理想の学府を目指して⑭開校
◇◇
「豊臣家が新たに造る寺子屋の師匠を募集する」
というこの「寺子屋の師匠募集」の高札の事は、京の街の隅々まで行き渡った。
なにせ、人々は豊臣秀頼という人の存在は、知っていたが、その多くが「日の本一哀れな操り人形」としか思っておらず、町民たちが彼と関わりを持つような事などなく、天下は徳川に移っていくだろうと思っていた。
しかし彼の号令のもと学府や寺子屋が作られる事で、町民たちとの関わり合いが生まれることになったのだ。もちろんそれでもそれは淀殿や周囲の者たちの進言によるものだろうと考えられていたが、亡き太閤秀吉が京の町民たちに愛されていた事を示すように、学府と寺子屋の建設の事は、彼らに好意的に伝わったのだ。
そして、その寺子屋の師匠に名乗りを挙げた面々にも、京の町民たちは度肝を抜かれる事になる。
まず最初に名乗りを挙げたのは、芝山監物であった。
利休七哲の一人に数えられた彼は、千利休からの最期の手紙を受理した後は、しばらく世から姿を消していたのだ。
まさに千利休の目指す茶の湯の全てを引き継いだといっても過言ではない彼が、寺子屋の師匠として京の表舞台に帰ってくるなど、誰が予想しただろうか…
なぜここまでの大物が、まだ得体の知れぬ寺子屋の師匠に名乗りを挙げたのだろう、そこに町民たちの興味は移っていった。
だが次に師匠に名乗りを挙げた者の名前によって、その理由が浮き彫りになっていくことになる。
その人の名前は、津田宗凡。
彼は、千利休と並んで天下三宗匠の一人と称された津田宗及の長男である。
彼の営む天王寺屋は、徳川家から冷遇されていた。そのせいもあってか、あまり商売が上手くいっていない。しかしそれでも堺の中で有数の商人である彼が、商売を他の者たちに任せて、自らの意志で師匠に名乗り出たのだ。
同じ茶人のつながりによって、天下の名茶人、芝山監物が師匠となったことは、容易に想像出来た。
では、その津田宗凡は誰が師匠に誘ったのだろう…
そしてそれは、明らかにとある男の持つ、影響力によるものであることは、町民たちの誰でも分かることだったのである。
その人物こそ…
石田宗應…
石田宗應は津田宗凡とは、以前から昵懇の仲であった。これはもちろん町民の知るところでもある。
宗應が天王寺屋を贔屓にしていた…すなわち、豊臣家が天王寺屋を贔屓にしていたこともあり、宗凡が豊臣家に少なからず恩があったというのも、師匠に名乗り出た一因ではあるだろう。
しかしそれよりも、宗應の人の心を揺さぶる熱意こもった説得があったことを、町民たちは風の噂で耳にしたのだ。
ーーなんでも豊臣秀頼様が自らの考えで石田様に、秀頼様が目指す天下を語られたらしい
ーー「全ての民の生活を豊かにする」という事らしいですぞ
ーー今度作られる学府と寺子屋は、それを実現する為に、子どもたちに学ばせ、大人たちに研究をさせたいとの事だ
ーー石田様はその理想を熱心に語り、津田様や監物様の心を動かしたらしい
ーー秀頼様も石田様もたいしたお方だ…
こうして、京と堺を代表するような二人が師匠にいち早く名乗り出る事で、その後も続々と著名人たちが師匠へ名乗り出る。
無論、その一人一人に秀頼の理想を語り、彼らの心を動かしたのは、石田宗應その人であり、関ヶ原の戦いの時には出来なかった「人を動かすには、心を動かす」ということを、ここで成し得たのである。
すなわち、石田宗應は、戦前の「人を利だけで動かす石田三成」とは全く異なる人物であったのだ。
そして、もとより理想に情熱を燃やし、その実現に向けては粉骨砕身で働ける男である彼は、その想いを素直に口に出来るようになった事で「天下一の口説き人」に生まれ変わったと言っても過言ではない。
まさに翼を得た虎のように、彼は次々と師匠となる人間を口説き落としていった。
茶の湯の師匠に、芝山監物。
算術の師匠に、津田宗凡。
この二人は先ほどの通りだ。
兵法の師匠に、剣聖と名高い上泉信綱から直接免状を受けた数少ない人物の一人、疋田景兼。
彼は豊臣秀次の剣術を指南したという豊臣家との縁もあるが、彼が持ち込んだ刀剣の鑑定をしたことがある宗凡が直接声をかけたことが大きかった。その後、宗應の説得によって師匠となる事を決意したのだ。
書の師匠に、後に「寛永の三筆」とうたわれる、本阿弥光悦。彼の家業でもある刀の研磨の際に知り合った景兼の誘いに乗って、彼も自らの陶芸や書の工房を造る事を秀頼よりお墨付きを貰ったこともあり、師匠となる事になった。
また絵画など文化の師匠に、俵屋宗達。
後世、国宝とされる「風神雷神図」など、様々な優れた作品を世に出したことでも知られている。彼の書の師匠は光悦であり、その彼の誘いで寺子屋の師匠の傍らで、作品作りと、文化を庶民に広める為の活字と版画の研究を学府で行うこととなった。
そして儒学の師匠に、角倉素庵。
太閤秀吉や家康にも儒学を講じたという高名な儒学者である、藤原惺窩を師匠に持つ彼は、活版印刷や土木輸送などの造詣も深く、それらは学府にて研究することとした。元より体が弱く、土木業中心の家業を継ぐのは難しいのではないかと自身で判断したのだろうか、家業は父の了以に任せて、この寺子屋の師匠と学府の研究者としてやってきた。その彼を誘ったのは、彼の友人である宗達であった。
さながら宗凡を端とした人と人とのつながりが大きな輪となって、寺子屋の師匠を呼んでくる。そしてそれぞれが、日の本では類を見ない程の優れ物ばかりであったのだから、町民たちは、その完成に胸を躍らせていた。
そして、彼らの多くは寺子屋の師匠の傍らとして、学府で自身の作品作りや、学問の研究を許され、その為の屋敷や扶持は豊臣秀頼から用意されたのだ。
その一方で、学府の面々も揃っていく。
医学の研究に宗凡の娘婿である半井云也。算術の研究者に、「割り算天下一」の毛利重能。火器の研究者に、かつて宗應のお抱えの鉄砲鍛冶職人であった国友藤二郎。そして土木の研究者に、宗凡の友であり、大坂城の城南の開発に尽力している堀を作る名人の安井道頓…といった、こちらも超一流の人々が顔を揃えていった。
こうして寺子屋と学府の建設に端を発した聚楽第の跡地は、その本来の役割を超越し、美術工房に、診療所まである多彩な文化の一大発信源にまで大きくその様相を変えて、その姿を現しつつあったのだ。いやがおうにもその完成は待ち望まれ、それは徳川家康の家臣である京都の取り締まりを担当している武士たちまでも胸を高まらせているようで、中にはその普請を率先して手伝うものまで現れ、所司代の板倉勝重に小言を言われるものまで現れる始末。
それでも当の勝重もどこかそわそわしている様子だ。
さらに、人の集まる所に商機あり。
学府の周辺には食堂、着物屋、紙屋、筆屋そして酒場など多彩な店が並ぶ。元より徳川家康により京都所司代が置かれている上に、土佐の屈強な一領具足たちによって、治安も良く、京の町は活気にあふれ始めてきたのだった。
そして――
慶長6年(1601年)春…
ついにその全貌が明らかとなった。
聚楽第の跡地を中心とし、東は御所付近、西は北野天満宮の目の前までと、幅を約10町(約1km)、北は大徳寺から南は二条城付近までと、その長さを約30町(約3km)の広大な土地を、大人の背丈ほどの塀で囲んでいた。その内側には竹が植えてありあくまで堅牢な砦とは見せないように、しかし最低限の防犯を施した囲みである。そして、その広大な土地の中には、数々の神社仏閣も含まれており、秀頼の指示により、それらも修繕の対象としていた。
まだ学府の建物は完成まで遠いが、寺子屋と師匠の屋敷は整えられて、学府に先駆けて、寺子屋は開業の準備が整ったのである。
「よっしゃ!!完成だぁぁぁ!!!」
――うわぁぁぁぁ!!
長宗我部盛親の「完成」の号令とともに、大歓声があがった。
そこには武士だけではなく、芸術家もいれば、商人もいる。そしてその他大勢の町民たちの姿もあった。
この寺子屋では町民たちや付近の農民たちにも開放され、初等、中等、高等の三つに分かれて誰でも学ぶ事が出来た。
貧しい身分の者たちには、天王寺屋が調達した筆と紙が与えられたが、その代わりとして学府内に出張で開業した天王寺屋や、寺子屋内での食堂の丁稚奉公と、京の町の清掃作業などの仕事を割り振られた。
こうして全ての民に開かれたこの場所は、安易な名称かもしれないが「豊国学校」と名付けられ、名実ともに天下一の寺子屋となったのである。
「やりましたな!宗應殿!」
と、この日ばかりは、普段おっとりとしている宗凡も興奮気味に宗應に声をかける。
「ええ。でもまだまだこれから作らねばならぬ建物も多く、これで終わりではございませぬゆえ、浮かれてばかりはおられません」
宗應は穏やかな笑顔の中にも、その先を見越した強い決意を瞳にうかがわせている。
「固いことを申すな!ささ!めでたい時には、とにかく飲もうではないか!ははは!」
と、安井道頓が既に赤い顔で宗應にからんできた。
「これ!道頓殿!ここは学府ですぞ!学びの場に酒など持ち込むものではありません!」
と一回り以上年下の宗凡が道頓をたしなめると、道頓はぴしゃりと自分の額をたたく。
「これは、したり!昔から師匠に隠れて悪さをするのが得意であったのに、それをすっかり忘れておったわ!ははは!!」
そんな風ににぎやかな人々を宗應は、春の日にふさわしい柔らかな視線を送っている。
彼は今までの自分の半生をこの時振返っていた。
そして、その半生において、このような笑顔に囲まれた事が一度もなかったことに、今更ながら一抹の寂しさを感じていた。
彼の周囲はいつも、軋轢、陰謀、野心といった世の中の汚い物であふれていたのだ。
しかし今はどうであろう…
人々が笑っている…
その中心には、なんと自分がいる…
その事に宗應は驚きを隠せなかった。わずか1年にも満たないこの期間で、彼は自分が自分ではなくなったような不思議な感覚に浸っていたのである。
そして、そこに一人の人が重なって見えた…
――ああ… 太閤殿下はこのようなお気持ちであったのか…
いつも人々の笑い声に囲まれていた太閤秀吉…宗應の憧れであり、目標でもあったその姿が、この時自分と重なったようで…
彼は思わず身震いをした。
その時であった――
――カカカ!びびるな!佐吉!まだまだこれからじゃ!
そんな声が聞こえたようで、彼は周囲を素早く見回すが、それは春の風の仕業だったのであろうか…
「佐吉!!ぼけっとしてないで、こっちを手伝いなさい!!」
ふと、見るとそこには、笑顔で手を振る北政所の姿。かつての天下人の正室とは思えない姿で、人々に交じって炊き出しを率先して行っている。
「はい!おかか様!!」
と、駆けだした彼を、北政所は懐かしそうに見つめていた。
そこには少年の頃の輝きが宗應を包んでいたからであろうか、それとも、彼の姿が亡き夫と重なったからなのであろうか…
こうして「豊国学校」は開校の時を迎えた。
しかし寺子屋については、豊臣秀頼の目指す「全ての民を豊かにする」という目標において、「民に学びの場を与えて、生活を豊かにする」という一つの側面に過ぎない。
彼に取ってはもう一つの側面も同じように重要な意味を持っていた。
それは学府による研究により、農民や漁民たちの生産力の向上と、航海術の進歩や鉄砲などの火力強化による国力の上昇、である。
そしてその学府の最大の目標は「異国と日の本の融合」であった。しかし、その研究者のうち異国の研究者が全く集まっていなかった。
それは明石全登が切支丹をつてとして募集する手はずになっていたのだが…
彼は今、宗應の見ている希望の光に溢れた光景とは正反対の、この世の闇に包まれた暗黒の光景に身を置いていたのであった…
様々な面々が師匠として、そして学府の研究者として「豊国学校」に参加することとなりました。
さて、次回からいよいよ明石全登のお話になります。
彼が見た歴史の闇とは…?
…と、その前に幕間を挟みます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




