第二次柳川の戦い⑪ 別れ方
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慶長7年(1602年)8月18日――
俺が豊臣秀頼としてこの時代にやってきてから、この日でちょうど2年が経過した。
夢にまで見てきた戦国時代を生きるという事は、自分で思っていた以上に厳しいもので、毎日が生き抜く為に覚える事でいっぱいであったように思える。
幸いなことに、俺には厳しく俺を指導してくれている甲斐姫がおり、いつでも優しい笑顔を向けてくれる母の淀殿や、婚約者というには若すぎるが、俺を慕ってくれている千姫もいる。友人にも恵まれた。木村重成、大野治徳、堀内氏久それに明石レジーナ、彼らと千姫をまじえて、無邪気に遊ぶ時間は、俺にとってはかけがえのない時間と言えよう。
まるで瞬きをしている間に、この2年という長い歳月が過ぎてしまったように感じるのは、その生活が充実していたからであろうか。それとも避けようのない未来に向けて、歴史の歯車が加速し始めたからであろうか。
そして、この2年の歳月の中で、俺は様々な人々と知り合い、遠い未来では書物の中でしか生きていなかった人物たちと間近に接することが出来たのは、本当に感動的な体験だ。俺は、自分で言うのもおかしなものだが、一人一人との出会いを大切にして、その名を知る者もそうでない者に対しても、敬意を払って接してきたつもりだ。もちろん今後もその気持ちに変わりはないだろう。
こうして多くの人と関わる中で、もっと様々な事を身につけて、少しでもこの時代の豊臣秀頼という人間が、日本の歴史の中にあって、恥じることのない立派な人であったという証を残したい。それこそが、元いた豊臣秀頼と、亡き父の豊臣秀吉に対する何よりの奉公になると考えたからだ。そしていつしか、日本の民の生活を少しでも豊かなものにして、かつて美濃の山奥で出会った、あざみと権兵衛のような悲しい兄妹の運命のようなものを少しでも減らす事が出来れば、それで本望な気がしていたのであった。
しかし、『出会い』とは対をなすものであり、切り離すことが出来ないことが、『別れ』であるという事を、俺はこの時に気付くべきだったのかもしれない。
いや、仮にこの時にそれに気付いていたところで、この時の俺に何が出来たであろうか…
『出会い』は偶然か必然かなどは分からない。
しかし、出会ってしまった以上、『別れ』は必然となって訪れると言えるだろう。
そして、大切なのは『出会い方』ではなく、『別れ方』なのかもしれない。
その日はそんな事を感じさせる一日となった…
………
……
立花宗茂と島津義弘からの使者を引きつれた黒田如水は、結局その後、徳川家康に謁見することすらかなわず、門前払いを食った。
正確には彼らを対応したのは、実務を取り仕切る本多正純であり、徳川家康からは「立花は柳川城の開城、島津は当主である島津義弘が直接謝罪にくること、この二つが成されない限りは到底許されるものではない」との伝言を預かっていたとのことだったそうだ。
当然、立花宗茂にしても島津義弘にしても、受け入れられる内容とは言えず、両家ともに徳川家康と一戦交えんと、戦支度を始めた。
一方の徳川家康の方も、九州にて十万石以上の所領を持つ大名たち…龍造寺高房、黒田長政、細川忠興、田中吉政、寺沢広高に対して、いつでも出陣出来るように準備を整えさせたのだが、肥前熊本に五十万石以上の所領を持つ加藤清正については、二条城の普請があるので出陣は見送られた。無論、清正が立花や島津と通じている事を懸念したからに他ならない。
さらに江戸城では兵たちが各地から集められ、その数は結城秀康によれば、八月の時点で三万を超えているようだ。
それを二つに割り、先陣と徳川秀忠、後詰めとして総大将の徳川家康がそれぞれ大軍を率いて九州に出立するのではないか、と見られている。
その他にも、播磨の池田輝政や伊予の加藤嘉明、そして藤堂高虎なども兵を城下に集めているとの噂が立っており、家康が挙兵すれば、それに呼応するのではないかと思われていた。
九州取次として奔走していた黒田如水は、あくまで表向きは『中立』な立場として、田中吉政の領内にある山下城を拠点として活動を続けていた。集まった牢人たちは千五百を超え、「天下を治める豊臣家の名代として恥じぬように城を整える」という名目のもと、彼らの手によって廃城寸前であった山下城は綺麗にその姿を元に戻したようだ。もちろんその普請は家臣たちの手によって行われ、如水自身は最後の最後まで、九州各地の大名に何らかの働きかけをしていたようだが、その内容はついに俺には明かすことはなかった。
そして秋の足音すら感じられるようになった今日、8月18日に、如水はお供として三人の側近を連れて、大坂城までやってきた。俺は彼らを真田幸村とともに、天守の最上階にある俺の部屋で迎えた。
「カカカ!また背が伸びたのではございませんか!?
この如水などすぐに追い越してしまわれるでしょうな!」
と、豪快な笑い声とともに如水は姿勢を崩して俺に笑顔を向ける。俺も笑顔で答える。
「ははは!俺の父上はあまり背が高くはなかったようだからな、もしかしたらそろそろ止まってしまうかもしれんと毎日ヒヤヒヤしておるのだ!」
その言葉をうんうんとうなずきながら如水は聞いている。その顔はどこか吹っ切れたような、爽やかさを感じるものであった。
そしてそんな如水が話を切り出した。
「今日は秀頼様にお願いしたい事がございまして、ここにやってまいりました!聞いていただけますかな?」
と、相変わらず軽い調子だ。先日の評定の時に見せていた重々しい雰囲気など全く感じない。
俺も軽い調子でうなずき、それを許すと、如水の瞳が少し変わった。表情は全く変わらないのだが、確かにその瞳だけは少し曇った気がした。
しかし声の調子は軽いままに話し始めたのだった。
「今日はここにわしの友であり家臣を三名連れてきております。
彼らの事を是非覚えていただきたいのじゃ!」
「おお!そんなことであったか!実は名前は知っておるのだよ!
栗山善助殿!」
と、俺は如水の横に並んでいる三人に声をかけた。
すると一番背の低い人の良さそうな顔をした男が軽く頭を下げた。
「栗山善助にございます!秀頼様にお名前を覚えていただけるだけでも光栄至極にございます!」
「おお!お主であったか!これからも黒田家の屋台骨として働いておくれよ!いやぁ、嬉しいのう!また新たな知り合いが増えた!
それから井上九郎右衛門殿!」
その名前を呼ぶと善助の左に座っている切れ長の目をした男が軽く頭を下げた。
「井上九郎右衛門にございます。お名前を呼んでいただき、ありがたき幸せに存じます」
「おお!やはりいつでも冷静な忠臣と聞いておったが、その通りのようだ!嬉しいのう!
そして、母里太兵衛殿!」
すると善助の右に座っていた一番体格ががっしりした男が答えた。
「はっ!母里太兵衛にございます!よろしくお願い申し上げます!!」
「おお!お主が、あの母里太兵衛殿か!
福島正則殿から得た槍…日本号はいかがかな!?」
「なんと!?それがしの自慢の槍の事をご存知でしたか!?いやあ、殿から聞いておりましたが、秀頼様は博識でございますな!」
「いやあ、嬉しいのう!黒田武士の知り合いが増えたのだからのう!」
そう俺が喜んでいる様子を見て、如水も嬉しそうに笑いながら目を細めているが、その目尻には光るものが見える。この時、俺はその光は笑い過ぎによって生じた涙とばかり思っていたのだ。
そしてひとしきり全員で笑い合うと、如水が口を開いた。
「次のお願いなのじゃが… 見せて欲しいのじゃ。
大坂城の天守から見下ろす大坂の街並みを!」
「おお!かようなことであれば、お易いご用だ!
ささっ!皆こちらに参れ!」
と、俺は立ち上がると、襖を勢いよく開いた。
すると…
夏空の眩しい太陽の元、目の前には活気に溢れた大坂の街並みが、飛び込んできた。
「ささっ!廻り縁に出てみようではないか!」
と、俺は率先して襖の外に出ると、高欄を両手でしっかりと掴んだのであった。
「おお!絶景じゃ!!カカカ!よいのう!!」
と、如水は目を細めて遠くの景色を、気持ち良さそうに眺めている。俺も如水の顔から視線を離し、遠く大坂の街並みへとその視線を移す。
夏の陽射しで明るく照らされたその景色は、いつみても雄大であり、俺の心を躍らせる。そして実際には見たことも触れた記憶もない、亡き父太閤秀吉を側に感じられるような気がしてならないのだ。如水も今、同じ思いなのかもしれないな…そんな風に彼の心情を想像していた。そして横に立つ俺の肩に手を置いた如水は、いつになく優しい声で言った。
「もう一つお願いしたい事がございます」
「なんだ?」
「この景色… 秀頼様にお子が出来たら、そして孫が出来たら、見せてあげてくだされ」
先ほどの乾いた声の調子とは異なり、少しだけ湿り気のある言葉に、俺は戸惑いつつも、
「あい分かった!俺の子にもこの景色を見せてやろうではないか!まだまだ先の話であろうがのう!ははは!」
と、その湿り気を吹き飛ばすように、できる限り明るい声で答えた。
「ありがたき幸せじゃ… 本当にありがたきことじゃ…」
と、如水はしみじみと口にする。
ふと俺の左肩に乗せられた彼の手を見ると、その手がかすかに震えている。俺はますますいぶかしく思い、彼の顔を見上げようとしたのだが、その瞬間、彼はくるりと振り返り、
「さあ、そろそろ失礼いたそうかのう!今日は秀頼様のおかげで、良い一日じゃった!カカカ!」
と、何かごまかすように部屋の中へと入っていった。
俺たちは、再び元の位置で座り直すと、如水が最後の願いを口にしたのだった。
「最後に、秀頼様にもう一つだけお願いしたいことがございます」
「なんじゃ、今日は何だか不思議な願いばかりであるな…」
「カカカ!そうかもしれんのう!
最後の願いとは、今から二年後のことじゃ」
「二年後…?」
「そう今から二年後、それは亡きお父上の太閤殿下の七回忌の年にございます。
ついては豊国神社にて、盛大に祭をお開きくだされ」
「おお!そうであったか!ふむ!是非開こうではないか!」
「その祭… この先何があっても必ずお開きくだされ」
そう言った如水の表情は、先ほどまでとはうって変わって真剣そのものだ。俺はその表情に気圧されるようにたずねた。
「ふむ…なにがあっても…か…?」
「ええ、何があっても、にございます。
その意味、祭になれば必ず分かりますゆえ…
お頼み申しますぞ!」
と、如水は俺の手を取り、強く握りしめた。
「あ、ああ…分かった!約束しよう!
もちろん祭の開催にあたっては、如水殿も手伝ってくれるのであろう!?」
と、俺は首を縦に振って、わけも分からないままに問いかける。すると手を離した如水は、口もとを緩ませながら答えた。
「ええ…もちろんにございますぞ。この如水も天下一の祭にすべく、全力でお手伝いいたしましょうぞ!カカカ!」
と、少し不自然なほどに、乾いた高笑いをして答えたのだった。
「さて!では、そろそろ行こうとするかのう!」
と、如水は自分の膝をぽんと叩くと、ゆっくりとその場で立ち上がった。すると善助ら全員も立ち上がったのだった。
傍にある杖をつき、俺に頭を下げる如水。
俺も立ち上がると、彼らを見送る為に、彼らとともに部屋の奥へと歩いていく。
そしていよいよ襖の前までやってきた。
今度は俺の方から声をかける。
「九州取次の件、このままつつがなく終えられよう、無事を祈っておるぞ」
「ありがたきお言葉じゃ。安心なされよ。
わしは太閤殿下にもお認めいただいた『軍師殿』じゃ。この任、最後までやり遂げてみせましょう!」
「おお!そしてその任が終わったら、また大坂に帰ってきて、今後も俺を支えておくれ、如水殿」
その言葉には如水は答えず、深々と頭を下げると、その場を後にしていった。
最初に見たときよりもその背中が少しだけ小さく見えるのは気のせいであろうか。そして最後の最後まで、どこか吹っ切れた様子であったのが、どこか引っかかる。それでも俺は、いつも通りの笑顔を見せて、この会談を終わらせたのであった。
再び部屋に戻ると、幸村と二人になる。
すると彼はいつも通りの優しい口調で俺に言った。
「良いお別れでございました」
その言葉の意味が全く分からない俺は、
「どういう意味だ?」
と、聞き返した。
「ふふ、今は秀頼様が何も分からないままでいる事が、如水殿のお望みとお見受けいたしますゆえ…」
と、幸村は答えをはぐらかし、彼もまたその場を後にしたのだった。
この言葉の意味…
俺が理解するその日は、すぐそこまで迫っていたのだが、そんな事には気づくこともなく、俺は不機嫌なまま、近くのコンペイトウの瓶に手を伸ばしたのであった。




