脱出作戦⑤幸村誕生
今までで一番長い話ではありますが、この話は今後の展開においては、重要な意味を持つ話となります。
どうぞご容赦くださいませ。
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……
真田左衛門佐信繁という男のは、無欲な人であった。
いや、「無欲」とすると彼は首を横に振るであろうか。
彼の欲はひとえに「目の前の人びとの幸せ」であり、それを無欲とするかは、主観の問題なのかもしれない。
一方で彼の周囲には自身の夢を追いかける者たちばかりであった。
父昌幸は、強大な相手を目の前にしても一歩も引かずに信濃一国を治める大名を目指していたし、兄信之は父から頂戴した『幸』の一字を捨ててまでも真田の家を守ろうとしていた。
彼が馬廻りとして仕えていた亡き太閤秀吉はその覇業を異国にまで広げようとしていたし、石田三成や大谷吉継は太閤の覇業を助け、豊臣家を守ろうとしていた。石田三成と敵対してしまった徳川家康やその重臣である本多正信も、泰平な世を目指して奮闘しているのを知っている。
そして太閤秀吉の側室であった淀殿は、夫が遺した愛息の豊臣秀頼を守ろうと必死にその羽を広げて息子を包んでいた。
家族はもとより敵であろうと味方であろうと、自分に関わった全ての人びとが皆笑ってくれればよい、と彼は強い信念を持ち、その実現に向けて必死になって走り続けてきた。
そして今、彼はその大きな役目を終え、目の前にいる父と屋敷にいる家族や家臣たちを幸せにする事を目標として幽閉の日々を過ごしてきたのだ。
しかしこの世には「因果応報」という言葉がある。
若い彼はその言葉の存在を知ってはいるが、自分と何の関係があるかなど、知るよしもなかった。
ただ、彼がたどってきたその足跡は、確かに彼に関わった人々の心に刻まれていた。
それは当時無名に近かった彼を歴史的英雄にまで登りつめていく大きな原動力となるのだが、それは決して史実における伝説に収まることなどなかった。
一人の少年によってにわかに変えられたその歴史においても、英雄が英雄たる資質を有していることには変わりなく、その英雄の卵がたどってきた道のりは、歪み始めた歴史の流れの中にあっても、その道をぶらさず、真っすぐに輝く鳳凰へと孵化させるに至るのだ。
そしてそれは、黒田如水が最初に真田昌幸を訪ねてから、およそ1ヶ月後に再び如水が九度山の地を訪れたその時に、迎えることになるのである。
………
……
如水を屋敷の中へと迎え入れた昌幸は、彼に対して湯を差し出した。
「何分にも不便なところでのう。客人をもてなすにも湯くらいしか出せん」
と、昌幸は皮肉をこめた自虐的な物言いで顔をしかめると、如水はそれを笑い飛ばした。
「カカカ!よいよい!お気に召されるな!
それに湯を沸かす火が炊けるだけまだましというもの。
わしが閉じ込められておった有岡城など、狭い牢の中に何もなかったからのう」
その言葉に昌幸の目にちらりと鋭いものが光ると、如水も口もとは緩めたままで、その目は鋭く細めた。
だが、昌幸はそんな視線など気にもとめずに続けた。
「ところで…わしらをここから出して、どんな働きをお求めですかな?」
昌幸はこの質問の答えとして「豊臣家の為に働いて欲しい」とくるものと思っていた。
そしてその予想通りの回答が返ってきたところで、その条件を交渉するつもりでいたのだ。
しかしこの質問に対する如水の答えは、昌幸の想定とは大きく異なっていたのだった。
じっと目を見てくる昌幸に対して、如水は一呼吸おくと、
「はて…お主らをここから出す?そんなことをわしは一言も言った覚えはないが…」
と、何事もなかったように、さらりと告げたのだ。
これにはさすがの昌幸も口を開けたまま、閉じることを忘れるくらいの衝撃を覚え、隣の息子信繁も、驚きに、わずかではあるが表情がこわばった。
如水はその様子を楽しむように、緩んだ表情のまま続けた。
「真田安房守殿…お主は今や天下の大罪人である。そんなお主が、ここを抜けだしたところで、すぐに徳川内府殿の手の者に捕まってしまうに違いあるまい」
至極当たり前の理屈を述べられ、その顔を落胆と憤りで歪ませて言葉を失う昌幸。
そんな彼に代わって、信繁が声の調子を低くして如水に問いかけた。
無論、声を低くしたのは、彼の中にも爆発寸前の怒りがこもっていたからである。
「では、黒田殿はなぜここに来られた?まさか、父を笑い者とすべく来られたのではあるまいな」
如水はその声に視線を昌幸から信繁へと移した。
聡明さをそのまま顔に映したそうな顔つきに、如水の胸が少しだけ鼓動を早くする。
太閤秀吉が最期まで側におき、未来を知る豊臣秀頼が「是が非でも味方に」と望んだ男が、この真田左衛門佐信繁という人だ。
太閤秀吉が存命中には、あまり気にとめたことなどなかったが、こうして間近に見ると、その才気がただ者ではないことがよく分かった。
そこには同じような年齢の「太閤の遺児たち」にはない、奥深さを感じる。
もちろん彼らにあって、信繁にないものも数多くあるであろうことは当然のことである。
しかし、如水は「育ちが違うと、こうも異なるものなのか」と、あらためて感嘆せざるを得なかったのだった。
「わしが昌幸殿を笑い者に…?カカカ!これは滑稽なことである」
「ほう…何がそんなにおかしいのでしょうか?」
信繁の言葉は穏やかではあるが、その眼光はますます鋭くなる一方だ。
「徳川を二度やぶった男を笑い者とする者がいたなら、その者こそ笑い者である!
わしにここに来た理由を問われれば、それは一つ!」
急に声を荒げた如水に対して、信繁は全く表情を変えず、相変わらず厳しいまま問いかけた。
「その理由とは?」
その問いかけに如水は姿勢を正すと、深々と礼をした。
「どうか、豊臣家の為に力を貸してはもらえんだろうか?この通りだ。
これは、豊臣秀頼公たっての願いである」
如水の礼に虚を突かれたように、真田親子は再び言葉を失っていた。
ここまでは、落とされたかと思えば、持ち上げられたりと、昌幸は完全に如水に翻弄されっ放しであった。しかし、ここでそのまま流れに飲まれてしまうほど、彼は老いぼれてはいない。
如水がへりくだったと見るや、昌幸はすぐさま値踏みに入った。
「ふむ…面を上げてくだされ、黒田殿」
「色良い返事をお聞かせいただけますかな?」
「その答えは、秀頼様次第でございますな」
顔を上げた如水の目が昌幸の目をとらえる。もちろんこの時点で、値踏みをしてきている事くらいは如水であれば十分に理解できた。
しかし彼はあえて昌幸に問いかけた。
「それはどういう意味にございますかな?」
「では、率直に申し上げましょう。もし秀頼公に力を貸したなら、何を頂けるのでしょう?
よもや、『忠義』やら『恩』といった餌のない針だけで、この真田安房守を釣り上げようなどとは思ってはおりますまいな?」
昌幸が一息に言い終えると、しばらく沈黙が続く。
ともに相手を調略する事に関して右に出る者はいない程の謀略家同士が、さながら火花を散らしているように思えて、信繁は二人の熱い視線のぶつかり合いに背筋を凍らせていたのだった。
長い沈黙を破ったのは如水の方であった。
「無論、褒美なら用意しておる」
その言葉に昌幸の表情が緩んだ。
「ははは!これは嬉しいのう!天下を治める豊臣秀頼公からの褒美だ。たいそうなものを頂けると期待してもよろしいでしょうな!」
その言葉に如水も顔を緩ませると、たった一言でそれを答えた。
「褒美は…『未来』…じゃ」
「は?『未来』とはどういう意味ですかな?
まさか、この老いぼれに槍働きを見てからの褒美というのは、ちと酷というものでございますぞ」
「カカカ!少なくとも紀伊の国を出られない昌幸殿に、槍働きなど期待しておらんわ!」
「では、『未来』とは何でしょう?ぐずぐずしないで早く教えてくだされ」
「そのままの意味じゃ」
そう言うと、如水は信繁の方へと視線を移した。昌幸と如水という稀代の英傑二人を前にしても、穏やかな表情を浮かべて背筋を伸ばしているその人へと向けられたその視線に、昌幸は何かを悟ったように、はっとした。
「なるほどのう…そういうことにございますか」
どこか安堵したような表情を浮かべた昌幸に対して、信繁が不思議そうにたずねた。
「父上…それはどういうことでございましょう?」
昌幸はそんな息子の問いかけには答えずに、如水にたずね始めた。
その顔には血色が戻り、瞳は輝き始めている。
「如水殿、それは信濃一国では足りませぬぞ!甲斐に上野もつけて欲しいくらいじゃ!」
「それは低く見積もりましたな。信濃、甲斐を含め関東一円、真田のものとなってもおかしくありますまい」
「それだけではないぞ!秀頼公の家老となって、国を動かす!どうじゃ!?」
「カカカ!それでは足りぬ!日の本中の大名は元より、異国から貿易に来る者たちまで、思いのままに動かせることになるだろう!」
徐々に昌幸と如水の息が合い始める。
その瞳は輝き、鼻はふくらみ興奮のるつぼに二人ははまっていった。
「まだまだ!子もたくさん欲しいものだ!」
「もちろん!奥方様にも大きな屋敷を与え、子供らは伸び伸びと育っていただきましょう!」
「大坂と信濃しか知らぬ身だ!日の本全部を見てみたい!」
「それだけではないぞ!明も南蛮もルソンも見て回っていただく!」
信繁はあっけにとられて、二人の熱気がこもったやり取りを見つめていた。
それはまるで、少年が壮大な夢を語っているような、そんな現実からかけ離れたような会話であったのだ。
一体なんの事でこのような掛け合いをしているのか…
彼にはてんで検討がつかない。
しかし…
次の瞬間、彼の胸に何かが突き刺さり、そこから痛みが広がった。
それは、
父の瞳から涙が光ったからであった…
そしてその涙を見た時、彼は一つの事に気づかされる。
今年老いた二人が掛け合っているのは、「真田信繁」の『未来』であることを――
それに気付いた瞬間、信繁は全てを悟った。
父昌幸が「安く売りたくなかったもの」とは何だったのか…
父は「自分を安くは売らない」と彼に言った。
しかしそれは誤魔化しであったのだ。
本当に父が安く売りたくなかったもの…
それこそ、信繁の『未来』であったに違いない…
そして信繁は何か口に出そうとするが、二人の間に割っていけない。
いや、二人が信繁に口を割らせないようにしているとしか思えないくらいに、息の合った掛け合いだったのだ。
「振りまわして苦労ばかりかけさせたのだ」
「今後は己の信念の為に苦労することを約束しよう」
――父上!そんなことはございませぬ!それがしが全て望んで取った行動ばかりでございます!
「兄と違って、いつも貧乏くじばかり引かせてしまったのだ」
「これからは兄と肩を並べるほどの道が開けましょう」
――それも違います!それがしは兄上が誇りでございます!兄上が立派な大名となって真田を守ることこそ、それがしの当たりくじにございます!
二人の掛け合いに声こそ出さなかったが、信繁は懸命に心で父の言葉を否定していた。
父は自分を九度山から脱出させようとしている…
そしてそれだけではない。
脱出した後の信繁やその家族の生活の事まで保証を得ようと必死になっているのだ。
父自身が九度山を離れることがかなわない運命にも関わらず…
そんな父の姿を目の当たりにした今、関ヶ原の戦い以降、決して漏らすことがなかった父昌幸の無念の気持ちが、信繁の心の中に容赦なく流れ込んできていた。
そして同時に彼は大きな勘違いをしていたことに気付かされたのだ。
昌幸が幽閉された後、急速に老けてしまった理由を…
信繁はてっきり、幽閉されてもう世に出ることが出来ない無念が、父を老けさせたのだと思っていた。
しかし、それは全く違っていた。
父が本当に無念であったのは、自分が若い息子の『未来』を奪い取ってしまったことだったのだ。
真田信繁は「目の前の人が笑っている」だけで、幸せを感じる男だ。
それは自分にしかない、言わば個性のようなものだと、彼は彼なりに自負していた。
だが、それも勘違いであったのだ。
そう…目の前の父もまた、「目の前の人の幸せ」を願う男だったのである。
真田安房守昌幸という男は、時代の流れに合わせて主君を変えた「ひきょう者」と称されたこともある。太閤秀吉なぞは、それを褒め言葉としていたが、その心変わりの早さを良くは思わない人々の陰口を、信繁は大坂で耳にしたこともある。
しかしそれは、決して自分の利益の為のことではなく、家族を、家臣を、領民を守る為だけに、彼が寝る間も惜しんで悩みぬいた結果のことであった。
「徳川をやぶった男」として、徳川の家の者たちからは恐れられ、周囲は小大名にも関わらず強大な相手に立ち向かう勇気ある者と称されたこともある。
しかしそれは、勇気などという美しく華やかなものが成したことではなく、ただただ彼の背中にある人々を守ることだけに必死になった結果のことであったのだ。
つまり父真田昌幸の槍は全て、「目の前の人を守る」為だけに振るわれていたことに、恥ずかしながら今になって信繁は痛感したのだった。
そしてこの九度山に信繁とその家族を送る結果となってしまった事に、彼は失望していたに違いない。
その事に気付いた信繁の胸は、痛いほど締め付けられるとともに、父の偉大さに瞳の周りの体温が急激に上昇していた。
しかしそれでも、信繁は表情を変えない。
そして、昌幸の語る『信繁の未来』はまだ続いている。
「夢を…夢を持たせてやったことがなかったのだ…どうか夢を持たせてやってはくれまいか?」
昌幸はいつのまにか如水にすがるように、頭を下げている。
それは傍から見れば卑しい姿であったであろう。しかし、信繁も如水も微塵もそのような事は思わなかった。
昌幸は今戦っているのだ。
「目の前の息子の幸せ」をこの手に収める為に…
父にそうさせてしまっている自分が憎く、悲しい。
父に失望させてしまった自分が情けない。
ああ…なぜここまで父は強いのだろう…
目の前の人を幸せにする為に、卑怯者と罵られることも厭わず、巨大な敵に背中を向ける事なく、そして今屈辱など捨てて跪いている。
自分も父のようになれるのだろうか…
人々の幸せの為に命を懸ける男になれるだろうか…
信繁の中に様々な感情が襲いかかってくる。
信繁はそれでも表情を変えない。
それが真田の、父の教えだからだ。
しかし両目から流れ落ちる涙だけは、どうにか出来るものではなかった。
「これからは自由に好きな夢を見ることになる。その為にわしが出来る限りの手は尽くしてしんぜよう」
いよいよ次が最後の願いとなる。
それは――
「心から幸せと思える日々を送らせてやってはくれまいか?」
「父上!!!」
ようやく出た一言であった。
だが、それ以上は何も口に出来ない。
ただし、口にする必要などなかった。
互いの視線が交わった時、全てが伝わったからだ。
それは感謝と謝意――
この二つを、父と息子が互いに口に出すのをはばかるのは、いつの時代でも同じらしい。
それでも伝わる…
それが親子というものなのだ。
二人の様子を見た如水が一つの書を広げた。
「徳川内大臣家康殿の名代、黒田如水が、今から内府殿に代わって沙汰を言い渡す。
真田左衛門佐信繁殿。
そなたを赦免し、九度山を下りることを許すこととする。
ただし引き続き、領土は没収のままである。
なお謹慎が解かれた後は大坂城に入り、豊臣秀頼公に奉公すること!これは秀頼公と内府殿の両名からの恩赦である!」
信繁は震える頭を静かに下げた。
彼はこの時、九度山を下りて幽閉の身から解放されることへの喜びなど、微塵も感じていなかった。それよりも、父昌幸が託した自分への想い、そしてそれを如水に託した事への責任の重さに震えていたのだった。
その様子を見てから、如水は書面の続きを読み上げる。
それは信繁の赦免の理由であったのだが、これこそが彼を鳳凰へと孵化させるものとなったのだ。
「次に赦免理由を申し上げる。
一つ、真田左衛門佐殿は、守っていた砥石城を寄せ手の徳川軍とは戦わずに明け渡し、その被害を出さなかったこと。証言者、真田伊豆守信之殿」
ああ…兄上…
この時まだ家康に信任を得たばかりの兄が、彼の赦免を嘆願することが、いかに危険であるかは、火を見るより明らかなことである。
それでも兄は自分の為に尽くしてくれている…
信繁の心は大きく揺れ、もはやその表情を保つので精いっぱいであった。
それでも彼は、真田の誇りを守るように、かたくなに表情を崩そうとしないのであった。
如水は続ける。
「一つ、上田城の守りにおいては、父真田安房守殿の命によって働いており、長い期間の配流に至る罪とは言えない。証言者、本多佐渡守正信殿」
まさか、本多殿まで…
そして次に読み上げる文の前に、如水は腹に力を加えると、声を大きくして続けた。
「一つ!亡き太閤秀吉公から特に愛された馬廻りであり、豊臣家に弓を引くような不忠義者であることは考えられないこと!
証言者、淀殿!」
その人の名前を聞いた時、それまで表情を変えなかった信繁の顔が大きく歪んだ。
滅多に他人の賞罰には口を挟まない彼女が、豊臣家に弓をひこうとしている家康に対して、信繁の赦免の理由を証言したというのか…
それは絶対にありえない…
なぜなら今の家康に何か口を出したり、嘆願したりしただけでも、豊臣家の切り崩しをしかねないほどに、綱渡りの状況であり、それは淀殿も気付いているはずだからだ。
すなわち、この証言を得るにあたり、「誰かの尽力」があったことは明白であった。
そして、その言を得る為に奔走したであろう人物は一人しかいない。
「秀頼様…!!」
信繁の表情は苦悶に満ちていた。
それはさながら産みの苦しみのようであり、彼が生まれ変わろうとしている瞬間でもあった。
真田信繁という男は「目の前の人を幸せにする」ことに一生懸命に生きてきた。
そして今、そんな彼に関わった全ての人間が、今度は彼を幸せに導こうと、無限の未来の道を開こうと、必死になっている。
これを因果応報と言わずして、何と言おう。
彼が紡いできた紐は、今束となって彼の体にまとわりつき、彼を卵の中から引き出そうとしている。
そして最後の人物からの証言…いやそれは、嘆願と言える文こそ、彼を苦しみから解放する、つまり新たな彼の誕生を決定的にするものだったのだ。
如水は力の限り大きな声で読み上げる。その声はその人を想い、自然と震えていた。
「一つ!!
こたびの戦において、真田左衛門佐信繁殿は、はからずも徳川内府殿に弓を引くことになってしまうが、それは決して豊臣家に対して叛逆の意があってのことではなく、父真田安房守殿に付き添って上田城を守るだけのことである!
真田左衛門佐という男は、家族と領民を愛する義理堅い男であり、必ずや将来秀頼公の御為に尽くせる者だ。
ついては、もし戦ののち、罪に問われることがあれば、その罪を減じていただきたくよう、強くお願い申し上げる!!」
その文は、信繁の心を大きく震わせた。
これは戦前に作られたものであることは間違いなく、それが意味すること…
そして、その意味から導かれる人物…
「あああああっ!!!」
信繁はとうとう涙とともに絶叫した。
そして如水からその証言者の名が告げられる。
いつも彼を見守り、優しく、そして強かった、信繁にとってのもう一人の父親ーー
「証言者!!
大谷刑部少輔吉継殿!!!」
◇◇
慶長6年5月ーー
短い春が過ぎて、蒸し暑い季節が巡ってきたある日のこと。
一人の男が、妻と何人かのお供を引き連れて九度山を離れようとしていた。
わずかな見送りの中に、彼の父親は含まれてはいない。だが、彼は見送りにきた人びとに一礼すると、あとは振り返る事もなく、いつも通りのにこやかな表情を浮かべて、山を下りていったのだった。
見送りを終えた高梨内記は、昌幸のいる部屋へと入っていく。
するとそこには碁盤を前にして難しい顔をした彼が、頬杖をついて座っていた。
内記はそんな彼の前に座って声をかけた。
「昌幸様。もう行ってしまわれましたぞ」
「そうか…それよりも、内記。お前の番だ。早く次の手を打たんか」
昌幸の興味はもはや息子にはなく、目の前の碁盤にあるようだ。
彼は内記に向かって、囲碁の続きを再開するよう催促していた。
「全く…親子揃って頑固なところは変わりませんな…」
「ほう…源二郎が頑固と申すか」
内記はパチリと白の碁石を碁盤に置きながら、
「はい。
先ほども『昌幸様に出立のご挨拶を』と何度もおすすめしたのですが、頑なに拒まれました。
その代わりといってはなんですが、こちらを殿にお渡しいただきたいと…」
と、内記は昌幸に一通の書を手渡した。
それをあまり興味がなさそうに受け取った昌幸は、すぐさま中身を確認した。
「興味がないのやら、あるのやら…」
一見すると矛盾しているようなその行動に内記はため息をつくが、そんな彼のことなど御構いなしに、昌幸は食い入るようにしてその内容を確認していたのだった。
そして読み終わった後、大きな声で笑い出した。
「ははは!よいよい!あやつらしくてよいわ!!」
内記も昌幸からその書を受け取ると、すぐに目を走らせる。彼の方はその内容を見て、驚きとともに、熱い何かがこみ上げてきて、思わず目に手を当てる。
その書の内容とは…
ーー九度山を出て、生まれ変わった気持ちで奉公に励みたく、父上から頂戴したこの名を変えることをお許し下さい。
その名は、
『幸村』。
兄上が断腸の思いでお捨てになった父上の一字を入れて、それがしの決意を名にこめました。
では、お達者で。
ここに真田信繁あらため、真田幸村が誕生した。
それはまだ若い鳳凰であることに変わりはないが、この後、豊臣秀頼を支える大きな翼となることになる。
そして彼の名前に込めた想い…
それは『村』という字が、「大きな木のまわりに集まる人びと」から由来されていることから見てとれよう。すなわち「大坂城という大きな木の中にいる全ての人びとを幸せにする」というものであったのだった。
昌幸の大きな笑い声が九度山の寒村に温もりを与えていく。
そんな彼の目尻に光るものは、笑い涙か、それとも…
真田幸村のいう名前は、彼が名乗っていた形跡はないようですが、後世の複数の書物でその名前が出てくることから、その名が存在していた信憑性は高いと思われます。
なぜ改名したのか、そしてなぜ『村』の字を入れたのか…
フィクションと私なりの解釈をもとに話をまとめました。
そして真田昌幸が九度山を脱出して黒田如水とともに暴れることを期待されていた読者様には残念な展開で、申し訳ございません。
現実的に考えて、昌幸の脱出は、やはり「不可能」と結論づけた次第にございます。
逆に言えば、徳川家康にとって、真田昌幸はそれほどまでに脅威であったように思えてならないのです。
次回は、このシリーズの終幕の前のシーンで、黒田如水と徳川家康の対話などを描きます。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
最後にご報告になります。
新紀元社様の「モーニングスター大賞」におきまして、拙作が第一次選考を通過いたしました。
これもひとえに、皆様の激励のもと、執筆を続けてこられたからと思っており、この場を借りて読者様に感謝の気持ちを表したく存じます。
まだまだ未熟な書き手の小説ではございますが、何卒これからも応援のほど、よろしくお願いいたします。




