理想の学府を目指して ⑮苦難の先の福音(1)
このシリーズのお話は全てフィクションになります。
そして全ての敬虔なクリスチャンと会派に敬意を込めて、綴ります。
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便宜上、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの各国の名称は、当時の呼び方ではなく、現代の各国の呼び方を表記いたします。
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遡ること関ヶ原の戦いが起こる半年前のことになる。
日本とは遠く離れた教皇領(現在のイタリア国付近)、クイリナーレ宮殿の中の美しい庭園の中で、時のローマ教皇クレメンス八世は渋い顔をして、コーヒーをすすりながら、一人の男と話をしていた。
その男はいかにも健康的な体つきの持ち主で、教皇の前でひざまずくその姿は、まさに騎士そのものであった。しかし西洋騎士と決定的に異なるのはその服装。どこからどう見ても敬虔なクリスチャンそのものにしか見えないが、その服装は黒一色、すなわち黒衣である。その姿勢と服装のアンバランスさが、その男に近寄りがたい凄味を加えているとしか思えないのであった。
その男の名はクラウディオ・アクアヴィヴァ。キリスト教、カトリック教会の修道会の一つであるイエズス会の総長である。
「いまだローマ市民はうるさいのか…?」
と、クレメンス八世はその重い口を開く。
「はい、残念なことではございますが、未だチェンチ家の娘とジョルダーノ・ブルーノを処刑したことを良く思わない者たちの怒りは収まらない様子でございます」
と、アクアヴィヴァが答えた。その声は低く、重みがあるものだった。
「ふむ…父親殺しも異端も主の教えには反する行為…それを罰せずして、主はお喜びになるだろうか…一時の感情に流され、主の教えを曲げることが、神への冒涜となぜ気付かぬものやら…」
「さあ… 私にはよく分かりません」
クレメンス八世は、コーヒーの黒い水面から、黒衣の方へと目を移す。
「アクアヴィヴァよ。わしに甘い言葉だけを口にせずともよい。このコーヒーは、苦くてもその味わいは絶品である」
「では、申し上げますと、もはや教皇様のローマでの人気は地に落ちており、そのお言葉はローマ市民の胸に届く事はないでしょう」
さながら鋭い刃で一刀のもと斬りおとすかのようなアクアヴィヴァの言葉に、クレメンス八世は苦い顔をする。しかし、その目はどこか救われたような光を携えている。
「そうはっきりと言ってくれると、わしも腹を決めて宮殿に籠っていられるというものだ」
この頃、西欧においては、新教徒と呼ばれるプロテスタントの台頭が著しく、それは政治問題や領土問題まで発展していった。
ローマ教皇を中心としたカトリック教会は、政治、経済、軍事に積極的に関与し、国王、貴族、商人たちとの結びつきにより、その勢力を伸ばしていた。しかし、福音主義に基づくプロテスタントは、信仰を本来の形に戻す、という名目のもと、カトリック教会の持つ権益を真っ向から否定した。
そして貴族と平民たちとの間に貧富の差が大きかったこの頃において、プロテスタントの思想は人々に受け入れやすいものであり、その勢力を一気に拡大していったのである。
しかし初めに宗教改革を唱えたマルティン・ルターの高潔な思想とは相反するように、それは政争の火種として巧みに利用されることとなる。
すなわち当時のハプスブルク家を中心とした西欧支配を良しとしない、貴族や商人たちが、プロテスタントの普及という名目を利用して、カトリック教会を軍事的に侵攻していき、ハプスブルク家やカトリック教会の支配からの脱却を図ったのである。
それを象徴するような出来ごとが、イギリスのエリザベス一世によるスペインの無敵艦隊と呼ばれた軍勢を撃破したアルマダ海戦であり、オランダの独立戦争であった。
すなわちイギリスもオランダもプロテスタントの保護と自由な布教を掲げて、それを弾圧していたスペインと激しい戦争を始めたのである。しかしその本来の目的は、イギリスは制海権の奪取であり、オランダはスペインからの主権の奪還であったわけで、そこに純粋なプロテスタントたちの布教の自由という意味合いは、むしろ歴史の中においても霞んでいくことになる。
そしてフランスにおいてもプロテスタントの保護の名のもとの、カトリック教会の支配からの脱却による絶対王政の確立が進んでいた。
そんな中、クレメンス八世は、1592年にキリスト教のカトリック教会の総長とも言えるローマ教皇に任命されたのだ。
彼はカトリック教会の復権という大きな目標を持って、強い決意でローマ教皇の座についた。
そこでまず着手したのは、カトリック教会に対する名声の回復であった。その為には、プロテスタントへの弾圧ではなく、「懐柔」という手段を選んだ。
すなわち国王や貴族たちへのカトリック教会への恭順を強制せずに、プロテスタントも含めた信仰の自由を認め、その上でカトリック教会の教えの崇高さを訴えることにしたのである。
そして内乱の続いていたフランスにおいて、プロテスタントに対して寛容であった為にカトリック教会から破門されていた国王のアンリ四世に対して、その破門を取り消し、長く続いたフランスの内戦であるユグノー戦争の終結に大きな影響をもたらせると、それにとどまらず、敵対関係であったフランスとスペインの和解にも尽力したのである。
これによりクレメンス八世の政治手腕の名声は高まり、同時にカトリック教会の存在感は大きくなった。
しかし、「カトリック教会の教えの崇高さを訴える」という点においては、失敗したとするのが現実なのかもしれない。それは先の通り、実の父親から虐待を受け続けていたチェンチ家の娘を「父親殺し」の罪に問い処刑したことと、天文学の権威であり地動説をかたくなに主張し続けたジョルダーノ・ブルーノを火あぶりの刑にしたことが大きい。だが、彼はその他にも「異端」とした者たちを数十人に渡り処刑している。
それも全て「キリストの教えを厳格に守る為」という、カトリック教会が本来持つべき特性に遵守し、その名声を回復させる為であったが、それは全くの裏目に出てしまったのである。
そしてこの頃になると、教皇に強い反発を抱いたローマ市民による暴動が頻発し、身の危険を感じた彼は宮殿内に籠るようになり、滅多に外に出ることがなくなった。
だが、彼はカトリック教会の復権を諦めた訳ではなく、既に次の手をうったのであった。
イエズス会の総長として多忙を極めていたアクアヴィヴァが、クレメンス八世をこの日たずねてきたのは、その事について、クレメンス八世に話をしにきたわけだ。
「教皇様、一つおたずねいたします」
「なんだ?」
「先日、我がイエズス会だけではなく、他の会派…ドミニコ会などにも極東における布教活動をお認めになった、というのは本当でございましょうか?」
「まことのことだが、それが何か不都合なのか?」
「我らにとっては面白くはございません」
「そうか…」
そう、この時クレメンス八世が打った次の一手は、カトリック教会の全世界への布教の強化であった。
当初、カトリック教会の権威を取り戻し、全世界にその布教を進めるという崇高な目標を持って設立されたイエズス会のみに、日本をはじめとする東アジアでの布教活動は認められていた。しかし、同じカトリック教会の会派であるフランシスコ会の布教活動が日本で始められた事実を知ったクレメンス八世は、ドミニコ会などその他の会派に対しても、東アジアにおける布教活動を認めたのである。
その背景は、イエズス会の支援国であるポルトガルの衰退が影響していると思われる。なぜならこの頃、ポルトガルとスペインは同じ王を王としていた。すなわちフェリペ三世の事である。
もとよりハプスブルク家の影響により、スペイン王であったフェリペ二世がポルトガルの王も兼ねたところが発端であった。しかし当時はポルトガルとスペインは同等に扱われ、その為に今まではイタリアの富豪商人たちの援助に頼っていたポルトガルの経済は、スペインからの援助を手に入れたことで、この時さらに発展した。だが、フェリペ三世の頃となると、ポルトガルはスペインの属国のような扱いを受け、その国力や影響力を急速に弱めていく。
経済基盤であるポルトガルの弱体化は、イエズス会の布教活動にも影響を与えていたと言わざるを得ないのであった。
こうした背景の中、ローマ教皇は、スペインが支持母体であるフランシスコ会やドミニコ会の持つ布教力を利用することにためらいはなかった。
無論この頃、プロテスタントが中心のイギリスやオランダがアジアに向けてその貿易圏と支配地を広げていったことも、クレメンス八世が全ての会派に極東地域での布教活動を認めた大きな要因と言えよう。
しかしその事は、イエズス会にとって、自分たちの力不足を露呈することにつながるとともに、ポルトガルのさらなる衰退のきっかけにもつながりかねない、大事であったのだ。
すなわち他の会派による極東における布教は、スペインに極東の貿易航路の確保や植民地支配の機会を与えることにつながる。今やポルトガルとスペインが世界を分割支配することを定めたトルデシャリス条約が形だけのものとなってしまった状況において、スペイン系の会派の進出は、ポルトガルの利権をおびやかしかねないと、イエズス会は考えていたのであった。
クレメンス八世は、黒衣のアクアヴィヴァを見つめて言った。
「わしもはっきり物を申すとしよう。
お主らイエズス会が明国での布教を始めてから何年になる?」
「二十年ほどになるかと…」
クレメンス八世はコーヒーを一口すすり、一息入れるとかすれた声でたずねる。
「二十年もありながら、布教は進んでいないようだが?」
「それは、明国における皇帝支配と現地での教えが、我々の想像以上に根付き、強固だからでございます」
「…であれば、もはやイエズス会のみの手にはおえないのでは?」
「いえ、それは…」
一貫して毅然とした態度を崩さなかったアクアヴィヴァの言葉が濁った。
クレメンス八世はその様子に口もとを緩める。
「アクアヴィヴァよ。わしは純粋に主の教えを全世界に広めて、迷える人々に救いの手を差し伸べたいだけなのだ。
そこにイエズス会もフランシスコ会もあったものではない。
むしろ、このような混沌とした世の中ゆえに、各会派が手を取り合って布教を進めるべきであると思うのだが、いかがであろうか」
「それは…ごもっともでございます」
「それに…極東で布教活動を進めるお主らイエズス会は、ローマ教皇の教書に反した行いをしている…との報告も受けておる」
そのクレメンス八世の言葉にアクアヴィヴァは唇を噛んだ。
そして彼の言葉を待たずにクレメンス八世は続けた。
「最近、明国と日本からの奴隷がリスボンに届かぬのは、それが理由か?」
「しかし…」
「言い訳はよい。質の高い奴隷で得られる富で、どれだけのカトリック教会の信者たちが救われると思っておるのだ?
奴隷を認めているのは、異教徒だけだ。改宗せぬ者に慈悲を与えることは、異教に対して寛容であることと思わんのか?
そのような甘い考えだから、明国での布教が進まんのではないか。
明国だけではなく、小国である日本すら、布教が全く進んでいない事を恥じよ。
主も悲しんでおることだろう」
と、クレメンス八世は天を仰ぎ、十字を切った。
「申し訳…ございません…」
と、絞り出す様に頭を下げるアクアヴィヴァ。
しかしクレメンス八世は追い討ちをかけ続けた。
「なお、お主たちイエズス会がポルトガルの各商人たちに働きかけて、日本や明からの奴隷を扱う事を禁じた、という報告は、同じイエズス会のスペイン人からもたらされた報告だ。
その足並みも揃わぬようでは、満足な布教活動すら怪しい」
「布教活動に問題は…」
「ない、とは言わせんぞ。
それにその者…クルスと申したな。
そのクルスからは、このような書状を受け取った」
アクアヴィヴァは、そこで言葉を切ったクレメンス八世をじっと見つめた。
そしてクレメンス八世は色のない目と声で、その書状を読みあげた。
「日本は国王が死に、その国力が落ちている。スペインがその無敵の艦隊を持って攻め入れば、容易に攻め落とせるでしょう。明国への布教の足掛かりには、日本の支配と布教は絶対に必要。
ついては教皇様に直接この書状を送った事をお許しください。
その大きな慈悲の心を持って、スペイン国王のフェリペ三世様に働きかけ、日本への侵攻とスペイン王国による日本の支配をお許しくださいませ」
実はこの頃、イエズス会は一枚岩ではなかったことが分かっている。それはスペイン系イエズス会が、本拠とも言えるポルトガル系イエズス会と対立していたのであった。
アクアヴィヴァはその高い統率力により、スペイン系イエズス会を抑えつけることに成功していたのであるが、一方でクルスから教皇に当てられた手紙は、極東での彼らの動きまで制することが出来ていない、何よりの証であったのだった。
そしてこの頃、スペインとポルトガルにとっては、この時「布教」と「支配」はまさに同様の意味を持っていた。それほどローマ教皇とイベリア半島の王国は強いつながりを持っていたのである。すなわち人々に対して心も土地も共に支配をするというのが、彼らの支配の広げ方だったのだ。スペインはその意味において、忠実にローマ教皇とのつながりを遵守していたと言えよう。
「安心せよ。この書状に従って、わしからフェリペ三世に働きかけることはしない。
わしとて、無駄に争いごとを起こすような事を容認したくはないからのう」
「ありがとうございます…」
どこか安心したような表情を浮かべたアクアヴィヴァであったが、そんな彼に釘をさすようにクレメンス八世は言った。
「しかし…わしは短気であることは、お主も重々知っていることであろう…
その意味、分かるな?」
アクアヴィヴァの背中に冷たいものが走る。それは在任中に数十人もの人を処刑台に送った人の見せる顔がもたらす戦慄であるのは間違いない。
「はい」
と、短く答えるのが精いっぱいであった。
「とにかく布教に専念するよう、極東の司祭や巡察師に伝えよ。
そしてその者らに、イエズス会に残された時間は少ないと思え…と」
「かしこまりました」
と、アクアヴィヴァは頭を下げる。
そして残されたクレメンス八世はコーヒーをすする。なおコーヒーはイスラム教徒が支配するトルコからこの頃ヨーロッパに伝わったもので、クレメンス八世はよく好んで飲んだ。
「このコーヒーが異教徒からもたらされたものであれば、いっそのことコーヒーにも洗礼を受けさせよう。
そして、カトリック教会に恭順させてしまえば、コーヒーの起源はカトリック教会となる…
従わぬ者に容赦をするな。慈悲などかけるな。
全ての起源と主の思し召しは、わがカトリック教会に基づくものと思え。
それがカトリック教会の誇りだ」
アクアヴィヴァは、その言葉に対して何も発言することなく、気丈にも毅然とした態度のまま、その場をあとにしたのだった。
彼は宮殿から出て、しばらく歩くと
「教皇様… それは『誇り』ではございません。『驕り』というものです」
と、厳しい目を宮殿に向けたのだった。
この翌日のこと――
彼は既に船上の人になっていた。
その行き先は東インド…
明石全登と豊臣秀頼の運命の鍵を握る男が、海に出た瞬間であった…
後日まとめて活動報告にて、私の西洋の歴史観を発表いたします。
なお、当時のローマ教皇、イエズス会総長、そしてスペイン人イエズス会員の名前は史実の通りになりますが、その性格等についてはフィクションです。
色々と震えあがりながらお話を書いております…
しかし、世界史と日本史は分けて考えるべきではない、というのが、今回のお話の主題の一つでもございます。
大きな世界の歴史の流れの中に日本の歴史も流れている、という事を学校では習いません。
例えば1588年に、日本では秀吉による兵農分離策である「刀狩り」が始まり、イギリスではアマルダの海戦でスペインの無敵艦隊を破り、植民地支配が本格的に始まりました。
世界史を学んでいれば、
「この頃の日本では、豊臣秀吉が天下を統一しました」
ですし、
日本史を学んでいれば、
「この頃にイギリスとスペインが戦っていました」
くらいなものでしょう。
しかし、それら一つ一つの出来事が、実は世界中に多かれ少なかれ影響を与え、それが戦争や政治、経済に影響を与えているという事実を、我々は見落としてはならないと思うのです。
そしてその事こそ、現代の政治や経済のあり方を考える上で大きな意味があると考えております。
あくまで、繰り返しにはなりますが、このお話はフィクションです。
しかしそれでも、何か感じていただけるものがあれば、幸いでございます。
 




