第二次柳川の戦い⑤ 軍師の見た夢
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慶長7年(1602年)3月16日ーー
黒田如水は朝から伏見城につめていた。それは九州取次の件に関する様々な引き継ぎを徳川方から行う為であった。引き継ぎといっても、仕置きの進捗をしたためた書を受け取ることであり、その立会いは本多正信が行なった。
うららかな春の陽射しの中、黒田如水が連れてきた若い武士が、せっせと書類を運んでいる。如水はそれらを伏見にある彼の屋敷に運ばせていた。本来であれば徳川家康の息がかかるこの伏見の屋敷ではなく、大坂城を彼の拠点としたいのは山々であったが、秀頼への影響を加味すると仕方がなかったのだ。
すらすらと書状の中身を確認して、持っていくものと残しておくものを如水がし分けていく。
そんな彼のもとに本多正信が顔を出した。
「精が出ますな、如水殿」
と、思いの外軽い声で正信が話しかけると、如水は笑顔で答えた。
「カカカ!重い荷物は若い衆に運ばせておるからのう、精は出ても汗が出ることはないので、随分楽なものよ!」
その如水の様子に、正信も肩の力を抜いて穏やかな微笑みを浮かべている。
とても「徳川の知恵袋」と「豊臣の知恵袋」の顔合わせとは思えぬほどに、その雰囲気は、春の気候にぴたりと合ったものであった。
「しかし、こたびの九州取次のお話、ご隠居の身の如水殿がお受けになるとは思いもよりませんでした。なにせ官位も所領もお断りになられたのに…」
「カカカ!隠居の身もいざ始まってしまうと、事のほか暇で仕方なくてのう。こんな老骨でも天下泰平のお役に立てればと思い、引き受けたのじゃ」
「なるほど… それは殊勝な心がけにございますな」
そこで会話は止まると、正信は如水が書に目を通す様子を眺めていた。
すぐ側にある庭では、小鳥たちのさえずる声。そして爽やかな風が木々を揺らす音。その中にあって、どたどたと慌ただしく廊下を行ったり来たりしている若い武士の駆ける音がこだましている。
言葉を発さずに黙々と書に目をやる如水。そんな彼をこちらも一言も発せずに穏やかな表情で見つめる正信…
そんなのどかな時間がしばらく続いた。
ふと正信が声を出した。
「少し… お痩せになられましたかな?」
上目でちらりと正信を見る如水は、静かに答えた。
「そうかのう…自分ではよく分からんよ。
それにそう言うお主は、額のしわが増えたのう」
「ほほ…これはいらぬことを申してしまったようですな」
「なに…よいのだ。近頃はこのような他愛もない話をする相手も少なくなってきたのでのう」
と、如水が心なしか寂しそうな声で漏らすと、再び沈黙が支配した。
言葉はない。
しかし言葉はなくとも、そこには二人ならではの不思議な感情の行き交いが生じていた。
それはさながら会話をしているようで、二人の心を軽くしている。
はたから見れば摩訶不思議な光景かもしれないが、二人とも心底楽しそうな顔で沈黙を貫いていたのである。
ーーああ、やはり黒田如水という男は、比肩する者なき、唯一無二の知恵者だ…
そんな感慨が正信の胸の内を覆うと、避けられぬ近い未来を思い、彼の心はいつしか落葉の秋のように、冷たい風が吹くようになった。
そしてしばらく経った後…
いよいよ正信は行動に出ることにした。
正信は変わらぬ穏やかな口調で、その問いを如水に投げかけたのだ。
「なぜ、そこまで豊臣秀頼様に肩入れされるのかな?」
その言葉に如水の書をめくる手が止まった。
春風が少しだけ強く吹くと、ざわざわと木々が揺れる音が大きくなる。
そしてその一陣の風が止んだ後、如水も変わらぬ穏やかな口調で答えた。
「夢… かのう…」
意外な如水の答えに正信の目が丸くなった。
その様子を見た如水は、ぽつりぽつりと語り出した。
「わしは夢を見るのが好きじゃ… 自分が仕える者の目を通してのう…
かつては太閤殿下の見た夢を共に追いかけた。
あの時は楽しかった…
あのお方の見ていた夢に、わしの胸は踊り、疲れなど忘れて四六時中駆け回った」
ここで如水は一旦話を切ると、目をつむり、天を仰いだ。
遠い過去を想い、彼の人生の絶頂期とも言えるその時期に心が躍っているのだろうか。
その頬は正信が見ても分かるほどに、紅く染まっていた。
言葉の先を促すように、やわらかな風が部屋の中に舞い込んでくる。
「そしてわしは、『天下一の城を大坂に作ってくれ』という太閤殿下の命によって、大坂城の普請にあたった。そのことはお主も知るところであろう。
わしはその城を、太閤殿下の夢を叶える場所としたかった…
その為に縄張りを考え、天守閣を作った。
ここでも懸命に仕事をした。太閤殿下の喜ぶ顔が見たくてのう。
そして、いよいよ天守閣が完成した時のことじゃ。
太閤殿下とともにその風景を…夢の景色を見たのは…」
如水は再び言葉を切ると上を向いていた顔を下げて、正信の方へ向き直った。
その顔を見て、正信は自分の目を疑った。
そこには…
一筋の涙…
どこまでも頑固で、決して相手に弱みなど見せないと思っていた「太閤殿下の軍師」が今、涙を見せている…
その涙の意味するところは、なんであろうか。
太閤秀吉を懐かしんでの涙なのであろうか…
それとも…この先の未来を想っての涙なのだろうか…
そんな逡巡をしている正信に対して、如水は続けた。
「まだあちこちで工事が続き、人々が住むには整備されていない眼下に広がる広大な土地…
それを見て太閤殿下はおっしゃったのじゃ…
『見せてやりたいのう』と…
それがしが『何を?』とたずねると、こうおっしゃった。
『この城の天守閣から見る景色をじゃ』と…」
如水の言葉に、正信が問いかけた。
「どなたにお見せしたかったのでしょう…?」
如水は正信をじっと見つめている。
正信も目を離さずにその瞳を見つめた。
この時点で正信は、自分の問いかけの答えを理解していた。しかしそれでも彼は如水の言葉を待っていたのだ。
その言葉は…
黒田如水という男が、徳川家康と、そして本多正信との決別を意味しているもの…
「…無論、太閤殿下のお子…そして、孫…ひ孫…
眼下に広がる大坂の町が、天下泰平を謳歌し、繁栄していく様子を、太閤殿下は自分の跡を継ぐ者たちに見せてやりたいとおっしゃっておった。
それが太閤殿下の見た夢であった…」
正信はその言葉を胸に刻むように耳を傾けると、いつしか目をつむって、亡き太閤秀吉に想いを馳せた。
どこまでも明るく、人を楽しくさせ、そして天下泰平を望んでいたその姿。正信はあまり目にする機会はなかったのだが、それでも彼と顔を合わせた際には、理由もなく胸が躍ったことを覚えている。
そんな秀吉が夢見たのは、日本と、大坂と、豊臣家が代々繁栄していくこと…
そしてそのうちの一つについては、今自分がしようとしている事とは、決して相容れないものであることが、如水と自分を引き離すものであると、正信は胸を痛めた。
如水はどこか腹をくくったようで、しかし決して敵意などはない、強さを瞳に映して続けた。
「その夢を、わしは太閤殿下亡き今も、追いかけ続けておる。
それがわしの生きがいなのだ。生きる意味なのだ」
如水の言葉に重みを感じる。
切ない願いを感じる。
正信の胸にも、何かこみあげるものを感じて、危うく涙が出そうになるのは、歳を取って涙脆くなったからであろうか。
そして如水は、力強い言葉で締めた。
「それが、わしの…黒田如水の夢なのじゃ」
再び二人は口を閉じる。
部屋の中に未だ漂う悲壮感なぞどこ吹く風と言わんばかりに、小鳥たちは春を喜び、若い武士たちは汗をかいて書を外へと運んでいる。
正信はそっと部屋を後にしようと、如水に背中を向けると、相変わらず穏やかな口調で話した。
「…素敵な夢でございますな」
如水は顔を書状から離さずに口を開く。
「本当にそう思っておるなら、お主にも手伝って欲しいものだ」
正信は背を向けたまま微笑む。
「申し訳ございませぬ。それがしにはそれがしの夢がございましてな…」
「…さようか…ならば仕方ないのう…」
どこか諦めたような内容の言葉だが、その調子は、その事が前から決まりきっていたことのように、淡々としたものであった。
「では、九州取次の件、つつがなく事が進みますことを願っております」
「天下泰平の為、ご指名いただいた豊臣家の名代として、立派に務めあげてみせましょう」
正信はその言葉を聞き終えると、足音も立てずに静かにその場を後にした。
――豊臣家の名代…でございますか…
と、胸の内で如水の言葉を繰り返す正信。彼はその足で伏見城内の家康がいる部屋へと、ゆっくりと歩いていく。
彼は一つの事を家康に進言する為だけに、家康をたずねることにしたのだ。
――いよいよ… 綺麗事や、形式にこだわっておられる時は終わらせねばなりませぬ
と…
もしこの進言が聞き入れられれば、この先、徳川家康にとっての本当の試練が待ち受けていることであろう。それは言うまでもなく、天下を豊臣から徳川の手に移そうとする事による軋轢に他ならない。もしかしたら、それは徳川家内からも出てくるかもしれない。
しかし彼は、
――殿の歩みの妨げにはさせませぬ…
と、決意し、家康に降りかかる全ての障害から彼を守ろうと覚悟を決めていた。
なぜなら彼の夢は『徳川家康の見る夢』を共に叶えることなのだから…
そう、本多正信もまた『軍師の夢』を見ている男なのだ。
ご心配をおかけいたしまして、失礼いたしました。
大河ドラマでは割愛されておりましたが、秀吉の大坂城の縄張り(設計)および普請(監督)は、黒田如水が行っております。
彼もまた大坂城に夢を託した男の一人なのかもしれません。
さて、次回は如水がいよいよ九州取次として動き出します。
果たして彼はどのように動くのでしょうか。
では、これからもよろしくお願いいたします。




