第二次柳川の戦い㉒ 久留米の戦い(7)
◇◇
田中吉政という男は、どこまでも人の良い男だ。そんな彼は、鍋島直茂と寺沢広高が最前線で激戦を繰り広げているのを、彼らの後方で見ていると、いてもたってもいられなかった。
「鍋島殿と寺沢殿の加勢にいくぞ!!」
だが、この徳川軍の柳川城への進軍を前に、本多正信から言いつけられていた事があったことを、この時の彼は頭の片隅にも残っていなかったのだ。
――鍋島殿と寺沢殿が道を開くまでは、むやみに動いてはなりませぬぞ
と…
これは、むやみに軍勢を動かせば、目の前の高良台に陣を敷く島津義弘につけいる隙を与えかねないと懸念されたからである。
しかし今、吉政の目の前には隣国で誼を通じた鍋島直茂の軍が苦戦を強いられており、吉政はそれを黙って見過ごすわけにはいかないと心に決めたのであった。
田中吉政は自ら陣頭に立つと、全軍に進軍を指示した。
「進めぇ!!」
大隈村(現在の久留米市梅満町付近)に陣を張っていた吉政の軍勢は、筑後川からは少し離れる形で南西に進む。しばらく行くと筑後川の支流である湯ノ尻川と呼ばれる小川に差しかかった。川が二手に分かれている場所にはそれぞれ橋がかけられている。後世では女橋と男橋と呼ばれた橋がかかっている場所だ。その橋を超えると、あたりは背の高い草が無造作に生えており、田中軍の視界を塞いだ。
なお…この辺りは後世においても、田畑として耕されることなく、現在に至っている。
なぜなら…
その場は江戸時代中期に処刑場であったからだ…
後世において多くの者が地獄を見たこの地…
だがなんという巡り合わせであろうか…
この地は、史実とは異なるこの久留米の戦いにおいて、田中軍にとっての地獄と変わることになろうとは…
それは田中軍がほぼその姿を背の高い草に覆われたその時から始まった。
――ドドドッ… ドドドッ!!
と、まるで心臓の鼓動のように、小気味よい拍子が地面から聞こえてきたことに、視界を遮られた三千の田中軍はざわついた。
――なんだ?この音は…?
――どんどん大きくなってくるぞ!?
「落ちつけ!!とにかく早く前進だ!!茂みから早く抜けるぞ!!」
と、軍の中ほどを進んでいた大将の田中吉政は大声を上げると、進軍の速度を上げるよう指示した。
――視界さえ広がれば、状況把握が出来る!
そう思っていたからであった。
しかし…
この判断が、田中軍にとっては致命的なものとなった…
「抜けたっ!!」
と、先頭を行く田中軍の兵たちが、茂みを抜けると、その視界が開けたことに、安堵の表情を浮かべる。
だが…
次の瞬間…
その表情は凍りついた…
目の前にはずらりと並ぶ軍勢…
その旗印は…
丸に十字…
島津の旗ーー
そう島津義弘の軍勢が高良台を恐ろしい速度で下ってきたかと思うと、次の瞬間には茂みから出てくるであろう田中軍に対して、鉄砲隊をずらりと並べて待ち構えていたのである。
島津軍が動いた理由…それは…
ーー田中軍が動いたらそれを叩き、徳川軍を分断してくだされ…
と、この前の日に、黒田如水が島津義弘に指示したからだ。
そしていよいよ茂みからわらわらと出てきた田中軍。彼らに対して、島津義弘が仁王立ちで睨みつける。
「うてぇぇぇぇぇぇい!!!」
その割れるような凄まじい大声で、久留米の秋空は震えた。その声と同時に島津軍の鉄砲隊から、強烈な破裂音がこだました。
ーードドドドッッ!!
放たれた無数の鉄砲玉は、茂みから出てきた田中軍の兵たちを安堵から絶望へと変えていく。
バタバタと倒れていく前線の兵たちの切り裂くような悲鳴によって、未だ茂みの中に残っている兵たちは大混乱をきたしていた。
なにしろ視界が遮られている中だ。冷静を保つ方が難しいと言えよう。
それでも大将の田中吉政は、努めて冷静に、大声で兵たちに指示を出した。
「茂みから出れば鉄砲の的になるだけだ!一度引けい!!」
小川の辺りまで引けば、茂みもその背が低くなり、相手の動向が掴めるはずだと考えた吉政は、島津義弘が待ち構えている方ではなく、反転して元来た道を戻り始めるよう指示をしたのだ。
しかし状況を掴みきれていない後方の兵たちは、相変わらず前進してきている。伝令を送ろうにも、人が密集し過ぎていて身動きが取れないのだ。
この状況に、田中吉政の背筋に冷たいものが走った…
ーー全滅…
言い知れぬ不安が頭をよぎると、彼は半ば本能的に、来た道でも行く道でもなく、筑後川の方へとその足を向けていたのである。
…と、その時だった…
ーーヒュン…
と、一本の矢が田中軍の真ん中に飛んで来た。
「おわっ!危なかった!」
と、空から降ってきたその矢を避けた兵が思わず漏らす。すると横にいた兵が、不思議そうにその矢の先端を見た。
「なんだこりゃ?先端に何かべったりと塗ってあるぞ?」
確かに何か塗ってあるようで、その液体は弓矢の飛来とともに乾いた地面と、茂みに吸い込まれていったのだった。
そんな矢が何本も飛んできたが、兵たちはそれらをことごとくかわしていく。
ーー島津の攻撃など恐れるに足りねえな!
ーーよし!早く体勢を整えて反撃するんだ!
と、田中軍の兵たちは未だその多くが茂みの中に取り残されているが、それでも『鬼島津』と呼ばれた島津義弘の攻撃に対して、無傷で回避できたことで、その士気は大きく高まったのである。
しかし… 次の瞬間…
一本の弓矢がそんな田中軍の真ん中へ向けて放たれた。
それを見上げた空に見た田中吉政は、自分でも驚くほどの凄まじい声で叫んだ。
「逃げろぉぉぁぉぉ!!!」
その声は人間の本能の部分に訴えかける。
兵たちは考えることなく、筑後川の方角に向かっていた田中吉政の方へと、一斉に駆け始めた。
…と、その次の瞬間ーー
その弓矢が茂みに入る…するとたちまち煙が立ち込めた。その弓矢は火矢だったのである。
ーー火だぁぁぁぁ!!逃げろぉぉ!!
兵の一人が声を上げると、秋の乾いた茂みの中はとたんに焦げ臭くなり、煙が充満しはじめた。
再び大混乱に陥る田中軍。
しかしそんな彼らの混乱をよそに、一気に火は燃え広がっていった。その異常なまでの勢いは、先ほど放たれた弓矢に油が染み込まれていたことを意味していたのだ。
秋の乾燥した空気も手伝って炎はまるで放たれた虎のように、その茂みを縦横無尽に駆けていき、逃げ惑う兵たちを飲み込んでいった。
そして筑後川の方へと逃げていった田中吉政の方へも火の手は容赦なく襲いかかっていく。
「急げ!急げ!皆、生き延びるのだ!!」
もはや島津軍と戦うことよりも、自分が生き抜く戦いに田中軍は追われていたのだった。
吉政自身もなりふり構わず、転げるように走り続けると、ようやく筑後川の河原までたどり着いた。
ここまで出れば火の手に襲われることはないだろう。彼は何とかその命の危機を脱したのであった。
しかし、ほっと息つく暇などない。
彼は未だ茂みの中に取り残されている多くの兵たちの事を思うと、やりきれない気持ちでいっぱいであった。
「ぐぬっ…一人でも多くの仲間を助けねば…!」
と、吉政は再び燃え盛る茂みの中に入っていこうとする。それを周囲の兵たちが慌てて止めた。
「殿!お辞めくだされ!!無理にございます!」
みな顔をすすで黒くしている。
そんな彼らの顔を見て、吉政は思わず流れ出た涙を止めることは出来なかった。
「無念だ…」
と、吉政は力なくその場に座り込む。
それは田中軍がこの戦において、潰滅したことを意味していた…
田中吉政が無念に涙していたその頃、そこから離れた場所では、島津義弘が感心したように、目の前に広がる光景を見つめていた。
「さすがは天下一の軍師だ…田中吉政が茂みを通ってくることも、そこに火を放つことで決定的な打撃を与えられることも、全て如水殿が昨日考えた通りであった」
と、ようやく火の手が収まってきた周辺を見て彼は、ぼそりと呟く。
「いえ、それだけではございませぬ。
殿の神速のごとき用兵術がなければ、このような成果は挙げられなかったかと…」
と、彼の傍らにいる、側近の一人が義弘に対して、淡々とした口調で言った。
その言葉に、義弘は口元を緩める。
「嬉しいことを言ってくれるのう。
では、次の相手に向かうとするか…」
「御意!」
義弘はまだくすぶっている茂みの先に目を移す。
その視線の先には…
白餅紋の旗印…
黒田長政の五千の軍勢が、島津軍の様子をうかがっているのが分かる。
そしてその黒田軍の先には…
この時、島津義弘の視界には、その三つ葉葵紋が確かに入っていた。
そして、その三つ葉葵の旗印のどこかに、「厭離穢土欣求浄土」の馬印が掲げられているはずだ。
その馬印を持つ者こそ、徳川秀忠…徳川軍の総大将である。
鬼の標的はその「厭離穢土欣求浄土」の馬印ただ一つ。
島津義弘は、にやりと笑ってつぶやいた。
「もうすぐその首を落としてくれようか、徳川右大将殿。それまでしばしお待ちあれ」
そして、田中軍を無傷で蹴散らした島津軍は、ゆっくりと黒田長政の軍勢へと進軍を開始したのであった。
………
……
そしてその頃、反徳川勢の中で、もう一隊動き始めた軍勢があった。無論、それも黒田如水からの献策によるところであったのは、言うまでもあるまい。
ーー左手前方で煙が上がったのを合図に、徳川本隊に向けて突撃を開始くだされ!
といった指示であった。
そして田中軍が地獄の業火に包まれたその火の手を左手前方に見たその軍の大将は、彼の率いる約八千の兵たちに向けて、出撃の命令を下す為に、陣頭まで白馬を進めたのである。
その男の名前は…
立花宗茂ーー
彼は右手に、すらりと長くて光り輝く刀を高く掲げながら、兵たちに向けてどこまでも透き通った声で語りかけたのだった。
「すでに天下の情勢は徳川のものと決まり、それに逆らうことは愚かなことだと笑う者もいるであろう。
しかし、俺には柳川の地を、何がなんでも守らねばならぬ理由があるのだ!
それは言わずもがな、俺の妻、誾千代がこの地に眠っているからである!
そしてお主たち皆の家族がこの地で平穏に暮らしているからである!
さらに俺と、立花の家を慕ってくれている民がいるからである!
その者たち全てを守る為に、俺は負ける訳にはいかないのだ!!
だが安心しろ!立花は負けぬ!!
なぜなら、この手に光る妻の愛刀『雷切』が、俺たちを守り、敵を打ち砕いてくれるからだ!!」
ーーオオッ!!
と、立花軍の兵たちが雄叫びを上げると、その大地が揺れた。
「誇り高き立花の者たちよ!!
いざ、行かん!!
見せてやろうではないか!!
天下無双の勇者の強さを!!」
ーーオオオオオッッ!!!
「目指すは厭離穢土欣求浄土の馬印、ただ一つ!!!」
ーーオオオオオッッ!!
「えいとう!!」
ーーえいとう!!
「えいとう!!」
ーーえいとう!!
「全軍!!進めぇぇぇ!!!」
ーーオオオオオッッ!!
蒼天を貫く掛け声とともに、小高い飛岳を一気に下る立花軍。
それはまるで戦場に降り立った龍のように、圧巻の突撃であった。
しかし、その先には、もう一人の『天下無双』が、待ち構えていたのである…
その男は…
「われは本多忠勝、仮名は平八郎!!
立花宗茂!!相手に取って不足なし!!
いざ、尋常に!!勝負だぁぁぁ!!」
と、耳をつんざくような雷鳴のごとき咆哮を発すると、愛槍の蜻蛉切を構えて、猛る金獅子の如く、立花軍へと突撃していったのであった。
史実では起こることがなかった、東西の天下無双の激突が、この瞬間始まったーー
少しだけ補足になります。
馬印とは、その軍の総大将の側に置かれ、軍の士気を高める為の、いわば象徴のようなものだったそうです。
この頃徳川家康は、金扇を馬印として用いていたのではないかと言われておりますが、過去には「厭離穢土欣求浄土」と書かれた纏を馬印として使用していたそうです。
拙作では、家康が秀忠に対して、この纏を馬印として使用する事を許したという設定にございます。
さらに、今回は久留米の地名が少しだけ登場いたしました。
特に「男橋」と「女橋」。
こちらは1700年代にこの辺りが処刑場とされていたことに由来しているようです。
処刑場に向かう罪人が男であれば、「男橋」手前まで、女であれば「女橋」手前まで、今生の別れを惜しむ家族と同行が許されたことに由来しているようです。
なんだか悲しい過去を持つ場所なのですね…
では次回は攻勢をかける反徳川軍の中でも、総大将の立花宗茂がいよいよ突撃をしかけたところからになります。
黒田如水がタクトを振る久留米の戦いも、いよいよクライマックスに向けて加速していきます!
どうぞこれからもよろしくお願いします!




