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理想の学府を目指して㉑苦難の先の福音(7)

………

……

教会を出た全登は、ふらふらした足取りで長崎の街中を歩いていた。雨をよける蓑も身につけず、激しく降る雨に委ねたその体はすっかり冷え切っているのだが、それ以上に彼の心は凍えきっていた。


どうにかして進めてきたその足の運びも、いよいよその動きを止めると、そのまま彼は仰向けに倒れてしまった。


頬を濡らすのは、涙か、それとも雨か…


しかしそれはどうでもいい事だ。なぜなら彼はそれを拭う気力すら残っていないのだから…


「もぐら」と揶揄されていた頃の事を思い出す。


卑屈で、根暗であったあの頃の自分。

それでも外の光に憧れ続けたあの頃の自分。


ーーどうせそれがしなど、何をやっても上手くいかないのだ…であれば、最初から何もしなければよかった…


醜い後悔が胸の内を覆うと、それを情けなく思う自分が絶叫している。

しかしそれは彼の口からは出てこない。

もう彼には本能に任せて口からさけび声を出すことすら出来ないほどに打ちひしがれていたのだった。


ーーこのまま雨水とともに流れてしまいたい…


そんな風に心の中でつぶやくと、それ以上は何も考えるのをやめた。


振り続ける雨が顔にびちびちと音を立てて当たる。


朝からの大雨で外に出ている人も少なく、彼が大の字になっていても、誰も気にかけることはなかった。


そして雨の大きな音は、彼に近づく足音を打ち消していたのである。



雨は振り続く。


彼の悲しみを表すように…


しばらくしたその時であった…


ふと目の前に黒い影が見えたと思うと、彼の頬に激しく打ちつけていた雨が、ふとやんだ。


いや、まだ雨の音はする…


全登に少しずつ感覚と思考が戻ってくると、そこに声がかけられた。


「雨に当たり過ぎると、身体に良くないぞ」


全登に戻ってきたのは聴覚だけではない。

視覚も戻っている。

ゆえに、その瞳には、その声の持ち主の顔がはっきりと映っていた。


「なぜ…なぜ…」


それでも彼には言葉は戻りきれてはいなかったのか…

いや、今彼が発することの出来る言葉は、これだけだったのである。

すなわち、これが全てだったのだ。


その男が持つ、真っ赤な番傘が全登を雨から守っている。


その番傘の持ち主は…

言わずもがな、全登の元当主である、宇喜多秀家…その人であった。


「なぜかって?そんなこと…

友に傘を貸しに来たに、決まっているだろ」


「秀家様…なぜ…なぜっ!!!」


なぜここにいるのか!?


なぜ雨から守ってくれるのか!?


なぜ…


なぜ…あの時死なせてくれなかったのか…!?


なぜ…!?


そんな「なぜ」が次から次へと浮かんでくるが、言葉にならない。


それは感情が理性を凌駕しているからであり、今まで絶望に打ちひしがれていた心は、秀家の顔を見た瞬間に大きな翼をもって天にも昇るほどに昂ぶっていた。


自分が最も尊敬し、大きな恩義を感じていた人物が目の前にいる。

もしかしたら死んでしまっているのではないか…と再会を諦めていた、その人物がいるのだ。


こみ上げてくる感情は抑えきれずに、それは嗚咽となって口から出て来た。


「うわぁぁぁぁぁぁ!!!

お会いしたく…お会いしたくございました!!」


そんな全登に、秀家はしゃがんで顔を近づけると、優しく言った。


「俺も会いたかったぞ、全登!」


全登はなおも涙を流しながら、それでも秀家に対して失礼のないようにしたいのか、ゆっくりと体を起こすと、秀家はその背中を力強く支えた。


そして未だに言葉が出てこない全登に対して、秀家は語り出した。


「事情は既に聞いている。

お前は相変わらず気苦労ばかりをしているようだな…

もっとも最初に気苦労をかけたのは、俺であったが…」


「そ、そんな…気苦労などと思ったことはございませぬ」


「ああ、お主はいつもそうであったな。

どんな汚れ役にも耐え、どんな軋轢にも立ち向かった。

宇喜多家で最も強い男であった」


明石全登はお家が真っ二つに割れた宇喜多騒動を、若くしてたったの一人で取り仕切り、宇喜多家をまとめ上げた経歴を持つ。

それも全て、「もぐら」と陰口をたたかれ、目立つこともなかった彼を、誰よりも目にかけてくれ、引き立ててくれた秀家の恩義に報いる為に、必死になっただけのこと…そんな風に思っていたのだ。


そして今、その秀家から「宇喜多家で最も強い男」という言葉をかけられたのだ。

全登は涙目と雨に濡れる顔を下げるしか、感謝の気持ちを表す術を知らなかった。


秀家は続ける。


「そんなお前は俺の自慢の友だ」


「と…友…?」


「ああ、俺の自慢の…大切な友さ、明石全登という男は…」


「そ…そんな…それがしなど…」


ーーこの後に及んで自分を卑下などするな。宇喜多家一の強者が、そんな調子でどうする


それは言葉に出さないが、秀家は笑顔と強い瞳でそう語りかける。

全登はその瞳に言葉を失った。


秀家は続ける。


「そんな友が悲しみに打ちひしがれて雨に濡れているじゃねえか。

傘を差してやることくらいしても、罰は当たらねえってもんさ」


秀家のぶっきらぼうだが、包み込むような暖かさが、全登の凍えた心を溶かす。

あふれた感情はそのままポロポロと落ちる熱い涙となって、雨で濡れた地面を余計に湿らせた。


秀家はさらに続けた。


「しかし情けないのは俺の方だ。

苦しんでいる友を目の前にして、傘を差してやることくらいしか出来ねえんだからよ」


「そ…そんな…もったいなき…」


「お前も知っての通り、今や俺は追われる身だ。

助けられてばかりだった友に、なんの恩も報いてやることも出来ねえ」


「それは…それがしの方です…」


全登の言葉の続きを、秀家は首を横に振って制する。


「だがな全登…俺は知っているぞ。

お前は諦めの悪い男だ。それがお前の強さだ。

もしかしたら諦めの悪さだけで言えば、日の本一…いや、俺のもう一人の友も相当なあれだったが…

とにかくお前はどんなに踏みつけられても、立ち上がってたじゃねえか」


「…しかし…」


「だから俺が何も出来なくとも、お前はまた立ち上がれる。

そして諦めねえ。違うか?」


全登は秀家の語気が強くなってくるとともに、体を巡る血液の温度が上がっていくのが分かった。


自ずと光を帯びてきた全登の瞳を見て、秀家は続ける。


「たかが一度だけ断られただけじゃねえか。

しかも他人の言葉で…ただの紙切れで…

お前はてめえの言葉で、相手にてめえの想いを、気持ちを伝えずして諦めきれるのか!?

紙切れだけのやりとりで、相手の瞳の色も分からずに、てめえの情熱が伝わると思っていたのか!?」


「それは…」


「相手がこっちにいねえなら、お前が行けばいい!

直接面と向かって、てめえのその腹の内を、ありったけの情熱を込めてぶつけてみればいい!」


秀家の言葉が、全登の心の奥で眠っていた、獅子の如き、気高く強い情熱に対して「目を覚ませ!」とたたき起してくる。


「それでも言う事を聞かねえなら…」


秀家はそこで言葉を切って、全登を燃えるような瞳で見つめた。全登も引かずにその瞳を睨むように見つめ返す。そしてごくりと唾を飲み込んだ。



「そんときは、そいつに頼るな…お前のやり方を突き通せ」



その言葉の持つ意味…


それは、もしイエズス会がかたくなに協力を拒むなら、カトリック教会そのものを頼りにせずに、自分の力で人を集めてみればいい…


直接相手のもとに出向いて…


そのように全登には思えたのだった。


「そのような大それたことを… それがしが…」


そう言いかけた全登に対して、秀家が傘を持たない方の手を全登の肩におきながら力強く告げた。


「小さくまとまるんじゃねえぞ、全登。お前は俺の自慢の友である事を忘れるな」


そのように告げた秀家は、全登の目を覚ました情熱の色を表したような、真っ赤なその傘を全登に手渡すと、羽織っていた金色の羽織を、頭からかぶるようにして雨を避けながら、ゆっくりと歩き出した。


「秀家様!!」


離れていくその背中に向けて、必死に全登は呼びかける。

しかし秀家は振り返ることなく、その足を止めることもなかった。


降りしきる雨のせいで、少し距離が開いただけで、その姿が霞んでいく。それでも全登は立ち上がって彼を追いかけはしなかった。


追いかけてはならない…


そんな風に思えてならなかったからだ。


一度止まったはずの涙が、再び頬を伝うのだが、その温度は先ほどのそれよりも熱を帯びている。


それでも一言、抑えきれぬ未練が口から大きな声となって出てきた。


「傘…! 必ずお返しします!!だから… だから、それまでは…」


その言葉に足を止めた秀家は、ゆっくりと振返った。


その姿は…


全登が見た『夢』…


友を何よりも大事にし、その友の為には命をも惜しまない、その気概、その生き方…


まさに全登が憧れる「かぶき者」の男立てなものであった。


その姿に全登は少しでも近づけることを祈りつつ、必死に叫んだ。


「それまでは、どうぞお達者で!!!」


秀家の口元がかすかに緩む。


「ああ、約束だ」


そう告げると、秀家はもう振り返ることなく、長崎の街の中へと消えていったのだった。



◇◇

史実の上では、関ヶ原の戦いの後に、九州に逃げのびた宇喜多秀家は、薩摩にてかくまわれるが、慶長7年(1602年)に島津忠恒によって、徳川家康の前まで連行されると、慶長11年(1606年)には八丈島へと流されることとなる。



しかし…


慶長6年(1601年)6月――


派手な金色の羽織に身を包んだ美丈夫が、徳川家康のいる伏見城の大手門の前までやってきた。

いかにも「かぶき者」といった、いでたちのその男を怪しんだ門番は、その男が門に近づこうとしているのを見て、慌てて制した。


「お主、一体何者であるか?名を名乗り、用件を言え!」


鋭く光る槍の穂先を目の前にしても、全く動じることなく、堂々と胸を張るその男は、大きな声で答えた。


「われは宇喜多権中納言秀家、人呼んで、豊臣秀頼様が五大老のひとり、備前宰相である。

徳川内府殿にお願いしたい儀があって参った!

そこを開けよ!!」


「備前宰相」…その名を知らぬ侍など、この時代に知らぬ者などいない。

そして人目を惹きつける端正な顔立ちと派手ないでたち、そしてその張りのある透き通った一括に気圧された門番たちは、槍の先を下げて、その場を通したのだった。


威風堂々とした態度で門へと足を進める秀家。


ようやく我に返った門番たちは、彼の背中に追いつくと、


「備前宰相殿!内府様が直々にお会いになるかどうか確認してくるゆえ、しばしこの場でお待ちくだされ!」


と、先ほどとは打って変わって腰を低くして言うと、その言葉に納得したように、秀家は足を止めたのであった。



………

……

「ふん、まさかお主が自ら、わしの目の前にやってくるとはのう」


と、徳川家康は、目の前に座る秀家を見てそう言った。その声には、腫れ物が除かれたような安堵がうかがえる。


「俺もかような場でまたお目にかかることになろうとは、思ってもよらなかった」


と、秀家は家康の放つ威圧に押されることなく、毅然と答えた。

そしてその答えに家康の目が細くなる。


「ほう…それは、どこか別の場所で再会すると思っていた…ということか?」


その家康の問いかけに、秀家の口元にかすかな笑みがこぼれた。


「歳を取るということは、勘ぐりが過ぎるようになっていけねえな」


「ふん!お主、自分の立場をわきまえての発言なら、その肝っ玉はむしろ称賛に値するわ。

まあ、よい。

わしは知っての通り、忙しい身なのだ。

五大老として、お主の分の仕事までしなくてはならないからのう」


「頼んだ覚えはねえが…まあ、この際、そんな野暮な話をしにきた訳じゃねえよ。

今日は一つ頼みがあってきたんだ。

同じ五大老だったよしみで、一つ聞いちゃくれねえか?」


すると家康の傍らに座っていた天海が、けらけらと高い声で大笑いした。


「カカカ!気持ち良いほどに、図々しいのう!よほどの阿呆か、大物か…さすがは、太閤の寵児といったところじゃ!

内府殿、この男の願いを聞いてみたらよろしいではないか」


秀家はちらりと天海を見ると、


「じじい…あんたも大概ではないと思うがな…だが、その言葉はありがてえ」


と、軽くお辞儀をした。


「まあ、播磨一国が欲しい、など大それたことでなければ、聞いてやらんでもない」


と、家康は秀家に向かって言った。彼もまた、秀家が、かつて敵の大将であった自分に頭を下げてまで、どのような願いを申し出てくるか興味があったのだった。


すると秀家は床に頭をこすりつけるように、深く礼をすると大声でその願いを告げた。


「徳川内府殿!どうか、明石掃部頭全登とその一行が、異国に出ることをお許しくだされ!!」


あまりに突拍子もないその願いに家康も天海も、反応に困る。

そんな彼らをよそに秀家は続けた。


「全登は今、豊臣秀頼様の作る豊国学校の研究者集めに命を懸けている。

その使命を果たす為に、どうしても異国で話をつけなきゃなんねえ。

この日の本の未来を明るくし、民の生活を豊かにするための大事な使命なんだ!

一人の男が命を懸けている使命なんだ!

その使命を果たす為に、長崎の港から全登が異国に出ることを許してくれ!

頼む!!この通りだ!!」


この頃、長崎も含めて異国との交易に利用する主要な港は、そのほとんどを徳川家が管轄していた。その為、交易以外であったとしても、特に日本人が乗って異国に出る船については、厳しく取り締まっていたのだ。


その事を知っていた秀家は、全登が安全に出国できるように、家康に直接かけあってきたのであった。


「お主…まさか、そのことだけを頼みに、その身が捕縛される事もいとわず、すなわちその命がどうなるとも構わずに、このわしの前に姿を現したというのか…」


「そのことだけ…そいつは聞き捨てなんねえな、内府殿。

これは俺の大事な友が、命を張って臨んでいる、言わば戦のようなものよ。

国も兵も持たない俺が、友の為に命を張れるのは、こうして内府殿に頭を下げることぐらいなのだ。そのどこがおかしい?」


強大な相手にも一歩も引かない強い言葉。強い瞳。


顔を上げてじっと家康を見つめるその瞳を見て、横に座っていた天海が、再び大きな笑い声をあげた。


「カカカ!こいつは見上げた男だ!まさに男立てだのう!!

よい!よいではないか!内府殿!こやつの命を懸けたその願い、聞いてやってもよいではないか!」


「ふん、天海殿。お主に言われんでも、そうするつもりだわい」


と家康は秀家から天海の方へ向きながら言った。

その言葉に秀家は満面の笑みを浮かべると、


「ははは!!さすがは天下の徳川内府殿だ!でかいのはその耳たぶとお腹だけではなかったらしい!ははは!」


「な、なにっ!?」


と、顔を赤くして目を丸くした家康。その様子を見て、さらに大きな声で笑う天海。

彼らを尻目に、秀家はすくりと立ち上がると、その場を立ち去ろうとした。


家康は慌てて秀家を呼び止める。


「おい、待て。どこへ行くのだ?」


その問いかけに秀家は振り返ると、笑顔で告げた。


「決まっておろう、伏見の牢屋に向かうのだ。早く案内をよこしてくれ」


何事もなかったかのように、爽やかさをも感じる言葉で言い切った秀家。


そんな彼の様子に、天海はどこまでも愉快そうに笑い声を上げ続けていたのであった。




なお「男伊達」はもとは「男立て」と表記されていたそうです。


では、次回はいよいよ全登の未来が動き出します。

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