最初の別れ
◇◇
左の頬がすごく痛い…
千のやつめ…本気で殴りやがったな…
俺は石田三成との会談を終えた後、まだ赤く腫れている頬に水で濡らした手拭いを当てながら、次取るべき行動を考えようと、自分の部屋に置かれた洋風の椅子に腰をかけていた。
しかし最後に感情に任せて三成を叱りつけたのはまずかった。
三成にしても、淀殿にしても確実に俺の事を怪しんでいたに違いない。
「ああっ!どうしよう…」
俺は気持ちの切り替えが出来ずに、一人で頭を抱えて唸る。
「過ぎたることはどうにもなりませぬ」
と、そこへ音もなく一人の男がいつの間にか俺の背後から声をかけてきた。
「うわぁっ!信繁か!?」
慌てて振り返ると、そこには昨日語り合った時と同じように穏やかな微笑をたずさえた真田信繁の姿があった。
「幸いなことに、治部殿は怪しむこともなく大坂城をあとにいたしましたよ」
俺はホッと胸を撫で下ろした。しかし信繁はそんな俺の反応を楽しむかのように、今度は顔をしかめて
「しかし…良い事ばかりではなかったようで…」
と、ため息を漏らした。
「むむっ!?なんだ?もったいつけおって。なにかまずい事でもあったのか?」
「はい…どうやら今回の会談、秀頼様の思惑とは真逆に、治部殿の内府殿との一戦に対する並々ならぬ決意に火をつけてしまわれたようです…」
「な、なにっ!?」
俺は会談後の三成と信繁のやり取りの一部始終を聞くと、頭を抱えた。
「ちくしょう!!歴史の事を知っているのに、なんたる役立たずなのだ!俺は!」
自虐して嘆く。
「世の中せちがらいものだのぅ…」
無情な世の中を嘆く。
嘆く。嘆く。嘆く…
俺はどんよりと肩を落として、様々なことを嘆き、いじけるより他なかった。
信繁はそんな様子をいつもと変わらずに、にこやかに見つめている。
それを横目で見た俺は、
「もしや信繁はドSなのか…?イケメンなら普通はここで慰めるものだろ?」
と、思わず彼の知るよしもない単語を使って、なじるよりなかった。
「よく分かりませんが、秀頼様は慰めて欲しいのですか?それとも気持ちを入れ替えて、前を向かれるのですか?」
俺はその言葉に目を丸くした。
信繁の口調は今まで通りに穏やかそのものだ。
しかしそこには確かな厳しさがあった。
それは担任の先生が生徒を指導するのに似ているような気がして、俺の背筋は条件反射的にピンと伸びてしまった。
それを見た信繁は穏やかな顔を崩し、満面の笑みを浮かべた。
「それでこそ天下人の後継者というものです」
俺はその笑顔を見て、腫れている左頬を見えない手で張られたような鋭い痛みを覚えた。
そうか…豊臣秀頼という存在は目の前の青年にとっては、身命を賭して守るべき存在なのだ。俺は彼にそうまで思わせるだけの「器」の人間でなくてはならない。
そしてそれだけではない。
これからは徳川や他の大大名とも面会する機会があるであろう。
彼らと渡り合うだけの「覚悟」は態度になって、絶対に現れるはずだ。
もしそれが「甘い」ものであれば、確実につけ込まれる。
それは俺の立場を不利にする要因に直結してくるので、細心の注意を払わねばならない。
俺は一つ身震いをした。
慰めて欲しい…
そんな甘い考えを持った自分を反省するとともに、これからの自分の立ち居振る舞いのあり方を見直す必要があるな、と気持ちを引き締めたのであった。
「では秀頼様…わたくしもそろそろ大坂を発たねばなりません」
ふと、信繁が声をかけてきた。その声色には少しだけ寂しさを含んでいるかのように思えたのは、俺の勝手な思い込みであろうか。しかし少なくとも俺にとっては、自分を理解してくれている唯一の人物との別れは非常につらく、寂しいものであった。
「そうか…やはり行ってしまうのだな」
彼はこの後、信州で徳川秀忠の軍勢と死闘を繰り広げ、その名声を後世に残すことになる。それは頭では十分に理解出来ているはずだ。
しかし、それ以上に「一人になるのが怖い」という感情が俺の胸のうちを渦巻き、それが口をついて出てきてしまったのだった。
「ええ、上田城に戻り、父の手伝いをせねばなりませぬゆえ」
また弱気の虫が胸のうちを暴れ出している。しかし、俺は俺自身が信繁に「ヒーロー」であることを求めるのと同じように、彼が俺に求める「天下人の後継者」像を体現したいと、先ほど心に誓ったばかりだ。
俺は寂しさと恐怖を紛らわせるように、口元に笑みを浮かべる。
不自然…
誰がどう見てもそれは「不自然」であり作り笑いである事は明確であろう。
しかし目の前の青年は、それを見ても馬鹿にすることはなかった。
むしろそんな俺を暖かい目で称賛しているようにも思えたから不思議だ。
俺は震えそうになるのを必死に抑えて告げた。
「表立って冶部殿に肩入れは出来ない俺を臆病だと罵ってくれても構わない。
ただこれだけは信じて欲しい。
俺は信繁の事を尊敬している。自分にとっての英雄だと思っている。
歴史がどうなろうとも、俺は信繁の味方なんだ」
信繁の表情は全く変わらない。しかしその目からは確かな俺への親愛の情が映っている。
…と信じたい。
そしてそれは確かな言葉となって明らかとなった。
「ありがたきお言葉、信繁にはもったいのうございます。
わたくしも秀頼様のお味方です。この戦がどんな結末を迎えようとも、それは変わりません」
俺はその言葉を聞き、ホッと息をつく。
言い表せないほどの安堵感と喜びが俺の弱気の虫を一掃していくのが分かった。
そうか…俺は最初から怖かったのかも知れない。
目の前にいる憧れの男に、嫌われるのを…
女々しい自分に反吐が出る。
しかしそれが現実だ。
自分が望んだこととは言え、元の世界からこの世界にタイムスリップをしてきたことへの恐怖は、この二日間常に俺の心を支配していた。
家族もいないし、友人もいない。それどころか元の俺を知っている人すら誰もいないのだ。
どんなに神経の太い人であっても、気が狂いそうなほど不安になるのは当たり前ではないか。
そんな中、唯一俺の事を理解してくれる人間が現れた。
かわした会話も少なければ、一緒に過ごした時間も短い。
「固い絆で結ばれた」とは口が裂けても言えないほど、他人から見れば薄っぺらい関係だと、せせら笑うであろう。
それでも俺にとって彼は「唯一無二」の存在である。
宗教じみているかもしれないが「救い」という言葉がぴたりと当てはまる。
その彼から「自分はあなたの味方である」と告げられたこの気持ちを誰が理解してくれよう。
涙が出そうになるのを俺は必死にこらえる。
それは自分に誓った「理想の豊臣秀頼像の体現」の為であることは言うまでもない。
そして彼に対して、俺はまだ小さな手のひらをいっぱいに広げて右手を差し出した。
それは俺からの感謝の気持ちを表すとともに、これからの二人の確固たる絆への証を残したいという、身勝手とも言える想いからであった。
それを見た信繁は不思議そうに俺の手と顔を見比べている。
「そうか。『握手』もこの時代はないのだな。信繁よ、右手をこう差し出してくれ」
「は…はぁ」
恐る恐るその右手を差し出した信繁に対し、俺はその手を半ば強引につかみ、上下に力強く振った。
「これが『握手』だ。相手との友好の証である。覚えておくといい」
俺はニカっと笑うと、信繁もはにかみながら笑顔を浮かべる。
この時、俺と同じように、彼も力強く手を握り返してきてくれているのは、彼の俺に対する友好的な気持ちの表れであると信じてもいいだろう。
そして俺は彼に別れの言葉を告げた。そこには先ほどまでの弱気はもうない。
自分の憧れの人物が、遠く離れた地であっても、心でつながっていることへの安心感が、俺の口調を明るくしてくれたようだ。
「達者でな!信繁!」
「秀頼様の方こそ。お達者で」
こうして俺は、この世界で最初の別れを体験した。
それは寂しい気持ちがある一方で、自分の弱さを補う強い味方の存在を認識した喜びに満ちていたのだった。
進行が遅くて申し訳ございません。
次はいよいよ東側の動きと思惑の話になります。




