第二次柳川の戦い⑭ 反徳川勢たちの思惑(1)
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徳川秀忠が大坂城に入った、慶長7年9月1日。九州においては、反徳川の各軍勢が兵を動かし始めた。各陣営の思惑が渦巻くままに…
………
……
肥前の国、蓮池城ーー
かつては、九州三強の一つであり、「肥前の熊」と呼ばれて九州中にその名を轟かせた龍造寺隆信が当主であった頃は、この肥前の国が九州の歴史の中心であったといっても過言ではないほどに隆盛を極めていた。しかしその隆信が沖田畷の戦いにて、島津軍によって非業の死を遂げると、龍造寺宗家の権勢は急激にその影を潜めることになった。
もとより冷酷な当主として家臣たちにも恐れられていた隆信は、その人望に薄く、龍造寺家そのものに絶対的な忠誠を誓っていた者たちは、ごく一部であったのであろう。隆信の嫡子である龍造寺政家が跡を継ぐものの、その求心力は弱く、龍造寺隆信を破ったことで急激に北へと勢力を伸ばし始めた薩摩の島津義久の勢いは止めることが出来なかった。
龍造寺政家はついに島津義久に降った。
この時の肥前の国の悲嘆はどれほどのものであったであろう…
九州北部を席巻したかつての龍造寺の面影はどこにもなく、島津に跪く当主の政家の姿に、誰もが失望した。
しかしそんな中、逆にその人望を集めたのは、鍋島直茂であった。
降伏後であっても、どこまでも狡猾に龍造寺家を瓦解させ、その領土を侵そうとする島津義久に対して、鍋島直茂だけは、龍造寺家を守る為に、義久と対等に渡り合い、家と領土を体を張って守り抜いた。
そしてこの頃に九州平定に乗り出してきた豊臣秀吉に近づくと、ついには島津家からの支配から脱却し、秀吉とともに島津を降伏させるに至ったのだ。
一方、龍造寺政家は、どこまでも受け身…
彼は、鍋島直茂の獅子奮迅の働きとは対照的に、全ては強者のなすがまま。その姿を見れば、もはやどちらが肥前の国を守るに相応しい人なのかは、誰が見ても明らかであった。
鍋島直茂が城の廊下を歩けば、その周囲には自然と人が集まった。しかし当主の政家が廊下に出ても、露骨なまでに誰一人として周囲を囲む者たちはいなかった。
龍造寺高房は、そんな父の姿を幼い頃から目に焼き付けてきた。
高房は、わずか五歳で太閤秀吉の命令により、父である政家から家督を継ぐと、その後見人には鍋島直茂が鎮座した。そして鍋島直茂とその息子の勝茂を正統な龍造寺家の跡継ぎとするために、高房に対して直茂の養女を嫁がせることで、彼を婿養子として、直茂が龍造寺家の実権を握ることを、正当化したのである。
ーーいつか見てろ…
自分の大事な家族が、政治の玩具とされていくその様に、そのどす黒い怨念は、高房の幼い心の内で確かな根を張っていった。
一度根を張った怨念ほどに深いものはない…高房のその醜くて黒い塊のような心は、時とともに彼の全てを支配するにまで至っていく。
ーーコロシテヤル…
もはや自我の欠けらさえも失いかけていた高房を、危険と見なした鍋島直茂は、彼を『人質』として、徳川家康に送り、故郷の肥前から離した。
もちろんこの事も、高房にとっては怨念を増長する出来事に他ならないのは言うまでもないだろう。
彼はついには、鍋島直茂の養女である妻の事を手討ちにしようとする未遂まで起こし始めたのである。
そんな中であった…
高房に対して、大友義統から書状が届いたのは…
ーー九州の平和を守る為に、九州三傑の龍造寺殿にも力を貸して欲しい…
この書状を目にした時、彼はその両目から涙を流した。彼にとっては、生まれて初めての心の底からの熱い涙であったように思える。
ーー初めて認められた…
そんな風に彼の心は軽くなり、その時ようやく長い眠りから目を覚ましたような、そんな清々しさを感じたのである。
鬱屈した心の内の黒い塊は、嘘のように小さくなり、その代わりに秋の空のような澄んだ色に心が染まっていく。
そう、既にこの時に彼は決めていたのだ。
ーー何かあれば、俺は戦う… 例え相手が天下人であっても…龍造寺家当主として頼られれば、それに応えてみせる!
…と。
そしてついにその時はやってきた。
彼の伏見の屋敷に、黒田如水が訪れて
ーーどうか力を貸して欲しい
と、彼に頭を下げたのだ。あの太閤秀吉の軍師と恐れられたその人が…
彼がとれほどまでに有頂天であったかは、想像するに難しくはない。彼は二つ返事で、それを承諾すると、早速行動に出た。
すなわち、人質の身でありながら、勝手に伏見の屋敷を抜け出して、故郷である肥前の国へと帰ったのである。
そして堂々と、本拠地である佐賀城からほど近い、蓮池城に入ると、鍋島直茂の目の前で、反徳川の兵を集め始めたのであった。
もちろん、その間に鍋島直茂は、その行動を諌める為に使者を送り続けた。
ーー徳川殿に味方する為に挙兵する機会は必ずやあるはずでございます!
その時は、高房様を総大将といたしますゆえ、何卒早まった行動はお控えくだされ!
そんな龍造寺家の今後を想う痛切な直茂の言葉は、もはや盲目的な使命感に囚われた高房に届くはずもなく、いたずらにその時は近づいていたのだった。
そして…
慶長7年9月1日、ついにその日を迎えた。
この日、鍋島直茂は自らの足で蓮池城をたずねた。既に兵たちは城に集められ、その数は五千を超えている。関ヶ原の戦い以降に、あぶれた牢人たちを積極的に雇い入れた結果であり、言わば烏合の集とも言えるほどに、質の低い兵たちばかりだ。
ーーこれでは無駄死にするだけだ…
兵たちを一目見て、直茂はそのように痛々しさすら感じた。
城主の間に通された直茂は、そこで待っていた高房に目通りする。既に彼は甲冑にその身を包み、いつでも出陣できるだけの用意を整え終えているように思えた。
「何用だ?見ての通り、俺は忙しいのだ。用があるなら、とっとと話すがいい」
と、高房は立ったままで、高圧的な態度で、養父である直茂に話しかけた。この時彼はまだ齢二十にも満たない若輩者にも関わらず、その態度には謙虚さの欠けらも感じるものではなかった。
しかし、そんな高房の無礼な態度に対しても、直茂は冷静に、そして主家に対する慇懃な態度に徹して答えた。
「高房殿に最後のお願いに参った次第にございます。
どうか出陣をお取りやめくだされ!
そして来るべき時が来ましたら、それがしとともにその兵たちの槍を、柳川城に向けてくだされ!
今ならまだ間に合います!
どうかその寛大なお心をもって、それがしをお助けするおつもりで、立花と島津を相手に、共に戦ってくださいますよう、心よりお願い申し上げます!!」
まさに魂を込めた言葉を、直茂は床に頭をつけながら言った。
だがそんな直茂を、冷たい視線で見下ろしていた高房は、短い言葉で彼を突き放した。
「話はそれだけか?ならもう帰れ。邪魔だ」
それでもなお直茂は下げた頭を上げようとはしなかった。彼は彼で必死だった。
なぜなら…
彼は龍造寺家を、ただ守る為だけに生きてきたからだ。
かつて彼は太閤秀吉に「天下を取るには覇気が足りない」と評された事があった。それはその通りで、彼は天下を取る気などさらさらなく、それどころか龍造寺家を乗っ取るつもりすらなかったのだ。
彼は龍造寺家に忠義を尽くすことに命を懸け、龍造寺家とともに鍋島家がこの先も代々栄えていくことが、彼の『夢』だったのである。
だから今は、この頭を上げる訳にはいかなかった。何としても徳川家康に対して、これ以上弓をひかせる訳にはいかないのだ。そんな事をしたら、龍造寺家は取り潰しになることは明らかだからである。
しかし、そんな直茂の悲壮な決意が通じるほどに、高房の理性は残ってなどいなかった。
「では、いざ出陣だ!」
と、目の前で頭を下げ続ける直茂など、いないもののように声を上げると、大股でその部屋を出て行ってしまったのである。
一人部屋に残された直茂。彼の目からは涙がこぼれ落ちていた。
彼の今までの龍造寺家への尽力は、この時全て水泡に帰したように思えて、悔しくて仕方なかったのである。
「なぜ… なぜ分かり合えぬのだ…」
彼はそう漏らすと、ようやく頭を上げた。もちろんそこには誰もいない。そして、外からは雑兵たちの荒々しい雄叫びが聞こえてきた。
「もう駄目なのか…」
そう思うと、再び涙がとめどなく落ちる。目の前はかすみ、高ぶった感情は、全ての五感を鈍らせるだけであった。
…と、その時だった。
彼の肩に暖かな手が添えられたのは…
停止していた思考と、感覚を失っていた五感が戻ってくる。
そしてその手の持ち主を、直茂は見上げた…
その人物は…
龍造寺政家… 高房の父であり、無念の隠居を余儀なくされたその人であった…
政家は、呆然と見上げる直茂の前に膝をつくと、頭を深く下げて言った。
「お主の龍造寺家を想うその気持ち…本当にありがたい。そして、我が息子の数々の無礼、どうかお許しくだされ」
そう…政家は全て分かっていたのだ…
鍋島直茂が私心なく、龍造寺家の為に、その命を懸けて働いていたことを…
そして政家は、自分が受けた数々の屈辱を全ての受け入れ、直茂の働きに心から感謝していたのである。
鍋島直茂は、龍造寺政家に後ろめたさをどれほど感じていたことだろう。しかしその政家は、直茂に対して感謝し、決して卑屈な思いなど抱いていなかったのだ。
その政家の器の大きさに触れた時、直茂は自分が尽くすべき相手を間違えていなかったことを確信し、そして壊れかけたその心が救われた。
三度涙が滂沱として流れ落ちる。
そんな直茂に、政家は優しく声をかけた。
「あとは俺に任せてくだされ。あれでも我が息子だ。父である俺がその愚行を諌めずして、誰が諌めようか。もはや出陣を止めることはかなわぬ。だが、必ずや俺がどこかで高房を止めてみせよう」
直茂の口からは、嗚咽以外何も出てこない。ただひたすらうなずき、政家の手を強く握るより他なかった。
そして最後に政家は穏やかに告げたのだった。
「肥前の国のこと、民のこと、どうかよろしく頼む。お主とお主の嫡子である勝茂殿こそ、この肥前の守り手としては相応しいと、俺は思っておる。
何卒、善政を敷き民を笑顔にしておくれ」
そう言うと、なおも号泣している直茂の手を離し、彼もまた直茂を残して部屋を出ていった。
そして政家は、既に兵を率いて城をあとにした息子の高房の背中を追って馬上の人となったのであった。
すれ違いとは悲しいものです。
本人たちの向いている方向は同じであっても、一度生じてしまった確執による亀裂は、粉々になるまで止めことは不可能なのかもしれません。
次回は、島津と大友の決戦直前の思惑になります。
では、これからもよろしくお願いいたします。
 




