脱出作戦 終幕 再会
秀頼の脱出作戦の本当の理由とは!?
久々に秀頼メインのお話でございます。
では、ごゆっくりとお読みいただければと思います。
………
……
尻が痛い…
それはもう焼けるような痛さである。
俺、豊臣秀頼は、新しい養育係である成田甲斐から「しつけ」を受けて、今は自分の部屋にいるのだが、あまりの尻の痛さに座ることすらままならない状況を、目の前の大谷吉治に対して当たり散らしていたのである。
「くそっ!あの鬼め…思いっきり尻に打ち込みおって…血が出たらどうするのだ!」
「まあ、落ち着いてくだされ。
それにそのような言葉が甲斐殿の耳に入りでもしたら、本当に尻が割れてしまいます」
「やい!吉治!お主はどちらの味方なのだ!」
「ははは!これは、したり!それがしは秀頼様に仕える身なれど、その秀頼様が立派な当主様になられる為なら、涙を飲んでそれを見守っております。
どうせこたびのことも、甲斐殿の厳しい稽古に耐えかねて、逃げ出そうとしたところを、捕えられたのでしょう。自業自得というものかと…」
「ぐぬぬ…」
豪快に笑い飛ばす吉治に返す言葉もなく、俺は唇をかんだ。
確かに甲斐の稽古は、まさに地獄のように厳しいもので、それは剣や槍といった武芸はもちろんのこと、書物の読み書き、古戦を例えにした軍略、されに歌や茶の湯に至るまで、基礎から徹底的に叩きこまれ続けているのである。
同じ少年の木村重成、大野治徳、堀内氏久もそれらを一緒に稽古しているが、内容によっては、千姫や明石レジーナも参加している。しかし明らかに男子と女子の扱いは異なり、男子には鬼の化身のように厳しい態度であったが、女子に対してはまるで小動物を扱うかのように優しいのだからたまったものではない。だが、反論でもしようものなら、倍以上になって返ってくる…しかも袋竹刀で…
とは言え、そんな厳しい稽古も、全て俺が将来豊臣家を背負って立つ為の鍛錬であることと考えれば、それはむしろ喜んで受けねばならぬものであり、俺も真剣に甲斐の稽古に臨み続けているのだ。
つまり、俺が大坂城の脱出計画を実戦し続けている理由は、その稽古の厳しさとは全く異なるものであった。
それは…一人の女性の明るい未来を作る為、とすると、少し格好つけ過ぎているだろうか…
もっと具体的に言えば、
それは、未来の千姫を大坂城から脱出させる為ーー
すなわち、避けようのない未来の大一番に向けて、女子供でも大坂城の本丸から脱出可能な道筋を、とある男の頭に叩き込ませる為であったのだ。
その男の名は…
堀内氏久。
なぜ氏久なのか…
それは史実において、千姫を大坂城から連れ出す役目を堀内氏久が担うからである。それに彼は城のことなら何でも吸収できてしまう、特徴があるので、彼なら必ずその時が来た時、その力を発揮出来ると信じているからだ。
そう、史実においては、彼の手で城の外へと無事に逃がされた千姫は、その後別の大名と再婚して幸せに暮らすこととなる。
俺はそうなることを想定して、今のうちから大坂城の本丸からの脱出を体に叩き込ませていたのである。
しかし、もし仮に史実の通りに大坂城が悲劇的な最後を迎えようとも、その命が助かる千姫の脱出を訓練しているのか…
それは俺がこの時代にいるから、という事に他ならなかった。
俺は、俺がここに存在しているだけで、史実が歪んできているのを実感している。特に、石田三成が名前を宗應と変えて生き延びた事は、俺にとって大きな衝撃であった。
死ぬべき人を生かす事すら出来る可能性――
それが、俺が「歴史を知っている」ことによって得られた力といっても過言ではない。
しかしそれは同時に「生きるべき人が死ぬ可能性がある」という、相反する結果を生みかねない事も考慮にいれねばならないと考えているのだ。
もしこのまま、俺が時代の流れに身を任せて、淀殿や大坂城の家老たちの傀儡となって生きるならば、恐らく史実とはさして変わらない結果となり、大坂の陣で千姫が命を落とすことなどないであろう。
だが、俺は自分の手で豊臣家の運命を変える為に努力しようと固く決意している。
もちろんだからと言って、千姫をはじめとして、城内にいる姫たちや侍女たちをないがしろにするつもりは、断じてない。ただ、史実と異なる流れとなった時に、史実通りに生死が決まるとはどうにも思えないのである。
だから、せめて今俺が出来る最善を尽くしておきたい…
千姫を逃がすために…
彼女の輝かしい未来を奪わないためにも…
それは体が成長してからでは出来ない、すなわち今しか出来ない、未来に向けた脱出作戦だったのだった。
そんな考えを口にするわけにもいかないのが、もどかしいところだ。もちろん千姫本人には口が裂けても言えない。
恥ずかしすぎる…
ただここ最近、優等生の木村重成だけは、何か勘付いているような気もするが、多少の疑いをかけられたとしても、俺は今出来る精一杯のことを、未来に向けて実行し続けるつもりでいるのだ。
俺は、なおも笑顔を向けている吉治を無視するかのように、話題をそらした。
「もうよい!それにしても信繁は遅いのう。母上との間に何かあったのだろうか?」
と、俺が知るよしもない、当たらずとも遠からずな事を口にしていると、吉治は、
「義兄上に限って、淀殿と何かもめごとを起こすようなことは、ございますまい!あはは!」
と、愉快そうに笑っていたのであった。
その淀殿の部屋ではまさにその時、彼の修羅場となっていることなど露とも知らずに…
……
…
それからしばらく吉治と雑談していたその時であった。
とうとう俺が待ち望んだその時がやってきたのは…
襖の外に人の気配がしたかと思うと、
「秀頼様!真田佐衛門佐、ただいま参上いたしました。中へ入ってもよろしいでしょうか!?」
と、懐かしい透き通った声が聞こえてきた。
「おお!信繁か!早くここへ!」
俺は転がるようにして部屋を仕切る襖の前までやってきて、信繁を迎え入れようとした。
そして、その襖はゆっくり開けられると、そこには待ち焦がれた青年の姿があったのだ。
初めて会った時と、何も変わらないその穏やかな顔。
何も変わらない背筋の伸びた美しい姿勢。
その姿を目にした瞬間に、俺の目頭はすでに熱を帯びていた。
「真田佐衛門佐信繁あらため、真田佐衛門佐幸村。殿の命によって、九度山から戻ってまいりました!
っと、うわっ!」
俺は信繁あらため幸村が言い終えるのを待たずに、彼に飛び付いた。
「よく戻ってきた!!俺は…俺は…」
と、その先は言葉にならなかった。
彼の胸に飛び込んだ瞬間に、様々な感情が身体中から溢れ出して止まらなかったのだ。
それは例えるなら、生き別れた兄や父と数年ぶりの再会を果たした時のようなものなのかもしれない。
それは、安堵、孤独、喜び、寂しさと様々な感情がごっちゃになったものだ。
そんな溢れる感情の波にもまれながら嗚咽を続ける俺を、幸村はただひたすら静かに、穏やかに、優しく俺の背中をなでていたのだった。
この再会に至るまで、様々なことがあった。
停戦を画策すべく、城を抜け出して関ヶ原の地まで馬を走らせると、戦に巻き込まれてしまったこともあった。戦場から命からがら逃げ出すと、その逃亡先で狼藉者に襲われて、助けてくれた若者が死んでいくのを目の当たりにもした。そして、城に戻った後は、徳川家康と直接会談し、宣戦布告とも言えるような威圧を受けた。
わずかの期間に元の世界では絶対に体験しないであろう、数々の修羅場をくぐり抜けてきたのである。
そしてその修羅場によって、今この時を迎えるまで、平和に慣れ過ぎていた俺の心は疲弊し、削られていた。
それでも俺は、豊臣家に希望を抱く者たちの為、そして未来の天下人として、日の本にいる全ての民が豊かに暮らせる世を作る為に、精一杯の虚勢を張って、ここまで生きてきたのだ。
もちろん、まだ民や豊臣家を慕う者たちの為に何かを成し遂げた実積などない。
だが、それでもいつか花開くように、自分を鍛え、学府作りや造船を指示するなど、大坂城から出ることが叶わない身なれど、精一杯な事をしてきた。
それはまだたったの一年に満たないのは、重々承知している。この先の秀頼の人生はまだまだ長く険しいことも多少なりとも知っているつもりだ。
だが、この時代にやってきたのは自分の意志とは言え、さながらぬるま湯から熱湯に放り込まれた直後のこの一年は、たとえ周囲の支えがあったにしても、心身にこたえるものであった。
そして今、目の前の幸村と再会し、その虚勢を張らずともよい瞬間が訪れたと思えた。するとまるで堰を切ったように感情の濁流が押し寄せてきたというわけである。
なぜ彼の前では虚勢をはらずともよいのか…
それは自分でも不思議であった。
だがもしかしたら、俺は彼を自分にとっての『心を許せる友』だと思っているからであったからかもしれない。
まだ出会ってからわずかの時間しか過ごしていない。
歳も離れている。
こちらからの一方的な想いかもしれない。
それでも彼は、俺が初めて秘密を打ち明けた相手であり、自分の話を信じてくれ、俺の存在を認めてくれたかけがえのない人なのである。
そんな彼とようやく再会出来た。
そしてこれからは、彼とともに豊臣家を守る為に、逆風に立ち向かえる。
その事が、不謹慎かもしれないが、たまらなく嬉しくてならなかった。
そして俺という「あってはならない存在」によって、人の生死まで左右されている中にあって、彼が無事でいてくれたことに感謝し、安心した。
そんな複雑な想いのつまった嗚咽は、その後もしばらく続いた。
そして少し落ち着くと、俺は幸村から離れて、側にいる吉治、そしていつの間にか姿を現した霧隠才蔵の三人を前にして、涙声混じりに言った。
「見ての通り、今の俺は弱い。
一人の友との再会で涙してしまうほどに、情けない男だ。
そんな俺だから、今は到底『豊臣家』を、父のように一人で力強く引っ張っていくことなど出来ないだろう。
だから、これからも色々な人の支えに生きていくことになる。そして色々な人と出会い、別れることであろう。
そして、その一つ一つの出会いと別れこそ、俺にとってはかけがえのない恩義である。
お主たちから受ける大きな恩を返せないうちは、言葉で感謝の気持ちしか表せない俺をどうか許して欲しいと思っている。
それは、名のある者であっても、そうでない民たちにも同様だ」
そこで話を切る。
その時、俺の脳裏に次々と笑顔が浮かんでくる。
淀殿や千姫、そして黒田如水、石田宗應、加藤清正、堀内氏善、明石全登、桂広繁、片桐且元…
それに、木村重成、大野治徳、堀内氏久、明石レジーナといった少年少女の姿…
忘れてはならない、あざみもいる。その隣には権兵衛と蔵主の姿。
そして…遠くからは大谷吉継の姿も…
感謝してもしきれない、俺を支えてくれている人々…
俺は頭の中で彼ら一人一人に頭を下げた。
そして、一通り回想を終えると、俺は続けた。
「そしていつか、俺が与えられた恩に報いることが出来るまでに成長したその時には、必ずやそれらの恩義を返そう。
どのような形になるかなど分からない。
それは一人一人違ったものになるかもしれん。
だが一つだけ共通していることがあるとすれば、俺は皆の『夢』をかなえる手助けを持って、恩を報いたいのだ。
そうして皆が笑顔に豊かに暮らせる日々を作れたら、よいと思っているのだ。
だから…
真田左衛門佐幸村殿、大谷大学助吉治殿、霧隠才蔵殿…
お主らの力をこれからも貸して欲しい。どうか、この通りである」
と、俺は深々と三人に向けて頭を下げた。
「もったいなき…もったいなきお言葉にございます…秀頼様、頭を上げて下され」
吉治の震える声に恐る恐る頭を上げると、三人ともそれぞれ感じたところがあるようで、神妙な顔つきで俺を見つめている。
そして、幸村が頭を下げて、ぼそりほそりと語り始めた。
「それがしの『夢』は、この大坂城にいる方々全てを幸せにすることにございます。
しかし今、秀頼様のお言葉を聞いて確信したことがございます。
それがしが身命を賭して秀頼様に奉公差し上げれば、その『夢』は必ず叶うと。
秀頼様の手によって、必ずやその夢は叶えてくださると、確信したのでございます!
どうか、この幸村めの小さき夢を叶えさせて頂く為にも、秀頼様にこの命を預ける事をお許しくださいませ」
すると吉治も、
「それがしも義兄殿と同じにございます!秀頼様にこの命をお預けいたします!どうか、父が夢見た天下泰平の風景を、秀頼様の手でお作りいただきますよう、お願い申し上げます!」
と、頭を下げた。そして才蔵は無言であったが、その穏やかな笑顔を見れば、彼もまた同じ思いであることは容易に想像がついた。
初夏の蒸し暑さは、どの時代においても不快を招くのは同じようだ。
しかし今この部屋は、全国どこを見回しても、最も蒸し暑い部屋であるに違いない。しかしその燃えるような熱気が心地よく感じるのは、体温が上昇するほどに、主従の絆が強まるような気がするからであろう。
俺が三人の手を取り、
「よろしく頼む!」
とあらためて声を大きくすると、幸村、吉治、才蔵の三人は声を揃えて、
「はっ!!」
と短く、力強く答えてくれたのだった。
その後、吉治の口から関ヶ原の戦いの後の事を幸村に話してもらった。
ほとんど表情を変えずにそれを聞いていた幸村であったが、石田三成が死罪を免れて、仏門に入って宗應と名を変えたくだりのところで、はらはらと瞳から涙がこぼれていた。
その涙の意味するところは本人しか分からないであろうが、幸村が宗應を強く想う気持ちが、痛いほど伝わってきて、俺も思わずもらい泣きしてしまった。
こうして尽きぬ話をしているうちに、すぐに夕げの時間を迎える。
その夜は、幸村と吉治も食事を共にとってもらうことにした。
才蔵のことも誘ったのだが、彼はそのような場所が苦手だそうで、かたくなに断られた為、仕方なく二人だけの参加となったのである。
俺はすぐに二人が食事に加わる旨を、部屋の外の近侍の者に伝えると、
「では、ゆっくりと参ろうか。あまり待たせると母上も千姫も怖いからのう」
と、立ちあがった。幸村がそれに同調して
「御意にございます。では、参りましょう」
と、返事をして立ち上がると、吉治もそれにならって、一緒に部屋を出るために立ちあがる。
そして三人出連れだって熱気がこもりきっていた部屋の外に出ると、廊下は思いの外涼しく、俺は思わず身震いしてしまったのだった。
◇◇
夏が近づくのは、夜の帳が下りるのが遅くなることでも分かる気がする。
まだ日が落ちきっていないうちではあるが、時刻はいつもの夕げの時間であることを示すように、俺たちが食事をとる部屋に入ると、すでにそこには淀殿と千姫の姿もあった。
「お待たせいたしました母上!そして二人をお連れしました!」
と、俺は元気よく淀殿に報告をすると、彼女は目を細めて嬉しそうに、
「あら、よく来ましたね。どうぞおかけなさい」
と、幸村たちに着席を促したのだった。
席に着いた幸村が千姫に向かって
「千姫様。あいさつが遅れまして失礼いたしました。真田左衛門佐信繁あらため幸村、本日より大坂城にて奉公させていただくこととなりました。
今後もよろしくお願い申し上げます」
と、頭を下げた。
俺の横に座っている千姫は緊張しているのか、顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を縦に振っている。俺に対してはぺらぺらとよくしゃべる割には、慣れていない相手には、ほとんど口を開かない。昨年、石田三成の前で披露したのも、演技であったから大きな声で言葉を発していたのだが、あれも相当緊張したとのことだ。
淀殿はる柔らかな視線を千姫に向けて優しい笑顔を浮かべると、
「では、そろそろお食事を始めましょうか」
と皆に向けて言った。だが、幸村の隣の席が一つだけ空いているのを見た俺は、
「もう一人どなたか来られるのでしょうか?母上」
と淀殿に問いかける。淀殿はその問いかけに対して、少しだけ声を大きくして、
「ええ、その予定なのですが、少し遅れているようですから、もう始めてしまいましょう。今宵はゆっくりと幸村の幽閉の話でも聞こうではありませんか」
と、言って箸を取ったのだった。俺も「どうせ仕事が山のようにたまった片桐且元が遅れてくるのだろう」くらいにしか思っておらず、少年らしく勢いよく食事に食らいついたのだった。
…と、その時…
「はしたない食べ方はよくないねぇ。これは食後にしつけが必要かな?」
と、聞きなれているが最も聞きたくない声が、容赦なく耳の中に入ってきた。
俺の養育係で、またの名を『鬼』…成田甲斐が部屋に入ってきたかと思うと、空いていた残りの席に腰を下ろしたのであった。
「ぶふっ!!!」
と、俺は思わずかきこんだ食事を喉に詰まらせてしまうと、激しく咳きこんだ。
「ゲホッゲホッ…!母上!なぜなのです!?せっかくの楽しい夕げが…」
と、俺は母の淀殿に向かって抗議をしようとしたのだが、それを甲斐が遮る。
「わらわがいると楽しくなくなるっておっしゃるのかい?」
「い、いえ!そ、そんな事はございませぬ!か、甲斐殿がおられれば、さらに華やかな夕げになるというものです!」
「よし!よく出来ました。では、わらわもいただこうとするか」
なおも咳きこみ涙目になっている俺を、千姫が小さな手で背中をさする。
「秀頼様。大丈夫ですか?」
「ありがとう、お千。大丈夫だから、食事を続けよう」
こうして滅多にない大人数での食事は、再開したのだが、折角の料理の味など全く分からないほどに、俺は緊張していた。
もし下手なことを口にしようものならどんなしつけが待っているか分からない…
なぜ淀殿は甲斐も呼んだのだろう…
そんな俺の疑問に答えるように、淀殿は食事がひと段落した辺りで、全員に向けて言った。
「源二郎と吉治がここに来ると聞いて、甲斐殿にも急きょ声をかけさせていただきました。
ついては、あらためて申し上げます。
どうか秀頼ちゃんのこと、よろしくお願いいたしますよ。
そなたらが頼りなのです」
その言葉に名前を出された三人が口元を引き締めて頷く。
それを見た淀殿は、目を細めて嬉しそうな表情を浮かべていた。
ああ…やはり淀殿は、母は、俺のことを考えてこの場に甲斐を呼んだのだ…
感謝の気持ちが自然と態度になって表れるかのように、俺は無意識のうちに、淀殿に向けて深々と礼をしていたのだ。
淀殿の顔を確認することは出来ないが、おそらく慈愛に満ちた視線を送っているであろうことは、俺を包むほのかな温かみで容易に想像がついた。
淀殿はそんな母の優しさに包まれた雰囲気を恥ずかしさのあまりに嫌ったのだろうか、すぐさま話題を幸村が幽閉されている頃のことに移した。
淀殿が微笑む――
幸村がはにかむ――
甲斐が笑っている――
吉治が何か語っている――
千姫も楽しそうだ――
幸せな時間だった。
そして、俺の舌にはすでに食事の味が戻っていた。残り一口となった食べ物を口に含むと、
「ああ…美味しい」
と、思わず漏らしてしまう程に、今まで大坂城でとった食事の中で、最も美味しく感じた食事であった。
いつの間にか外は、すっかり暗くなっている。
部屋の中の暖かな光は、この後もしばらく暗闇の中で浮かび上がっていく。
さあ、幸せな時間はまだ始まったばかりだ。これからもっと大きな幸せが俺たちを待っているに違いない。そう根拠もなく思っていたのである。
しかし…
その俺の予想は見事に外れることとなる。
すなわち、この再会がもたらした幸福な時間は、この夕げの時間ののち、すっかりその姿を現さなくなる。
残酷過ぎる暗黒の運命は、俺のもとへと、確実に一歩ずつ這い寄ってきていたのだが、音も立てずに近づく運命の事など、今の俺が気付くはずもなかった。
しかし、切り開けない運命など、この世には存在しないのかもしれない。
そう思わせてくれるような、絶望の淵にあって希望の光のもととなるはずのその場所は、二人の男の血の滲むような努力によって、まさにその実を結ぶかの正念場にあった。
この場所の成否が今後の大坂城の運命を大きく左右する事になる。
そして、まだ花さえ開くことのないその場所に向けて、真田幸村はこの日の翌日、その二人のうちの一人の男と再会を果たしに訪れることに決めていたのであった。
史実においては、千姫の脱出を助けた堀内氏久は、その後徳川秀忠に取り立てられて、最後は二条城の城番となるそうです。
さて次回から新シリーズになります。
活動報告にてご案内いたしましたが、このシリーズは相当の覚悟を持って書かせていただければと思います。
そしてシリーズの途中では、活動報告の場にて、歴史放談をいたし、私の率直な史観を述べさせていただければと思っております。
そのシリーズの主役は、石田宗應と明石全登になります。
タイトルは「理想の学府を目指して」。
テーマは「戦国時代とキリスト教」「日本からの輸出の実態」などになります。
どうぞお楽しみいただければと思っております。




