第二次柳川の戦い⑯ 久留米の戦い(1)
◇◇
慶長7年(1602年)9月5日――
徳川秀忠が大坂城を出て、悠々と山陽道を進んでいる中、九州での動乱は静かにその火蓋を切って落とされていた。
臼杵城を出立した大友軍は、西へ西へと進軍していた。そしていよいよ田中吉政の領地である、筑後の国の国境までやってきた。
そこには兵を引き連れた、田中吉政の次男である田中吉信が道を塞いでいた。
「ここからは我が当主、田中吉政の守る地である!
大友義統殿の軍とお見受けするが、何用で来られたのか!?」
その大きな声の問いかけに、脇大将である吉岡杏が真っ白な芦毛の馬から降りて、前に出てきた。
そして彼女は、透き通った声で吉信に答えた。
「われは大友家脇大将の吉岡杏でございます!
我が大友家は、ゆえあって立花宗茂殿が守る柳川城へと向かっております!
ついてはここをお通し願いたい!!」
その言葉に馬に乗ったままの吉信は、杏の前まで進んでくると、嘲笑を浮かべながら答えた。
「天下のことわりを乱す逆賊の立花に味方する大友も同類である!
今すぐにここで貴様を血祭りにしてくれよう!!」
この田中吉信という男は、手討ちを好んで行なっていたという非道の人として知られており、彼の手によって非業の死を遂げた小姓は五十人以上に及んだという。そんな彼は、馬を降りて礼節を保って接していた杏に向かって、なんと馬の上から槍を突き刺してきたのだ。
とっさに後ろに下がって、すんでのところで槍の突き避けた杏。すぐに彼女の周りには、数名の兵が集まり、彼女を守ろうと吉信の前に立ち塞がった。
そして彼らはみな槍を構えて、吉信に襲いかかろうとしたのである。
しかし杏はそんな彼らに大きな声を上げた。
「やめよ!!我らが敵は田中殿ではない!むやみな殺生は避けるのだ!!」
そんな彼女を見て、吉信はけらけらと高笑いし出した。
「はははっ!そりゃ手を出せねえよな!ここで俺に手を出せば、三十万石の大大名である田中家を相手にすることになるのだ!たかだが五万石の小大名の貴様らでは相手になどならんわ!
田中家と喧嘩したくなければ、違う道を通るんだな!
はははっ!!」
と、その時であった…
――パンッ!!
と乾いた破裂音が周囲にこだました。
「な… なにを…」
と吉信は自分の身に何が起こったのか、判断がつかなかった。しかし、完全に体の自由が奪われると、口から血を出しながら漏らしながら、彼はどうと馬から落ちた。先ほどの破裂音は鉄砲の音であり、見事に吉信に命中したのだ。
何が起こったのか分からずに、戸惑う杏とその周囲の兵たちを尻目に、一人の老人が倒れた吉信のところまで馬で近づいてきた。少し離れたところで様子をうかがっていた吉信の兵たちも、大将の一大事に、ようやく大友軍に向かって近づいてきている。
するとその老人…泰巌は、馬上筒と呼ばれる短筒を仰向けに倒れている吉信に馬の上から向けた。
「やめ…やめよ…そんなことをすればどうなるか…」
と、吉信は動けない体を必死に起こそうとしているが、先ほどの鉄砲の当たりどころが悪かったのか、なかなか動けない。
すると泰巌は冷たく言い放った。
「さすがに滅多に命中しないこの短筒であっても、この距離ならば外れまい」
「やめ…やめてくれぇ。ここを通してやるし、父上にはこたびの件は不問にいたすように働きかけるゆえ、どうかお命だけは…」
と、吉信は、先ほどまでの横柄な態度を一変させて、無様にも涙を流しながら命乞いを始めた。だが、泰巌はその様子を見て、氷のような笑顔を浮かべている。
「田中吉政?
もとは小さな村の農民ふぜいが…
猿のご機嫌取りが上手くいって大名に取り立てられた程度の小人の息子が、でかい口を叩くでない。
しかも相手が礼を持って馬から降りたものを、馬上から槍で突くなど、無礼千万。
生きる価値もない愚か者の命乞いなど、虫けらの音ほどの価値もないわ」
そして…
――パンッ!
と再び乾いた破裂音が響くと、吉信の顔面は血まみれになり、そのまま彼は動かなくなった。
その吉信の返り血を浴びながら、泰巌は不気味な笑顔を浮かべたまま、大きな声で命令した。
「我らが道を邪魔する者は皆殺しにせよ!
相手が誰であろうとも構わん!
殺せ!殺して前へ進むのだ!!」
――おおおおおっ!!
と、大友軍は地響きするような声を上げると、吉信のもとへ駆けつけようとしている田中軍に向かって突撃を開始した。
そして、大将を失った田中軍はその統率も取れずに、そのほとんどが逃げ出した。わずかな者たちは勇敢にも戦ったが、大友軍の濁流のごとき大軍の突撃に、なすすべもなく飲み込まれていったのであった。
………
……
――大友軍現る!田中吉信殿が討死!
この一報は、その場を逃げ出した兵たちより、久留米城の田中吉政にも伝わった。
既にいつでも出陣出来る状態にあった田中軍の兵たちは、当主の次男が討たれたことに憤り、その仇討ちをせんと鼻息を荒くしていた。
しかし、当主である田中吉政は、あくまで冷静に兵たちをなだめたのである。
「今はその時ではない!徳川右大将殿がこの城に到着して、出撃の命令を下されるまでは、勝手な行動を取るでないぞ!」
彼のこの冷静さこそ、豊臣秀次の筆頭家老でありながらも、連座で切腹を命じられる事もなく、引き続き太閤秀吉の寵愛を受けた才気と言えよう。吉信の身勝手な行動により、わずかな犠牲は出たものの、それは最小限にとどまり、勢いを増して進軍を続ける大友軍との衝突は避けられた。
その間にも大友軍は、西へと進んでいく。
そして、久留米城からほど近い高良山から連なる山の頂上にある、吉見岳城の跡地を占拠した。この城はかつて豊臣秀吉が九州平定の本拠地とした城としても知られている。山頂から筑紫平野を一望できる為に、徳川秀忠が入城する久留米城を睨む場所としては絶好の場所と言えた。
しかし、既にこの城は廃城となっており、城としての機能はほとんど果たせない状態だ。それでも大友軍は、城に立て籠ることを想定はしていない為、立地を考えてその地に陣屋を敷いたのであった。
◇◇
一方その頃、肥前の国の蓮池城を出立した龍造寺高房の軍勢は、筑後川を渡り肥前から筑後へと入っていた。
佐賀城にいた鍋島勝茂は、その背後をつかんと、何度も出撃の許しを得ようと、父の鍋島直茂にかけ合ったのだが、直茂はついに首を縦に振ることはなかった。
――あとは俺に任せてくだされ。あれでも我が息子だ。
という龍造寺家の前当主である龍造寺政家の言葉を、直茂は強く信じていたからであった。しかしこの時、鍋島勝茂の進言に従って、龍造寺軍の行く手を塞いでいたならば、それは龍造寺家最後の当主となる龍造寺高房と政家の親子にとっては、悲しすぎる運命の道をも塞いだことになったかも知れない。
もちろんこの時、彼らはそのような事に気付くはずもなかったのであったが…
この時、高房の描いていた未来は、夢は、果たしてどのようなものであったのだろうか。
本人でなければ、そんなことなど知る由もないだろうが、この時の彼の希望に満ちた横顔を見れば、それは彼にとっては輝かしいものであったことは想像に難くない。彼の率いる軍勢は、筑後川を渡り終えると、立花宗茂の領土に足を踏み入れた。
そしてそのまま、その宗茂から陣屋として使うよう提供を受けた酒見城へと入城した。
もともとこの酒見城は、高房の祖父であり「肥前の熊」と称された龍造寺隆信が造らせた城である。この時は立花四天王の一人で、筆頭家老の由布惟信が守っていたが、龍造寺家にゆかりのある城を充てられた事に高房はさらに気を良くして、その城の一室で腰を下ろしたのであった。
◇◇
そして島津義弘の率いる軍勢もまた、順調に北上を続けていた。
富隈城では、その義弘の進軍を止めるべく大軍が待機しているが、それを率いるはずの島津忠恒は、内城の自室に籠って姿を見せることはなかった。
その為、義弘の進軍を止めるものは何もない。
島津軍はそのまま肥後の国に入ったが、当主の加藤清正は抵抗せずに島津軍が領地を横切って筑後の国へと進んでいく事を許した。
すなわち障害物など何もなく進軍した島津義弘は、わずか5日で筑後の国に入ったのである。
筑後に入った島津軍には、立花宗茂により、柳川城の側にある今古賀城が提供されており、義弘は早速入城して、兵を休めたのであった。
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慶長7年(1602年)9月7日――
立花宗茂の居城であり、今回の徳川方の最初の攻撃目標である柳川城にて、最初で最後となる評定が開かれた。
そこには、立花宗茂、島津義弘、大友義統、龍造寺高房の各軍の大将たちと、黒田如水が顔を揃えた。もちろんそこには各大将の側近たちの姿もあり、各軍の配置や今後の動き方について話し合われたのである。
そこで如水は、徳川方の当面の総大将である徳川秀忠の動きについて話題を切り出す。すなわち、これより三日後には秀忠率いる徳川本隊と、本多忠勝らの譜代の家臣たちが率いる軍勢が久留米城に入るということ。そして、徳川の九州征伐の本拠地がその久留米城となり、この先遅れて到着する徳川家康が率いる大軍を待って、本格的な侵攻を始める為に、それまでは戦を仕掛けずに圧力だけかけてくるであろうということであった。
龍造寺高房などは、徳川秀忠が姿を現す前から久留米城の攻略を始めるべきだと主張したが、如水はそれを諌めた。
しかしこのまま手をこまねいていただけでは、柳川城を取り囲まれてしまう恐れが高い為、徳川方の動きを久留米城付近で封じることを狙いとして、久留米城を取り囲むように軍を配置することにしたのであった。
慶長7年9月9日――
反徳川勢の各軍の配置が完了した。
久留米城から筑紫平野を挟んで真正面の飛岳の麓には、総大将の立花宗茂軍の約八千。
その立花軍を中心に据えて、右翼として飛岳から北にある高良山の麓には、大友義統の軍の約八千と、その手前に脇大将である吉岡杏と吉弘統幸がそれぞれ一千ずつ兵を率いることとなった。
さらに、立花軍の左翼として、筑紫平野の真ん中にある高台の高良台に、島津義弘の軍の約一万。そしてその左翼が破られると柳川城への侵攻を許してしまう為に、左翼の兵を厚くすべく、筑後川付近に龍造寺高房の軍の約五千と、立花宗茂から兵を分けられた、日本三本槍の一人で立花四天王の中でも猛将で知られた小野鎮幸が約二千の兵を持って、柳川城への道を塞ぐ最後の壁となって陣を構えたのであった。
言わば久留米城を囲う、鶴翼の陣を敷くとともに、広大な筑紫平野の中にあって、少しでも地の利を得ようとする為に、立花、島津、大友の主要な各軍は高台にその陣を置いたのであった。
慶長7年9月10日――
徳川秀忠は久留米城に到着して反徳川勢の陣容を見るとすぐに、徳川勢の各将に対して、陣を敷くように指示した。
しかしそれは決して、相手の陣容に合わせた陣形ではない。
――筑後川に沿うような形で長蛇の陣を敷いて、柳川城を目指すように…
という父家康の指示に従って、そのようにしたのだ。なお長蛇の陣とは、縦方向に一列に兵を並べて、一点突破をするに適した陣形のことだ。
すなわち、久留米城を背にした筑紫平野に徳川秀忠の本陣を置き、その左手の筑後川沿いには、中国や四国から援軍に駆けつけた、池田輝政、藤堂高虎、加藤嘉明を並べ、秀忠の左手には細川忠興の軍勢を置いた。
そして秀忠の軍の目の前には、徳川譜代の武将たちである、本多忠勝、奥平家昌、榊原康政を置き、立花宗茂の軍を睨むように配置。
さらに秀忠の軍の右手、つまり柳川城へと続く方角には、先頭に徳川勢の中では最も多くの兵を率いている鍋島直茂。その横には田中吉政と寺沢広高、そして秀忠の右手を守るように黒田長政の軍を配置した。
それは反徳川勢から見れば、筑後川を背にした、背水の陣の横陣とも言えるものであった。
こうして両軍はいよいよその陣容を明らかにして、対峙を始めたのであった。
田中吉政の出自はあまり明らかとなっておりませんが、どうやら田中家は吉政の代までは帰農していたとの説があるようです。
では、次回は一旦両軍の陣容を整理した後に、いよいよ対峙の開始となります。




