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理想の学府を目指して①二つの確保

新シリーズのスタートになります。


では、ご一読の方をお願いします。

◇◇

慶長6年(1601年)6月 長崎ーー


長雨の季節は終わりを迎えているというのに、長崎では連日の雨に見舞われていた。

空は濃い灰色に染まり、昼間だというのにさながら夕暮れのような暗さであった。


そんな中、一人の男が口を開けた状態で横たわっていた。


全く動く気配のないその姿だけ見れば、それは行き倒れの哀れな死体のように思えても仕方がない。

しかし彼が生きている人間であることをしめすように、その瞳からはたしかに涙が流れていた。

もっとも、それさえもこの大雨の中においては、涙と雨の雫の区別などつかないものであり、そう考えるとこの男は傍目から見れば、もはや生を終えた亡骸のようなものと言えよう。

事実、彼はこの時、絶望の中にあり、生きる気力すら抜けてしまった魂のない抜け殻のような体を、冷たく降り注ぐ雨の中にさらしている。それは、本人ですら生きているとも死んでいるとも区別がつかないものであった。


「もう…終いだ…」


その男の名は、明石全登ーー


のちに豊臣の七星のうちの一人とまで称される彼であったが、その輝きは未だ暗く、その上彼の周りには様々な『障壁』という名の雲で覆われていたのだ。


初夏と言えども雨は容赦なく彼の体温を奪い去っていく。このまま雨に当たり続けていれば、彼は本当にこの場でその命を落としてしまうであろう。

だが、今の彼にとって、生を長える事は、すなわち今以上の苦行を自身に課すこととなり、彼はそれに耐えてでも生き長らえる意味を見つけられないでいた。


そんな中であった。


全登に当たる雨がふと止まる。


彼はその時にようやく我に返り、目の焦点を真上に合わせた。


するとその目に飛び込んできたのは、真っ赤な番傘。

誰かが彼をその派手な傘の下に入れたようだ。


ーー雨に当たり過ぎると、身体に良くないぞ


ふと声が聞こえる。

それは無論、全登にかけられたものだ。

その声に全登の光を失いかけた瞳は、大きく見開かれた。


「…なぜ…なぜ…」


出てくる言葉は、短い。されど、それが全て。


なぜなら、その真っ赤な傘の持ち主こそ…


明石全登に、絶望と希望の二つをもたらす人だったのである…



◇◇

話は少し遡る。


慶長5年10月も終わりを迎えようかという頃、石田三成あらため宗應と、明石全登の二人は、京のとある場所に立っていた。


そこはかつて豊臣家の最盛期を象徴するような建物…すなわち聚楽第が建てられていた場所である。


この地に新たな豊臣家の象徴として、学府を建設することを豊臣秀頼は彼らに命じたのだ。

それは一個人の権威の象徴として建てられるものではなく、万民の生活が豊かになることを政策の中心に掲げた、言わば施政の象徴として建設されるものであった。

当時の世において、学問や研究は、鉄砲などの一部の分野を除き停滞していたと言わざるを得なかった。

それは本来、学府となるべきである「寺」と研究者たるべき「僧侶たち」が、戦国の時勢において安全を確保されていなかった事が起因とされている。

事実、当時の最高学府は上方とは遠く離れた下野国の足利学校と言っても過言ではなく、農業や医学といった民の生活に直結する分野における研究は、ごく一部分を除き、飛躍的な発展を遂げているとは言い難かった。


そこで秀頼は、研究者たちの身の安全の保証と、研究機関の確保、さらに未来における研究の波及を目的として、京に足利学校を超える、最高学府の建設を目論んだのである。


特に史実を知る秀頼がこの学府において成し得たいことは、

「南蛮人と紅毛人の持つ知識と、日本人の研究者たちの持つ知識の融合」

であった。


もちろん秀頼本人は、単純に「日の本にない知識を南蛮か紅毛から得られたらよい」としか考えていなかった。もっと言えば、それくらいしか思いつかなかった、というのが本音であろう。

無論、この時点で秀頼の目論見が成立したところで、どんな成果が上がるのがなど、誰も予想し得ないものであるに違いない。

なぜなら世界中において農業、漁業などの生活に関わる分野は独自の発展を遂げており、どの文化圏が優れているのかというのは、一概に言いづらいものであったからである。


ただこの学府の設立には、「二つの確保」が懸念があった。

一つは、人材の確保である。

各分野における研究者の主席とも言える人物の確保は最大の懸案事項といっても過言ではないものだった。

豊臣秀頼の名の下に自ら研究を志願してくれるような第一人者がいればよいのだが、その望みは限りなく薄いと思われた。特に、南蛮や紅毛の研究者もしくは講師の招聘は、亡き太閤秀吉以来のキリシタンへの弾圧の流れからしても、難しいとしか言いようがなかったのである。

もちろん日本人の研究者にしても、今はそれぞれの大名たちに保護されて、全国で散り散りとなっている状態で、彼らを京まで上らせるのは、よほどな理由をつけねば難しいと考えられる。


次に、学府と研究者の安全の確保であった。

なお秀頼からの指示では、実際に研究と講義の開始は、慶長6年10月より開始して欲しいとの目標を立てられている。もちろん必要な費用は豊臣家から出てはいる。だが、その運営については宗應らに委ねられており、社会情勢が不安定な中において、安全の確保は難しいと思われたのだ。


このうち秀頼の指示もあり、人材の確保については、バテレンの方を明石全登が当たることとした。

一方で、安全の確保と、普請、そして運営の基礎作りは石田宗應が担当することにしたのである。


………

……

既に紅葉の季節も終わり、木々は次の厳しい季節に葉もなくさらされようとしている。時折吹く風は、朝の冷たい空気をかき混ぜると、体を芯から冷やす。

そんな早朝の中、明石全登が京から出立する準備は整い、その時を待つばかりであった。


「では、いってまいります。身命を賭してこの使命を果たして参ります」


と、軽装の全登は、宗應に向けて深々と頭を下げた。

その様子を神妙な面持ちで宗應は見つめる。


「ふむ、だがくれぐれも命だけは粗末にするでないぞ」


宗應は全登を「気負い過ぎている」と、その様子を危惧していた。だが、全登は家臣団が真っ二つに割れるほどに大混乱した宇喜多家のお家騒動を一人でまとめた男であり、史実を知る秀頼がこの人材集めに抜擢するほどでもある。彼の能力の高さは、宗應ならずとも、みな認めるところであろう。

しかしどうにも彼には自分を卑下するきらいがある。良い言い方をすれば、決して根拠のない自信を持って行動しない慎重な性格となるだろうが、悪く言えばその自信のなさゆえに肝心なところで踏み切れない弱さになりかねないといったところか…

多少の材料が集まり、ある程度の見通しがつけば、あとは信念に基づき突き進むような無鉄砲さのある、かつての「石田三成」とは真逆とも言える全登の様子が、宗應には心配でならなかったのだ。

さらに、全登の生真面目過ぎる性格も、宗應には心配の種であった。

この部分については、自分と同じ傾向があり、その気持ちはよく分かる。

もしこの使命に失敗するようなことがあれば、自ら命を絶ってしまいかねないほどの、気合いを感じて、思わず先ほどの言葉が出てきてしまったのであった。


いずれにせよ、彼と共に行動出来ない今は、とにかく彼の背中を押してやることくらいしか出来ない。

最後に宗應は全登に向けて、少しでも気が軽くなるように励ました。


「こちらでも人材の確保には努力するゆえ、お主の力が及ぶところまで頑張ればよいのだぞ。

それにこの先も人材の発掘は続けていくのだ。

定められた期限内で終わりではないことは、頭に入れておくとよい」


暗に「肩の力を入れ過ぎるな」と助言したつもりではあったが、全登は余計に表情を引き締めて、宗應に別れの挨拶をしたのだった。


「宗應殿…ありがたきお言葉、感謝してもしきれませぬ。

では、我らにゼウス様のご加護があらんことを…」


こう残すと、全登は最初の目的地である堺の街の方へと足を踏み出したのであった。


「ふぅ…上手くいくとよいのだが…」


と、宗應は彼の背中を見つめながら、深いため息をついて、彼の姿が見えなくなるまで心配そうな表情を崩さずに見送っていた。


そしてこの二人の一時の別れによって、いよいよ豊臣の未来を作る一歩が始まったのである。

果たしてその未来は明るいものか、それとも暗いものなのか…

それはこの二人の奮闘の結果に左右されるものとなる。


◇◇

「おや、佐吉。もう全登殿は出立しちまったのかね?」


一度、奉公先に帰った宗應は、まるで彼を待っていたかのように声をかけられた。

彼はその声の主に頭を下げて答えた。


「おはようございます、北政所様。

はい、既に全登殿は堺に向けて出立いたしました」


「これ、佐吉!なんじゃね?そのかしこまった物言いは?

わしの事は、おかか様と呼びなさい、と何度言えば分かるのかね?」


「しかし、北政所様…この身は奉公の身でございますので、昔の呼び方を通すというのは、筋が通りませぬ」


どこまでも真面目な宗應に対して、北政所は一度ため息をつくと、彼の肩に手をかけて言った。


「あんたは真面目過ぎる。

その真面目過ぎるところが、周囲から反感を食ったということを、忘れてはならんぞ」


「はい。ありがたきお言葉にございます」


「これこれ!そういう返事も固過ぎる、と言っておるのだ。

これが虎之助なら

『おかか様はいつも口うるさくて敵わねえなあ』

とか、減らず口たたいてくるところさね」


と、北政所は、今は遠く九州にいる加藤清正にくしゃみをさせた。

そしてなおも固くかしこまっている宗應に対して、


「まあ、そんなところがお前の良いところでもあるのだけど、度が過ぎると、また同じことを繰り返すぞ。

いい加減過ぎるくらいでも、どんどんお家を大きく出来るくらいの懐の深さと、度量の大きさを持った人が天下人に相応しいと、わしは思うてる。

太閤殿下のそういうところは見習って、努力をしなさい、ということじゃ」


と、亡き夫の太閤秀吉を引き合いに出したのだった。


「はっ!かしこまりました!恐れ多いことながら、この宗應、亡き太閤殿下のようなお人になれるよう、日々努力して参ります!」


「これ!殿下のようになってはならんぞ!それは、決してならん!あんな人たらしは、後にも先にもあの人一人で十分」


と、先ほどまでとは一見すると矛盾しているようなことを言って、北政所は笑いながら宗應に注意した。


「はあ…」


「なにはともあれ、わしのことは今まで通り、おかか様と呼びなさい。まずはそこからじゃ。よいね。

よければ早く朝げを食べて、仕事に取り掛かりなされ」


「はい!北政所…おかか様!」


と、宗應はどこまでも真面目に頭を下げて、その場を後にしたのだった。



………

……


朝げを取り終えると、宗應は早速学府作りの仕事に取り掛かった。

既にその建物の数や間取りなどの細部にわたってまで、決めていた。そして建物自体の安全の確保を目論み、その縄張りは城造りの名人である加藤清正に作ってもらっていたのだった。

九州の出立の準備の合間を縫うようにしてその縄張りの構想を練っていた清正は、結局出立より前に完成せずに、九州へ向かう道中でそれを完成させて、宗應に向けて書面で送ってきた。


その書面の中には、

「この礼は俺が九州から戻ってから飲み明かす、ということでよいからな」

と、あつかましい内容の書状まで入っており、それを見て宗應は、軽く礼をすると、


「そんなことでよければ、いくらでも付き合ってやるさ。ありがとう、虎之助…」


と、優しく微笑みながら呟いたのであった。


今日からいよいよその縄張り通りに普請が始まるのである。その様子を見に宗應は、北政所の屋敷のすぐ隣のその場所まで足を運ぶことにした。


既にその地には数百人の男たちが、晩秋の青空のもと、汗をたらしながら仕事をしている。

みなその笑顔は眩しく、仕事をする喜びに満ちたものであった。


この頃は戦も終わったばかりで、全国のあちこちで修繕やら改築やらが進んでいる。その為、これだけの人足を集めるのにも、相当苦労すると思われたのだが、今こうして目の前にいる数百人もの人材を確保出来ている。


そしてこの男たちこそ、学府の懸念事項の一つである「安全の確保」に大きく寄与する人々となる。すなわち、彼らはこの普請の後は、この学府の学生でもあり、警護としても精を出すこととなっているのだ。



そう、既に石田宗應は、この「安全の確保」という危惧を学府建設を命じられた時から察しており、清正による縄張りが完成するまでのわずかな期間で、ほぼなし得てしまったのだ。


「おお!精が出ますなあ!治部殿!」


と、宗應を官位で呼ぶ、大きな声が背中から聞こえてきた。宗應は振り返り、その声の主の方を見つめた。


その背丈は六尺(180cm)はあろうかという大男で、豊かな口髭をたくわえている。

荒々しい声色は、彼の剛毅な性格を表しているかのようだが、その年齢は宗應よりも十以上は若く、青さの残る青年といった笑顔であった。


「やあ、大岩殿。元気そうで何よりだ。

それより、その『治部』という呼び名はお辞めくだされ。

その名で呼ばれると以前の自分を思い起こしてしまうのだ」


もちろんここで言う「以前の自分」とは、石田三成という名で通した、つい三ヶ月もしない前の頃のことである。

だが、彼にとってはそれは、随分と過去のように思い出されてならなかった。

それほどまでに、この数ヶ月の間で彼自身も彼をとりまく環境も一変していたのであった。


「がはは!そうであったか!これは失礼した!」


と、大岩と呼ばれた男は、そんな宗應の湿り気のある言葉を、大きな口を開けて笑い飛ばした。

しかし宗應は特に悪い気持ちもせずに、彼に向かって言った。


「宗應、と呼んでいただければよい」


「ふむ、相分かり申した!では、宗應殿!

こたびの件、もう一度だけ礼を言わせてくれ!

ありがとう!!

俺もあいつらも、秀頼様とお主とに、この命を助けられた!」


と、大岩と呼ばれたその男は、大きな背中を丸めて宗應に頭を下げた。


「なに、こちらの方こそ助かったのだ。

礼を言うのは、むしろこっちの方だ」


と、宗應も彼に対して頭を下げた。

その宗應の両肩を掴み、彼は言った。


「いやいや!あいつらの輝くような顔を見れば、どっちが頭を下げなきゃならねえかなんて、明白であろう。

この恩…俺は絶対に忘れませんぞ!」


と、彼は瞳に涙を溜めて告げたのであった。



この大岩と呼ばれた男…

またの名を「長宗我部盛親」と言う。


この時より遡ること、わずか数日前。

宗應と彼との再会こそ、この学府の礎を強固に築くきっかけとなったのであった。







戦国時代における各分野での学問はあまり進展していなかったとの説があり、それを採用しました。


現に秀吉の小田原城攻略の後に、豊臣秀次が足利学校に立ち寄り、そこで保管されている書物を盗もうとしたとのことです。

つまり、大坂であっても儒学に関する書籍が少なく、学問の研究が進んでいなかったということを示しているのではないか、と思ったのでございます。


さて次回は「長宗我部盛親」になります。

彼がなぜ学府の建設予定地にいるのか、その経緯のお話になります。


どうぞこれからもよろしくお願いします。


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