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理想の学府を目指して⑨果てなき想いを黒髪に 中編

◇◇

大崎玄蕃は、ふと虚ろな目を開けた。

頬には涙が伝い、彼が知るよしもない風景を想い、胸を痛める。

しかし、部屋の中は…暗い。


ーーまだ朝には早いか…


そう思い、彼は再び夢の中へと入っていった。


果たせぬ約束の結末に向けて…


………

……

天正10年(1582年)3月ーー


お蝶姫の祈願虚しく木曽谷攻略に失敗した武田勝頼は、甲斐の城に戻ってきていた。

この頃になると既に、西からは織田の軍が、南からは徳川の軍が、そして東からは北条の軍が、甲斐に押し寄せんと、じわりじわりと近付いてきていた。


そして3月1日、いよいよ落日は目前まで迫ると、重鎮である穴山梅雪が徳川家康を通じて、織田に寝返った。これは勝頼の反抗心を完全に打ち砕くものとなり、彼はとうとう居城を離れて逃げ落ちる事を決意したのである。

そこで、小山田信茂の守る岩殿城か、真田昌幸の守る岩櫃城か、どちらかに逃げて、再起を図ることとした。

この件も城内では残った家臣団はわずかにも関わらず、真っ二つに割れる。しかし迷っている暇など、今の武田家には残されていない。

勝頼は再び「御旗、楯無をご照覧あれ!」と号令をかけると、最終的には、彼の決断のもと岩殿城に向かうこととなったのであった。


天正10年3月3日ーー

まだ道の脇には降り積もる雪が残る中、武田勝頼とお蝶姫たちは、わずかな兵と侍女たちとともに、居城である新府城を出立した。


新府城に火をかけて…


勝頼一行はしばらく進んだ後、とある森で足を止めて、赤い炎に包まれて、焼き落ちていく城を眺めていた。


「ううっ…くっ…」


最初に声をあげて泣き始めたのは、お蝶姫であった。


城を出るその寸前まで、笑顔で皆を励まし続けていた彼女であったが、とうとう堪えきれずに、その大きな瞳から涙を溢れさせたのである。

すると彼女を皮切りに、その場にいる全員の頬が涙で濡れた。


お蝶姫がか細い声で、傍らにいる勝頼に話しかける。


「ああ…今見ている光景が、わらわにはとても現実のものとは思えませぬ…

勝頼様と共に過ごしたわずかな幸せな時は、はかなく覚める春の夜の夢のようです…」


勝頼は返す言葉もなかった。


いつも笑顔でいてくれた彼女が悲嘆にくれて、美しい黒髪を乱している。

それだけで彼は大きな喪失感を覚えていた。

しかし、己の無力さを悔いても仕方がない。わずかに残された希望だけを頼りに、今度は自分が彼女の支えにならなくては、と彼は己を鼓舞した。


「お蝶よ…泣くでない。

まだ約束も果たしてはおらぬのだから…」


そう言って彼女の肩をそっと抱く。


彼女が震えているのは、悔しさゆえか、恐ろしさゆえか…


それでも彼女は懸命に笑顔を作ると、頬を涙で濡らしたまま、勝頼の言葉にうなずいた。


「では、出立しよう」


と、勝頼は涙にくれる人々を励ますように号令をかけて、先へと足を進めていくのであった。



史実の上では、この森は「涙の森」と名付けられ、後世まで残ることとなる。そしてそこには、北条夫人がうたったとされる歌もまた残されているのである。


ーーうつつには おもほえがたきこのところ あだにさめぬる 春の夜の夢


………

……

森を抜けた一行は、一路岩殿城へと急いだ。


事前に取り交わした書状によれば、城の近くにて小山田信茂の使いの者が迎えにくる手はずとなっている。

その地まで一行は淡々と歩を進めていった。


しかし…


その場には誰もいなかった…


何かを怪しんだお供の一人が、物見となって岩殿城の方へと駆けていったと思うと、彼はすぐに取って返してきた。


そして彼は、一同を絶望の谷底に突き落とす言葉を叫んだ。



「裏切りにございます!!小山田信茂、謀反!!」



ーーもう、絶望にも慣れた…


と言わんばかりに一同は驚きに声を上げることもなく、ただただうつむく。


「仕方あるまい… かくなる上は岩櫃城を目指そう…」


勝頼のその声には色はない。しかしその瞳には未練がかすかに宿っていた。


それは、武田家を背負う者の「諦めてはならない」という宿命…

そして、お蝶姫との約束…


新府から岩殿城へと向かう道を引き返し始める一行。

岩櫃城に向かうには、一旦新府の方へと戻り、その後かなりの距離を北上する必要があるのだ。


だが、その時はすぐそこまで迫っていた…

そしてその事について、勝頼たち一行全員の心の内で分かりきっていることでもあったのだ。


春を告げる緑の息吹が、道のあちこちで顔を出している。

そこにあるのは新たな命の明るい未来。

しかし彼らは、そんな命の輝きすら、その色を失っていた。一歩踏み出せば、それは死への旅路を進むことになる。しかし進まねば死が自ら背後に迫ってくる。

そこにはもはや何もない。

あるのはただの絶望…

それでも勝頼は傍らのお供が大事そうに抱える楯無の鎧を守り抜いてきた武田家の気高い誇りを貫こうと、必死に折れそうな心を鼓舞する。


ふと、背後を見る。


お蝶姫と目が合う。


彼女もまた気高く、勝頼に向かって微笑んでいた。


彼女と出会った頃から変わらぬ笑顔、そしてその光る黒髪――


長篠の一戦以降、幾度となく死線を潜り抜きた彼を、城に戻る度に優しく包んでくれたその姿は、この絶望の淵にあっても変わらない…


なんと強いことか…

なんといじらしいことか…


勝頼は油断すれば嗚咽を漏らしそうな気持ちを紛らわすように、次の事に頭を巡らせた。そして、行く道の安全を確かめるべく、今一度お供のうちの一人を物見に走らせる。


「御意!」


と、返事をした物見は素早く行く道を走っていった。



しかし…



その物見は…



戻ってこなかった…


途中で逃げ出したのか、それとも敵に捕えられてしまったのか、理由はなんにせよ、恐らくその物見が見た光景は、絶望そのものであったに違いない。


「もはやここまでか…」


気付けば700人ほどいたお供たちは、いつの間にかその数を大幅に減らして、100人もいない。


勝頼は岩櫃城に落ちのびるのを諦めた。


それはすなわち…


死に場所を求めることを意味していた…


そしてその場所は既に彼の中では、「天目山の栖雲寺」と決めている。

それは過去、武田信満が切腹し、一度武田家が滅んだ場所でもあるからだ…

すなわち、武田の終焉の地とも言えるその場所で全てを終わらせることが、勝頼に出来る最後の責任の果たし方と考えたのだった


いつの間にか空は夕焼けに染まり始めている。


力のない足音だけが山道の中に響いている。もう山は春を迎えるというのに、夕方になるとめっきり寒くなるのは、一度は甲斐で栄華を極めた武田家に似ているようで、一行の枯れたはずの涙を誘う。


「今日はこの辺りで休もう。暗闇の中であれば、敵も迫ってはこないだろう」


と、勝頼は皆に声をかけた。


彼らは寒さをしのぐ為に、小さな火を起こして暖をとり、その場で一夜を過ごすことにした。

その場所は、田野。すでに五十人もいないお供たちであったが、彼らの多くが翌日その儚い命を散らす場所…


「せめて勝頼様に陣を」

という、土屋昌恒という忠臣の意見で、簡素な陣が張られると、勝頼とお蝶姫そして息子信勝は、家族水入らずの夜をこの陣の中で過ごすことにしたのである。


質素な食事を家族だけで囲み、他愛もない話で笑顔がのぞく。


どこにでもありふれた日常の家族の在り方がそこにはあった。


――幸せとは何か。


――愛情とは何か。


――本当に守らねばならないものは何か。


この極限の中において、勝頼は己に問いかける。


小さな幸せを守ることすら出来ない、力のない己を責める。


この極限状態だからこそ、勝頼はその時、大きな世の理に想いが巡った。

もし自分に家族の愛情と幸せが当たり前のように守られる世を作れたなら…



「…勝頼様?大丈夫ですか?お顔色が悪いようですが…」


そんな思いつめたような表情の勝頼にお蝶姫が声をかけた。

すると息子の信勝が、こちらも穏やかな声で、


「お父上ももうお疲れのことでしょうから、そろそろ床につきましょう…

それがしは別の場所にて体を休めますゆえ、これにて失礼いたします」


と、言い残すと、静かに外へと出ていったのだった。


勝頼とお蝶姫は二人きりになる。


勝頼はあらためてお蝶姫を見つめた。少し乱れてはいるが長い髪は、夜の帳が下りても変わらずに輝きを放ち、少しだけ疲れが見えるその顔も穏やかな笑みを携えていた。


しかし…

白い足袋は、血で赤く染まっているのが目に入ってきた。


「お蝶…その足…」


するとお蝶姫はそれをごまかすように、


「ささ、わらわたちももう横になりましょう。わらわは歩き疲れました」


と言い、近くに用意された簡素な布を敷物に見立てた場所に横になったのだった。



横になったお蝶姫のとなりに腰をかけた勝頼。

そして、彼も横になろうとしたその時であった…


勝頼は、背中から暖かい何かに包まれる。


「お蝶…」


それは、お蝶姫が背中から勝頼を抱きしめたのだった。


背中から腹に回ってきた小さく細い手が震えている。

お蝶姫は声を殺して、泣いているのだろう。


背中にこぼれ落ちる彼女の涙が熱い。


勝頼はその時、一つの言葉しか出てこない。そんな自分が情けなくて仕方ないが、それでも彼はそれを言うのが精いっぱいであったのだ。



「すまない…」



すると背中でお蝶姫は首を横に振った。

それは「勝頼様が謝ることではない」と無言で彼を慰めているようで、勝頼も涙をこらえることが出来なかった。

そして彼女が頭を振ったことで、彼女の髪が乱れ、勝頼の肩にもかけられた。

その匂いはいつしかと同じく、蘭の香り。勝頼の心はさらに鷲掴みにされて、そこから滲みだした涙は頬に清流のように流れる。


彼女は絞り出すように、かすれた声で勝頼に言った。


「わらわのこの黒髪のように乱れた世だから…勝頼様へのこの想いも、そしてたった一度だけ交わした約束さえも、露のように消えていくのでしょうか…

この果てしなき想いを…天は叶えてはくれないのでしょうか…」


勝頼はその言葉を聞き終えると、黙って彼女の手の上に自分の手を重ねた。

彼女の体の熱が勝頼の心を震わせ、余計に己の無力さが悲しくなった。



そして…



その言葉が、勝頼とお蝶姫が交わした最後の言葉だった…



後に史実に残る、北条夫人の辞世の句…


――黒髪の 乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒


それは彼女の思いの丈がつまった、悲しい歌…



………

……

その後の事は、勝頼自身あまり覚えていない。


時として、あまりにも残酷な記憶は、自我を保つ為に思い起こさないようになる、と言われるが、勝頼が見て聞いた天目山での出来事も、それに当たるのだろう。


断片的で曖昧な記憶がとぎれとぎれに浮かんでは消えていく。


天目山の栖雲寺付近に織田の大軍が待ちかまえていたこと…


忠臣の土屋昌恒が、逃げる勝頼たち一行の殿となって、迫りくる織田勢をただ一人で迎え撃ったこと…

彼は、崖の細道でツルを片手でつかみながら、残りの手で重い槍を自在に操り、ばたばたと敵を斬り伏せていった。

それは夕陽が完全に沈む前の輝きのごとく、武田家が見せた最後の武勇であり、後世に「土屋惣蔵片手千人斬り」と称され、伝説となった。


そして、逃げ回った後に行きついたのは、昨晩穏やかな時間を過ごした田野の地。

そこが一行の死地となったこと…


敵に最後の突撃をしようとした勝頼が、味方の何者かに兜を奪われ、その者が勝頼の身代わりとなって、壮絶な最期を遂げたこと…


お蝶姫の最期を任せた土屋昌恒が、無念の涙と彼女の返り血で鎧を染めて現れたこと…

その昌恒は腹を切ったこと…


お供の一人が命を絶ったお蝶姫のもとへと駆けつけようとする勝頼を必死に止めて、彼とともに敵の隙をついて、死地を抜けたこと…



その地で起った全てが断片的に、おぼろげに、浮かんでは消えを繰り返す。



そして…



最後にいつも浮かぶのは、一羽の雁が、翼をはためかせて、小田原の地へと消えていく光景と、一遍の句…


――帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の 国府に落とせよ



………

……

いつも同じところで玄蕃は目を覚ます。


――朝か…


決まって空は明るくなっている。


必ず夜が来るように、朝もまた必ずやってきた。


今日は豊臣秀頼との二度目の拝謁である。

目を腫らせたままにしておくわけにはいかないと、彼は水で顔を洗った。

その時、水がめに映る自分の顔を見た。


「相変わらずひどい顔をしておる」


そして、彼は…


笑顔を作る。


一人の女性の果てない想いを胸にしまい…




天目山の戦いについて、胸が苦しく、これ以上は書けませんでした。


己の心の弱さを悔しく思います。


そして読者様には、つたない文章に終始してしまった事を、お詫び申し上げます。


次が、玄蕃の…武田勝頼のお話の完結編になります。


どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。


(素敵なレビューを頂戴しました。この場を借りて御礼申し上げます。また大変嬉しく思っております。

これからも皆さまの心に届くようなお話をつづっていけたら、幸いにございます)



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