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理想の学府を目指して②土佐の泥 前編

◇◇

長宗我部盛親が大岩祐夢と名前を変えて、石田宗應のもとで共に学府の普請と運営に携わっていった経緯を紐解くには、それまでの経緯を知る必要があるであろう。ついては話を遡らせて、それを見ていくことにしよう。



時は天正7年(1580年)頃――

土佐の国の春の、若宮八幡宮周辺では子供たちのはしゃぐ声でにぎわっていた。

この日は年に一度の「神田祭り」で、みな顔を泥だらけにしながら、老いも若きも無病息災を祈願する日であったのである。

だが、子供たちにとっては単に、「泥をぶつけ合うのを公認された日」に過ぎない。

彼らはいつも以上によく笑い、よく泣き、よく騒いだ。

その中にあって、特に二人の少年の声がよく響く。


――やい!孫次郎にい!よくも顔に泥当ててくれたな!

――ははは!千熊丸!悔しかったら、お前もぶつけてみろ!


それは負けず嫌いの弟が泣きべそかきながら兄に抗議し、それを兄が笑顔で扇いでいる、言わばどこにでもある兄弟喧嘩であった。

普段は大人が割って仲裁に入るところであろうが、今は、それさえも祭りの華と言える余興に過ぎないようで、泥を浴びながら踊る人々は、彼らに目もくれないのであった。


しかし泣きべそをかいている千熊丸にとっては、いかに祭りといえども顔に泥の玉をぶつけられたことは屈辱であり、幼心に悔しさをぶつける気でいた。

だがそんな彼の気合い虚しく、この時から将来は大男になる片鱗のある千熊丸の背丈であったが、二つ離れた兄の孫次郎には、その背丈も腕っ節もかなうはずもなく、千熊丸ばかり泥だらけになるのであった。

しかしそれでも、時折孫次郎にも、千熊丸が投げた泥の玉がぶつかり、彼の袴ももはや茶色一色だ。

だが千熊丸は、それらのほとんどが孫次郎が弟を立てる為に「わざと」ぶつかっていることに気付いており、余計に彼の不満を膨らませるものに過ぎなかった。


――わぁぁぁ!孫次郎にいの馬鹿!


とうとう泣き出す千熊丸。


――まったくお主は泣き虫だな…


と、泥に汚れた顔で笑顔を見せて千熊丸の頭を優しくなでる孫次郎。

その手を嫌そうに振り払う千熊丸であったが、本音ではそんな兄の優しさが、余計に彼を惨めにしているようで、彼の泣き声を大きくしたのであった。


そんな兄弟に遠くから声がかけられる。


――おお!やっておるか!?


――父上!


その声の持ち主が彼らの父であることに気付いた孫次郎が、父に向かって手を振る。


踊り手であった民たちは笑顔で手を止めて、彼らの父を尊敬の眼差しをもって出迎えて、ひざまずく。


――よい、よい!皆の者、続けよ!歌え!踊るのだ!


そんな号令に歓声を上げた民たちは、先ほどよりも楽しげに踊る。


――千熊丸!祭りの日に泣くとは、お前らしくてよいではないか!幼き頃は、よく笑い、よく泣き、よく学ぶのだ!あはは!では父も踊るとするかのう!



この時の、幼き兄弟のうち、兄孫次郎の名前は後の親忠、弟千熊丸は後に盛親となる。そして彼らの父は、この時、時の権力者である織田信長に一歩も引かず、四国制圧の野望に突き進んでいた長宗我部元親であった。


長宗我部元親の息子にはこの時四人の男子がいた。

しかし長男であり世継ぎの信親、次男の親和は、孫次郎と千熊丸の兄弟とは歳が離れており、既に父に奉公に出ていた為、当時は末っ子である千熊丸の面倒はもっぱら孫次郎が見ていたのだ。

そして孫次郎はよく千熊丸の面倒を見た。

どんな時も一緒に遊び、ときには喧嘩もし、千熊丸もそして孫次郎も立派に土佐の英雄である父に追いつくように、まさに泥だらけになりながら成長していたのだった。


ただし、そんな兄の気持ちなど、この時の弟が知るにはまだ幼過ぎた。

父が踊りに加わってからも、千熊丸は泥の玉を片手に、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔をしかめながら、泣き声を上げ続けている。


それでも戦乱の世にあって、この日の土佐の春だけは民も侍も心踊る時を刻み続けていたのだった。



このわずか数日後のことである。


――泣き虫の千熊丸よ。泣くでない。兄の晴れの出立なのだ。笑って見送っておくれ。


そんな風にいつも通りの優しい笑顔を千熊丸に向けた孫次郎は、彼の頭をなでると、土佐を離れていった。

土佐の七雄の一家である津野氏のもとへ、養子に出されたのである。

兄が嫌いだが、離れるのは嫌という複雑な感情を抑えきれない千熊丸は、その日泣き疲れて寝るまで、ずっと泣きっぱなしであった。


………

……

それからおよそ二十年の月日が経った。


その間に、長宗我部のお家は波乱万丈な運命をたどる。その節目の度に、盛親は涙を流した。


父元親が、四国統一を果たしたかと思いきや、豊臣秀吉の侵攻に耐えられず、彼に降伏すると、血気盛んな盛親少年は、悔しさのあまりに号泣した。


盛親の一番上の兄であり、長宗我部家の世継ぎの信親が、若くして戦で命を落とすと、哀しみにくれる父のあわれな姿に盛親は泣き明かした。


そして、次の世継ぎを孫次郎あらため津野親忠とするか、千熊丸あらため長宗我部盛親とするかで、家臣が二つに分かれて血生臭い結果となった時には、お家の情けなさに涙を抑えきれなかった。


一つ一つの涙が、盛親の成長の糧となり、大きな身体とともに、心も大きく、強くしていったのである。


そして慶長5年の春を迎える。

その日、彼は田植え前の水田で泥だらけになりながら、城下の子供たちと相撲を取っていた。


「おう!武市のところのせがれか!どんとかかってこい!」


「やあ!」


子供たちは次々と盛親青年の胸に飛びかかっていくが、彼はびくともせずに次々と投げ飛ばしていく。

中には悔しさと情けなさのあまりに泣き出す子も出てきた。

しかし盛親は、そんな子供を見ては、

「よいよい!幼きうちは、よく笑い、よく泣き、よく学ぶのだ!がははは!」

と、彼らの頭を乱暴になでて、笑い飛ばしていたのだった。


そんな折である、盛親の、いや長宗我部家の運命を悲劇に陥らせることになる要請が報されたのは…


「殿、一大事にございます。石田治部殿が徳川内府殿を誅伐せんと大坂城より蜂起するとのことにございます」


その報せを届けにきたのは、父元親の頃からの側近である久武親直。彼は盛親に対して妄信的で過剰な忠誠心を抱いた男であった。


「ふむ。既にそうなるであろうことは、兄上からの書状で存じておる。

では、そろそろ俺らも戦支度をするとしようではないか」


この時、盛親は離れて暮らす兄の親忠より関ヶ原の合戦を予見された書状を受け取っており、その書状において「徳川に味方すべし」と書かれていたのだ。

盛親もその兄の助言に従って徳川家康に味方するつもりでいた。


だが、その盛親の意図に勘付いたのか、子供たちと別れて城に戻ろうとする盛親に、久武親直は慌てて問いかけた。


「殿!殿はまさか親忠殿のお言葉の通りに、徳川殿にお味方するつもりではありますまいな!?」


「ふむ、その通りである。既に東の方では、藤堂高虎殿の軍と合流する手はずを、兄上が整えてくださってるはずだが…」


その盛親に親直は顔を赤くして抗議する。


「殿!いい加減目をお覚ましくだされ!

親忠殿のおっしゃる通り、のこのこ出て行って藤堂殿の指揮下で戦われたら、どうなるとお思いか!?」


「どうなるも、こうなるも…」


「よいですか!こたびの戦の『義』は石田治部殿にございます!ゆえに戦に勝つのも石田様にございましょう!」


「ふむ、確かに『義』ということであれば、石田治部殿に軍配が上がるかもしれぬ。

しかし、戦の勝ち負けで言えば、話は別であろう。

兄上もこたびの戦は徳川殿に『利』ありと言うておる。勝つ方にお味方するのが、お家の為と思うが…」


その言葉に久武親直は逆上した。

無論それは、離れた兄の言うことを聞き、近くにいる自分の進言を聞きいれようとしない盛親に苛立ち、同時に津野親忠という男にあらためて嫉妬の炎を燃やしたからであった。


「殿!殿は自分の立場をお忘れか!?

殿はまだ官位を授かっておらぬ身!

すなわち正式には長宗我部のお家の当主と、天下に認められておられぬ身なのですぞ!!

このまま兄の親忠殿の言いなりで動いてしまっては、どちらが当主に相応しいかは、天下の白日のもとに照らされてしまうでしょう!!」


「むむ…しかし兄上に限ってそのような…」


盛親は顔をしかめる。

しかしそんな盛親に構わずに、久武親直は自身の進言の正当性を、ますます熱を帯びた口調で話し続ける。


「それにこたびの戦で石田殿が勝てば、正式に土佐守の官位を与えてくださると、それがしが約束を取り付けております。こちらをご覧ください!」


と、久武親直は立ったまま一つの書を、盛親の目の前で広げた。それは、親直が独断で石田三成と交渉して、味方した場合の処遇について書かれたものであった。

すなわちこの時、既に長宗我部は石田方に味方することは、ほぼ公然の事実となっていたのだ。


「むむ…」


盛親はなおも悩んだ。

彼としても「土佐守」という官位は、喉から手が出るほどに欲しいものであったのは間違いない。

なぜならそれを手にしたとき、初めて自分が長宗我部の当主であることの証であるように思えてならないからだ。この戦に勝てば、それが保証される…それは盛親の心を大きく揺るがせるには十分であった。

しかしそれは同時に、兄の意見に逆らうことを意味しているようで、盛親をまだ躊躇させていた。

そこに久武親直は最後の一押しとばかりに声を大きくした。


「殿!殿も男であるなら、ご自身の手で掴み取りなされ!!

たとえ『利』が徳川殿にあろうとも、殿がそれをひっくり返して、石田殿が勝利する、それくらいの事を成し得て、初めて真の当主と言えましょう!

もう兄上や亡き父上に与えられてばかりに甘んじるのは、お辞めになられませ!!

それに、それがしが命の限りを尽くして殿を支えます!

殿とそれがしで真の長宗我部の当主の座を勝ち得ましょうや!!」


その命がけとも言える久武親直の進言に、とうとう盛親は首を縦に振らざるを得なかった。

親直はその様子に満足そううなずくと、ほっとしたのか目の周りを赤くしていたのだった。

そう、彼は真に盛親を長宗我部家の当主にしようと命をかけていた。そこまで彼が執着していた理由は、彼自身も釈然としないものがあるであろう。だが、一つ言えるのは、彼は盛親のみが自分の仕えるに値する男であり、盛親が長宗我部の…果ては天下の主となることを心から願っていたのである。

現に彼はその為には手段を選ばず、障害と見るや、多くの長宗我部家の重臣たちの命を奪ってきた。そのせいで、彼が奪った命が亡霊となった「八人みさき」とか「七人みさき」というまことしやかに噂されるような祟りまで土佐国内にもたらし、それによるものなのか、彼は妻子さえも怪死にみまわれた。

それでも彼は臆することなく、ただただ盛親を頂点に立たせるべく、突き進み続けてきたのである。

それはもはや妄信や心酔といった言葉で表しきれない、絶対的な慕い方というより他ないように思える。


そして昨年、前当主である長宗我部元親が亡くなったことで、ようやく盛親が本拠である浦戸城の城主となる日がやってきた。親直にしてみれば、感無量の瞬間であったであろう。

だが、その矢先のことである。

中央で起った徳川と石田の激突が起こったのは…

久武親直としては、こんなところでつまずく訳にはいかなかった。

もとより暗愚な彼ではない。この戦が既に徳川有利であることは、百も承知であった。それでも、盛親の兄で、言わば当主の座を争っている津野親忠が、徳川方の藤堂高虎とつながりがあり、親忠の斡旋によって、盛親が徳川方に味方することだけは、何としても避けねばならないことだと、久武親直は信じていたのである。


「これ以上は盛親殿に、指一本触れさせない…」


そのような独占欲にまみれた親直の心は、もはや時勢の理を超え、自身の考えた都合の良い筋書き通りに事が進むことだけに執着していたのである。



こうして、長宗我部盛親は石田三成に味方すべく、約六千の兵を率いて、居城である浦戸城を出た。

それが悲劇の始まりとも知らず…

いや、既に長宗我部家の凋落はこの選択から始まったことではなかったのかもしれない。土佐一国にその器が収まらなかった長宗我部元親という名将が愛してやまなかった長男の信親が運悪く没した時点において、運命の大きな流れは、まさに低い方へ水が流れるのと同じように、自然の摂理をもって落日へと導いているように思えてならないのである。



………

……

大坂城に盛親が兵を率いて入ったことを聞いて、三成はたいそう喜び、自ら門まで彼を出迎えて歓迎した。土佐の国をあまり出ることのなかった盛親にとって、顔見知りではない者から、これほどの笑顔を持って迎えられたことがなく、彼は心にくすぐったさを覚えたのだった。


そして盛親の兵を加えた三成の大軍勢は「秀頼様の御為」という大義名分を掲げて、進軍を開始する。

伏見城などを攻略し、はたから見れば順調に徳川軍を追い詰めていった石田軍であったが、破滅への落とし穴に吸い寄せられるように、関ヶ原に着陣した。


盛親の軍は、家康本隊の背後をつくような南宮山の麓に陣を張っていたのだが、浅野幸長らが目を光らせ、さらに毛利秀元や吉川広家の危うい動向が、そのまま長宗我部軍の牽制となり、家康軍の背中を、指をくわえて見つめることしか出来なかったのである。


そして、その後の成り行きは、ここに記すまでもないであろう。


三成の突撃を最後として、敗走を始めた石田軍とともに、盛親は、なんと本戦で戦うことも出来ぬまま、敗軍の将として土佐に帰ることを余儀なくされ、あとは徳川家康からの沙汰を待つばかりとなってしまったのであった。


………

……

慶長5年(1600年)9月20日――


今回の論功行賞において、最初に家康によって声がかかったのは、山内一豊であった。

なぜなら彼こそ、西に進軍する徳川軍に対し、居城を家康に明け渡すことを最初に宣言した、つまり徳川譜代の武将以外で最も早くに徳川に忠誠を誓った男だったからだ。


そこで家康の口から、


「山内対馬守には約10万石に加増。国は土佐とする。

しかしいきなり異国に入り、民や兵を治めるのは大変であろう。

そこで、来年までにはお主が気持ち良く浦戸城に入ることが出来るよう、この徳川内府が手はずを整えてみせよう」


という沙汰が武将たちの前で発表された。

それは加増に加えて、さらなる恩を徳川に売るにはうってつけのものであり、わざわざ大勢の大名たちの前でそれを発表したのは、家康に早くから忠誠を誓って働けば、このような恩を与えられる事を示す、最適な余興であったのである。


だが、これを聞いた一人の男は、血相を変えてその場を辞すると、即座に大坂をあとにしていった。


「これでは俺の友情の義に反する。なんとかせねば…」


そうつぶやいた背丈が6尺2寸(190cm)もある大男は、港から舟を走らせると土佐にある、とある屋敷へと急いでいったのである。


その男の名は、藤堂高虎…


後に徳川家康から「最も愛された外様大名」と言っても過言ではない彼であったが、今はその家康への忠義よりも、とある男との友誼のことしか頭にない。藤堂高虎とはそれほど友誼や情を重んじる男なのだ。


だが、この清らかとも言える友情の汗は、土佐の歴史を黒く染める、血生臭い泥によって無惨にも上塗りされてしまうことになるのだが…


この時はまだ高虎の知るところではなかったのであった…







長宗我部家に関するお話になります。

フィクションの部分がほとんどではございますが、ご容赦願います。


なお、若宮八幡宮の「どろんこ祭り」こと「神田祭」ですが、その始まりは江戸時代に入り、山内家の2代目当主の逸話がもとになっているのが通説にございます。

ただ、神田を奉納するという習慣そのものは、長宗我部の代より存在したとのことでしたので、今回は「どろんこ祭り」そのものも描写の中に加えた次第でございます。


さて、次回は長宗我部家の悲劇の話になります。


どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。



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