理想の学府を目指して ⑱苦難の先の福音(4)
今回のお話の一部を『フィクション』とするか、『ノンフィクション』とするかは、読者様に委ねさせていただきます。
◇◇
――いやぁぁぁぁ!!おっかあ!おっかあ!
もうこの夢は何度目だろうか…
オルガンティノはこの日も悪夢にうなされていた。
………
……
天正十五年(1587年)、彼は新たにイエズス会の日本における布教活動の責任者に任命されたガスパール・コエリョに面会する為、長崎へと赴いた。
しかしそこで目にした光景は、彼の想像を絶する壮絶なものだったのである。
その年は、豊臣軍が九州に進軍すると、島津らを相手に激しい戦闘が繰り広げられていた。
戦が起これば、勝者も敗者も現れる。そのうち敗者には文字通り「死」が訪れ、何もかもが奪われた。それは「人間としての尊厳」すら奪われることを意味していたのだ。
長崎の港でオルガンティノが見た光景は、何十人もの人々が、手足を鎖で繋がれて、大きな商船に乗せられていく光景――
泣き叫ぶ子供の声――
中には舌を噛んだのだろうか、口から血を流してその場で絶命する者――
既に死んだ魚のように、光を失った目をして黙って船に乗り込む少女――
オルガンティノが長い事住んでいた京では見る事がなかったその地獄のような光景が、彼の頭にも心にも、まるで船に連れて行かれる人々に押された烙印のように、焦げくさい臭いを残して、焼きついた。
――コエリョ様!!なぜこのような事をなされるのですか!!?
彼はすがるように、コエリョに詰問する。
――何を言っておるのだ?これは貿易である。ここで得られた利益が我がイエズス会の活動資金となって、多くの野蛮な日本人どもを改宗させることになるのではないか
――しかし!
――敗者は奴隷になる…
どの時代でも、どの国でも普通のことではないか。何を今更目を血ばらせているのだ。
それに我々イエズス会が彼ら奴隷を集めたのではない。
卑しい日本の商人や大名たちが、『買ってくれ』とせがむから、買ってやって、それを売っているだけだ。
それのどこが悪い?
行き場の失った者たちに、新たに生きる道を与えてあげていることだけでも、感謝して欲しいくらいだ。我々は異教徒である彼ら奴隷を救ってあげているのだよ
――違う!違う!こんなのは救いではない!
――黙れ!オルガンティノ!貴様は異教徒に情けをかけるつもりか!それは主への反逆であるぞ!ゴアの異端審問会にかけられたくなければ、余計な口をはさむな!!
――くっ… うおぉぉぉぉぉぉ!!!
彼になすすべなどなかった。
ただ頭を抱えて、泣き叫ぶこと…
それしか出来ない。
鎖に手を繋がれた奴隷となる人々が、不思議そうな目でオルガンティノを見つめている。
そこに一人の少女が声をかけてきた
――バテレン様、泣かないで
優しい声…
オルガンティノを気遣う、純粋な瞳…
その声と瞳が、彼の心に永遠に外れない鎖となって巻きついた。
その少女は分かっているのだろうか…
この後自分がどこに連れていかれるのかを…
この後自分がどんな人間に買われるのかを…
この後、自分にどのような悲惨な人生が待ちうけていることを…
彼らは直接戦に関わってはいない。
言わば畑を耕す善良な農民だ。
そんな彼らがただ単に敗戦国に住んでいたという事実だけで、奴隷となり、残酷で受け入れ難い運命に身を委ねねばならない道理がどこにあろうか。
そしてそれを自分の同志が先導しているという事実を、いかにして受け入れればよいのだろうか。
そして公然と行われているこの人間の非道徳的で残忍な「商売」が、「常識」として受け入れられている歴史を、なぜ肯定せねばならないのか!
オルガンティノは、彼が信じる道理と、世の中に定められた道理の、かけ離れた現状に苦しんだ。
泣いて叫んだ。
必死にもがいた。
しかし、彼には何も出来ない。
「ガスパール・コエリョ」というただ一人の、ちっぽけな人間すら動かすことが出来ない。
――世の中など変わらないのだ…
小さな人間の抵抗など、天には届かない…
受け入れ難い運命の流れは、彼の苦しみなど関係なく、ただ上から下へ流れていくように、そのうねりをもって、全てを飲みこみ続け、闇へと葬り去っていく。
そして歴史は、「勝者にとって都合の良いこと」だけが、まるで綺羅星のように、鮮やかな輝きを持って残るのだった。
ここに一人の男が苦悩し、生涯苦しんだことなど、もはや誰の手にも記されることもなく、誰が気付くこともない。
その意味で、歴史は残酷であり、そして「虚飾」の塊であることに、オルガンティノは痛感させられたのであった。
この世の地獄を見たオルガンティノは、帰路につく。
その際、あえて豊後の国を通った。
この国は島津軍に蹂躙され、多くの男たちと子供たちが奴隷として捕らわれたのを、風の噂で耳にしたからだ。せめてその地に赴き、何が起こっているかを知ることが、彼なりの責任の取り方だと思ったからだ。
だが、それは彼が想像するものよりもさらに悲惨な状況であった。
働き手である夫を失い、唯一の希望である子供を失った女性たちの涙は枯れ果て、失意のあまり自ら命を絶った者たちの死骸があちこちに散乱している。
皆一様にその顔は無念の色に染まっており、見るに耐えないものであった。
オルガンティノはここでも何も出来なかった。
ただただ立ち尽くしていた。
足元に死骸を見ながら…
そこに一人の男と、数人のお供たちが泥だらけになって何かしているのが目に入った。
そして彼らがオルガンティノのもとにやってくる。
ーーお主は何をしにきた…また奪いにきたのか…
ーーい、いえ…私は…
ーー嘘だ!嘘だ!何が救いだ!何が憐れみだ!
ーーい、いや…
ーーこれを見てもてめえらは救いだと言い張るつもりか!!?もう俺は何も信じない!!
神が何だと言うのだ!
救い!?ふざけるな!!
男が激しい口調でオルガンティノに詰め寄る。
それを彼のお供たちが必死に止めた。
しかしそのお供たちも、みな涙を流している。
ーー殿!お辞めください!この者は恐らく関係のない者です!
ーーうるさい!バテレンはみな同じだ!!バテレンだけじゃねえ!父上も商人たちも、南蛮人も、みな同じだ!!
男は涙と泥で顔を滅茶苦茶にしながら、そう叫ぶと、オルガンティノの足元にある死骸を運び始めた。
そう、彼らは死骸を片付けていたのだ。
新たに、もう一度、この豊後の国が豊かになる為に…
ただ悲嘆しているだけではなく、彼らは行動していたのだ。
明日を作る為に…
オルガンティノは呆然とその様子を見ることしか出来ない。そして結局ここでも己の無力さだけを痛感して、京への帰路についたのだった。
なお、この男の名は大友義統ーー
秀吉の九州平定の後、彼が荒れ果てた豊後の国を、泥水をすすりながらも必死に善政を敷いたことは、後世になって全く知られていない。
彼が見た地獄は、豊後の国にいや豊後の民たちに対する強い思い入れに変化していく。
その豊後を秀吉より取り上げられたことは、彼の心を完全に砕き、堕落させるには十分な要因となる。
そして、泰巌なる怪しげな老人の口車に乗せられて、いかなる手を使ってでも、豊後の国を奪い取るという野心へとつながる。
それは地獄を見た、とある男の悲しい半生の始まりでもあったのだった。
さらに、この年の事だ…
この「奴隷貿易」の事態を重く見た豊臣秀吉が、バテレン追放令を発令したのは…
そこで秀吉は、コエリョを激しく糾弾し、徹底的に彼を追い詰め、彼は失意と憎悪にまみれたまま、数年後に不可解な『事故』による死を遂げる。
それは、コエリョが九州で秀吉討伐の為に、大量に武器を揃え終えた時であった。
そしてその武器は、ヴァリニャーノの手によって大半は、マカオにて処分された。
大半は…
しかし残った一部は、『事故』の謝礼としてつかわれたと、まことしやかに噂された。
そして何も知らない京のバテレンたちから聞かれた「バテレン追放令」の真意は違っていた。
ーー長崎を治める大名がバテレンに領土を寄進したことに、腹を立てた太閤秀吉が、バテレンによる日本の侵略を危惧して追放令を出した…
そのどこにも「奴隷」の文字はない。
オルガンティノは一人虚しい抗議をする。
もちろんそんな声など世には届かないだろう。
そして後世、彼の叫びなど時代を越えて届くこともなく、日本の少年少女たちは、ヨーロッパのキリスト教国と一部の大名や商人たちが「常識」として行っていた奴隷貿易のことなど知らない。
虚飾に満ちた聖典には書かれていないからだ。
当たり前のように、知るよしもないのだ。
知ることが常識ではないのだ。
なぜなら歴史は「日本の少年少女の奴隷など存在しなかった」という、都合のよい解釈しか残すことを良しとしたのだから…
………
……
「昨夜もうなされておりましたな…」
目の下に大きな隈をつけたオルガンティノの様子に、彼が居候をしている屋敷の主人が、心配そうに話しかけた。
「ええ… 心配をおかけして、かたじけないデス…」
と、朝げを取りながら、オルガンティノはその主人に答えた。
そしてわずかに手をつけただけで、箸を置くと、
「ごちそうさまでございました…」
と、手を合わせてお辞儀をした。
「ほとんど食べてらっしゃらないではございませんか…もっと食べないとお体にさわりますよ」
と、主人は益々心配そうな顔で、彼に再び箸を取るように促した。
しかし彼は首を横に振ると、疲れたようにその場に横になろうとした。
明石全登が彼の事を訪ねてから、ずっとこんな調子で、もう十日以上経っている。
主人は意を決したように、オルガンティノに向き合うと、彼に優しく説教をした。
「マタイによる福音書第二十一章二十八節から三十二節…
ぶどう園の父親とその息子たちのお話。
父親から『ぶどう園に行って仕事をしなさい』と言いつけられて、『はい』と返事したのに行かなかった弟と、『いいえ、行きたくありません』と答えて、その後に考え直してぶどう園へ行った兄…
どちらが正しい行いと言えるでしょう。
オルガンティノ様は教えていただきました。
『後悔しても、考え直して行動をした者は、正しい』と…
オルガンティノ様がお教え下さったのですよ。
例え一時は間違えても、考え抜いて正しい道を選択した者こそ、主の教えを守る者だと」
その言葉はオルガンティノの渇いた心を潤す、清らかな水のようなものだった。
人は渇きから解放されたその時に救いを感じるものなのだろう…
宣教師として恥ずかしい事かもしれない。
しかしオルガンティノは、この時初めて、本当の救いを知った。
自然と涙が落ちる。
その涙が彼の渇いた心の大地にうるおいを与え、そこから小さな芽が出てきた。
ーー後悔しても、考え直して行動した者は、正しい
では、一体何が「正しい」のだろう。
イエズス会の…いや、カトリック教会の指導者たちの言葉は、果たして本当に正しいのか。
それは彼らが作り出した「虚飾の歴史」なのではないのか…
「信仰に生きる事が絶対だ」と彼は教わってきた。
そして、彼もそれを言葉として教えてきた。
しかし本当にそれは真実なのだろうか。
彼は今、彼の中の真実と向き合っていた。
民の生活を豊かにする…
貧しい者に与える為に、行動をする…
信仰とは何か?
行動は信仰ではないのか?
布教とは何か?
都合の良い言葉で巧みに人の心を動かす事が布教と言えるのか?
彼の自問自答は続いた。
彼の頭の中は今、自分が信じてやまなかったものと、彼が自身の心のうちに芽生えたものとが、激しくぶつかり合っていた。
しかし…
体の方は既にその答えを出しているようだ。
彼は、彼にかけられた声によって、ふと我に返った。
「オルガンティノ様…かようなところに、いかがされましたか?」
彼は辺りを見回す。なぜなら無意識のうちに、彼は堺の屋敷を飛び出し、見知らぬ場所に辿り着いていたからであった。
「かような場所…ここはどこデスカ?」
「ここは病院にございます。今は亡きルイス・アルメイダ様のお弟子様によって建てられた、病の者に治療を施す場所でございますよ」
「そうでしたか…今その弟子のお方はいらっしゃいますか?」
「はい…しかし、いかがしたのでしょう?どこかお加減でも悪いのでしょうか…」
心配そうにたずねるその病院で働く日本人に対して、オルガンティノは笑顔で答えた。
「はい!それがしは病に悩まされてました」
「なんと…それは大変だ!では、すぐに…」
と、慌て出す男を制するようにオルガンティノは言った。
「心配にはおよびませーん!それがしは、もう元気にございまーす!」
「しかし…どこがお悪かったのですか?」
その問いかけにオルガンティノは胸を親指でさして、
「心にございます!」
と、明るく答えた。
そこにはいつものオルガンティノの太陽のような表情。
しかしそれは、彼を縛りつけていた鉄の鎖の呪縛に逆らうような、無理をしたものではない。
覚悟を決めた男の、心の底からの笑顔であった。
「では、そのお弟子様に、ちょっと協力してもらいまーす!」
と、彼はずかずかと病院の奥へと進んでいく。
「ちょ、ちょっと、オルガンティノ様!?
一体何に協力していただくのですか!?」
その問いかけに彼は振り向くと、
「学府の研究者デス!」
と、笑顔とともに瞳には燃える炎を宿らせて答えたのだった。
このお話を、
悲劇と苦悩を強調する為の『フィクション』とするか、
歴史の一側面とする為の『ノンフィクション』とするかは、読者様に委ねたいと思います。
ただ一点だけは、私が個人的に、真実としたい箇所がございます。
それは荒廃した豊後の国を、大友義統が一人で必死に善政を敷いた事実にございます。
これはルイス・フロイスの記録に残っておりまして、これを信じて、史実としたいのでございます。
そしてこのことが、小説の序盤の臼杵城の奪取につながるのです。
また、一つ言えることは、真実は決して一側面だけを見て語られるべきものではない、ということです。
私の歴史観は、引き続き活動報告にて公表いたします。
是非皆様のご意見をお待ちしております。
そして、このお話も、この小説自体も「大衆受け」するものではないかもしれません。
決して書籍化するような類いのものではないかもしれません。
しかしそれでも私は、皆様の心に届くような物語を綴り続けていきたいと、切に願っているのです。
では、これからもよろしくお願いします。




