第二次柳川の戦い⑥ 誤算と追い風と…
◇◇
慶長7年(1602年)3月19日――
伏見の屋敷で、九州取次の準備を進めていた黒田如水は、いよいよそれを終えて、九州へと出立することにした。その報告をする為に、彼は屋敷のすぐ側にある伏見城に行き、徳川家康をたずねることにしたのだった。
春の陽射しは柔らかいと言えども、浴び過ぎは如水の体にはこたえるようで、彼は休み休みその本丸を目指す。
「もう少しじゃのう」
そう漏らしながら、木陰で休んでいる時だった。
「ややっ!これは黒田如水殿ではございませぬか!?」
と、大きなしゃがれた声がした。如水がその声の持ち主の方を向くと、そこには如水と同じような年齢と思われる初老の男性の姿があった。
しかし如水と比べるとその体は大きく、着物の下の豊かな体つきが分かるくらいに、たくましい体つきをしているのが分かる。
「これは本多忠勝殿か?おお、久しいのう!」
そう、その男の名は本多忠勝。太閤秀吉から「東の天下無双」と称されたほどの人物で、徳川家康の戦における功臣で、その武勇は徳川家随一と言っても過言ではない。関ヶ原の合戦の後は、伊勢の桑名に十万石の所領を得て、息子とともに暮らしていた。
彼は家康にとっては重臣の一人ではあるが、戦がひと段落したこともあり、政治からは一線を引き、言わば隠居のような生活を送っていたのだ。
そんな彼と伏見城で顔を合わせることになることに、如水は驚き、目を丸くした。
しかしそれは忠勝の方も同じであったようで、彼は如水に問いかけた。
「如水殿も殿に呼ばれたのでしょうか?」
「ほう… ではお主も…?」
「さようにございます!『どうしても平八郎に頼みたいことがある』というではありませんか!殿がここまでそれがしを必要としてくれるなんて…かようなめでたきことはござらん!こんな老骨と言えども、殿のお役に立てるなら、火の中、水の中、この本多忠勝平八郎…飛んで参ります!ガハハハ!!」
たいそう上機嫌な忠勝であったが、一方の如水はそんな彼をいぶかしく思っていた。いや、正確に言えば、『彼が徳川家康に呼ばれた』ことが不思議でたまらなかった。なぜならこの頃、家康はかつて武勇でならした者たちを、政治の場である伏見城からは遠ざけていたからだ。
それは要所を武力で守ってもらう、という意味合いもあったであろう。しかしそれ以上に、本多正純や大久保忠常といった若くて文治に才を持つ者たちを重用し始めていたからである。そんな中にあって、武勇にその才が大きく偏っている本多忠勝が呼ばれた意味を、如水は深読みせざるを得なかった。
――戦の支度を始める気であろうか…もしそうなら、その標的は…
そんな事を考えている間に、忠勝は如水に大股で近づくと、その太い腕を如水の肩にかけて、耳元で大声を上げた。
「ここで会ったのも何かの縁でございましょう!共に殿のところへ参りましょうぞ!!いやぁ、今日は殿の顔を拝見出来るだけではなく、かように古い知り合いにも会えるなんて…それがしは果報者にございますなぁ!ガハハハ!!」
忠勝はそう言うと、強引に如水を引きずりながら本丸の方へと歩き出す。こうなれば抵抗しても仕方がないし、いずれにせよ家康の前まで二人で顔を出せば、おのずと忠勝が呼ばれた理由が分かるであろうと、如水もまた懐かしい顔合わせに身を委ねることにしたのであった。
「ところで本多殿、お孫様…お名前は平八郎殿でしたか…すくすくと育っておりますかな?」
その如水の問いかけに、忠勝の上機嫌な顔は、今度はみるみるうちに可愛い孫を想う好々爺の顔に変化する。
「ふむふむ!元気であるぞ!近頃は槍の稽古も始めてのう!わし自ら稽古をつけてやっているのだ!」
「なんと…本多殿自らが…それは手加減せねば、死んでしまいますな」
「ガハハハ!!如水殿は冗談が上手い!男児とは言え、相手は男!手加減など断固無用!槍を合わせたからには、生きるか死ぬかの覚悟で稽古に励んでおりますぞ!」
「そ、そうであるか…」
と、如水が心配そうにした相手…それはこの頃六歳になったばかりの、本多忠勝の孫であった。名前はこの頃はまだ平八郎と呼ばれていたが、後は本多忠刻と呼ばれるようになり、小さな頃から美丈夫で知られていた。
如水は、風の噂で彼の存在を聞いており、忠勝がたいそう可愛がっていると知っていたのだ。
「ガハハハ!あの子も立派な男に育って、殿や秀忠様にしっかりと奉公できるようになって貰わねばならん!その為には、一に精進、二に精進でございます!」
「何事も度が過ぎると毒になると聞く…ゆめゆめお忘れなきよう…」
「おお!!これは如水殿からご助言いただけるとは…この本多忠勝平八郎、しっかり胸に刻みつけ、より厳しく孫を鍛えます!」
その全く話が通じない様子に、如水は大きなため息をつくと、諦めたような表情で本丸を眺めた。それはすぐ側まで来ており、これ以上何かしら話を振らずとも、不自然ではなかろう…そう思い、口を閉ざすことにしたのであった。
しかし、この時の如水が気付くはずもない事実がある。
それは史実において、大坂の陣で豊臣秀頼が自害した後、未亡人となった千姫の新たな嫁ぎ先が、この話題に上がった本多忠刻となる事を…
そしてその未来を、この世界の秀頼は知っているという事を…
………
……
「なぜお主らは二人でやってきたのだ?」
と、徳川家康は不可解さを表に出して、しかめ面で黒田如水と本多忠勝に問いかけた。
すると、忠勝は上機嫌をその声に乗せて答えた。
「殿!!お聞きくだされ!!なんと殿にお会いできるこの日に、偶然にも、同じく殿のもとへ向かう如水殿に、ばったり顔を合わせたのでございます!!
いやぁ、近頃はどの城に行っても、知らぬ若い顔ばかり!!このように古くから知った顔に会えるだけでも嬉しいものですな!!ガハハハ!!」
その忠勝の言葉は、家康の問いかけの回答としては的を射ていないものであったが、当の家康はそれでも状況を理解したらしく、
「なるほど…たまたまわしに挨拶にきた如水殿を見かけたゆえ、共にやってきた…という訳であるな」
と、うなずきながら言った。
「殿!!その通りにございます!!さすがは殿じゃぁ…」
「ふん、まあよい。平八郎(本多忠勝のこと)よ。こたびは、亡き直政に代わり九州取次を黒田殿に任せることにしたのじゃ。黒田殿はその挨拶にきたという訳だ。
お主には別に頼みたい事があるゆえ、今は別室に控えておれ」
「なんと… 直政殿のご遺志を如水殿が… さすがは如水殿!!いまだ九州は逆賊の輩がその爪を研いで、殿に歯向かおうとしておると聞いておる!!なんとか奴らを叩きのめしてくだされ!!」
「これこれ、平八郎。何も黒田殿は戦をしにいく訳ではない。変な勘違いをするでないわ」
「なんと… そうでございましたか!これは大変ご無礼な事を!!申し訳ございませんでした!!
では、一体何をされにいくのでしょう?」
その忠勝の問いかけに、一瞬間が出来た。
そして、家康と如水の視線が混じり合う。
それは互いに「どちらが答えるか」と牽制しあっているようであった。
すると、家康の方からそれを口にした。
「わしの…この徳川内府の代わりに、九州のいざこざを抑えにいくのだ。戦を起こさぬようにのう」
その答えに如水の目が細くなる。一方の忠勝の目は大きくなった。
「なんと!戦を起こさずして、九州のいざこざを… これは大役にございますなぁ!しかも殿の代わりに…」
その忠勝の熱のこもった口調とは正反対の、氷水のように冷たい口調で如水が口を開いた。
「たしかに大役でございますな… しかし一つだけ内府殿の言葉に誤りがございますぞ」
家康の目がきらりと光る。
「ほう… 黒田殿。それは何かな?わしが何か間違ったことを申したなら、直さねばならぬ」
如水は家康の目から視線を外さない。家康もまた、如水のその視線を余裕で受け止めていた。
忠勝は二人のただならぬ雰囲気に気付かぬのか、如水と家康を不思議そうに見比べている。
そして如水は低い声で、しかし鋭く切れ込むように言った。
「徳川内府殿の代わりではござらぬ… 天下を治める豊臣秀頼様の代わりに九州に行ってまいります」
如水が九州取次を、豊臣秀頼の名代となって取り仕切ること…その事は既に本多正信から聞かされていた。その為、家康にとってこの指摘は想定済みのことであった。しかし、それでもなお家康の心にぐさりと何か刺さるものを感じたのは、彼の中にわずかに残る、罪悪感のようなものの悪戯なのだろうか。
しかし家康は心の内で首を横に振った。
もうこの時、彼は心に決めていたのだ。散々周囲からは進言され続けていたが、かたくなに認めなかった、大きな野心を満たすことを…
すなわち「天下人になる」ということを…
しかしその心の痛みはなかなか消えない。
それは、彼が太閤秀吉から受けた恩のようなものが邪魔をしているのか、それとも天下の後継者である豊臣秀頼に弓を引くことになることへの恐怖からだろうか、それは彼自身でも分からなかった。
そんな時だ。彼の頭の中にとある男の言葉が浮かんできたのは…
――徳川内府殿… いよいよ殿が天下を取る時が来ましたぞ
その言葉はつい先日聞いたばかりのもの…すなわち本多正信からの進言であった。
周囲が何度もその言葉を家康に投げかける中、彼だけはそれをなかなか口にしなかった。それは、家康自身がその事に様々な葛藤があったのを知っていたからだ。しかし、歴史の歯車は止まる事を許さず、彼に決断の時を迫っていた。苦しい胸のうちを打ち明ける相手もいない中に、まるで天から降ってきたかのような、正信の言葉に彼は救われ、そしてその決意を固めたのであった。
しかし今、彼の中で如水の言葉が胸に刺さっている。
そのことにとまどい、彼は言葉を失っていたのだった。
そんな中だ。彼を我に返すほどの大声が部屋中をこだましたのは…
「ガハハハ!それは妙計でございますな!!殿の名代としてではなく、豊臣秀頼様の名代として如水殿が動けば、九州の輩も大人しくなるかもしれませぬ!!
今まで直政殿は、殿の名代として動いておりましたからな!!流石は如水殿じゃ!!」
その忠勝の言葉に、家康は目を大きくして、忠勝を見つめた。
その視線に気づいたのか、忠勝は気を良くして、次の言葉を発したのだ。
「殿!!よいではございませんか!!」
「う、うむ…まあ…」
と歯切れの悪い家康に対して、如水は微笑みを携えて主従を見つめている。
しかし次の忠勝の言葉で今度は如水が目を大きくした。
「もし、如水殿のお力を持ってしても、九州の逆賊が言う事を聞かぬその時は、今度はこの本多忠勝平八郎が、殿の名前をもって逆賊を成敗してご覧いれましょう!!
口で言っても聞かぬ者は、腕で黙らせるより他ありませんからな!!ガハハハ!!!」
この言葉の意味…
それは豊臣家の威光をもってしても降伏をしない場合は、徳川家の武力によって九州を平定すればよい…というものだ。
如水はこの日、この事だけは避けたいと思って、家康の前までやってきた。
すなわち、仮に調停が家康の定めた期限までに上手くいかずとも、九州取次を辞任するので武力行使だけは避けて欲しいと頼みにきたのだ。
しかしそれは今、忠勝の発言によって言い出しにくい雰囲気になってしまった。
如水は心の内で舌打ちをする。
もちろん家康がこんな絶好の機会を見逃す訳はなかった。目を大きくした如水に代わるように目を細めて忠勝に告げた。
「よう申した!!それでこそ東の天下無双!!
これで如水殿もまたとない切り札が出来たというものであろう!
すなわち、降伏せねば本多忠勝が兵を率いて攻めてくると聞けば、奴らも必ずや恐れおののくであろう!!」
「しかし!内府殿…それは…!」
なんとか反論しようとする如水だが、言葉がとっさに出てこない。
この場に本多忠勝がいること…
それが如水にとっては完全に誤算であった。
しかしそれは家康にとっては追い風となったのだ。
家康は言葉を続けた。
まるで「反論の余地は許さぬぞ」とでも言わんばかりに…
「平八郎よ!!如水殿に設けた期限は長月までなのじゃ!それまでに兵を鍛え上げ、いつでも出陣出来るよう準備を整えよ!!
今日、平八郎を呼んだのはそのことを告げたかったからなのだ!!やってくれるな!?」
「ははーーーっ!!!
うおぉぉぉ!!!燃えて来ましたぞ!!如水殿!!この本多忠勝平八郎、如水殿が安心して九州取次の任務をこなせるように戦の支度を整えますゆえ、どうぞご安心くださいませ!!」
「よしっ!!二人とも話はここまでじゃ!!早速取りかかれ!!」
そう言うと家康は自ら部屋を出ていってしまった。
続いて忠勝も上機嫌でその場を後にする。
そして、部屋に残された如水は、しばらくその場に座り込み、立てないでいた。
九州の仕置きのことで圧倒されたというのもある。しかしそれ以上にこのわずかな時間の中で感じたこと…
それは…
ーーもう徳川家康を止めることはかなわぬ…
という諦めからの無力感であった。
しかし…
そんな彼の元に、一人の男が音も立てずに現れた。
この後の黒田如水の一世一代の賭けに、一筋の逆転の光を与える男が…
本多忠刻と千姫の婚姻については、様々な美談が伝わっております。
しかし本当にそうであったのでしょうか…
歴史の勝者のみが後世に残せるものも数多くあるかと思っております。
彼らの婚姻もまたそのうちの一つなのかもしれません。
そして本多忠勝。
関ヶ原の合戦以降は、伊勢桑名で領地経営に息子の忠政と励んでいたそうです。
どうしても彼のセリフが、あの声で再生されてしまいます…
では、次回は如水の逆転の芽となる人物との出会いから話が進みます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




