第二次柳川の戦い② 徳川家康との会談
◇◇
「これは徳川内府殿。よくぞ大坂城にお越しくださいました」
と、片桐且元が大坂城の本丸に到着した徳川家康一向を迎えた。
「いやはやなかなか忙しい身でのう!ここ大坂城の本丸に足を運ぶのも、去年の年賀の挨拶以来になりますなぁ!はははっ!」
家康は上機嫌そうに胸を張って、大股で廊下を歩いていく。そして、すれ違う人々は皆、家康に対して頭を深々と下げていた。
その光景に気を良くしたのか、家康の機嫌はますます良くなるばかりなようで、その歩く速度がぐんぐんと上がっていき、いつしか案内に前を行く且元を抜いた。
「と、徳川殿!?」
と、且元は慌てて家康を呼び止めようとするが、当の家康は足を緩めることなく、ずんずんと進んでいく。
「且元殿、止めてくれるな!
ここはわしにお任せあれ!
かつて太閤殿下に仕えていた頃は、何度も往復したものだ。
もはや大坂城はわしにとっては、庭のようなものなのだからのう!ははは!」
「しかし…」
「相変わらず心配性だのう、且元殿は。
そのように心配ばかりしておると、腹を壊すぞ!」
と、必死に止めようとしている且元のことなど気にもとめずに、家康は進んでいくと、
「ここの部屋を通るのが、近道なのじゃ!覚えておけよ、秀忠!はははっ!」
と、目の前の大きな襖を勢いよく開けた。
しかし…
徳川家康とその隣にいた徳川秀忠の親子は、目の前の光景を目にして、顔を赤くして固まってしまった。
そこには…
一人の美女が、その着物をはだけさせ、肩まで肌を見せており、手にした手拭いでうなじ辺りの汗を拭っていたのだ。
その女性は家康たちが入っても、着物を正すこともなく、彼らを鋭い眼光で睨みつけた。
「徳川のお家では、おなごの部屋に無断で立ち入ることを、無礼とはせぬのか?」
と、その女性は低い声で問いかける。
家康は一体何が起こっているのか分からずに、口を開けたままだ。なぜなら大坂城の本丸において、女性たちの部屋は、ここよりもずっと奥にあると記憶していたからである。
すると且元が慌てて女性の事を見ないように頭を下げながら、家康たちを部屋の外へと押し出した。
且元はぴしりと襖を閉めると、
「ここは太閤殿下の側室のお一人で、今は秀頼様の養育係をなされております、甲斐姫様のお部屋にございます!!今は剣のお稽古を終えて、かいた汗を拭っていた最中にございます!!」
と、なおも焦った様子で言った。
まだ呆然としている家康は、目を丸くしたまま且元に問いかけた。
「奥方たちの部屋は、もっと奥にあったと思うのだが…」
「はい…しかし甲斐姫様は、秀頼様に剣の稽古もいたしますので、庭などにほど近いこの部屋を、自身の部屋にご所望されたのです」
家康はようやく表情を戻すと、且元に小言を並べた。
「そういう大事な事は、部屋を開ける前に言わずして、いつ言うのだ…まったく…」
「す、すみませぬ…」
と、且元はお腹を抑えながら頭を下げている。
その様子に、秀忠が真面目な顔で家康に対して口を出す。
「父上!こたびの件は、且元殿に非はなく、部屋を確認せずして開けた父上が悪いと思われます!」
その声はどこまでも透き通った大きなものであり、城の中の人々が家康たちの方を見ている。
家康は秀忠の顔の真横に自分の顔を寄せると、その耳元に声を荒げて言った。
「そんなことは分かっておる!全くお前は、もう少し…」
「こそこそうるさい!!わらわの部屋の前から早く去れ!!」
と、部屋の中の甲斐姫から一喝されると、家康たちは逃げ出すようにその場を去ったのだった。
「慣れぬ道を行くときは、先導する者の存在が大切…それは政治に慣れぬ者が天下人である世の中でも同じこと…ですな」
と、廊下を歩く中で、本多正信がつぶやく。
しかし家康は相変わらずのしかめ面のまま、
「ふん!上手い事を言っておるつもりだろうが、むしろ傷口に塩を塗っているだけだわい!」
と、周囲に聞こえないように静かな声であったが、その口調は先ほどまでの上機嫌さとは真反対の、不機嫌そのものであった。
………
……
慶長7年(1602年)3月14日 昼過ぎーー
俺が豊臣秀頼となってからは三回目となる、徳川家康との会談の時がやってきた。
三回目とは言え、前回である去年の年賀の挨拶は、互いに多忙であったことから、本当に挨拶のみで終えているので、会談と言えるのは、実質は関ヶ原の戦いの後の会談以来であり、あの時の圧倒された記憶からか、緊張のあまり昨晩はよく眠ることが出来なかった。
そしてこの日、眠い目をこすりながら、俺は謁見の間で、徳川家康の一向を迎え入れることにしていた。そこには、今や俺の世話役とも言える真田幸村が、ありがたいことに、同席してくれている。出来れば、俺にとっての頭脳とも言える、黒田如水にも同席して欲しかったのだが、彼はそれを承知しなかった。
なぜなら、彼いわく、あくまで徳川と豊臣のどちら側に立つのではなく、表向きは中立な立場であることにしておきたいからだそうだ。
そしてこの会談での目標は、
「亡き井伊直政に代わる九州取次には、黒田如水を指名してもらうこと」
という事であると、その如水からは何度も繰り返し教えられていた。つまり九州の仕置きの主導権を、少しでも手元に持ちたい為だ。
しかし、あの徳川家康相手に、俺は交渉ごとを成功に導く自信は全くない。
そこでなんとか交渉せずにすむ方法を模索して欲しい、と如水に知恵を絞ってもらったところ、
ーーカカカ!そちらの方が難しいというものですぞ!
しかし、もし一つだけ方法があるとすれば…
それは、内府に九州の仕置きについての話題をさせないこと…にございますな!
とのことだ。
そこで俺は考えた。
とにかく家康に政治や軍事の話をさせなければよい。そして、俺の許しなくして、家康が九州の仕置きで強硬な手段を取ることはないだろうと、如水は言っていたのだ。
つまりこの会談を、単なる年賀の挨拶にとどめてしまえばいい。
その為の作戦を、俺は練っていたわけである。
そこで思いついた。
つまり、年賀の挨拶で和気あいあいとした雰囲気を作り出し、そのまま他愛もない会話のまま時間を経たせて、切りの良いところで、会談そのものを打ち切る。
こうすれば、九州のことが話題になることなく、会談を終わらせることが出来るのではないか…と考えたのだ。
その為にも、とにかく和やかな雰囲気を作ること…
そのことに俺は、会談の前から手をうっていた。
それは、徳川家康の一向が大坂城にやってきた際には、城内の全員がそそうのないように応対し、彼らを気持ちよくさせようと、且元に根回ししていたのである。且元は「淀殿と甲斐殿を除けば、全員が了承してくれた」と言っていた。淀殿と甲斐姫だけは「なぜ、わらわが徳川に媚を売らねばならんのだ」と、断固拒否していたらしい。しかし彼女らが家康一向と顔を合わせる可能性は著しく低いと考えていた俺と且元は、そのまま今日を迎えたのだった。
だがしかし…
俺の前に姿を現した家康は、眉間にしわを寄せ、以前の会談の時以上に、厳しい雰囲気であったのだ。
俺はちらりと先導役を務めていた且元の方を向き、
ーーこれはどういう事だ?
と、目で合図を送った。
迎え入れに失敗するはずもない…
しかし今、俺の目の前にいる家康は不機嫌そのもの。ここに来るまでに何かあったに違いない、と俺は且元をなじるような目で見たのだ。
すると且元は「申し訳ございませぬ」と、今にも泣き出しそうな哀しい目をして、俺に訴えかけてきた…
一体何があって、こんなにも家康は険しい顔をしているのか…
そんな事に頭を巡らせている間に、家康が腰を下ろした瞬間に口を開いた。
「秀頼様。年賀の挨拶が遅れてしまいまして、大変失礼いたしました。
あらためて、おめでとうございます」
そう言って頭を少しだけ下げる家康に対して、俺は出来る限りの明るい声で話した。
「いや、よいのだ!むしろ仕事で忙しい最中に、中納言殿(徳川秀忠のこと)と共に、挨拶に来てくれたこと、大変嬉しく思っておるぞ!
ところで、何か城内でそそうを働いた者はおらぬか!?今日は徳川殿が来られるから、城内の者たちには丁寧に迎え入れるように申し伝えていたのだが…」
その俺の言葉に、家康の肩の力が少し抜けたような気がしたが、表情は変わらぬままに答えてくる。
「いえ、みなさんわしらが通る場所を綺麗に磨いてくださり、その上ご丁寧に頭まで下げて、迎え入れくださいました。この家康、大坂城内の躾が行き届いていることに、驚きましてございます」
「なるほど、それは良かった…
いやはや、内府殿のお顔が少し怖いゆえ、何かあったのかと心配してしまったのだ」
との俺の言葉に、初めて家康の口もとが緩み、その表情は柔らかいものに変わった。
「これは申し訳ないことでございますな。わしは元来このような顔でございます。
それが秀頼様にとっては、お怖いとおっしゃるなら、直さねばなりませんな!はははっ!」
「ややっ!そういう意味ではないぞ!去年会った家康殿のお顔は、もっと優しいお顔であったと記憶していたのだ」
「ふむ… 秀頼様もお世辞を言うような年頃になられましたか…赤ん坊の頃から知っているわしにとっては、感慨深いものでございます。
しかし、世辞と分かりながらも、嬉しいものですな。はははっ!」
どうやら和やかな雰囲気に変わったようだ。
このまま世間話になだれ込めれば…と考え、俺が赤ん坊の頃の話題でも振ってみようか、そんな風に思っていた。
その時だった。一人の男が、俺の涙ぐましい努力を粉々に打ち砕いてこようと、その口を開いたのである。
そう、空気の分からない男の存在がそこにはあることを、俺は全く理解していなかったのだ。
「秀頼様、恐れながら申し上げてよろしいでしょうか?」
と、家康の隣に座っている彼の息子の徳川秀忠が頭を下げて、発言の機会を求めた。
機嫌の良い声色のままに、俺が快諾すると、秀忠も表情を明るくして言った。
「実は父上の表情を曇らせたことがございまして…」
「なんと!そうであったか!?」
「はいっ!この部屋に来る前に、とあるお部屋の襖を父上が開けましたら、いるはずもないおなごの姿がございましてな!
いやはや、それがしも驚きました!
その時の父上のお顔は、まさに地蔵のように固まっておりまして…
そのおなご…確か甲斐姫という名前でしたか…その甲斐姫より、部屋から即刻離れるように、一喝されて、父上はしゅんとされてしまったのです!」
そう一気に話した秀忠は、一人で大笑いを始めた。
隣の家康の顔は、みるみるうちに苦いものに変わり、後ろに控えている本多親子は、その顔を青くしている。
その様子に俺も言葉を失った。
この会談…
敵は内にあったか…
と、家康を一喝したその鬼の姿を想像して、俺の体から血の気が引いた。
そして、この徳川秀忠…
父であり、源氏の長者でもある、天下に敵なしの徳川家康の『地雷』を踏んでもなお、大笑いして、その空気に気付かないでいるその姿は、むしろ気持ちいいほどだ。
史実の上では、家康の跡を継いで将軍になるだけの大物の片鱗のようなものを、なんとなく感じるような気がしてならない。
しかしそんな風に感心している場合ではなかった。
苦々しい顔をした家康は、
「…秀忠。もうよい、その辺で口を閉じるがよい。
ところで、秀頼様。実はお願いしたい儀がございまして…」
と、話題を変えようとしてきた。
ーーこの流れはよくない!
そう判断した俺は『とっておき』を繰り出すより他なかった。
それは…
千姫であった。
その千姫も、実は今日の会談を物凄く楽しみにしていたのだ。なぜなら父親である徳川秀忠と、祖父の家康に会うことが出来る日であるからだ。
だが、なんだか彼女を利用しているようで、俺の胸がチクリと痛んだが、今後の豊臣家の、強いては千姫の人生をも揺るがしかねない大切な会談なのだ。俺は心を鬼にして、彼女に折りを見て会談に参加するように、頼んでいたのであった。
俺は一番後ろに控えていた且元に目配せをすると、且元もそれに気づいて、そっと部屋の襖を開けた。
すると…
「お父上さまぁぁぁ!!」
と、千姫が駆け出してくると、秀忠の胸に飛び込んだ。
「おお!千か!?」
「はいっ!千にございます!!」
秀忠の顔がほころぶと、場の雰囲気が否応なしに和やかなものに変わった。
これにはさすがの家康も想像していなかったのか、目を丸くして驚いている。
後ろの本多正純だけは、なかなか話が進まない様子に、いらついているように目が鋭く光っていた。
俺はここが勝負所と、千姫に話しかけた。
「お千、内府殿にもごあいさつをして、今年でいくつになったか教えてあげたら、いかがであろう?」
「はいっ!秀頼さま!」
と、嬉しそうな笑顔で答えた千姫は、今度は家康の膝の側まで来て、ぺこりと頭を下げた。
「おじじ上様!!千にございます!
今年で五つになりました!!」
と五本の指を開いて、その小さな右手を見せた千姫を見て、家康の顔が…とろけた。
ーーよしっ!!わが策なれり!
と、心のうちで俺は喜びに浸る。だが、ここで緩めてはならない、と手綱を引き締めると、俺はさらに言葉を続けた。
「お千や、この前、甲斐殿に習った字を、内府殿と中納言殿に見ていただいたら、いかがであろう?」
「なんと!?千は字を習っておるのか!?」
と、秀忠が驚いた顔を見せると、千姫は恥ずかしそうに、こくりと頷き、一枚の紙を取り出して、目の前にいる家康に渡した。
家康はたいそう嬉しそうにそれを受け取ると、秀忠と向かい合うようにして、それを開く。
そこには、つたなくも、力強さを感じる字で、
『江戸』
と書かれていたのだった。
「お父上様と、おじじ上様がおられる場所と聞いて、教えてもらいました!!いかがでしょうか?」
と、上目で家康の顔を覗き込むと、家康は目尻を下げて千姫の頭をなでた。
「よく書けておる!千は良い字を書くのう!はははっ!」
「ありがとうございます!千は嬉しゅうございます!」
「ふむふむ!千にも早く江戸の街を見せてやりたいのう」
「はいっ!!千も見とうございます!」
「その為には、一日でも早く、天下泰平の世を築かねばならぬからのう…おじじはそれに精を出しておるのじゃよ」
「おじじ上様!お父上様!では、千はお待ちしております!」
千姫と家康がやり取りをしているのを、俺は微笑ましく眺めていた。なぜなら、ここで血の繋がった家族の会話に口を出すのは野暮というものだと、思っていたからである。
しかし…
ここでも俺はすっかり忘れていたのである。
空気が全く分からない…というよりも、むしろ空気をぶち壊すことに、なんら躊躇いもない存在があることに…
そしてその事を徳川家康は、利用しているという事実に…
「では、千の為にも一日でも早く、九州の立花宗茂と島津義弘を何とかせねばなりませんな!父上!」
徳川秀忠のこの言葉…
もし、彼が深慮を持って発言したのであれば、彼こそが天下一の神算鬼謀の持ち主であることは間違いない。
だがそれは今はどうでもよい。
重要なのは、この発言が、この時に発せられたという事実だ。
その時、家康の下がりっぱなし目がぎらりと光った。
「おおっ!そうじゃのう…千の為にも、早く九州の事を片付けねばならぬ。
千からもその事、秀頼様に頼んではくれぬか?」
「はいっ!秀頼さま!!どうか、おじじ上様をお助けください!!」
と、千姫は無邪気な表情で、俺に向けて頭を下げた。
ーーやられた…
俺の顔がわずかに歪んだ事を、家康は見逃さない。
「どうですかな?秀頼様。ここはひとつ、可愛い孫娘の為にも、この家康めにお力を貸しては下さらぬか?」
こう問われれば、こう答えざるを得ない。
「もちろんじゃ!俺の出来ることであれば、何でも協力いたそう」
家康は上機嫌のまま、千姫を膝の上に乗せて、俺に問いかけた。
「では、九州のこと。もしわしの仕置きに従わぬ者がおれば、この先の天下泰平の為にも、成敗することもいとわない…と、お許しいただけませんでしょうか。
もちろん秀頼様の手を煩わせることはございません。
この家康めに、全てをお任せくださいませ!
ほれ、千からも頼みなさい」
「はいっ!秀頼さまっ!千は難しい事は分かりませぬが、おじじ上様にお任せくだされ!」
はじめから小手先な策など、全く通じる相手ではなかったのだ…
むしろ最初から家康の手のひらで転がされているとしか思えない状況に、俺の心は最初の会談の時と同じように、完全に折れてしまっていた。
「そ…そうだな…」
俺は目が回りそうな感覚に陥りながら、必死に口を動かした。
もう承諾せざるを得ない…
そう観念したその時であった。
一人の男は、まだ諦めていなかったのだ…
「お待ちくだされ、徳川内府殿」
その穏やかで優しい、しかし芯の通った強い声が、部屋の中に響くと、全員の視線がその声の持ち主の方へ向けられた。
その男は…
真田幸村。
いつもの微笑みを携えたその顔の瞳は、強い光を携えて、徳川家康を見つめていたのだった。




