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第二次柳川の戦い⑲ 久留米の戦い(4)

◇◇

慶長7年(1602年)9月12日――


 伏見にある結城秀康の屋敷に、徳川家康と側室の阿茶の局の二人が、僅な供を連れ、揃ってやってきた。


 一方の秀康は、その二人を小姓と彼の正室とともに、屋敷の門まで来て迎え入れたのだった。


「父上に阿茶殿。ようこそいらっしゃいました」


 と、秀康は深々と頭を下げる。そしてその後に、秀康の上げた顔を、家康はちらりと覗いた。その表情は、どことなく硬さが感じられる。


ーー何かを決意している顔じゃな…


 家康は、秀康がどんな事をしてくるのか想像もつかなかったが、相当な決意が込められているその顔を見て、自然と家康の顔も硬くなっていった。


 そんな家康の脇腹を、阿茶の局がぐいっと押す。その力がことのほか強いもので、家康は思わず顔をしかめた。


「何をするのじゃ!」


 と、家康は小声で阿茶の局に文句を言うと、穏やかな笑顔を崩さないまま、阿茶の局は言った。


「せっかくの饗応に招かれましたのに、そのように怖い顔をなされなくてもよいでしょう」


 そんな二人のやり取りを、相変わらず硬い表情で見ていた秀康は、


「ではご案内いたします」


 と、二人を饗応の場へと誘導したのだった。


………

……

「おじじ様!ようこそいらっしゃいました!」


 と、饗応の場に入った家康たちを迎え入れたのは、齢七歳になったばかりの、秀康の長男、長吉丸であった。


「おお!長吉丸か!ちと見ぬうちに、随分と大きくなったのう!」


 と、先ほどまでの硬い家康の表情はとろけるように、柔らかいものに変わった。そして家康は、長吉丸の頭を優しくなで始めた。その様子に阿茶の局は、安心したように肩の力を抜くと、家康の背中に向けて、優しく言った。


「ふふ、子供の力は何よりもお強いものですね」


 こうして和やかな雰囲気に包まれると、秀康が催す饗応は、笑顔に包まれたまま始まったのだった。



………

……

 つつがなく饗応が終わると、部屋には親子水入らずで、結城秀康と徳川家康の二人だけとなり、酒を片手に対面して座っていた。


 辺りはすっかり暗くなり、庭から聞こえてくる虫の音が、季節を感じさせるものであった。


 先ほどまでの賑やかさとはうって変わり、静けさに包まれた部屋の中には、やはりぎこちない空気となる。

 それは今の二人の親子関係をうつしているようであった。


 そして、秀康の方から話を切り出した。


「父上は明日、京を出られるのでしょうか?」


 やはりその声は、わずかに緊張が感じられる。家康は努めて穏やかに答えた。


「そうじゃのう…明日発って、明後日には大坂から出立するつもりじゃ」


「なるほど…さようでございましたか…」


 そう漏らすように言った秀康は、少し間を開けて、家康に酌をした。家康もその後に酌を返す。

 そのやり取りの間は、二人とも無言で、虫の音だけが、庭から聞こえていた。


 酒を一口飲んだ秀康は、先ほどまでとは少しだけ異なる口調で…それは、少しだけ力が入った口調で、家康に言った。


「では、秀忠も父上もいない江戸城を、それがしの兵が守りましょう」


 その言葉の後に、再び沈黙が場を支配する。

 

 そして家康は、吐き出すように言った。


「なるほどのう… そう来るのだな…」


 再びしばらく沈黙が支配する。

 

 この言葉の意味…それは、家康をこの伏見で足止めする為の秀康の脅迫であった。すなわち、家康が動けば、反徳川方の一人である結城秀康の軍が江戸城に入る。それは言わば、江戸城の中の人々を人質とする、ということを意味していたのである。

 それこそ、秀康がうった博打であり、この饗応を催した目的でもあったのだ。

 

 重い空気の中、再度話を切り出したのは秀康の方であった。


「父上は、それがしの『弟』…豊臣秀頼殿をどうなさるおつもりか…?」


 実に真っ直ぐな飾り気のない問いかけ。


 家康の胸は、ドクンと波打ち、何か鈍器のようなもので叩かれたような衝撃を受けた。


ーーこれもまた避けられぬ…


 と、家康は心の中で舌打ちする。

 そして噛みしめるように、ゆっくりと答えた。


「天下は…その舵取りは、しばらく徳川が預かる。今言えるのはそれだけだ」


 家康を見つめる秀康の視線が、刺すような鋭いものに変わる。家康はそれをぐっと受け止めていた。


 再び訪れる沈黙。


 秀康が酒を手に取ると、それを口にする。


 かたりと椀を置く音。


「父上は、大坂城をいかがするおつもりか?」


 家康は一度まばたきをして、彼もまた酒を口に含んだ。


「どうする…とは、どういう意味じゃ?」


 秀康の頬がかすかに赤く染まる。


「いつか…攻め落とすおつもりか…という意味にございます」


 家康は目をつむり、腹に力を入れた。


「かようなつもりは…今は毛頭ない」


「では、質問を変えましょう。もし、秀忠に嫡子が生まれたその時であっても、いつしか天下は豊臣に返すおつもりか?」


 家康は、土足でずかずかと踏み込んでくるような秀康の容赦ない問いかけにも、心安らかでいた。

 それは秀康が自分の息子であったからなのかもしれない。


「それを決めるのは、もはやわしではない。秀頼殿も生まれてきた男子も、両方とも秀忠の子だ。

それを決めるのは、秀忠じゃ」


 秀康の口調が心なしか強くなる。


「父上は、弟の…秀忠に、それを決めることが出来る器量があるとお思いか?」


 斬り合い…

 

 実の親子でありながら、その会話はまさにその言葉がピタリと当てはまるものであった。

 だがそれは、息子の秀康が一方的に打ち込み、父である家康はそれを身じろぎ一つせずに、堂々と受け続けているようだ。


「秀忠にそれを決めるだけの器量は…

今はないであろうな」


 そしてついに秀康の胸のうちの何かが火を吹いた。


「ではなぜ、それを秀忠に委ねるのです!?

このままでは確実に、秀忠は、本多や土井、大久保といった連中の傀儡となってしまうことは、父上もお分かりでしょう!

そして彼らは徳川の…いえ、自分の利の為に、豊臣を排除するよう動くのは火を見るより明らか!」


 秀康が豊臣家のことを想う、その痛切な気持ちが家康の心に斬り込んでくる。

 しかし家康はそれでも穏やかにそれを受け止めた。


「秀康よ… じっと聞いておれば、お主は『豊臣の家を守る』ことだけを考えておるようじゃのう」


「豊臣家には、それがしを育てていただき、そして人の親にまでさせていただいた大恩がございます。

いえ…むしろそれがしの『本当の』家族なのです。

その家族を守ろうとすることが、おかしなことでありましょうか?」


 その秀康の言葉に、家康は肩の力を抜いた。


「うむ… それ自体は特におかしいとは思わぬ…」


「であれば!」


 と、秀康が身を乗り出してきたところで、家康は片手を上げてそれを制した。


 そして、静かに、しかしいつにも増して重く、その言葉を秀康の心に突き刺した。



「じゃが、そこには『民の平和を守る』という大義が感じられぬ」



 この言葉に秀康は言葉を失った。


 秀康は焦っていた。それは、今までの自分のしてきた行動、黒田如水や真田昌幸らと張り巡らせてきた数々の策略が、この一言によって、脆くも崩れようとしているような気がしてならないからだ。

 しかし、何とか踏みとどまると、家康に言った。


「秀頼殿は、『全ての民の生活を豊かにする』という目標をもっておられます!その秀頼殿を守ることは、すなわちその高潔な目標を守ることと同じであると思いませんか!?

それでも父上は豊臣家をないがしろにするおつもりか!?」


 熱のこもった秀康の言葉にも、家康の心は動じることはない。


 どこまでも静かに、冷静に、秀康を説き伏せるように言った。


「わしは秀頼殿を…もっと言えば豊臣家をないがしろにした覚えは一度もないぞ。

もし本気で豊臣と徳川が対峙するなら、お千を大坂城に留め置くつもりはない。

だが見てみろ。

かつては石田冶部が、今は黒田如水に真田安房守といった者たちが、秀頼殿が幼い事をいいことに、いらぬ争いを引き起こしているではないか」


「それはみな、豊臣家を守ろうとして…」


 それでもなお食い下がろうとする秀康に対して、家康はいよいよ態度を一変させた。


「その考えが愚かだと言っておるのだ!!このたわけ者が!!!」


 生まれて初めて父の逆鱗に触れて、目を丸くした秀康。そんな彼に向けて、家康は再び静かに、淡々とした口調で語りかけた。

 

「よいか…民にとっては何よりも平和、平穏が一番なのじゃ。

彼らの上に、徳川が立とうとも、豊臣が立とうとも関係はない。

しかしその民の生活を守るわしらは今何をしておる?

徳川が天下を取るために必死に動いている者もおろう。

豊臣の世を取り戻そうと必死になっている者もおる。

もちろん、自分の利益の事だけを考えて行動している者もあるでろう。

だが、そこに民を見る目がどれほどあるであろうか…

わしら天下の仕置きを預かる者たちが、民を見ずして、民の平和が保てようか。

太閤殿下の大恩に報いる為…その言葉は確かに聞こえがよい。

しかし、それは目先のことしか考えぬ者たちがとらわれている妄想にすぎん。

よいか、秀康。お主も徳川の…いや豊臣の家を背負う者であるならば、目先にとらわれてはならん。

その先を見よ。

太閤殿下に大坂城の天守から見せていただいた風景を思い出せ。

そこには何が見えた?

民が笑顔で街を作っている、そのような光景が見えたのではないか?」


 そこで家康は話を切った。

 

 もし、結城秀康という男が、家康の見込み通りの男であるならば…

 

 そんな期待と不安を胸に、彼は秀康の次の言葉を待っていたのだ。しかし、秀康のその一言は、彼の期待に応えるものではなかった。

 

「それがしは…それでも『家族』を守りたい…」


 悔しそうに唇をかむ秀康。その様子は、父である家康の言葉がもっともであるという事を認めているが、一方で自分の強い決意が瀕死でありながらも、立ち続けているようであった。

 

「それは、わしも同じじゃ。

秀頼殿もわしにとっては、家族の一員…なにせ、可愛いお千を嫁にくれてやるのだからのう。

そしてもちろん…」


 家康の目の色が変わる。

 

 

 その目は…

 

 

 優しく、強く、全てを包みこみ、愛する者を守る…

 

 

 偉大な父親のそれであった――

 

 

 秀康はその目を見つめると、自然と涙が頬をつたう。

 

 そんな秀康に家康は、今まで口に出来なかった、彼の本心をようやく口にしたのであった。

 


「お主も、わしにとっては守るべき家族の一員なのじゃ」



 それは結城秀康が、ずっと待ち望んでいた言葉。

 

 それは、『父』である豊臣秀吉からでも、『母』である北政所からでもなく、徳川家康の口からもっとも聞きたかった言葉。

 

 どんなに高価な茶器よりも、どんなに広い所領よりも、彼が欲しかったもの。

 

 今、秀康のその心の中では、豊臣も徳川もない。

 

 そこにあるのは、彼の家族がみな手を結び、彼を笑顔で包み込んでいる。それが父、徳川家康が最も彼に伝えたかった思いであったのではないか。


 そんな風に思えたその時…



 結城秀康と徳川家康は、この時初めて家族となった――


 

「徳川であろうと豊臣であろうと、そんな事は広い天下にとってみればどちらでもよい… そこにあるのは…」


 と、秀康はふわふわと浮いた心地のまま、つぶやく。

 

 そしてその秀康の言葉の続きを、家康がつないだ。

 

「人を思いやり、人を守りたいと願う心。

それが力じゃ。

その力のある者こそ、天下人にふさわしい。

そうは思わんか?」


 秀康は、観念したようにうつむくと、家康になおも問いかけた。

 

「わが弟、秀忠にその力は備わっておるのだろうか…

弟は、家族を…天下を守るだけの力を持ち合わせているのでしょうか…」


 顔を上げた秀康のその目は、弟の秀忠を心配に思う、強い気持ちが表れている。その目を見て、家康の胸の内にも熱いものがこみ上げてきた。

 家康はつまりそうな言葉を、何とか絞り出すように言った。

 

「その力をつけさせてやるのが、わしの父親としての務めじゃ。

そして、こたびの九州の仕置きの件…この件こそ、あやつが大きく羽ばたくそのきっかけとしたいのじゃ」


 その言葉に、秀康の目はこれまで以上に大きく見開かれた。

 

「まさか…」


 あまりの驚きに家康の言葉が出ない。この時、秀康は気付いたのだ。

 

 徳川家康のこの後に考えていることを。

 

 そしてそれでようやく合点がいったことがある。東国の大名たちを加勢として同行させなかった理由…

 

 家康は口を真一文字に結び、じっと秀康を見つめていた。その瞳からは並々ならぬ決意の色がうかがえた。

 

 秀康は、どうにかして気持ちを落ち着けると、深く息を吐き出してから、家康に重々しく問いかけたのだった。

 


「父上は、九州には行かないおつもりか…」



 と…

 

 

………

……

「殿、また一段と良い顔になられましたね」


 結城秀康と二人で酒を酌み交わし終えた徳川家康は、その日は秀康の屋敷に寝泊まりすることにして、その客室に入った。そこには、阿茶の局が寝床を準備し終えて、家康を迎え入れたのである。

 そんな彼女が、家康の顔を見て発した第一声が、先ほどのものであった。


「ふん!それではまるで、今までのわしはあまり良い顔をしていなかったようではないか」


 と、家康は阿茶の局から視線をそらして、むくれるように言った。しかし、それが照れ隠しであることは、阿茶の局には重々承知のことだ。

 彼女は優しい笑顔を浮かべたまま答えた。


「あら?ご自身ではお分かりになられていなかったのですか?

話が秀康のこととなれば、とたんに醜いお顔になられていたことを…」


「ふん!よくもわしに、醜いなどと言ってくれたもんだ!世の中どこを見回しても、そんなことをわしに言うおなごは、お主しかおらん!」


「ありがたきお言葉です」


「何がありがたいのやら…」


「ふふ、だってその言葉は、わらわを『家族』とお認めいただいているようでしたもの。違いまして?」


 そこで言葉を切った阿茶の局は、家康の顔を覗き込んだ。


 家康はちらりと彼女の顔を見ると、顔を赤くしている。


「ふん!おめでたいやつじゃ…」


「ふふ、おめでたいのは殿の方にございます」


「な…なにを申すか!?わしの何がめでたいのじゃ!」


 すると阿茶の局は、驚く家康を尻目にさっさと寝床に入ってしまった。


「さぁ…なんでしょうね。今宵は何か殿にめでたいことがあったのではないか、とわらわは思っていたのですが、それが何かは殿しか分からないのではありませんか?

さあ、もう寝ましょう。

殿は明日、ご出立されるのでしょう?」


「ふむ… そのことじゃが… もうしばらく伏見にいることにした。真田安房守や東国の大名たちが怪しい動きをしないか、目を光らせねばならぬからのう」


 その言葉に、寝床から身を起こして阿茶の局は穏やかな笑顔を向けた。


「ふふ、そうでしたか」


「なんだ?お主… まさか、わしが伏見からしばらく動かぬことを知っていたような感じじゃのう」


「あら?そのようなこと、わらわが知るよしもございません」


「では、なぜそのように落ち着いておるのじゃ?」


「ふふ…何となくそのようになるのではないか、と思っておりましたので…」


 その阿茶の局の言葉に家康の顔色が変わる。


「いつからじゃ…?」


「殿より先に秀忠が出立したその時からです」


「な…なに…」


「さあ、もう寝ましょう。あまり遅いと体に毒にございます」


 と、彼女は再び寝床に横になると、それきり二人の間に会話はなかったのであった。








大変お待たせいたしました。


いよいよ次回から合戦の開始です。


家康不在の九州における、秀忠の決断とは!?

そして如水の戦術は!?


どうぞこれからもよろしくお願いいたします。


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