第二次柳川の戦い⑱ 久留米の戦い(3)
◇◇
徳川家康が伏見城に入る前日のことだ。一通の書状が阿茶の局のもとに届けられた。
「あら?わらわに書状など、珍しい…
どなたからかしら?」
と、彼女はまずその送り主が誰なのかから確認すると、思わず笑みをこぼしたのであった。
「あらら。稲姫からではありませんか。これは嬉しいこと」
この書状の送り主である稲姫は、信州の真田信之の正室で、徳川家康の譜代の家臣である本多忠勝の娘である。阿茶の局とは昔からの顔なじみであり、真田の家に彼女が嫁いでからは、めっきり話をする機会もなくなり、寂しさを感じていたほどだ。
稲姫は、頑固なところと、早とちりをするところが父親そっくりで、常にピリピリとしているのだが、阿茶の局はそんなところが、たまらなく可愛くて仕方ないのであった。
そしてその書状の中も、豪快そのもので、太くおおきな字で、短い文章が書かれていた。
「義父の真田安房守(真田昌幸のこと)が、夫をそそのかして謀反を起こさせようとしております。
夫の事は、わらわが厳しく躾けるゆえ心配無用。
されど、他の大名たちのこともそそのかしているだろうから、ご注意くだされ…
ですか…」
その内容に、阿茶の局は目を丸くしていたが、近くのお茶を口に含むと、その目を大きくした理由をボソリと呟いた。
「あらあら…真田伊豆守殿(真田信之のこと)は、また稲姫に厳しく躾けられてしまうのですね…
可哀想なこと…」
人の良さをそのまま顔にうつしたような真田信之が、稲姫の厳しい態度に、困り顔を浮かべている様子が目に浮かぶと、阿茶の局は思わず眉を下げてしまうのであった。
そして最後に、
「ひとまず殿にもこの事はご報告せねばなりませんね」
と、次の日に伏見に到着する予定の徳川家康の事を思いながら、念のため自分に言い聞かせたのであった。
………
……
慶長7年(1602年)9月11日ーー
伏見での仕事を全てこなした家康は、二条の屋敷に戻っていた。そこには滋養強壮の為の薬と称した何かをこしらえてきた阿茶の局も側にいる。
「いよいよ明日、伏見を発たれるのですね」
「なんじゃ?柄にもなく『寂しい』とか言ってくれるのか?」
「ふふ、言って欲しいとおっしゃるなら、いくらでも言いましょう。
でも、わらわなんかより、若いお亀殿の方がよいのではございません?
本日もお亀殿のゆかりがあるということで、石清水八幡宮に行かれたご様子ですし」
「な、何を言い出すかと思えば!石清水八幡宮は、お亀の親族がおるからという理由で戦勝祈願に行ったのではないわ!全く…」
と、むくれる家康に対して、阿茶の局はにこやかに言った。
「ふふ、冗談でございますよ。
わらわが大事な戦に赴く殿を、寂しさのあまりにお引き止めするような、おなごと見られたのが、悔しくて、つい意地悪を申したまでにございます。
この通り、謝りますゆえ、へそを曲げないでくださいませ」
「ふん!へそなど曲げてはおらんわい!全く…」
と、家康は不機嫌そうに、ぶつくさ言っているが、そんな彼の前に二通の書状を、阿茶の局は差し出した。
「なんじゃ?これは?」
「一通は、稲姫からにございます。
もう一通は… ご自身でお確かめくださいませ」
「ふむ… ではまずは、稲の方から読むとしようか…
相変わらず豪快な字を書くおなごよのう。
まあ、読みやすくてよいが…」
と、ぶつくさ言いながら目を通すと、家康は目を丸くした。
「なんと…」
「ふふ、やはりわらわと同じ反応でございますね」
「むむっ!?阿茶と同じ反応とは、何か悔しいのう」
「では、何に驚かれたのか、おっしゃってくださいませ」
と、阿茶の局は、まるで家康を試すように、その感想を促した。すると、家康はにやにやしながら答えた。
「真田伊豆守が、可哀想じゃのう…稲の言う『厳しく』は本当に厳しいに違いあるまい」
その反応は阿茶の局の想定の内であったのか、彼女は笑みを携えたままだ。
「ふふ、殿はお人が悪い。そこは、『安房守め!またわしの邪魔をしてくれるのか!』という反応を見たかったのに…」
と、彼女は家康のしかめ面を真似しながら言うと、
「はははっ!それは残念であったのう、お主の期待に応えられなくて!」
家康は愉快そうにその様子を笑い飛ばした。
「殿。それではまるで安房守殿の動きを楽しんでいるようではございませんか?ふふ」
「いやいや、これは徳川の一大事じゃのう。あの安房守が何やらこそこそしておるのだから」
と、家康は、言葉とは裏腹の笑顔のまま答えたのだから、全く説得力がない。
「なんだか嬉しそうですが、わらわの気のせいでしょうか?」
その阿茶の局の問いかけに、家康は口もとを締めると、右の口角を上げて答えた。
「ようやくこの時が来たのだ。あの憎々しい安房守にいっぱい食わせてくれる機会がのう。
嬉しいのは当たり前であろう。
ははは〜!!」
と、家康は堪えきれずに再び笑い出した。
「あらあら…まるでいたずら好きな子供みたいだこと」
「ふん!なんとでも言え!
では、もう一通の書状を見てみるかのう…
ほう、これはまた繊細そうな字面じゃのう…
どれどれ…」
と、家康は目を細めてその送り主から確認する。
その瞬間、先ほどまでの血色の良かった頬は、青白く変わり、目は大きく見開かれた。
その様子に、阿茶の局は、
「あら?その反応は、わらわとは正反対でございますね。
わらわはその送り主の名を見て、嬉しくて仕方なかったのに。
まるで殿は怖がっているよう…」
と、家康の反応を楽しむようにして言った。
「むむっ…べ、別に怖がってなどおらん。
なぜ、わしがこの者からの書状を怖がらなくてはならんのだ!?」
と、家康は強がるその言葉とは裏腹に、いつものしかめ面を青くしている。
「さあ…どうしてでしょうね。
普段から避けて通られているから、そうなるのではないでしょうか?ふふ。
まあ、ひとまず中をお読みくださいな」
「い、言われなくても読むわい!全く…」
と、ぶつくさ言いながら家康は、そのか細い字で書かれている書状の中に目を通した。
読み終えると、ふぅと大きく息をつく家康。
「あら?そのように息が詰まるような内容ではなかったように思えますけど…?」
と、阿茶の局は相変わらずの穏やかな表情で、家康に問いかけた。
家康は、視線を書状から阿茶の局に変えて、噛みしめるように、ゆっくりと答えた。
「明日の出立は延ばさねばならぬのう」
阿茶の局は、その言葉に嬉しそうに微笑む。その様子に、家康は眉をひそめた。
「それではまるでわしが伏見にとどまる事を、お主は喜んでいるようではないか?」
「ふふ、そうではない、ということは殿も分かっておられるでしょう?
やはり殿はお人が悪いです」
そんな風に心を見透かされたような阿茶の局の視線は、家康にとってはくすぐったいもので、決して心地よくはない。
「ふん!九州では今後の天下の行方を占う、大事な戦の真っ最中なのだぞ!
出立が遅れるということは、到着が遅れることと同じじゃ。それをそのように嬉しそうな顔をされれば、誰もがしかめ面になるというものだ。全く…」
と、家康はまたぶつくさとぼやき始めた。
さて、家康の出立を延期させるに至った、その書状とは…
――父上が九州へ出立する前に、戦勝をお祈りして饗応をしたいのですが、阿茶殿もご存じの通り、このところ父上とうまくはいっておらず、直接お誘いすることをはばかれます。
ついては阿茶殿より父上にお言伝いただけないでしょうか 結城秀康
「では、『お主からの饗応を受けるのを楽しみにしておる』と申しておけ。
それに時間もないゆえ、明日、秀康の伏見の屋敷に、わしと阿茶の二人で訪ねることとする。阿茶も準備をしておくように。よいな?」
「はい、かしこまりました。では、早速秀康に返書を送りましょう」
と、返事をすると、阿茶の局は、そそくさとその場をあとにしたのだった。
部屋に一人になった家康は、今一度深呼吸をする。
「戦はこれからじゃ…辛い戦いになるのう…」
と、目をつむり、眉間にしわを寄せながら、厳しい顔つきでそう呟いた。そして突然大きな声で小姓を呼んだ。
「これ!誰かおるか!!?」
「はっ!ここに!」
と、襖の外から、透き通った声の返事が聞こえてきた。
「うむ。本多正純をここに呼べ」
と、家康は声の調子を落として、指示した。
「御意!」
と、返事が聞こえたと思うと、廊下を駆けていく音が聞こえる。
「さて…わしも心を決めねばならんのう」
と、家康は重い腰を上げると、一通の書状をしたためる為に机の前に座り、墨を準備し始めた。
そしてそれを終えると、流れるような手つきで、筆を走らせる。
最後に花押を書き終えたところで、本多正純がちょうど部屋にやってくると、いつも通りの澄まし顔で家康に問いかけた。
「殿、それがしに御用がおありとのことで…」
「ふむ。この書を秀忠に送って欲しい」
「ほう…書でございますか…内容をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」
「お主は何でも首をつっこみたがるのう… まあよい、直接中身を読んでみるがよい」
「ありがとうございます」
と、うやうやしく書を受け取ると、正純は書に目を通し始めた。
すると、みるみるうちに正純の顔色が変わっていく。それは、常に側にいた家康ですら見た事もない程に、驚愕の色を濃く表したものだった。
「と、殿…この書状をお送りしてよろしいのでしょうか…」
正純が思わず家康に問いかけると、家康は口角を上げて問い返した。
「どういう意味じゃ?」
「いえ…これはあまりにも殿らしくない…かと…」
「わしらしくない… 確かにその通りかもしれぬのう」
「では、なぜ…?」
正純はどうやらこの書状を届けることを諌めたい様子だ。そんな正純に説くように、家康は語り出した。
「これからの世を作っていく為には、避けては通れぬ道なのじゃ。
お主も知っておろう。わしは、博打が大嫌いだということを。
しかし、この博打だけは、どうしても打たねばならぬ。
それは、わしの身も心も健やかであるからじゃ。
わしが動けぬほどに老いてしまってからでは、もう打てぬ博打だからのう」
「しかし…あまりに危険すぎます…」
驚きのあとに、正純は強い懸念を表情に浮かべている。そこにはいつもの澄まし顔はなく、家康も知らぬ、素の正純の顔と言えるほどに、感情が表れていた。
「大丈夫じゃ。わしは誰よりもそれを分かっていると思うておる」
と、家康は強い決意を固めた視線を正純に向ける。
しばらくその視線を受け止めていた正純は、はぁと息を吐くと、いつもの澄まし顔に戻して、家康に問いかけた。
「もし…もし、この博打に失敗された場合の事をおうかがいしてもよろしいでしょうか」
その言葉に家康は、表情を引き締めて、低い声で答えた。
「その時は、色々と考えねばならぬのう…」
「秀忠様のことも…でしょうか」
正純の細い目の奥が光る。その光を受け止めて、家康は声の調子を落とした。
「『色々』と言うからには、『色々』じゃ。今ならまだ間に合うからのう」
「かしこまりました。もしそうなっても、それがしは殿をお支えするだけになります」
「ふむ。では、くれぐれもよろしく頼んだぞ」
「御意にございます。早速、この書状を秀忠様にお送りいたしましょう」
ガタリと音を立てて、歴史の歯車はさらにその速度を早めて回り始める。
そしてその歯車が動かす歴史の行く先には、一つの『試練』。
徳川家康と秀忠にとって、その『試練』がもたらす意味は非常に大きいことは言うまでもないであろう。
なぜならその『試練』は、もし乗り越えられたなら、彼ら親子の『夢』の実現に向けて大きな前進となるが、逆にもし乗り越えられなかったなら、親子の行き先は暗礁に乗り上げることになりかねないからである。
その『試練』への扉は今、家康が秀忠に送った一通の書状によって開かれたのであった…
ようやく対陣を始めた久留米から目が離れてしまい、申し訳ございません。
しかしこのくだりは、実は第一部においては、すごく重要な役割を持つくだりとなります。
つきましてはもう少しだけ、徳川家康公にお付き合いいただけると幸いでございます。
次回は、結城秀康による饗応のお話になります。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。
また活動報告に間も無く連載開始となる新作のタイトルを発表いたしております。
戦国時代の歴史小説の第二弾です。
是非、ご覧いただければと思います。




