理想の学府を目指して【幕間】良薬は口に苦し
◇◇
慶長6年(1601年)7月 伏見城ーー
時の人、徳川家康は関ヶ原の戦いが終わってからしばらく経つが、相変わらず忙しい日々を過ごしていた。
いくら処理をしても一向に減らない書の束に、
「あらためて太閤殿下の大きさが身にしみることよ…」
と、大きなため息をつくのだった。
「ほほ、そのようにため息をつくくらいなら、お辞めになってしまわれればよいのに」
と、ふと背後から女性の声が、家康の耳をくすぐる。家臣だけではなく、女性の事もこよなく愛している家康であったが、その声の持ち主の方へは、しかめ面を浮かべて振り返った。
「そういう訳にもいくまい。わししか出来ぬ仕事だからのう」
「であれば、仕方ございませんね。ため息など漏らさずに頑張りなされ。かような殿のお姿を家臣の者が見たら、殿に幻滅してしまわれますよ」
齢四十を超えているが、皺の少ない張りのある肌のせいか、十以上は若く見える。決して「絶世の美女」とは言えないが、くせも棘もない淑やかな顔つきだ。だが、その瞳の光は彼女の聡明さを色濃く映しており、百姓の出にも関わらず、家康が常に彼女を側に置いておくほどに気に入っている理由でもあった。
彼女の名は阿茶の局と言う。
しかしそれほど家康がお気に入りの彼女であったが、このところ一つの趣向が家康を悩ませ、その顔をしかめ面に変えていたのである。
それは…
「そんなお疲れの殿に、今日は新たなお薬を作ってきました」
と、包みから何やら黒い粉を差し出したのだ。
「また怪しいものを…」
と、家康は先ほどと同じようにため息をつく。
そう、彼女は近頃、薬を作ることに趣向を凝らしているのである。
もとより野生の薬草や木の実を摘むことが好みであった彼女であったが、このところはそれらを調合し、漢方薬として家康に飲ませるのを楽しみとしているようなのだ。
「怪しいだなんて…酷いことをおっしゃいますな。
これには、あの大きな虫…あれ?名前は、何と申したか…」
顎に手を当てて考え込む阿茶の局を、家康は手でそれを制して、
「思い出さなくともよい。その名前を聞いたら、余計に苦くなりそうだ」
と、そのまま一気にその粉を飲み込んだ。
「ううっ… まずい…」
「ほほ、良薬は口に苦し、と申しますゆえ、殿のお体には良きものであったに違いございませんね」
家康は茶で口をすすぐようにしながら、それを飲むと、恨めしそうな顔のまま阿茶の局にたずねた。
「ところでお亀の様子はいかがであろう?」
「それはもう、烈火のごとくお怒りでございましたよ」
眉をひそめてそう答える阿茶の局に家康は、いぶかしい顔をした。
「はて…?わしは何かお亀に悪いことでもしたであろうか…」
「ええ、それはもう…何せ奥平信昌殿の京の所司代の任を解かれ、上方から遠ざけるように、新たな所領にございます、美濃の地に戻るように申しつけられたのですから…
『お父上は、わらわのことも、信昌様のことも嫌っているのじゃ!』と、嘆かれ、それがやがてお怒りに変わられた…と…」
その言葉に家康の顔が青ざめる。
「ややっ!そちらのお亀の話か!
むむっ…またれよ!!それはまずい!あやつを怒らせると何をしでかすか…分かったものではない!」
家康が焦った様子を見て、嬉しそうに笑顔を見せた阿茶の局は、
「ほほ、殿でもそのように慌てることがございますのね。いつもまるで石像のように、難しいお顔でどっしりと鎮座されてらっしゃるのに…
でも、ご安心ください。
わらわが殿の大事な名刀『庖丁正宗』を、殿からの褒美としてお亀様にお渡ししたところ、たいそう上機嫌で美濃に向かわれましたよ」
「そ、そうであったか…よくやってくれた。感謝するぞ」
「ほほ、これはもったいないお言葉。阿茶は嬉しゅうございます。
ただ…」
「ただ…?」
家康は、ほっとしたのもつかの間、阿茶の局が言葉を濁した事に、再びしかめ面に戻る。
「こうおっしゃっておりました。
『息子の忠明と家昌のこと…ないがしろにした時は…
例えお父上であっても許しませぬこと、ゆめゆめお忘れなきよう』
と…」
家康はその迫真の阿茶の局の演技に、思わず茶を持つ手が震える。
「わ、わしの大事な孫であるぞ!ないがしろになどするものか!
いらぬ心配をしている暇があるなら、しっかりと夫の信昌を支えよ、と伝えられるものなら伝えよ…
まったく…あやつは自分で言ったことを、本当にやり遂げるゆえ、油断ならん…
あやつが許さんと言えば、例えわしでもどんな目に合うか…」
「ほほ、ではわらわの方から書にしたためて、『心配ご無用』とお送りいたしましょう。
殿…くれぐれも、その場しのぎとならぬよう、お気をつけくだされ」
「ふん!分かっておるわい!」
と、家康は苦々しい顔で鼻を鳴らした。
今や天下において家康に逆らう者などいない、といっても過言ではない今の日の本において、まるで脅しをかけるように捨て台詞を吐き、家康を震わせる女性…
彼女は、亀姫という。
家康の実の娘にして、奥平信昌の正室である。
彼女の母親は、その激しい気性で知れた築山御前であり、死んだ家康の長男の信康とは同母兄妹にあたるのだ。
彼女もまた母親譲りの強烈な気性の持ち主であった。
しかもそれが、彼女の夫や子供たちのこととなると、まさに見境がなくなる。
それは彼女の母親と兄が、時代に翻弄されて非業の死を遂げたことに由来しており、その事に負い目を感じていた家康としては、彼女を強くたしなめる事もかなわず、まさに『触れてはならない腫れ物』のような存在であった。
なお彼女の侍女のうち、十人以上が若くして命を落としている。
それは九州の狐の化かしのような『事故』ではなく、あからさまな彼女の手討ちであった。
すなわち夫の信昌に少しでも色目を使ったように彼女が感じたなら、その侍女は徹底的に追い詰められ、みな自害していったのだ。
中にはそれでも無実を訴え続けた女もいたが、最終的には苛烈な取り調べの上で処刑された。
つまり彼女が「許さぬ」と言えば、それは本当に許されなかったのである。
まさに『禁断の逆鱗』であった…
ただし彼女がいつも側にいる夫の奥平信昌は、その海よりも広い大らかな心と、芯の通った性格の持ち主ゆえに、亀姫とは仲睦まじく過ごしているようで、家康は娘婿の信昌には感謝の気持ちしか持ち合わせていない。
かつて織田信長が天下布武を唱えた岐阜…今は加納とその名称を家康はあらためさせたが、その重要な地域を、今回の移封で任せたのも、信昌に絶大な信頼をおいているからであった。
さらに長男の奥平家昌も、関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠に従って上田城を攻め、その様子が良く出来たものであったと、目付の本多正信から報告を受けているし、そもそも彼は家康にとって初めての孫であり、生まれた時からよく目にかけていた。その家昌には、東北を睨む位置にある、下野の宇都宮を、その東北の情勢が収まった後に任せるつもりでいる。
そして、彼らのその他の息子たちのうち、二男は早逝してしまったのだが、三男の忠政は、ゆくゆくは父の跡を継ぐべく、美濃の地へと移っていった。
また、四男は家康の養子として迎えており、名を松平忠明と称し、齢十七となり関ヶ原の戦いにも参戦すると、その利発さには家康も舌を巻いた。彼には徳川家にとって、最も思い入れのある三河の国の一部を任せるつもりでいた(後に伊勢に加増移封)。
つまり、本拠である江戸を脅威から守る位置に、奥平信昌の一家を配置するつもりであったのだ。
なぜそこまで奥平一家を重用しているのか…
それはひとえに、長篠城で見せた彼の武功が所以するところが大きかった。
それは武田勝頼の一万五千の大軍に対して、奥平信昌がわずか五百の兵で城を守りきった壮絶な籠城戦であったことは言うまでもないであろう。
そしてそのまま長篠での野戦と戦は移っていき、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍勢を完膚無きまで叩きのめしたのが、後世で言う「長篠の戦い」であった。
すなわちあの時の奥平信昌の決死の働きがなければ、今の徳川はなかったかもしれない…
あの限界を超えてまで命を張ったあの信昌の姿が目に焼き付いている家康に、彼ら一家を厚遇するのに全くためらいはなかったのであった。
そして、その信昌と亀姫の間に生まれた、唯一の娘は、その亀姫の寵愛を一心に受けた後、今や徳川家臣団の新星とも言え、秀忠より絶大な信頼を寄せられている大久保忠常に嫁いだ。
つまり家康が言葉にした通り、奥平一家の事は「心配無用」であったのだ。
しかしこの時、家康は想像していなかった。
彼らに危害を加える者の存在の影が伸び始めていること…
そしてその影が「触れてはならぬもの」に触れてしまい、『禁断の逆鱗』による、その影にとっては惨劇が待ちかまえていることなど…
家康は嫌なものでも振り払うように、首を横に振ると、
「ところで、わしの言う『お亀』とは、あやつのことではないわ。
この伏見にいるお亀のことよ」
と、話題を別の者のことへと移した。
阿茶の局は、再び顎に手を当てて、わずかな時間だけ考え込むと、
「ああ、お亀の方にございますね。
ほほ、自分の娘より側室の方を気にかけていたなんて、酷いお方ですのね、殿は」
「ふん!うるさい!あやつはわしが心配などせんでも、我が道を進んでいる事は、お主も知っておることであろう。
それより、どうなのだ?お亀と五郎太は元気にやっておるか?」
「ほほ、それであれば心配はございません。
お亀の方の体もすっかり元通りになりましたし、五郎太もお元気ですよ」
「おお!そうであったか!よかった、よかった」
と、家康はとろけるような笑顔になった。
実は昨年の暮れ、家康にとっては九男にあたる五郎太…後の徳川義直が生まれたのである。
産後に体調を崩しがちであった五郎太の母親であるお亀の方は、すっかり体が良くなり、息子の五郎太もすくすくと育っていることを聞いた家康は、嬉しくてたまらないのだ。
「ほほ、父親というよりはおじいちゃんというようなお顔でございますね」
「ふん!何とでも言え!可愛いものを可愛いと言えぬような男になりたくないだけじゃ!」
「はいはい、分かりました。
では、わらわも五郎太の事を気にかけて、殿にご報告いたすようにしましょう」
「ふむ、そうしてくれるとありがたい。この忙しい身に暇が出来れば、わしも五郎太と遊びたいものよ」
「ほほ、またそのような事を言って…今や殿は天下人に最も近いお方にございます。
天下人たる威厳をお示し続けなくては、家臣の心も離れましょうに。
普段の心がけが肝要にございますよ」
「ふん!言われなくても承知しておるわ」
「おお怖い怖い。天下人を怒らせると、何をされてしまうか分かりませぬゆえ、わらわも口には気をつけねばなりませぬ」
「今まで通りにしてくれればよい。こう見えて、お主とのこのようなやりとりは楽しみにしておるのだからな」
「ほほ、それは嬉しいお言葉。でも『やりとりは』という事は、わらわの作る『お薬は』楽しみではない、という事でございますね」
「…言わせるでないわ…」
まるで餅をつくように呼吸のあった会話は、家康の疲れた心を癒す、何よりの薬である。彼は口では悪態をつくような素振りを見せているが、その裏では阿茶の局に深い愛情を持って接していた。
もちろんその事は阿茶の局自身にも、心の内にしっかりと伝わっており、彼女もまた家康が安心して政務と軍事にあたれるように、奥の事は家康の許可のもと、一手に担って、それを取り仕切っていた。
無論、聡明な彼女は、家康が多く持った側室たちとも、その子供らとも上手に付き合っており、決して家康に任された権勢をふるうことなどはなかったのであった。
さて、そんな二人が楽しげに会話をしている中に、何か気まずそうに、本多正信が部屋の外までやってきた。
「お邪魔…でしたかな?」
と、正信は恐る恐る部屋の様子を覗きながら問いかけた。
その様子に家康は彼に手招きをして答える。
「おお、佐渡であるか。よいよい、何か話があるならここへ入っていたせ」
「はい。では失礼いたします」
と、正信はゆっくりとした動作で、家康の前までやってきた。
その仕草と表情を、じっと見つめる家康。
そして、小さなため息をついた。
それは決して良い話ではない、という事が正信の様子を見ただけで理解出来てしまったからである。
そして正信が腰を下ろしたのを見計らって、家康は切りだした。
「佐渡よ、何か良くない報せを持ってきた、という顔をしておるが、いかがした?」
正信は家康の指摘に驚きもせずに、声を低くする。
「はい… 一つは秀頼様の事にございます」
「ふむ、秀頼様がいかがした?」
「どうやら、小田原城に使いを出したようで…」
その正信の言葉に、家康は肩の力を抜く。
「なんだ、そのことか」
「もう、もう殿も御存じでございましたか」
「その使いの大谷吉治が、小田原に向かう前に、伏見にやってきたわ。
お主はその頃は江戸におったであろうから、知らなかったかもしれぬが…」
「ほう、そうでしたか…では、その小田原から、かつて武田勝頼殿の妻であった北条夫人の遺髪が持ち出された事も御存じでしたか?」
その正信の言葉に、家康はにわかに驚きの表情を浮かべる。
「そうか… てっきり見つからぬと思っておったのだが、まだ保管されておったのか…」
「はい、城の蔵の奥に大切にしまわれていた、とのことにございます」
「それを秀頼様は受け取られたのか?」
「はい、受け取られました」
「では、よかったではないか。これで秀頼様がしっかりと弔ってくれれば、非業の死を遂げた北条夫人もうかばれるに違いあるまい」
と、家康は「なにが問題なのだ」とでも言わんばかりに、正信を見つめた。
「ただし、その遺髪… 秀頼様より別の者の手に渡ったことは御存じでございましたか?」
「ふん、そもそも遺髪が見つかったこと自体を知らなかったのだ。
かような事まで知るよしもなかろう。
それに、誰の手に渡ろうとも、夫人が丁重に弔われれば、それでよいではないか」
と、家康が言うと、その隣の阿茶の局が口を挟んだ。
「それはそれを手にした者にもよるのでは、ございませんか?
本多様、回りくどい事はおよしなさい。早く要点を言うのです」
正信は阿茶の局に、軽く頭を下げると、さらに声を低くして言った。
「武田四郎勝頼…」
その名前を聞いた瞬間に、家康の顔から血の気が引いた。
「なんだと!?そんな馬鹿な…」
「今は大崎玄蕃と名乗って、石田宗應殿の開いた寺子屋で師匠をしているようでございます」
「それはまことか…」
「ええ… おそらくは… 町民の中には、その玄蕃殿から『それがしの名は武田四郎勝頼と申す』と直接耳にした者もあるようです」
「ふむ…」
と、家康は低く唸る。その様子を正信は心配そうに見つめていた。
ただでさえ天下の仕置きの事で多忙を極めている彼に、武田勝頼なる男の存在は、単なる厄介では済まされぬ程に重いものであるに違いない。
なぜなら未だに旧武田家の家臣たちは存命の者も多く、徳川譜代の家臣たちの中には、彼らを重用している者も少なくないからだ。
もし正信の言う「武田勝頼」が、あの「武田勝頼」であったとしたならば…
それは天下に反乱を起こす危険な存在である可能性であることは確かであった。
正信自身も自分の目と耳で確かめたことではないゆえ、それが杞憂であればそれにこしたことはないが、もしそれが虚実であれば、わざわざ秀頼が大坂城に呼んでまでして、北条夫人の遺髪を手渡すとは思えない。
つまり、限りなく真実に近い状況と言わざるを得ない。
すなわち、武田勝頼は生きており、今は京にいるという事実は十中八九、確かな事であると、正信は思っていたのだった。
そしてそれは家康にとっても同様であろう…
正信は、もし家康からの命があれば、勝頼を人知れず排除する覚悟で来たのだった。
しかし…
「そうか… では夫人は、勝頼殿のお側に戻ることが出来たのだな…」
と、しんみりと言うと、なんと目を赤くしたのだ。この様子に正信は驚きを隠せない。
「殿… それはどういう…?」
「ふん!わしとて血の通った人間じゃ。そして人づてではあるが、夫人の最期も聞いておる。
勝頼殿が生きておられたのであれば、そのお側に戻れたこと、夫人が喜んでいると思って何が悪い!」
その言葉に阿茶の局は、いつになく優しい顔をして、家康の背中をさすった。
「ほんに、良かったですね」
家康は乱暴に自分の目をこすると、正信に指示を出した。
「もし仮に、京におる大崎玄蕃なる男が、武田勝頼殿である事が判明しても、その公表は控えよ。人の風聞で伝わる分には仕方あるまい…
しかし、徳川の者がそれを『正』とする事は断じて許さん。
その上で、玄蕃が京にいる分には、自由にさせておけばよい。
特に監視しやすい豊国学校に勤めているうちは、天下を揺るがす事など出来ぬはずだ。
もしそれでも悪い企みをして、天下に反乱でも起こそうものなら、その時は鎮圧するまでのこと。
知行を持たぬ者が、豊臣と徳川を脅かすことなど…出来るはずもなかろう。
ゆえに、玄蕃へのいわれなき疑いをかけて、その生活をおびやかす事を禁じるように、京の所司代の板倉勝重に伝えよ」
「殿… それは…」
と、正信はあまりに意外な沙汰に言葉を失ってしまった。
すると阿茶の局が諭すように穏やかに、噛みしめながら、正信に語りかけた。
「もはや天下は徳川を要として、力強く動き始めたのです。
もし武田勝頼殿が生きていた、という事が事実であったとしても、その為に、天下を動かす動きを緩めたり、止めたりしたなら、『徳川は武田家をいまだに恐れている』と、人々はその器の大きさを疑いましょう。
しかし、どうでしょう…
もし勝頼殿が生きている事を知っていた上で、それを黙認し、彼が夫人を手あつく弔うのを許したとなれば、徳川の家臣たちや外様の大名たちが、殿の器の大きさに感心するに違いありません。
障害となるものを排除する事ではなく、それさえも取り込んで武器にしてしまうこと。
それが出来る人間が天下人にふさわしいお人と、わらわは思うのですが、本多殿はいかがでしょう」
正信は阿茶の局の言葉に深い感銘を受けて、深く頭を下げた。
「お方のおっしゃる事はごもっともにございます。この正信、まさに目から鱗にございました。
殿の天下人としての器に、あらためて感服いたしました」
そんな二人の様子を見て、家康はどこか恥ずかしそうに顔を背ける。
「ふん、二人とも勘違いするでないぞ。
『天下人』は豊臣秀頼様であり、わしはあくまでその後見の身であることを」
「ほほ、まだそんな事をおっしゃっているのですか」
「どういう意味だ?」
阿茶の局は相変わらず優しい顔を家康に向けている。しかしその瞳には、鋭い光をこもらせており、家康の身が引き締まった。
「もう回りくどい事は言わず、天下人を宣言されてしまえばよいのに…」
「なに!?」
傍らの正信も阿茶の局の言葉に、ぎょっとする。
「もしそのつもりがないのであれば、この伏見の天守に秀頼様をお迎えすべきにございます。そのお覚悟はおありでしょうか?」
「それは…」
そう、もし秀頼を、政務の中心地である伏見に招き入れ、城主の間に座らせれば、それは徳川家康の上に秀頼がいるという事を世にしらせることとなる。
しかし、家康にそうするつもりなど、全くもってないことを、阿茶の局は知っているのである。
「ほほ、ではわらわは五郎太をあやしに行かねばならぬゆえ、失礼いたします」
そう言って話を切り上げると、彼女はその場を去ろうと立ちあがった。
そして、襖の前まで足を進めると、背中を向けたまま家康に言った。
「玄蕃殿の件、全て秀頼様のお考えで北条夫人の遺髪を探させて、勝頼殿にそれを渡したのであれば…
まあ、正確には秀頼様の周囲におられる方…でしょうが…
秀頼様は勝頼様が存命であるという情報を、殿よりも早く手にし、そして勝頼様のお心を掴む為の何よりの手立てを施したことになります。
殿が本当に天下人を目指すのであれば、秀頼様とその周囲の者はあなどれぬお相手…
わらわにはそう思えてなりませぬ」
そう言い残すと、つっつとその場をあとにしていったのであった。それに続くように、正信も部屋を出ていく。
部屋に一人残された家康の心のうちに、何かもやもやしたものが残っていた。
「良薬は口に苦し… か…」
と、家康はつぶやくと、身震いを一つする。
そしていまだ膨大な処理しなくてはならない書の山の前に向き直ると、
「かような仕事で弱音を吐いている場合ではないのう」
と、強い光を瞳に携えて手を動かし始めた。
そしてその日は、ため息を漏らすことなく、仕事に没頭し続けたのであった。
このお話でも様々な「種」を蒔かせていただきました。
・『禁断の逆鱗』こと亀姫
・大久保忠常と奥平家の関係
・阿茶の局
・家康と天下
今後このあたりがどう物語に影響してくるのでしょうか…
さて、いよいよ次回から明石全登のお話になります。
どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。




