感心せざるを得なかった。
ーー天下一の軍師…彼に違いあるまい…
と、その軍略が黒田如水によってもたらされているであろうことは、正信にとっては火を見るより明らかであった。
しかしそんな反徳川勢に対して、徳川勢は策もなく、後手後手に回っているだけであった。
本来であれば、徳川勢の軍師とも言える本多正信が、相手の出方をいち早く察知して、秀忠に献策すべきであろう。
現に今にしても、この徳川秀忠軍の背後には、大友軍の一隊とも言える軍勢が陣を構えて、虎視眈々と背中からの強襲を狙っているようだ。
それでも正信は策を披露することはしなかった。
それは…
ーー佐渡よ…こたびの九州の仕置きの件、もし戦になっても、一切秀忠に口出しをしてはならん
と、徳川家康からの書状を得ていたからであった。
ーーしかし、このままで本当に大丈夫なのだろうか…
正信は家康を疑うつもりは全くないが、それにしても徳川勢にとっては『窮地に追い込まれた』と言っても過言ではない状況であり、さすがの彼であっても少なからず焦りのようなものを感じ始めていたのであった。
しかし、当の総大将である徳川秀忠からは、正信が見たところでは、焦りのようなものは全く感じられない。それどころか、どこまでも戦況を楽観視しているようにしか思えないような、穏やかな表情を浮かべているのである。
ーー解せぬ…
という一言だけが、腹の底から漏れそうであった。
そんな中であった。一人の若い兵が、秀忠の前まで走ってやってくると、その場にひざまずいて、大きな声で報告してきた。
「申し上げます!!」
「なんだ?申してみよ!」
と、秀忠も大きな声で返す。その秀忠の口調には明るさを感じられるものであった。
「黒田如水殿が、右大将殿に謁見を求めて一人でお越しになられております!」
その報告に、正信の顔は真っ青になった。
ーーまさか…敵の影の大将とも言える如水殿が、一人で自ら来るとは…何か難癖でもつけてくるに違いない。絶対に会ってはなりませぬぞ!
と、正信は鋭い視線を秀忠に向けて、それとなく合図を送る。
しかし、秀忠は真っ青な正信とは正反対に、顔を興奮で赤く染めて答えた。
「おおおお!!如水殿が来られたのか!!
これは強い味方にお越しいただけたものだ!!
すぐに通せ!!早く会いたい!!」
「な…な…な…」
と、大興奮しながらそう指示した秀忠に対して、正信の開いた口は塞がることはなかったのだった…
ふと空を見上げれば、先ほどまではその半分を占めていた黒い雲が、いつの間にかその全てを覆い尽くしている。
ーーポツ…
「雨か…」
誰ともなくそう呟く。
この雨…
それはこの後に待つ悲劇を嘆く、天からの涙であろうか…
◇布陣図
次回は幕間になります。
立花宗茂と本多忠勝の一騎打ちの模様のみを描きます。
では、これからもよろしくお願いいたします。




