第二次柳川の戦い③ 鷹の子は鷹
◇◇
ーーその口は、卑屈になりすぎるな、しかし傲慢にもなりすぎるな。
その目は、強すぎるな、しかし弱くすぎてもならん。
その感情は、濃く出しすぎるな、しかし薄すぎてもならん。
いつでも中庸…敵にも味方にも捉えられるように振舞うことが肝要。
そして…ここぞという所では腹をくくれ…
真田幸村は小さな頃から、数々の大名と渡り合ってきた父の真田昌幸に、外交の心得をそのように聞かされ続けてきた。
それは「教えられた」という言うよりは、昌幸自身が、外交の場に出て行く度に、いつも自分に言い聞かせていたように思える。
しかし幸村は、そんな父の「真田を守るため」と決意を固めて、強大な相手と渡り合いに出るその背中を見るたびに、その言葉を、まるで一種の癖のように胸に刻んでいったのだった。
そして今、彼にとっては初めてとも言える、外交の大一番が巡ってきた。もちろんそれは彼自らがお家を背負う当主となって行うものではない為、父昌幸の踏んできた数々のそれらとは、その意味合いも、背中に感じる重みも大きく異なるに違いない。
それでも彼にとっては、目の前にいる主君の豊臣秀頼を助ける為に、強い決意を持って徳川家康に話しかけたのであった。
「はて…?お主は…」
と、幸村の顔を見て、家康は不思議そうに眉を寄せている。
「真田左衛門佐信繁…今は真田幸村と申します」
すると家康の背後から、本多正信が耳元でささやいた。
「真田安房守の次男にございます。昨年、殿のお許しを得て、今は秀頼様の身の回りのお世話をなされているとか…」
「なんと…安房守の…」
家康の眉の皺が、「不思議」から「怪訝」を映したものに変わる。
「その左衛門佐殿が、わしに何のようだ?」
幸村はいつも通りの穏やかで、ゆったりとした口調で言った。
「今日はお年賀のご挨拶の場にございますゆえ、そのようなお話は、またの機会に…」
暗に九州の話から遠ざけようとしたのだ。しかし家康の余裕は全く変わることない。
「はははっ!そうであったな!おう、千よ!
おじじ達は、少しお仕事の話をしなくてはならないので、あっちへ行ってなさい。また次に顔を合わせた機会に遊んでやるからのう」
「はいっ!!おじじ上様!」
と、秀頼の苦悶など知る由もない千姫は、元気な声で返事をすると、そのまま部屋を出ていく。そんな孫娘に対して、にこやかな笑顔を向けていた家康は、彼女の退出とともに表情を引き締めると、崩していた姿勢を正した。
「これでよろしいかな?左衛門佐殿。
秀頼様もわしも互いに忙しい身。なれば、こたびの会談で、秀頼様に是非お願いしたいのじゃ。
すなわち、やむを得ない場合に限り、九州の征伐のお許しをくださいませ。
無論、わしとて戦はなるべく避けたいと思っておる。
だが、わしが軍を仕向ける事に及び腰であることをいいことに、立花や島津といった輩は、かの地にて着々と反乱の準備を整えておるらしくてのう…」
俺の代わりとなって、幸村は家康に対して言葉を返す。あくまで穏やかに…
「そうでしたか…しかし、ここには秀頼様とそれがし、それに片桐殿しかおりませぬゆえ、徳川殿からの要望は、城内で家老達による吟味のもと…」
そんな幸村の、柳のような受け流す態度に、家康は一喝した。
「それでは遅い!!」
広い部屋の隅々まで届き、高い天井を震わせるような声に、部屋の隅に座っているにも関わらず、片桐且元に至っては、思わず腰を抜かしている。それほどまでに、圧倒的な威圧感のある声であった。
しかし、その家康の声を間近に受け、さらにその鋭い眼光を真正面に浴びている幸村であったが、全く表情を変えずに、穏やかな口調で言葉を返した。
「遅い…とは、どういう事でございましょう?」
あまりに落ち着きの払ったその幸村の様子に、家康の目が細くなる。そして、そんな幸村から目を離さずに、背後の本多正純に命じた。
「正純…例の物を秀頼様に」
「はっ」
と、正純は滑らかな動きで、懐から一通の書を出した。
「秀頼様。本多正純よりこの書の内容がどういったものか説明させたいのですが、よろしいでしょうか」
「うむ…任せる」
「では、それがしよりご説明させていただきます」
と、細い目をさらに細くして、流れるように続けた。
「この書は、それがしの家臣である、岡本大八からのものでございます。大八は九州の大名たちの様子を探り、報告する務めを担っております。
その書によりますと、豊後の大友義統と立花宗茂が和解したとの事。
さらにその立花宗茂が仲立ちし、島津義久と大友義統が会談を行ったようにございます。その内容は不明にございますが、その後、大友義統より、龍造寺高房殿、有馬晴信殿や大村喜前殿といった九州に古くから所領をもつ大名たちに書状が送られた、とのことにございます」
その正純の報告は、秀頼と幸村にとっては初耳のことであった。
そして正純は、懐からもう一通の書状を取り出した。
「こちらはそのうちの一通。平戸の松浦鎮信殿より受け取ったものにございます。
その内容は、『九州はもとより我らが守る地。これからは共に手を取り合い、外敵あれば共に打ち払おうぞ』とのこと」
「なにっ!!?」
思わず豊臣秀頼の口から感嘆の声が上がった。
なぜならこのような書や裏での繋がりのことなど、後世には全く伝わっていない事実であったからだ。
それもそのはずで、そもそも史実においてはこの時、大友義統はその所領を九州に持っていない。
彼が史実とは異なる形で所領を得るに至ったのは、何を隠そう、豊臣秀頼が関ヶ原の戦いを前に、彼に書状を送ったことがきっかけであったのである。
すなわち豊臣秀頼の行動が、歴史に小さなほころびを与え、それがいつしか大きな『黒い火種』に変わっていったのであった。
そしてこの九州において、古くからこの地方を守ってきた大名たちの所領はどれも小さい。それは史実の通りだ。なお、十万石を超える石高を有しているのは、黒田長政、細川忠興、加藤清正、田中吉政といった者で、言わば「新参者」たちばかりであった。
あえて言えば龍造寺高房は十万石以上の大名ではあったが、その実情は、徳川家康に恭順している鍋島直茂がお家の実権を握っており、それゆえ高房は単なる「お飾り」大名と言えた。本人もその事に不満を抱きながらも、何も出来ないでいたのである。
大友義統は、それらの歪みを的確についた。
未だに徳川に屈していない立花と島津に近づいた後に、九州の旧領を安堵してもらっていた大名たちとの結束を呼びかけ始めた。すなわちそれは、徳川家康に恭順している「新参者」たちをあまり面白くない目で見ている九州の大名たちに対して、反徳川を掲げる立花と島津と共に一致団結し、何か事があれば、共に戦うことを誓わせようとしているのであった。
もし仮にその結果、九州から「新参者」たちを追い払うことになれば、自分たちの所領は大きくなり、古くから九州を守ってきた者としての面目が保てる…
そんな事を餌にしているのだろうことは、容易に想像出来た。
そして龍造寺高房の方はもっと単純で、鍋島直茂との仲を引き裂くことを狙ったものであった。もっと言えば、直茂の失脚を狙ったものなのであろう。もしその思惑通りに、直茂が失脚して、高房が大友のよいように動けば、かつて九州を席巻した、大友、島津、龍造寺の三家が共に手を結び、徳川に牙を剥くことになるのだ。
こうなるとさすがの徳川家康と言えども、九州を平定するには、相当な苦労を要するであろうことは明白だ。
また、もし仮にそのような事態に陥った場合、他の地方においても、同様な動き…すなわち反徳川を掲げた大名たちによる反乱が勃発するであろうことは、火を見るよりも明らかなことである。
もちろんこの動きを良しとしない大名もいるのも事実で、先の松浦鎮信もそのうちの一人だ。
彼は大友義統の書状を受け取り、その中を見るなり、岡本大八を通じて、正純にその書状を届けて、家康に九州の切迫した状況を伝えたのであった。
そして、この状況を知れば、それは「待ったなし」であることは、幸村と秀頼にも容易に理解出来た。
だが、難しい顔をして考え込む秀頼とは対照的に、幸村の方は、相変わらずの穏やかな顔をしている。
それはまるで、熱い火の中にあっても、涼やかな表情を浮かべているようで、家康の心の中に、何かもやもやしたものがわき出てきた。
ーーこやつ…単なる鈍感か、世間に疎いだけなのか…それとも…
と、心の中で幸村に対する考え方が、七変化していく。いずれにしても、雲を掴むような感覚は、家康の動悸を早めた。
ーーいつしか化けるかもしれんのう…
そんな風に考えていると、その幸村から言葉が発せられた。
「これはいつ何があってもおかしくない状況にございますな。
秀頼様、こうなると一つお決めいただけねばならぬ事がございます」
「ふむ…なんであろうか?」
秀頼の問いかけに、幸村は家康の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「九州取次のお役目を担う方にございます」
「九州取次…」
「はい、先日、残念なことに九州の各大名と徳川殿との調整の役目を担っておられた、井伊直政殿が亡くなられました。
その後、そのお役目がまだ決まっておられない、とうかがっております」
その幸村の発言に、家康が返す。
「はははっ!これはお恥ずかしい事が知られてしまっていたのですな。
九州取次の件は、徳川の最優先事項として、人選を急いでおりますゆえ、ご心配にはおよびませぬぞ」
「お言葉ですが徳川殿。徳川殿を良く思われていない者たちをお相手になさるのに、九州取次を徳川家の重臣から選んでも、その調整が上手くいくとは、到底思えませぬ」
と、幸村は相変わらずの穏やかな口調で、しかし手厳しい内容をすらすらと述べた。
家康の顔に、くっきりと険しいものが浮かぶと、その瞳からは殺気にも似た、見る者を震え上がらせるような威圧感が漂ってきた。
「それではどうなされよ、というのだ?左衛門佐殿」
しかし幸村は怯むことなく答えた。
「その人選、既に大坂城にて相談いたしました。
徳川殿には、その結果をお認めいただきたく存じます」
「ほう…その名前次第じゃのう」
幸村は次の瞬間…
穏やかな表情を一変させた。
幸村にとっての『ここぞという所』が、今まさにやってきたのだ。
彼は口を真一文字に結び、家康に対して、瞳にぐっと力を込める。
まるで斬り合いをしているかのような二人の雰囲気に、豊臣秀頼と本多正信そして片桐且元の三人は、ゴクリと喉を鳴らした。だが、一人本多正純だけは、何か悔しそうに口もとを歪ませていたのだった。
そして幸村はその名を口にした。
「黒田如水殿にございます」
その名前を聞いた瞬間、家康はギリっと歯を鳴らした。しかし次の瞬間には、幸村に落ち着いた声で問いかけた。
「理由をお聞かせ願いたい」
「まず、如水殿はもとより九州に所領を持ち、九州各地の情勢にお詳しい。さらに、有馬殿や大村殿といったキリシタン大名たちとも昵懇の仲で、人脈もあること。
次に、先の柳川での戦においては、最後の最後まで、徳川殿の命を受けた鍋島殿と、立花殿との調整役を務められており、立花殿にも信頼されていること。
最後に、如水殿は既にご隠居の身であり、徳川殿より所領を与えられておらず、言わば中立的な立場であること。
以上の三点により、九州取次には黒田如水殿をおいて、他に適任者はおりませぬ。
いかがでしょう?」
理路整然とした幸村の言葉に、家康は驚いたような表情を見せると、ふぅと大きく息を吐いた。
そして今まで以上にゆっくりと、腹に力を込めて言った。
「左衛門佐殿の言う通り、確かに理由だけ聞けば、黒田殿は適任者であろう。
しかし知っての通り、もう時間がないのも事実じゃ。
そこで一つ提案なのだが…」
そこで言葉を切って、幸村の目をじっと見つめた家康は続けた。
「九州取次は黒田如水殿としよう。
だがもし、秋までに…具体的には、長月(9月)までに、立花と島津が謝罪の使者を寄越さないようであれば、このわし自らが指揮を取って征伐軍を九州に進めることにする…いかがであろう」
言わば交換条件とも言える家康の提案であった。すなわち、秀頼側の提案を受け入れる代わりに、家康側の提案を受け入れろ、とのことだ。
恐らくこれ以上の譲歩は家康はしてこないであろう。なぜなら彼がその気になれば、豊臣からのお墨付きを得ることなく、立花と島津を成敗しても、大義名分はあるからである。
むしろこれ以上抵抗すると、下手をすれば大友の怪しい動きを裏で糸を引いている者が大坂城内にあると糾弾されかねない。そうなれば豊臣の立場はますます窮地に追い込まれることであろう。
それだけは何としても避けねばならない。
幸村は秀頼の方を見て、優しく言った。
「この辺りが落とし所かと思われます」
秀頼はコクリと頷いた。それを見た家康の肩の力が、ふっと抜ける。幸村も元の穏やかな表情に戻して家康に言った。
「では、黒田如水殿には、それがしの方からお伝えしておきます。何かあれば逐一徳川内府殿にご報告されるようにお伝えしておきますゆえ、ご安心くだされ」
「ふむ、よろしく頼みますぞ、左衛門佐殿」
「かしこまりました」
と、幸村は家康に頭を下げた。
「では、わしらはそろそろ失礼するとしようかのう。
秀頼様。今日はお会い出来て嬉しゅうございました」
と、家康は秀頼に頭を軽く下げると、すぐにその場から退出していったのであった。
こうして豊臣秀頼と徳川家康の会談は終了した。
結果として、秀頼側にしてみれば、黒田如水を九州取次に認めてもらうという事に成功したが、一方で徳川側にしてみれば、秋以降ではあるが九州征伐に軍勢を向ける事を豊臣家に認めさせることに成功したのである。
言わば「痛み分け」の結果となったのだった。
………
……
大坂城を出て、伏見城に戻ってきた家康は、疲れた顔をして部屋の脇息にもたれかかっていた。
そこに今や彼の相談相手とも言える天海が顔を出してきて、会談の様子を聞いてきた。
「内府殿、いかがであったか?大坂城と大友義統につながりはありそうだったかの?」
家康は疲れた顔のまま答えた。
「いや…秀頼様のあの様子だと、少なくとも秀頼様は何もご存知ではない様子であったのう」
「なるほど…さようであったか…
とは言え、秀頼様はまだ九つ。
何も知らなくて当然かも知れぬからの。
秀頼様の知らぬところで何者かが動いている…ということも考えられるかの?」
「天海殿、それはこっちが聞きたいくらいじゃ!
大坂城の事を全て把握するのは無理な話なのかもしれぬ。
しかしそんな大坂城にあって、面白い存在を見つけましたぞ」
と、家康は天海に、この時初めて笑顔を向けた。
「ほう、これは珍しい。内府殿が他の家の者を褒めるとは…明日は雨にならねばよいが…この時期の雨は花を散らせますからの」
「ふん!失敬な!」
「ハハハ!冗談じゃよ!その面白い存在とは、どんな存在であったのかの?」
「真田左衛門佐幸村。実に面白いのう」
その名前に天海は考え込む。
「はて?聞いたこともない名前だの」
「はははっ!それはそうだ!最近改名したようだからのう」
「真田と言えば安房守でございますが、縁者か何かですかの?」
「ふん…その名前を聞くだけでも憎々しいが…その安房守の息子じゃ」
「ほう…最近改名された信之殿は嫡男とうかがっておるからの。その弟か…果たしてどんなお人かの」
「鷹の子はやはり鷹であった…とでも言おうか。もっともまだ雛鳥といったところではあるが…」
「なるほどのう…あまりすくすくと大きくなられると、そのうち大きな事をしでかされるかもしれませぬぞ」
と、天海の目が怪しく光る。その目を家康は受け流すようにしながら言った。
「ふん。それは、京の寺にわずかなお供と過ごしていた主君を大軍をもって闇討ちにするほどの、でかいことか?」
「ははは!そんな大それた事を出来る男までにはなりますまい!ご安心めされよ!かような男、日の本に一人で十分かの!ははは!」
「ふん!一人でも多いくらいだわ。それに巻き込まれて、伊賀の山道を泥だらけになりながら走る哀れな男も、この世で一人でよいわ」
「ははは!それはそうじゃの!」
天海は愉快そうに笑っている。
春のうららかな日差しと、その笑い声が相まって、家康の心の内から疲れが飛ぶと、彼は大きな声で、外にいる近侍に命じた。
「本多親子をここに呼べ!
それと秀忠は江戸に戻るように伝えよ!
それから本多平八郎(本多忠勝のこと)と榊原小平太(榊原康政のこと)の二人を伏見城に呼び寄せるよう手配いたせ!」
その様子に天海はにやりとした笑顔を向けて言った。
「内府殿はやはり…」
と、言いかけたところで天海は言葉を切った。
家康は眉間にしわを寄せてたずねた。
「なんじゃ?」
「いや、なんでもない。では拙僧はそろそろ行こうかの」
と、天海は言い残すと軽い足取りで部屋をあとにした。
そして家康に声が届かないところまで来ると、先ほど言いかけた言葉をもらしたのだった。
「やはり戦がお好きな根っからの武人じゃの。ははは!」
季節は平和の象徴の春。
しかしそれは厳しい変化を伴う冬に向けての始まりとも言えるのかもしれない。
歴史は今、動き出したーー




