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【幕間】空気の分からない人々②

◇◇

伏見城と大坂城で、「空気の分からない上杉家の人々」が、徳川家康や豊臣秀頼と面会しているその頃、その上杉家が元々治めていた越後の国に、「戦国一の空気の分からない人」が、徳川家康の言いつけにより、蟄居させられていた。


その男の名は、田丸直昌(たまるなおまさ)田丸忠昌(たまるただまさ)とも言う)。


彼は元は伊勢の名家である北畠家の庶流の出である。


彼の「空気の分からない人生」は、遠く織田信長が覇権を唱える頃まで遡る。


まだ天正期が始まったばかりのこと、彼の居城であった田丸城は既に織田信長の手に落ち、その息子である幼少の茶筅丸(ちゃせんまる)が北畠家の姫を妻にめとることになった。

当時、まだ若い北畠家当主であった北畠具房(きたばたけともふさ)が半ば強引に隠居に追い込まれると、その当主には北畠信意(きたばたけのぶおき)と改名した茶筅丸(ちゃせんまる)が齢十七で就任することで、古くから続く名門の北畠家は織田信長に乗っ取られる形で、事実上歴史からその姿を消そうとしていた。


しかしその信長の強引なやり方には当然のように北畠家の旧臣たちから反発が出た。

特に剣豪でもその名を知られていた、先々代の北畠具教(きたばたけとものり)は、出家した後も虎視眈々と信長の寝首をかかんとその機会をうかがっていたのである。


そしてそれは天正四年(1576年)のことである。


具教の念願とも言える、武田信玄上洛がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。

そしてその信玄が甲斐の国から動いたその時が、北畠家奪還への蜂起の時と定めていたのである。


そんなある日のこと、北畠家の旧臣たちが集まって話をしていた。もちろんその中には、一族でもある田丸直昌も加わっていた。


ーーしかし織田信長も必死だな


ーーああ、今宵はその信長の息子の信意が、姫の誘いという名義で宴を催すとな


ーー俺たちをどうにかして懐柔したいらしいな


ーーどうする?お主らは行くのか?


ーーそりゃ行くさ!姫の誘いを断ったと知れたら、北畠家の名が汚れる!


ーーそうだな!北畠家は織田信長なぞ恐れぬ事を思い知らせてやろう!


ーー俺も行くぞ!


ーー俺も行くぜ!


ーー俺も行くさ!


ーー俺も行く!


ーー俺は行かん


ーー俺も行くぞ!


ーー俺も…って、誰だ!?行かないと言ったのは…


皆が「織田信長なぞ恐るるに足らん」と鼻息を荒くしている中、一人だけ平静を保ったまま、宴への参加を断った者がいたのだ。


それこそ田丸直昌であった。


ーーおいおい!誰だ!?場の空気が分からない愚か者は!?


ーー愚か者とは無礼な奴め!


と、直昌は顔を真っ赤にさせて抗議した。


ーー皆が意気揚々に宴に参加して、織田信長など恐れていないことを示そうとしているのに、なぜお主だけはそれに乗らないのか!?


ーーふんっ!もう北畠家は織田信長殿に滅ぼされたも同じ事!今さら信長殿を恐れるも何もなかろう!


そこまでの会話で、旧臣たちの直昌への追及は打ち切られた。

彼らは分かっていたのである。

田丸直昌という男は、周囲の空気など全く意に介することなく、自分を貫くということを…

こうして直昌だけが屋敷に篭り、その他の旧臣たちは具教の息子たちを伴って、信意と姫のいる田丸城へと足を運んだ。


そして宴はつつがなく終わり、皆一様に安堵し、北畠家の気概を示せたと、胸を張った。


しかし…


その翌朝…


彼らは皆殺しにされた…


そしてその前日には、具教もまた暗殺されていた。



北畠家の武士たちが次々と誅殺される中にあって、場の空気を読まなかった田丸直昌だけが、北畠家一門の中では生き延びる事がかなったのであった。


その後も彼は、己の信じる道を突き進む人生を送り続けることとなった。


彼はこの後に、北畠信意から織田信雄(おだのぶかつ)と名前を変えた信長の息子に仕えるが、信長の亡き後、主君の織田信雄と羽柴秀吉が対立すると、家臣の全員が秀吉と一戦交えんと息巻く中、一人だけその対立に反対し、結局信雄の陣営から外された。


そしてそのまま秀吉のお気に入りとなった彼は、誰しもがそのまま秀吉の直臣となって出世街道を進むと思われた。

しかしあくまで空気の読めない彼は、秀吉が寵愛してやまなかった蒲生氏郷(がもううじさと)の妹を妻にめとると、秀吉ではなく氏郷に仕える。


それでも彼は秀吉に取り立てられて、とうとう大名となると、信州海津城の城主を経て、最終的には美濃の要衝である岩村城にて四万石の所領を得たのである。


しかし、そんな彼の転機は、先の大戦、関ヶ原の合戦であった。


そしてこの関ヶ原の合戦こそ、彼の「空気が分からない人」としての真骨頂だったと言えよう。



「直江状」に激怒した徳川家康は、上杉家討伐の為に、出陣する。いわゆる会津征伐である。

しかしその道中、家康不在の大坂城において、彼によって謹慎させられていた石田三成が「豊臣に弓を引く徳川内府を誅するべし」と蜂起した。

その報せを聞いた家康は、下野国の小山で評定を開き、会津征伐を取りやめて、石田三成の軍勢討伐に向かう為に、諸将の心を固めようとしたのである。


後世にその名が残る小山会議であった。


だがこの時点で既に家康は入念な根回しをしており、評定といってもそれは形だけであり、言わば最後に士気を高める為の一種の儀式的な意味合いが強かったのだ。


すなわち小山会議に参加する武将全員が、その評定の場で家康に対して味方であることを宣言し、「石田治部討つべし」という空気をつくることが目的であった。


そして評定が始まった。


ずらりと並んだ戦国の強者たちを前にして、堂々と立ち上がる家康。その彼を前に武将たちは皆、燃える瞳をぎらつかせて座っている。

皆一様にその爆発寸前の感情を抑えるのに必死なようだ。

その様子に家康は、その評定の成功を信じてやまなかった。

彼はゆっくりと全員を見渡す。

それはギリギリと弓を引くことに似ている。より強くその感情を爆発させる為に…


そして満を持して大声で全員に宣言した。


「ここに大坂城にいる淀殿の書状がある!!!

愚かにも毛利中納言(毛利輝元のこと)と石田治部は、豊臣秀頼様を捕らえ、大坂城にて天下に弓を引いた!

哀れなのは、まだ幼少の身で、何も知らずうちに囚われの身となった秀頼様である!

そこでわしは、亡き太閤殿下との約束を果たす為、秀頼様をお助けに大坂城にかけつけるつもりである!!

その行く手を阻む者がいようとも、亡き太閤殿下のご恩に報いる為!豊臣秀頼様を守る為!この身が例え敵の槍に貫かれようとも、徳川内府は大坂城にこの足を踏み入れ、この手で秀頼様をお助けしよう!!」


そこで言葉をきって全員を見渡す。既に福島正則や浅野幸長などは涙を流している。

そしてかく言う家康もまた涙していた。

彼のこの宣言には嘘偽りや虚飾などない。

心の底から、秀頼救出にその全てを傾けるつもりだからだ。

そしていよいよ諸将に対して頭を下げた。


「そこで皆にお願いしたい!!

このわしに力を貸してくだされ!!

秀頼様をお助けするその力となってはくれまいか!?

天下泰平の為に、逆賊を討つその力となってはくれまいか!?

無論、わしに対して色々と思う者もおろう。

それでももしわしの味方になってくれるなら、この場に残って欲しい!

そしてわしには味方出来ないという者は、ここから立ち去ってくれて構わん!」


するとそう言い終えた瞬間に、福島正則が立ちあがった。


「うおおおお!!!石田冶部許さん!!!俺は徳川殿の味方をするぞ!!」


正則の雄たけびに負けじと、隣の幸長や、細川忠興、そして黒田長政らが次々と立ち上がり、正則に同調した。


「石田冶部許さん!!徳川殿にお味方いたす!!」

「石田冶部め!!俺も徳川殿と共に大坂城にはせ参じようではないか!!」

「石田自分許すまじ!!聞くまでもあるまい!!みな心は一つじゃ!!!」


と、長政がその場にいる全員に同調を求めると、諸将は一斉に立ちあがり、その決意を口にし始めた。

それはまさに怒涛。岸壁に激しく打ち付ける大波のように、激しいものであった。


――石田冶部許さん!徳川殿にお味方いたす!

――石田冶部を倒す為、徳川殿にお味方する!

――石田冶部め!許さん!徳川殿と共に行こう!!

――石田冶部は許せん!!しかし徳川殿に味方をするのも解せん!

――石田冶部を許すな!徳川殿とともに参ろう!!

――石田冶部を倒そう!徳川殿… って、うん?俺の空耳であろうか?


熱く盛り上がる空気の中、ただ一つの違和感が、波紋となって、その空気に冷水を浴びせた。



無論… 田丸直昌であった…



「誰だぁぁ!!?この場の空気を乱す、大馬鹿ものは!!?」


と、福島正則が烈火のごとく怒鳴り散らすと、その声に劣らないほどの大声が部屋の片隅から上がった。


「それがしである!!!美濃岩村城が城主、田丸直昌!!たとえ福島殿と言えども、馬鹿者とは聞き捨てならん!!」


みな一斉にその視線が、声の持ち主である直昌に向けられる。


ずかずかと大股で直昌のもとまで歩いていく正則。

まさに一触即発の雰囲気に、周囲は息を飲んだ。


…と、その時だ。


「田丸殿、では立ち去ってくれて構わんぞ」


と、拍子抜けしたような声がその場にこだました。


今度はその声の持ち主に視線が注がれた。


その言葉を発したのは…


徳川家康であった。


「さきほどわしが申し上げた通り、わしに味方出来んということであれば、ここを立ち去ってくれて構わない。

下野の国を無事出るまでは、その背中を狙う事もないことは、この家康が保証いたそう」


すっかり鎮まった空気の中、


「では、ごめん。それがしはそれがしだけで大坂城にはせ参じ、秀頼様をお助けいたす」


と、力強く言った直昌は、そのままその場をあとにしたのだった。


直昌が部屋を出ると、再び福島正則らが、その場の空気を盛り上げる。


「さすがは徳川内府殿!!薄情者にも情けをかけるなんざ、俺には出来ねえ!」

「そうだ!そうだ!!」


直昌はその背中で、それを感じながら、一旦居城である岩村城に向かうと決めていた。


しかしその岩村城は、彼の到着を前に徳川家康に味方する武将によって落城することになり、信州で足止めを食った彼は、結局大坂城に赴くこともなく、関ヶ原の大一番を蚊帳の外で眺めることとなったのだ。

「背中を追わない」ということを保証した家康であったが、「行き先を阻まない」とは言っていなかったのであった。


………

……

そんな田丸直昌に対して、戦後に蟄居を命じた家康であったが、彼の行動を厳しく監視しようとは思っていなかった。

彼は確かに場の空気を乱しはしたが、それもまた「薄情者にも情けをかける大器」という家康の箔となって変わったからである。

そして家康は時が経てば、彼のことを赦免するつもりであった。それは、彼の嫡男が、将来徳川幕府の旗本に取り上げられる史実からも容易に想像がつくであろう。


その為、彼は自由に行動することが可能な身軽な身であった。

もちろん彼は、もとより天下を我が物にしようなど大それた野心などはおろか、民を扇動して一揆を起こそうなどという反抗心もない。

すなわち、徳川にとっても豊臣にとっても、無害な存在であり、その結果、自由が許されていたのであった。


そんな彼は今、彼のもとの所領である信州川中島に赴いていた。


この地から彼は、現在の当主である森忠政(もりただまさ)と所領を交換して、美濃に移ったという経緯があるが、それはこの川中島にとっては悲劇の始まりであった。

忠政の父である森長可(もりながよし)がこの川中島の元領主である髙坂氏に殺された因縁を忘れなかった忠政は、この地で髙坂一門だけではなく、民も含めて大虐殺を行ったのだ。

それを岩村城で耳にした直昌は、ひどく胸を痛め、いつか殺された人々の供養をしたいと願っていた。

それが皮肉にも、蟄居の身となって体に自由が与えられた今、ようやく実現したのだ。


彼は一か所一か所丁寧に虐殺が行われた場所を訪れて、供養して回る。

そしてようやくそれが終わり、再び越後へと戻ることにした。


その帰り道のことである。


彼は道から少し外れた小さな山寺で、一休みすることにした。


そこは既にあるじもなく、無人の山寺であることを知っていた彼は、一人で静かに休むにはうってつけの場所であることを知っていたのだ。


しかし、運悪く誰か先客がいることに気付いた。


何のことはない。


大きな駕籠が置かれ、数頭の馬が木々につながれていたからである。

それはその先客が、一人ではなく、数名いるということを意味していた。


「はて…?かようなところに先客とは…」


と、直昌は首をかしげた。その山寺は彼が知る限りはあまり人が寄りつかない場所にあり、旅の者がわざわざ道を外れてまでして訪れるような場所ではないからだ。


しばらくするとその先客も、誰かやってきたことに気付いたのだろうか、山寺の本堂の奥の方から、人が直昌の座っている場所に向かって歩いてくるのが、音で分かった。



「おや?これはお侍さまかね?」


と、直昌は声をかけられる。

その声の持ち主を見ると、そこには二人の若い女性の姿があった。

しかし着衣は乱れ、妖艶な香りがする。

その身なりはまさに、遊女そのものであった。


なぜこのような場所に、このような女たちがいるのか…


直昌はますますいぶかしく思うばかりだ。


「そういうお主らは、遊女であるか?早くその着物の乱れを直しなさい」


と、厳しい口調と表情でたしなめた。


「ほほほ、会っていきなりお説教とは、これだからお年寄りはよくないねえ」


と、遊女たちは何がおかしいのか、袖を口元にあてて、愉快そうに笑っている。

そしてその笑いを携えたまま、直昌に言った。


「お侍さん、来たばかりで申し訳ないのだけど、わらわたちは取り込み中の身でございましてね。その意味は…ほほ、それ以上を言わせないでくださいまし」


その遊女たちはますます(なま)めかしい声と表情で直昌を見つめる。

普通に考えれば、この奥で遊女たちを買った男が、彼女らとともに過ごしていることなど、容易に想像がつく発言だ。


それはすなわち、

「空気を読んで、ここを立ち去れ」

と、半ば脅迫じみた言葉であることを意味している。


しかし…


田丸直昌は…


どこまでも空気の分からない人であった。


「ふむ。無人とは言え、山寺という場所において、みだらな行為を見過ごすわけにはいかん。そこを通してもらおう」


と、遊女たちを払いのけて、本堂の方へと大股で歩いていこうとした。


「お待ちくださいまし!お侍さま!」


と、遊女は高い声で直昌を呼び止めると、直昌は素直に足を止めて彼女たちの方へ向き直った。


「なんであるか?」


「ほほ、そちらに向かうのは、野暮というものにございます」


と、遊女は直昌の懐に手を入れたと思うと、そこに何かずしりとしたものを入れた。

直昌はそれを手に取る。


それは…


金であった…


直昌は大きく目を見開き、その金を見つめると、その視線を遊女に移した。

遊女は相変わらず妖艶な微笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。


するとやはり空気を全く読めない直昌は、その金を遊女に押しつけると、無言でずかずかと本堂の方へと歩いていった。


「ちょっと!!お侍さま!!おやめください!」


背中から遊女たちの絶叫のような声が聞こえるが、さまたげをしようものなら、斬り捨てるつもりでいる直昌は、お構いなしに本堂へと入る。

がらんとした本堂の広間には誰もいないようだ。

しかしその奥になにやら部屋の続きがあるような扉がある。

彼は半ば駆けるようにその扉の前までやってくると…


一気にそれを開いた。


するとそこには…



遊女たちに囲まれて、茶碗を手にのんびりと煙草をふかしている一人の男の姿が目に入ってきたのだ。


直昌は厳しい口調で、その男に問いただした。


「おい!お主!かような寺で何をしておるのだ!?」


その男は初老に差しかかったところであろうか。

顔は深い皺がいくつも見当たるが、その瞳はぎらぎらしており、額にも頬も何か脂で黒光りしているようで、実際の年齢よりもいくつも若く見えているのであろう。

秋口にも関わらず、顔はよく陽に焼け、さらに着物の上からもその体が若々しい引き締まったものであることが分かる。

大きく鋭い眼光は、その男の貪欲さと野心をそのまま映し、突然の来訪者にも身じろぎひとつせずに、ぷかぷかと煙草をふかしているその様子は、相当な肝っ玉であることを表していた。


そしてその男は、直昌の問いかけに対して、悠然と答えた。


「見れば分かるであろう。俺は今、休んでいるのだ。旅の疲れを癒すためにな」


「ここは道から外れた場所である。かような場所で休憩とは、いささか解せぬが…?」


と、直昌はその眼光をさらに鋭くして、その男に問いかけた。

すると男は、ニタリと口元を歪ませると、悪びれもせずに答えた。


「おなごたちと楽しい時を過ごす為に、人目をはばかって何が悪い?道のど真ん中で事に及ぶ訳にもいかないであろう!なあ?みな!そう思わんか!?」


と、男は周囲の遊女たちに向かって問いかけると、遊女たちは直昌の質問が見当違いであったかのような嘲笑で答えた。


「さて…ご老人。そういう訳だから、俺のお楽しみの邪魔をするのは野暮というものであろう。申し訳ないが、先客がいたということで、早々に立ち去ってくだされ」


「ふむ、そういう訳にはいかん。寺でみだらな行為をする者を見過ごすわけにはいかん」


あくまで空気を読まずに一歩も引かない直昌。

そんな直昌に対して、男はどこまでも余裕の表情で言った。


「そうか…確かに寺で遊女たちと過ごすというのは、気が引けるな…」


「であれば、すぐにここを立ち去り、街の方へ出るがいい。そこでなら、誰もお主をとがめることはできますまい。もし道中が心配なら、このわしが護衛いたそう」


そう緊張を少し緩めた直昌に対して、男は煙草をひと飲みすると、ふぅと煙を吐き出して言った。


「ああ…じいさん。それは遠慮しておくわ」


その声は恐ろしくどすが利いた、低いもので、周囲の空気が凍りついた。

遊女たちにも緊張が走り、その表情が固まっている。


再び険しい表情に戻した直昌は、声を大きくして男に問いかけた。


「それはどういう意味であろう?」


すると男はニタリとした顔を、今度は大笑いに変えて答えたのだ。


「ははは!!!寺でなければよいのであろう!!?であれば、今からここは寺ではない!!休憩する小屋とする!!ははは!!」


「な…なんだと…!?そんな事許されるか!!」


すると驚くほど身軽に立ちあがった男は、その顔をぐいっと直昌に近づけた。


「俺が言えば、許されるのだよ」


と、言うと、男は懐から大量の金を取り出して、それを床に落とした。


――バラバラバラ…


大きな音を立てて、金が床に落ちる。

そして近くにいた遊女の一人に命じた。


「おい!お前。この金を当主の森忠政殿に持っていって、こう伝えよ。

この金で、この無人の山寺とその敷地を借り受けると」


「な…なに…!?」


赤かった顔を青ざめて言葉を失う直昌。

そんな直昌の顔に、男は煙草の煙を、ふぅと吹きかけた。


「さあ、じいさん。どうする?これでお主が、ここで俺をとがめる理由がなくなった訳だが」


「かような事…徳川殿が許すはずもなかろう!!」


そう言い放った直昌に対して、男は心の底から愉快そうに大笑いした。


「ははは!!これは傑作だ!!徳川殿の名前を持ち出して、正義を語るのか!?お主は!!?はははは!!」


「な、何がおかしい!?徳川殿の名前を笑うことは、天下に対しての反逆であるぞ!!」


「ははは!!すまぬ、すまぬ。あまりにも世間知らずで、空気の読めないじいさんに、俺の笑いの虫がおさまりを見せんのだ」


「なんだと!!無礼者!!名を名乗れ!!ここで成敗してくれる!!」


と、直昌は腰の刀に手をかけた。するとその手を男はぐっと掴んだ。


その手の力は恐ろしく強く、直昌は刀を抜くこともかなわない。


そして男は笑みを消した顔で、直昌を睨みつけた。


その視線に圧倒された直昌は、思わず全身に鳥肌がたち、動けなくなった。

刀を持つ手はにわかに震え、立っているだけでもやっとなほどの威圧感を感じる。


そして男は低い声で言った。


「じいさん、命が惜しかったらやめておけ。俺はお主でかなう相手ではない」


「き、貴様…何者だ!?」


「人に名を聞く前に自分から名乗るのが礼儀だが…まあよい。

俺の名前は、大久保長安(おおくぼながやす)

徳川内府殿の側近にして、ご子息の松平忠輝様の筆頭家老である」


その名前を聞いて、直昌は愕然とした。


大久保長安という名は、この頃知らぬ者などいないといっても過言ではないほど、全国に知れ渡っていた。

その天才的な鉱山開発の技術と、政治や経済の手腕は、徳川家康に高く買われ、今や全国の金銀山は、彼の手によってその開発が任されているほどの人物だ。

まさに徳川家の財布を握っている人物と言っても過言ではなく、それほどまでに家康に信頼されていたのである。


その長安は言葉を失っている直昌に対して、その手を離すと言った。


「じいさん、かような場所で会ったのも何かの縁だ。今日の事は伏せておいてやる。

だから早々に立ち去れ」


と、長安は直昌の肩をぽんと叩くと、元居た場所に再び腰を下ろして、飲みかけの茶を口に含んだのだった。



………

……


顔を青くしたままの田丸直昌が去った後、遊女の一人が長安に話しかけた。


「あのお侍さまをそのまま生かしておいてよいのでしょうか?」


長安は煙草をふかしながら答える。


「大丈夫さ。何も出来んよ。あの男にはな」


「なぜ、そう言いきれるのでしょう?」


「ははは、越後の片田舎で蟄居の身である、じいさんに天下を動かす俺がおびやかされるなど、ありえんだろう」


「それもそうですね、ほほほ」


「それより、続きを始めるぞ。早くしないと陽が暮れちまうからな」


と、長安は遊女たちに何かを促した。


そして彼もまた、その部屋のさらに奥の部屋へと消えていったのである。



しかし彼は気付いていなかった。


田丸直昌という男は、どこまでも空気の読めない男であるということを…


そしてそれは、大久保長安の名前を持ってしても、その空気など気にすることなく、彼の消えていった部屋の中での出来事を覗いていたこと…

それは決して遊女と楽しむ為に部屋に入っていったわけではない、という事実を直昌に知られてしまったことを…


その事が、大久保長安と、そして豊臣秀頼の人生を大きく揺るがすことにつながっていくことを…


登場リクエストにお応えして田丸直昌(忠昌)を登場させました。


しかも、物凄く大きな鍵を握る人物として…


なお、その直昌が小山会議で一人徳川家康に対して歯向ったというお話は、今では創作とされているようです。

かの三谷氏もこの逸話に興味がおありだったそうで、もし史実であれば大河ドラマのワンシーンになっていたかもしれません。


では、いよいよ次回から本編に戻ります。


これからもよろしくお願いいたします。



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