理想の学府を目指して⑩果てなき想いを黒髪に 後編
◇◇
慶長6年(1601年)6月ーー
まだ開いたばかりの京の寺子屋には、それでも数人の子供たちや町民たちが、朝から学びの奉公にやってきていた。朝早くから寺子屋の敷地だけではなく、京の町を掃き掃除する為である。
そして、乗馬や兵法の師匠でもある玄蕃を見ると、皆姿勢を正し、
「おはようございます!」
と、元気よく挨拶する。
彼らに対して、玄蕃はいつも通りの笑顔で、
「おはよう、朝から精が出るのう。良い心がけじゃ」
と、挨拶を返すとともに、掃除の様子を褒めた。
玄蕃は寺子屋の敷地にある一室を住まいとしている。
その敷地内にある馬小屋までやってくると、一頭の馬の頭を優しくなでて、小屋から引いた。
そしてその馬に跨ると、大坂城目指して駆け出す。
朝日を背中に浴びながら、彼は昨晩の夢で痛む心にも鞭を打つように、馬の手綱を強く握るのだった。
………
……
玄蕃が大坂城に入ったのは、既に昼過ぎであった。
以前来た時と違って、今回は一人である。
そして、その時は徳川家康が西の丸におり、彼との目通りを求める人々で大坂城は内外問わずにごった返していたのを覚えている。
しかし今は違っていた。
その主役とも言える徳川家康が伏見に移り、政治の拠点をその城と江戸に移すと、人々も自ずとそれらの場所に活動の拠点を移していったのだった。
中には将来を見越しているのか、江戸に屋敷を持ち始めた者たちまでいる。
そんな状況にあって、大坂城はさながら秋の夕暮れのように、一抹の郷愁すらただようほどに、静かだったのであった。
玄蕃は西の丸を抜けると本丸へと続く門までやって来た。
その門は大きく開けられており、彼は特に止められることもなく、それをくぐる。
すると、そこには一人の青年が彼を待っていた。
彼は穏やかな口調で彼に問いかけた。
「大崎玄蕃殿にございましょうか?」
彼とは少し離れたところで玄蕃は足を止めると、一礼して答えた。
「いかにも。それがしが大崎玄蕃でございます」
と答えると、その青年の表情がわずかに驚きを携える。しかし洗練されたその仕草は滑らかな絹のようで、穏やかに浮かべるその微笑はまるでかすみ草のような純白さと上品さを醸し出している。
そしてその青年は、玄蕃の方へと歩いてくると、目の前まできて、深々と礼をした。
「お待ちしておりました。既に秀頼様がお待ちでございます。
それがしが案内役を仰せつかっておりますゆえ、どうぞ着いてきてください」
その後は特に会話らしい会話もなく、二人とも口を閉ざしたまま、大坂城内を進んでいく。
だが、玄蕃はその青年の背中に、懐かしさと心が落ち着く居心地を感じるのを、不思議に思っていた。
よく顔を見ることがなかったのだが、どこかであった事があったのだろうか…
そんな事を考えているうちに、秀頼が待つ部屋の前までやってきた。
青年はそこで立ち止まる。
「では、それがしはここまで、ということで」
と、青年はその場で腰を下ろして、襖に手をかける。
「ふむ、これはご丁寧にありがたきことにございます」
「いえ、もったいないお言葉にございます」
どこまでも腰が低い青年に、玄蕃は最後に問いかけた。
「そう言えば、名前をおうかがいしておらんかったのう。
良き者に出会った大坂城の土産として、お教えいただけないだろうか?」
その問いかけに青年は、少しだけ顔を曇らせる。
名前を知られたくないのだろうか…
それとも何か思うところがあるのだろうか…
しかし青年は顔を背けたまま、
「幸村… それがしの事は、そのようにお呼びいただければ…」
と、絞り出すように言った。
その声はわずかに震えている。
気づけば、彼の足元の床にぽたぽたと雫が落ちているのが分かる。
「お主…」
と、玄蕃はその様子に驚く。
玄蕃はその青年に懐かしさのようなものを感じるが、果たしてそれが誰かは分からない。
「幸村」という名前にも聞き覚えがない。
しかしその幸村という青年は何かに気づいているように思えた。そして自分の姿を見て、涙を流すほどに思い入れがあるようだ…捨てたはずの過去、夢の中だけの思い出が、彼の胸の内でざわめく。
それを抑えるように、玄蕃はそれ以上の言葉を交わすことなく、部屋に入った。
その幸村という青年が、かつて甲斐の城で人質として過ごしていた少年であり、甲斐の国を守らんと奮戦していた武田勝頼の姿に憧れと尊敬の念をもって、城の影から見ていたことなど、彼が知るよしもない。そしてその幸村は、その姿を見て、その声を聞いただけで、玄蕃の正体が何者であるかを既に見抜き、涙を禁じえなかったのだ。
死んでいたとばかり思っていたかつての憧れの存在が目の前に生きて、穏やかな笑顔を浮かべている…
それだけで、幸村がどれほど救われた気持ちになったか…
人質とは言え、甲斐で武田家に大きな恩を受けたにも関わらず、それを返すことも出来ずに生き延びてきたことが、どれほど無念だったことか…
そんな熱い涙に、玄蕃はこの時は気付くことが出来なかったのであった。
………
……
玄蕃は豊臣秀頼と再び対面した。
前回はその部屋には石田宗應と、秀頼の警護の男も共にいた。
しかし、今は秀頼ただ一人で玄蕃に向き合っている。
――それがしの事を、よほど信頼してらっしゃるのか…
と、玄蕃は妙なところで不思議に感じていた。
そしてもう一つ不思議な事がある。
目の前の秀頼は齢わずか八歳。
玄蕃が「武田勝頼」であった事など知るはずもないし、むしろ武田勝頼という人物の存在すら知らなくても当然であろう。
しかし、秀頼が玄蕃を見つめる瞳からは、一抹の寂寥感とともに、玄蕃のことを何か知っているような、なんとも言えぬものを感じる。
――思いすごしであろう…歳を取ると何でも疑い深くなるものよ…
と、玄蕃は思いなおし、あらためて秀頼に深く頭を下げた。
「大崎玄蕃、秀頼様のお招きに応じまして、はせ参じました」
「玄蕃殿、そう固くならずともよい。見ての通り、俺はまだまだ幼子である。
寺子屋で子供たちに接するように、肩の力を抜いて話しかけておくれ」
と、秀頼は手を振りながら、玄蕃にそう言った。
その言葉に玄蕃は少々こわばっていた顔を、穏やかな笑顔に変えて顔を上げた。
秀頼もその玄蕃の顔を見て、屈託のない笑顔を浮かべる。
玄蕃は表情だけではなく、その心も氷解していく心地にとまどいのようなものを感じていた。何か吸い込まれるような、感覚に委ねるべきか踏みとどまるべきか、自分でも判断がつかない。玄蕃が「大崎玄蕃」となって以降、たとえ親しくしていた津野親忠に対してさえも、どこか一線を引いていた彼であったが、その線を自ら土足で越えてくる秀頼に対して、彼はどう接してよいものなのか、分からなかったのであった。
そんな玄蕃に対して、秀頼はまるで旧知の仲のような口調で問いかけた。
「前に会った時もそうだったが、玄蕃殿はいつも笑顔であるな?」
その言葉に「天下人」という肩書きにこだわったような、高圧的な態度はみじんもなく、誰でも親しみを覚えるような憎めない人柄がにじみ出ている。
――「人たらし」と呼ばれた太閤殿下の血を引いている者の資質か…
と、玄蕃は自分には持ち合わせていない、持って生まれたものの違いに、心の内で感嘆していた。
そして秀頼の問いかけに、彼もまた肩の力を抜いて答えた。
「はい、それがしにとってかけがえのない人の忘れ形見とでも申しましょうか…」
思いの外しんみりとした答えに、玄蕃自身も驚く。すると秀頼もまた、その答えに表情を曇らせた。
「そうであったか… 何かつらい事を思い出させてしまったなら、すまぬ」
「いえ、よいのです。それに、その人を想い、心に浮かべることは、つらい事ではござらぬ。
むしろ、良い思い出しかありませんからな。ははは」
「ならよいのだ。玄蕃のその笑顔は、周囲を穏やかにする不思議な魅力があって、すごく良いものだ。きっとそのお方も素敵な笑顔をしていたに違いない」
「秀頼様にそうおっしゃっていただければ、その人もあの世で喜んでおることでしょう。
さて、確かそれがしにお願いしたい儀があるとうかがったのですが、一体何でございましょう。見ての通り、しがない老骨の身であるゆえ、秀頼様のご期待に添える働きが出来るかどうか…」
と、玄蕃は自らを卑下するように、後半は言葉を濁らせた。
そこにはかつて織田信長、徳川家康、北条氏政といった稀代の英雄たちに対しても一歩も引かずに戦い抜いた、自信と誇りのかたまりのような武田家当主、勝頼の姿は、微塵も感じられないものであった。
天目山での悲劇を逃れた後の彼は、まさに人が変わってしまったようであった。その牙は抜かれ、もう一度世に出て一旗揚げることすら、自分から縁を遠ざけていた。
彼は流れ着いた土佐が激動の中にあっても、争いを避け、他人に取り入ることもなく、時世とは離れた世界に身を置いていたと言っても過言ではないだろう。
そんな彼が、運命のいたずらに迷い込んだように、日の本の中心人物の一人である、豊臣秀頼と出会い、さらに自ら「頼みごとがある」と人を遠ざけてまで言われたのだ。
玄蕃は今の自分に、天下人とも言える人からの依頼に応える自信も、応える気力すらなかったのである。
しかし、そんな玄蕃に対して、秀頼は驚くべき事を告げた。
それもたったの一言…
「玄蕃殿… 俺は分かっておるのだ」
そこに先ほどまでの屈託のない無邪気な笑顔はなく、口調も重いものであった。
秀頼は口元を引き締めて、真剣な顔つきで玄蕃を見つめている。
その瞳には憐れむような、悲しい色を携えていた。
その瞳に玄蕃は、笑顔を消し、再び心が閉ざしていくのが分かった。
一体何を分かっていると言うのか…
玄蕃はいぶかしい表情で、秀頼を見つめていた。
そして秀頼は静かに続けた。
「いや… 実のところ、全く分かってなどいないのかもしれない。
なぜならその場に俺がいたわけでもなく、ましてや生まれてもいなかったのだ」
「秀頼様… それがしには何のことをおっしゃっておられるのか、てんで…」
何かをごまかすように手を振る玄蕃。
しかし、秀頼は…
ついにその瞳から大粒の涙をこぼし始めた。
「秀頼様?一体どうされたというのでしょう?」
とまどう玄蕃に対して、秀頼が口を開いた。
「歴史というのは残酷だ。
いつどこでどんな戦いが起こったのか、ということは人の風聞や書物となって残り、それにより知ることは出来る。
だが、その歴史の一つの出来事に、どれだけの者が儚い命を落とし、どれだけの想いが踏みにじられたのかなど、知れることなど出来ぬのだ。
そういった意味においては、俺は何も分かってなどいない。
いや、もっと言えば、分かったような気でいたのだから、もっとたちが悪いであろう。
玄蕃殿… 俺はそれでも自分の出来ることであれば、その歴史に埋もれてしまった人々にも、歴史によって表に立った人に対しても、等しくその想いに応えてあげられるものなら応えてやりたいと思うのは、俺のわがままであろうか」
「なぜ…なぜそれがしにそのような事を…?」
と、玄蕃は秀頼に気圧されるように、途切れがちに問いかける。
「あい、すまない… ぶしつけにこのような愚痴をぶつけてしまい…
お主への依頼事の前に、一つお主に渡したいものがあるのだ。
余計なお世話だと思われたらかたじけないことではあるが、受け取ってはもらえないだろうか」
と、秀頼は一つの包みを取り出した。
それは綺麗な布地で何かを大切に包んであるもので、玄蕃にはそれが一体何なのかは、傍目で判断することは出来なかった。
「こちらは一体なんでございましょう?」
「包みを開けてみれば分かるであろう…」
そして玄蕃は、その包みを手にした。
その瞬間であった…
――雁…
その包みに触れたその瞬間に、玄蕃の頭の中に、一羽の雁が鮮明に映ったのだ…
あの夢の終わりにいつも現れる、その雁が…
何かに掻き立てられるように、急いでその包みを開ける玄蕃。
そしてついにその中身にたどりついた、その時…
ふわりと香りがした…
あの愛する蘭の香り…
そこにあったのは…
ひと束の美しい黒髪だった――
大崎玄蕃となってからは、他人に一度も見せた事がなかった涙が、とめどなく溢れる。
そして口からは言葉にならない絶叫のような嗚咽…
「あああああああっっ!!!」
それは彼の笑顔のもと…
お蝶姫の遺した黒髪であった。
秀頼は分かっていた。
北条夫人という、勝頼を想い、武田家の滅亡の影でわずか十九でその儚い命を落とした女性が存在していたことを…
そして、武田勝頼が天目山でその命を落としていたならば、彼女が自ら切り落とした黒髪が小田原城に届けられたことを知ることがなかったということを…
すなわち彼は大崎玄蕃という男が、死んだはずの武田勝頼であるということを確信したその時から、この黒髪を勝頼のもとへと届けたいと思っていたのだ。
その為に、大谷吉治を小田原城の大久保忠隣のもとまで使いに出して、「北条夫人を弔いたい」という名目を持って、その城に彼女の黒髪が保管されていたなら、それを受け取りたいと書状を持って懇願したのである。
今や敵対しているといっても過言ではない徳川家の、しかもその家臣に対して、書面の上とは言え、礼を尽くして依頼をしたその秀頼の姿勢に、忠隣は強く心を打たれて、すぐにそれを了承し、小田原城内をくまなくさがさせた。
そしてそれは、かつて北条家が蔵として利用していた場所に、丁寧に保管されていたのを
大久保家の者が発見し、大坂城まで届けてくれたのである。
武田勝頼であった過去を捨て、今を必死に生きる大崎玄蕃にとっては、その事は迷惑ととらえられてもおかしくはない。
しかし、武田勝頼が生きていたという事実を知った秀頼は、命を落とすその瞬間まで愛する夫である勝頼に連れ添った北条夫人のその想いに応えて、その髪を彼の元へと届けてあげたいと考えたのである。
その玄蕃は今、この世にはいるはずもないお蝶姫のあの腕に抱きしめられているような心地に包まれていた。
目を開けていても、閉じてもあの笑顔が玄蕃に向けられている。
しかし、次の瞬間、その光景は一変した。
それは雪がしんしんと降るある日の光景。
彼が知るはずもない、彼女の魂を込めた武田八幡宮での祈願の様子が、彼の固く閉ざした心を、さながら粉々に砕き割ろうと必死に叩いてくる。
――勝頼様に勝利を!!
――勝頼様!負けないで!!
今の玄蕃を見て、そんな風に彼女は励ましてくる。
挫折、罪悪感、絶望――
こういった彼を覆い尽くしていた全ての真っ黒く粘り気のある何かが、彼女の祈りによって、浄化されていくと、彼の中で眠り続けてきた気高い猛獣のような魂が、目を覚ます感覚に、彼の胸の内で、両目から流している涙とは異なる、熱い何かがこみ上げてきた。
そして抱きしめた黒髪の束の横には、一遍の小さな紙が見えた。
その紙を霞んだ目をこすりながら、もう片方の手で拾い上げて、中を見る。
その内容に玄蕃の心は完全に瓦解した。
――勝頼様と 幸運にも来世でまたお会いできたなら 京の町を一緒に歩いてくださるかしら その夢を持って あの世にいってまいります 武田蝶
と…震える文字で書かれていた。玄蕃はさらに大きな声で泣いた。
「うあああああっっ!!」
生まれてこの方、恥も外聞も捨てて、ここまで感情に心を委ねたのは初めてだったかもしれない。それでも彼は、何のためらいもなく、涙と嗚咽をその場で出し続けていたのだ。
その紙を今度は、玄蕃から受け取った秀頼が見る。
秀頼もそれを見た瞬間に嗚咽を始めた。
そして秀頼は、震えるように声を絞り出した。
「ああ、なんと小さくも美しい夢であろうか…
戦がない泰平の世であれば、当たり前のように叶う夢ではないか…
そんな『当たり前』を叶える世の中にする為に、どれほどの人が傷つき、死んでいかねばならないのか…
玄蕃殿、俺は誓おう。
この者がもしこの世に再び生を受けたなら、その時は愛する者と日の本のどこにでも手を取り合って歩ける世を作るという事を!」
二人の嗚咽はしばらく続く。
秀頼はその時、暖かくて大きな何かに優しく抱きしめられているような、そんな気がしてならなかったのだった。
絶望だけで武田勝頼の話を終わらせたくなく、希望で終わらせたいと思い、蛇足とは思いながらも、このお話を書き上げました。
次回は、このお話の終幕になります。
少しだけ力を抜いてお読みいただける内容になるかと思います。
では、これからもよろしくお願い申し上げます。




