理想の学府を目指して③土佐の泥 中編
◇◇
慶長5年(1600年)9月22日 大坂城西の丸ーー
忙しい最中ではあったが、夜中まで及んだ仕事を終えた徳川家康は本多正純と、今日の出来事について話し合おうとしていた。
まず切り出したのは家康である。
彼は少し疲れた顔をしながら茶飲み茶碗を片手に低い声で言った。
「そう言えば今日は高虎がわしにしつこく面会を求めてきてのう」
そこで話を切って、茶を一口だけ口に入れると、家康が次の言葉を口にする前に、正純が話し始めた。
「それがしのところへは、津野親忠殿がしつこく嘆願に参りまして…
恐らく藤堂殿も同じ要件かと思いますが…」
その言葉に家康は茶碗ごしに正純に向けてぎろりと鋭い視線を向けた。
「ふむ…なぜそう思う?」
正純はその問いかけに澄まし顔を崩さずに、口もとだけ緩めて答えた。
「津野殿と藤堂殿は昵懇の仲と聞いております。
恐らく土佐の沙汰の件にございましょう」
すると家康は、肩の力を抜いて、大きく息を吐き出すように問いかけた。
「ふむ…わしに土佐をどうして欲しいのかのう?」
「ふふふ、これはお人が悪い。それは一つに決まっておりましょう」
「お主の方こそ人が悪いぞ。もったいつけずに早く言うてみよ」
「山内殿への土佐への国替えをお取りやめとし、長宗我部殿に土佐を安堵して欲しい、ということにございましょう」
と、正純がさらりと答えると、家康は苦い顔をした。
「それはならんぞ。長宗我部はこたびの戦ではたいして兵を減らしておらん。
その状態で本領を安堵するなど、腹の内に悪い虫を飼っているようなものだ」
正純は家康とは対照的に澄まし顔を崩さぬままに言った。
「ええ、分かっております。直接我が方が土佐の地侍たちを抑えつける為に、山内殿の土佐入りを遅らせたことも存じております」
「ふん!相変わらず可愛げがないのう。
まあ、その通りじゃ。
土佐は太閤殿下の意に背くように、未だに農民たちが具足を抱えておるからのう。
一豊だけでは到底収まりがつかないはずじゃ」
「…となりますと、すべきことは一つかと…」
と、正純の細い目が鋭く、そして怪しさを含んだものとなった。家康はその目をそらさずに、じっと見つめたまま問いかけた。
「それはなんだ?言うてみよ」
「実質的な当主である長宗我部盛親殿に『汚点』をつける…ということにございます」
「ふむ…領土没収に相応しい『汚点』をのう…」
「はい。この役目、それがしが務めさせていただきます」
と、正純は軽く頭を下げた。
家康は多少の胸騒ぎを覚えたものの、目の前の寵愛する青年の仕事を信じて、
「ふむ…ではお主に任せよう。くれぐれも穏便に事を済ませるのだぞ」
と、許しながらも、いらぬ揉め事を起こさぬように釘を刺した。
「御意にございます」
と、頭を下げる正純。その口もとにはうっすらと笑みを浮かべているのが、家康の胸騒ぎを大きくするのだった。
………
……
慶長5年9月23日ーー
家康との交渉の為に大坂城に残っていた久武親直は本多正純に呼ばれて、西の丸の彼が待つ部屋へと急いでいた。
親直は、長宗我部家が置かれている立場に対して責任を強く感じており、精神的に追い込まれていた。
なぜなら、石田方に味方するよう強く勧めたのは自分の進言であったが、まさか戦わずして盛親を敗軍の将にしてしまうとは思いもよらなかった。
彼は自分が今まで家族をも犠牲に払って積み上げてきたものが、目の前でがらがらと音を立てて崩れていくのを目の当たりにしながら、何も出来ないことが腹立たしく、そして情けない思いで、まさに胸が潰されてしまいそうなほどに、追い込まれていたのである。
そこに今や徳川家康の代弁者とも言える、本多正純からの呼び出されたのだ。
この状況であれば、長宗我部の家臣なら彼でなくとも、何かを期待せざるを得ないであろう。無論、期待とは真逆の「改易」であったり「死罪」であったり、いわゆる処罰を下される可能性も大いにあるのだが、今の親直は藁をもすがる思いであり、都合の良い方にしか物事の考えが及ばなかったのである。
部屋に入った親直を待っていたのは、正純一人であった。もし以前の親直であれば、徳川家の重臣が敗軍、言わば敵方の家臣に対して、一人で会う時点で、警戒していたことであろう。
だが、親直にはそんな事を邪推している余裕などなく、正純の前に腰を下ろした直後から深く頭を下げた。
「本多様!どうか!どうか、我が当主、長宗我部盛親殿の本領を安堵いただきたく、お願い申し上げます!
当家は、最初から徳川内府殿に刃向かうつもりはないことは、当家の軍が全く戦わずして、戦場を離れたことからも明らかでございます!
つきましては、どうか本領安堵…いえ、知行は減らされても構いませぬ!
ですが、土佐の国からの国替えだけは、お許しいただきたく、お願い申し上げます!!」
親直はまくし立てるように、一気に自分の要望を正純に伝えた。秋の涼しい部屋であるが、親直の額には汗が珠のように浮かび、それが畳に垂れて染みとなっていく。そんな沸騰した親直とは正反対に、正純はどこまでも涼しげな澄まし顔を崩さず、親直を見下ろしている。
「まあ、面を上げなされ、久武殿。
実はそのことでお主を呼び立てたのだ」
がばっと顔を上げた親直は、血走った目を正純に向ける。
「で、では、殿をお許しいただけるのでしょうか!?」
その必死の問いかけに、正純はこくりと頷いた。
「な、なんと…」
心から願っていたが、予想はしていなかった正純の返事に、親直は言葉を失った。
その瞬間、親直の目から涙が溢れ出す。
彼の胸の内で重くのしかかっていたものが、すっと外れたと思うと、それまでせき止められていた感情が一気に押し出されたのだった。
「ううっ…ありがたき、ありがたき…」
もはや感謝すら言葉にすることがかなわない親直であった。崩れ落ちゆく積み上げてきたものが、今元通りになっていく不思議な感覚に、親直は宙にも浮くような心地よさを感じていた。
ああ…天は見捨てなかったのだ…
そんな感傷的とも言える思いに、親直は身を委ねていた。
しかし…
それを正純は、周囲が見れば、驚くほどに冷ややかな目で見つめていた。
そして冷たい視線そのままに、温度のない口調で告げた。
「藤堂高虎殿からも、長宗我部家の安堵を強く申し出られておりまして…
藤堂殿はこたびの戦では多くの手柄を挙げられて、我が殿も強い信任を寄せられております。
その藤堂殿たっての願いであれば、邪険に取り扱うわけにもいきますまい」
その正純の言葉に、先ほどまでの燃え盛るような親直の感情は、さながら鳶が獲物を捕らえる為に急降下するかのように、その温度を下げていった。
額の汗も、両目の涙もすっかり引いてしまうと、彼は口から絞り出すように漏らした。
「藤堂殿…ですと…?」
逆に正純は、親直の七変化に面白みを得たのか、頬は紅潮し、口もとには笑みがこぼれている。
「ええ、どうやら盛親殿の兄上にあたる津野親忠殿が、藤堂殿に頼み込んだようで…
我が殿も、津野殿の長宗我部家を思う強い心と、藤堂殿の友を思う義の心に、いたく感心されて、こたびは盛親殿に温情をかけよう、ということになったのだ。
いやはや、盛親殿はよい兄を持ちましたな。
これで長宗我部家も安泰でしょう」
「ぐっ…そ、そうですな…は、はは」
親直の目は泳ぎ、再び額にはうっすらと汗が出てきた。だが、その汗は先ほどのものとは全く異質の、冷え切った氷水のようなものだったのだ。
ますます面白そうな表情に変わった正純は、追い打ちをかけるように、畳み込んでいく。
「盛親殿は、お主という忠臣と、津野殿という良き兄という心から信頼出来るお人たちがいて、それがしには羨ましいとしか言えませぬ」
「は、はあ…これは、ありがたきお言葉…」
「特に津野殿には、お家を守ったという事もあり、我が殿から特別に知行を与えようか、とのお話も出ております」
この正純の言葉に、いよいよ親直の目には良からぬ影が浮かび上がってきた。
「これは寛大なるご配慮…痛み入ります。我が殿もお喜びに…」
と、親直が言い終えぬ間に、正純は声の調子を上げて言った。
「土佐の国の半分!…を津野殿に、との意見もそれがしの耳には入ってきましたぞ、ふふふ。
よかったですな、これで長宗我部家は盛親殿と津野殿の二人でますます繁栄されることでしょう」
ーードクンッ
この時、親直の心臓は大きくその音を立てた。
この感覚…
彼は以前も感じたことのある感覚だ…
そう…
もう十年以上も前…
愛しの盛親を、何としても長宗我部家の当主にすべく、邪魔する者は全て『死』に追い込んだ、あの感覚だ。
吹き出していた汗は再び引くと、代わって口もとに禍々しい笑みが浮かんできた。
その様子に、正純は背中をぞくぞくさせて、恍惚とした表情を浮かべる。
石田三成を思い通りに『死』へと追い込めなかったあの時の屈辱が、まさに今、晴れようとしている。
その事に彼は、喜びの絶頂とも言える気分に浸っていたのである。
そしてさらに正純は親直に残る「良心」を粉々に破壊しにかかった。
「そうそう…この『土佐半分』の仕置きの噂については、藤堂殿に含ませておるゆえ、今頃津野殿にも届いているに違いあるまい。ゆえに、わざわざ伝えなくともよいからな」
「…それはありがたきことで…」
親直はぼそりとそう呟く。
それはまるで心が死んでしまったようだった。だが、正純にとっては、これはあまり面白くないものであった。
なぜなら彼は、親直に死んで欲しくはないからである。
長宗我部盛親によって、兄の津野親忠が殺されるまでは…
これ以上はかえって親直を追い込みかねないと判断した正純は親直に告げた。
「来月の頭には我が殿に謝罪に来るよう、盛親殿にはお伝えいただきたい。
その際は、津野殿もご一緒に来られる事を、我が殿はお望みである」
「…御意にございます」
「では、下がってよい」
「…はっ…」
と、親直が顔を上げた時だった。
正純はその目を見た瞬間、再び鳥肌が全身を覆い尽くした。
そこには…
嫉妬。憎悪。殺意…
この三つがまるで絡み合うようにして、渦巻いていたからである。
そこで正純は、最後の最後に、親直の背中に向けて言い放ったのである。
「そうそう…盛親殿は未だ官位を授かっておらず、正式には長宗我部家の当主とは認められていない、とうかがっておる。
我が殿は、謝罪に来た折には、盛親殿と津野殿の両方に官位をお与えになるとのお考えだそうだ。
これで正式に、『どちらか』が『土佐守』に任ぜられることになるでしょう。
ふふふ、これは喜ばしいことだ」
その言葉にぴくりと肩を震わせた親直であったが、結局振り返りもせずに、その場を後にした。
再び部屋に一人になった正純。
彼はほっと息をつくと、
「ああ…面白い。実に面白いではないか!
ふふふ…くくく…あははは!!!」
と、例え相手が、尊敬する徳川家康であっても絶対に見せない無邪気とも言える表情を浮かべて、彼は心の底から大笑いした。
この時彼は覚えてしまった。
他人を陥れて、破滅に向かわせることの喜びを…
そしてそれは中毒性のあるものであり、いつしか彼の生き甲斐となっていく。そして、いつしか豊臣秀頼にもその魔の手が伸びることになるのだが…
それはまだ先の話である。
一方、本多正純との会見を終えた久武親直。
彼はその日のうちに大坂を出て土佐に向かった。
もちろん目的は、浦戸城に戻った長宗我部盛親に、大坂城へと向かうように伝えるためである。
だが…
彼にはそれ以上に大切な目的があった…
「ククク…指一本…いや髪の毛一本でさえも、盛親様と長宗我部家に触ることなどさせぬ…」
そう不気味な笑い声とともに、彼は大坂から海の向こうへと消えていったのであった。
完全にフィクションではありますが、「奸臣」として悪名高い、久武親直の心の闇を表現いたしました。
彼の兄もまた長宗我部元親の側近ではありましたが、戦によって命を落としてしまいます。
その直前に、「もしこの戦で命を落とすようなことがあっても、弟の親直だけは、取り立ててはなりません。なぜなら彼は腹黒いからです」と、書を残していたと伝えられております。
しかし彼は元親のもとで頭角を表し、数々のライバルを蹴落として、長宗我部家の重臣まで上り詰めるのです。
そう考えた時、単に「奸臣」と片付けてしまうには、どうにも違和感がございました。
そこで「長宗我部盛親に対する、異常なまでの執着心」があったのではないか、という推論をもとに、この物語を書いた次第にございます。
果たして皆様にはどのように映られたでしょうか。
では、次が長宗我部盛親のお話のクライマックスになります。
兄弟に待つ運命はいかに!?
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




