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脱出作戦⑥御運が開く

今回の話はフィクションがより色濃いものになります。

どうぞご容赦くださいませ。

◇◇

慶長6年5月17日ーー

九度山で真田親子に対して、「息子の信繁を九度山から出す代わりに、親子ともども豊臣秀頼に味方せよ」と話をまとめてきた黒田如水は、山を下りたその足で、そのまま伏見へと入った。

それは徳川家康に信繁の赦免についての報告をする為であり、相変わらず忙しい日々を送っている家康であったが、如水の来訪に時間を作って出迎えたのであった。


「まあ、こちらにかけなされ」


と、家康は城主の間にて、離れて座る如水に近くに寄るよう促すと、顔を上げた如水は家康の隣にいる、一人の老人に目がいく。その老人の背筋は伸び、どこか気品を感じるもので、ふと目が合うと、彼はニコリと笑った。

その瞳は丸くて大きく、その奥は、如水であっても深読みを許さない芯の強さを感じる。


どこかで見た覚えがあるような…ないような…

如水は何とも言えない気持ち悪さを感じて、本題に入る前に、この老人のことをたずねることにした。


「はて…見覚えがないお方でございますな?」


如水は家康に、その老人の存在をたずねた。

なぜなら家康と言えば、その傍らはいつも本多正信か、本多正純と決まっていたからである。


家康は機嫌が良いのか、思いの外軽い口調で答えた。


「ああ、このお方は北院の住職、天海殿じゃ」


するとその天海と呼ばれた老人は、背筋を伸ばしたまま、うやうやしく如水に礼をした。


「天海にございます。以後お見知り置きを」


「これはこれは、ご丁寧に。わしは黒田如水と申す。老いぼれなれど、よろしくお願いいたす」


「黒田殿のお噂は昔よりよく耳にいたしましたぞ。

その中でも、中国の大返しの件は、見事としか申し上げられませぬ」


「これは、内府殿のお側におられる方に褒められるだけで、恥ずかしいものじゃ」


すると天海の瞳に何やら黒いものが光ったので、如水は思わず丸めていた背筋が伸びてしまった。


「いやはや、わずか七日で備中高松城から山城山崎まで取って返したのですから、最初聞いた時は驚きました」


「あの時は、寝る間も惜しんで行軍し続けましたからのう」


「ふふふ…わしにはまるで、『最初から何もかも仕組まれていた』としか思えませぬが…

まあ、今となっては、そんなことはどうでもよいことではございます。

御二人ともお忙しい中、拙僧のことでお時間を取らせてしまい、失礼いたしました」


何とも言い難い、気味の悪い笑みを浮かべて、いわれのない言いがかりをつけてきた天海に対して、如水は相変わらず胸の内にしこりを残したまま、家康の方へと向き直した。


すると家康は天海を側に置いた理由を述べたのだった。


「大きな戦が終わり、これからはわしも各大名たちも、『人道』が大切となろう。

わしの決める事が、『人道』から外れたものでないかを、天海殿に見張らせるつもりなのじゃ」


「なるほど…」


家康の言うことはもっともらしい事だ。

しかし一介の僧侶が、家康の国づくりに口を挟む立場にあることが、如水にはどうにも引っかかって仕方がない。

すると考えられるのは、元は優秀な大名か武将であり、仏門に入った者なのだろうか…

かく言う如水自身も、言わばそのようなものだからだ。

だが、もしそうであったとするならば、よほどの者でない限りは、家康の側に置かれることはないであろう。

そして僧侶の割には言葉遣いとその所作が洗練され過ぎている事も引っかかる。

それはまるで宮仕えの者と接しているような、根っからの武士である如水には気持ちの悪さを感じるのだ。


年齢は家康よりも上に見える…


果たしてこの天海という者は何者なのか…


そんな逡巡をしているうちに、如水の前に茶碗が置かれた。

中身はどうやらお湯のようである。


「如水殿、知っておるか?湯を飲むと健康に良いのだそうだ」


そう目を細めながら家康が言う。

如水は一礼するとその湯を一口だけ飲んだ。


「うむ、旨いのう」


九度山の真田の屋敷でも湯を出されたが、その時とはまるで味が異なるのは、水が異なるからであろうか…


そしてここでようやく本題へと話は移っていくのであった。


「ところで如水殿。わしの名代としての務め、はたしてくれたかのう?」


家康の表情は柔らかなままで変わらないが、その瞳に少しだけ光が見える。

如水も茶碗を置き、顔を引き締めて答えた。


「内府殿の名代という、それがしには重い任でございましたが、無事勤め上げて参りました」


「ふむ。安房守殿はどんな様子であったかのう?

自分は出られずに、息子の方だけ出られることになったことを悔しがっておったか?」


「いえ、口には出しませんでしたが、恐らくは喜んでおったかと…例え鬼であっても、我が子は可愛いという摂理は変わらないようで…」


「そうか…まあ、喜んでおったのなら、それでもよい。

徳川を二度も破った男への敬意を表しての恩赦じゃ。

この家康の恩を少しでも感じてくれておれば、よいのだがのう…」


「さて…それはどうでしょうかのう…あれ程までの野心家、そう簡単には諦めるとは思えませぬ」


「…と申すと、まだ隙あれば、わしに楯突くつもりであると、如水殿は申すか?」


その問いかけに如水は首を縦に振った。

それを見て家康は、残念そうに肩を落とす。

すると如水はそんな家康を笑い飛ばした。


「カカカ!内府殿もお人が悪い!

最初から安房守殿の牙を抜くことなど出来ぬことは百も承知でございましょうに」


「はて…百は承知してはおらぬ。九十九は承知しておったが、残りの一に期待しておったのだ」


と、家康が恨めしそうな顔を如水に向けると、如水はその顔を覗き込むようにして言った。


「しかし此度の赦免について、既に大名たちの間でもこの話題は大きく取り上げられているようで…

急ぎ伏見に入ったわしでさえも、その噂は耳にしましたぞ」


「ふむ…そうであったか…して皆は何と申しておる?」


と、きょとんとした顔で家康は如水にたずねたのだが、如水はそれを見て「白々しい」と冷たい視線を家康に送った。

家康もその視線の冷たさに気付いているはずだが、そんなことなど意にも介さずに如水を見ている。

如水はその期待に応えるように言った。


「徳川内府殿は、徳川を二度も破った真田に対しても恩赦を出したらしい、なんと懐の深いお方だ…とか、真田に恩赦を出したということは、もう徳川内府殿は真田を恐れていないという事、すなわち徳川内府殿が恐れる戦上手はもう存在しないという事か…といったものにございました。

皆、内府殿の人間の大きさに畏怖を抱いているようでしたぞ」


その言葉に家康は困ったような顔をする。


「ふむ…そうであったか…わしはそんなつもりはなかったのだが、噂とは怖いものじゃ…一人歩きしよる」


「誰かが送り込まねば、噂などたちませぬが…」


「さて…誰が始めた噂なのか、この家康に教えて欲しいものだ」


「では、それがしが、内府殿は未だ真田を恐れておる、と噂を立ててしんぜましょうか?」


と、如水は穏やかな表情のまま、鋭く切り込むが、家康の口調も表情も全く変わらない。


「ややっ!それは困る。折角良い噂が流れておるのだ。そのままわしに箔をつけさせておくれ」


この時如水は押しつぶされそうな圧迫を感じざるを得なかった。

すでに何事も家康の思い通りに進んでいるとしか思えない…

赦免一つとってみても、彼をより強くする道具となっているのだ。もはや力強く回り出した時代の歯車は、完全にその動きを確固たるものとし、容易に止めることはかなわないだろう。

そんな巨大な時代のうねりに歯向かおうとしている事に、如水は身震いを止められなかった。

しかし不思議なことに、恐怖よりも興奮の方が大きいのは、彼の持って生まれた性分なのだ。


如水は自分でも気づかないうちに頬を赤くしながら、家康に言った。


「かしこまりました。

では、今後安房守殿が余計な気を起こさぬように、この如水が時折見回りに行きましょう」


その如水の言葉に、家康の表情がぴくりと動いたのを如水は見逃さなかった。

これは出過ぎたか…と如水は自分の勇み足を後悔した。

しかし家康は思いがけない返事をした。


「ふむ。よろしく頼みましたぞ。くれぐれもわしに弓を引くことなどないように押さえつけてくだされ、如水殿」


「御意にございます。では、それがしはそろそろ…」


と、如水はこれ以上、自分でボロを出さない為にも、この場をすぐに切り上げる事が肝要と考えたのだった。だが、家康はそんな如水を引き止めた。


「ああ、お待ちなされ、如水殿。

一つだけ頼みがある」


その言葉は先ほどよりも重い。如水は体をきつく締め付けられるような息苦しさに、顔が思わず歪んだ。


「はて?なんでございましょう?」


「如水殿…こたびの働きに応じて、お主に官位と領地を与えたいのだが、いかがであろう?」


と、家康は如水の顔を覗き込んだ。

一見すると、単に「褒美をとらせる」と聞こえるが、この問いかけの意味するところは、全く異なるものであるのは、如水も承知していた。

それは、

「徳川家康に忠誠を誓え」

と、鋭い刃を突きつけて、脅していることと同じだったのだ。

如水はゴクリと唾を飲み込むと、少しだけ早口になって、


「それは前にもお断りいたした通りでございます。

既に領地は息子の長政に全て譲り渡しましたゆえ、今後は誰のためでもなく、天下泰平のために、自分のなしたい事を気ままに行っていきたいと思っております。

ゆえに、その件はご辞退申し上げる」


「さようか…それは殊勝なことじゃ」


「では、それがしはこれにて」


「ふむ、ではわしらも出るとするかのう」


「ほう、そうでしたか」


「実は天海がこの伏見に入ったばかりでのう…少し城を見せてやりたいのだ」


と、家康は如水とともに立ち上がると、傍らの天海もそれにならう。さほど背は高くないが、やはりその立ち姿にはどこか気品を感じる。やはりどうにも感じる違和感を如水は拭えないでいた。

そして先ほどまで座っていたので気が付かなかったのだが、その袴を見て、如水はぎょっとした。


桔梗の紋ーー


「ま、まさか…お主…」


と、思わず如水は口から驚愕の言葉が漏れてしまう。


それを聞いた天海は如水の方をゆっくりと振り向き…



ニタリと笑った。



「どうなさったのかな?『軍師殿』?」


「ば、ばかな…」


如水の頭を何か大きな槌で打たれたような衝撃が走る。


なぜこの男…

如水のことを『軍師殿』と呼ぶのだ…

その呼び方は織田家か豊臣家にゆかりのある者以外には知られていないはずだ。


浮かび上がってくる一つの疑惑を、如水は必死にうち消そうともがくが、何をしてもそれは頭を出してくるのだった。


顔を青くしながら、城主の間を出ると、一人の若い侍女と廊下でばったりと出くわした。

その顔にも見覚えがあるが、すぐには誰とは見分けがつかない。

すると家康がその侍女に声をかけた。


「これお福。かようなところで何をしているのだ」


「はい。お部屋の中の内府様から何か御用を申しつけられれば、すぐさまそれにお応えできるように、ここで待っておりました」


その「お福」と呼ばれた女の言葉に、家康の顔がほころぶ。


「さすがはお福じゃ。その心がけ、ちとは男どもにも見習って欲しいものじゃ」


「ふふ、夫から離縁をつきつけられたところを拾っていただいたのです。

これくらいのことはしなくては、罰が当たるというものです」


離縁…福…如水の頭の中で一つずつ何かがはまっていく音がする。


するとそんな如水に目を移したお福が声をかけた。


「あら…これは高名な黒田如水様でございますか?」


「高名とは、また恐れ多いことじゃ」


「ふふ、やはりご謙遜されるところなど、変わらないのですね」


「はて…?お主と顔など合わせたことがあっただろうか…?」


「はい、一度だけ。金吾中納言殿(小早川秀秋のこと)が筑前に入られた折に、夫が…今は違うのですけれど…中納言殿に従って新たな屋敷に入った際、お祝いにお城にお越しいただいた折に、ご挨拶だけさせていただきました…」


「なんと…では、お主は…」


そこまで如水が言いかけたところで、お福は自分で名乗った。


「はい、斎藤福と申します。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます」


斎藤福――

後に「春日局」と言われ、その権勢を大奥から振るうことになるのだが…それはまだ先の話である。

そしてこの斎藤福の父は、斎藤利三という武将で、彼はかの有名な明智光秀の重臣として活躍した人物で名が通っているのだ。



その福の目が、家康のかたわらで静かに微笑む天海に移る。


そして彼女は、こう言った…



「おひさしぶりでございます」



と…


その挨拶に天海は口角を上げて答えた。


「はて…お主とわしは、初対面の『はず』であるが…どういうことかのう…」


明智光秀の重臣の娘と、面識があるのだが、この場では初対面となっているということ…

その事が持つ意味を考えた時、如水の全身の血が凍りついた。


そして…


二人して如水を見つめた…

ニタリとした気味の悪い笑顔を浮かべて…


その目には明らかに今までの穏やかなものとは異なる、どす黒い何かが渦巻いていたのだ。


あまりのことに口を開いたままで凍りつく如水に向けて、天海が小さな声で言った。


「長生きすること…それが全ての礎でございます。

あまり先を急がれると、良いことはありませんぞ。黒田殿」


この男…自分のこの先が短く、生き急いでいたことに気付いていたというのか…


如水はその場に座り込んでしまいそうな程の恐怖に、その膝を震わせる。

そして何とか、声だけを出せることに気付くと、彼は必死になって呼び掛けた。


「内府殿!!この天海殿は…!!」


すると家康は背を向けたままその先を制したのだ。


「薬と毒は表裏一体…つまりは毒であっても飲み方によっては、薬ににもなる、ということらしいではないか。養生せよ、如水殿」



斎藤福の父斎藤利三は明智光秀の掲げた理想を成し遂げるべく、光秀とともに本能寺にて天下に最も近かった織田信長を討ち果たしたが、その後、信長公の弔いを掲げた豊臣秀吉とその軍師、黒田孝高(黒田如水のこと)に攻められて処刑された。一方の主君光秀は逃げ込んだ山中でその命を落としたとされている。


その首実検には如水自身も同席したが、その顔の皮ははがされて、誰とも区別がつかなかったと記憶している…

もしその首が光秀のものでなかったとしたなら…と当時でも引っかかっていたことではあったのだ。

そして明智光秀も斎藤利三も、手に仕掛けた理想の天下を横から掠め取った豊臣秀吉に対して、憎悪の炎を燃やしてその命を終えたに違いない、そんな風に如水は思っていた。


しかし今…ありえない事実に、如水は混乱していた。


そんな彼に天海が側まで来て、右の耳にささやいた。


「御運が開かれる機会が、このわしにも回ってきた…ということでしょうな」


そして続いて福が左の耳にささやく。


「豊臣秀頼公に、よろしくお伝えください」


さらに駄目を押すように、家康が廊下から外の中庭を見ながら如水に声をかけたのだった。


「金柑の花は間もなく見頃じゃのう。金柑は明では、『子孫繁栄』を意味する縁起ものなのだそうだ。

この伏見に植えた金柑の木も、明後年あたりにその実がつくとのことじゃ…実に楽しみなものだ」


その言葉に如水の背中に戦慄が走った。


ここで言う、「明後年」とは…

「実がつく」とは…


なおこの年の明後年である慶長8年(1603年)こそ、史実においては徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、名目上も覇権を握って、江戸幕府を開くことになるのだ。

如水はその事までその言葉で予見したかと言われれば否定するだろうが、大きく時代を動かそうとしている決意を感じることは出来たのだった。



そして金柑という木…



かの織田信長公が、明智光秀を「きんか頭(金柑頭)」と称したことがあるのだが、それは偶然であろうか…



もはや立っていることすら苦しくなった如水に対して、最後に家康が如水に向けて言った。


「今宵はわしの方から、天海殿にささやかなもてなしをすることになっておる。

如水殿も同席されればその席も賑やかになるのだが、いかがであろう?」


それに天海が声をはずませて言った。


「ちょうど十九年前は、わしは客人をもたなす側であったのですが、世の中不思議なものです」


今から十九年前――

天正10年(1582年)5月17日…


明智光秀が安土城で徳川家康を歓待したことがある。

だが彼は織田信長の勘気に触れ、その役目を外されたのがまさにその日であったのだが…


これもまた偶然であろうか…


如水は目眩と激しい頭痛を覚えると、それを辞退し、急ぎ伏見を離れたのだった。

そして彼は「より急がねばならん」と悲壮な決意を胸に秘めて、その足を早めたのであった。





なお、天海の正体については諸説あるようですが、斎藤福が初対面のはずの天海に「おひさしぶりです」と声をかけた記録は残っているようです(果たしてこれも史実かどうかは怪しいですが…)。


なお天海については、関ヶ原の本戦に出陣していたとする記録まであり、もはや訳が分からない人です。


しかしこの頃から家康が僧侶を傍らにおき、宗教家をブレーンとし始めたのは事実のようで、人の心をつかむ為の先手を打つ為であったように思えてなりません。



さて次回は「おかえりなさい」というテーマでの話で、このシリーズを終幕させたいと思います。


どうぞこれからもよろしくお願いいたします。



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