淀殿という女性
この話も真田幸村の視点になります。
◇◇
どんな事があっても表情を変えてはならない。
その変化が相手につけいる隙を与えるからだ。
真田信繁は、彼の武術の師である出浦昌相から厳しく言いつけられてきた。
幼少の頃から言われ続けてきたせいか、意識をせずとも、それは身に付いていた。
常に穏やかな微笑をたずさえる…
これが彼のいきついた最も相手に隙を与えない表情であった。
その表情が一人の女性を前にして脆くも崩れ去った。
そこには明らかな、苦悶を浮かんでいる。
「どうしたの?源二郎。顔色が悪いようだけれども」
「い、いえ。なんでもございませぬ」
青ざめた顔でも、口だけは何とか強がる。
しかしその受け答えを想定していたかのように、その女性は追いつめてきた。
「では答えて頂戴。私の秀頼ちゃんに、あのサルは何をしたの?」
言わずもがな、信繁を蛇のように追いつめている女性は、淀殿である。
「はて…?私には何の事だか、さっぱり…」
と、彼は何とかはぐらかそうと必死だ。
そんな彼ののらりくらりとした、煮えきらない態度にも、淀殿は鋭い眼光を向けている。それは決して逃がさないという強い意思が見えない太い糸となって、信繁の心臓をがんじがらめにしていた。
「まあ、いいわ。秀頼ちゃんは明日、治部と会うようですから、その場で本人に問いただしましょう」
淀殿の流れるようなその物言いは、脅迫とも単なる独り言とも取れる。
しかしその言葉に、信繁は観念したように、頭を垂れた。
「淀のお方様…どうかそれだけは…」
「では、源二郎が知っている事を話してちょうだい」
信繁は、ぽつりぽつりとそれまでの経緯を、嘘いつわりなく語り出した。
太閤秀吉が亡くなる前日に、黒魔術師を呼びつけ、秀頼の「中身」を変えるよう依頼したこと。
そしてそれが今日であることを知っていた彼は、本当であったことを確かめたこと。
さらに、その「中身」の人間は、遠い未来からやってきた少年で、この時代の事を詳細に把握しているが、未来のことを他人には話せないこと…
もうひとつ最後に…
その「中身」の少年は、信頼に足る人間であること…
ここだけは力を込めて話した。
能面のような表情で、それら全てを眉一つ動かさずに聞いていた淀殿。
信繁の報告が終わると、
「知っていることはそれだけかしら?であれば、もう下がって結構よ」
と、早くも彼に退席を促したのだった。
「淀のお方…私からもよろしいでしょうか?」
「あら?源二郎は私との会話はいつも早く終えようとするのに、今宵は珍しいわね。
いいわよ、何でも聞いてちょうだい」
信繁は努めて表情を元の穏やかなものに変えてたずねた。
「いつから秀頼様の様子がおかしいとお気づきだったのですか?」
「あら、そんなこと…あなたと二人でいるのを見た瞬間に決まっているじゃない」
「なんと…一目見ただけで…」
「私の可愛い息子ですよ。それくらいの変化が分からなくて、母親と言えますか?」
さも当たり前かのように、さらりと告げる淀殿であったが、その鋭い観察眼に信繁は戦慄を覚えていた。
そしてそのことよりも何よりも、最も聞いておきたかった事を聞くことにした。
「淀のお方様は、秀頼様をどうなさるお気持ちで…?」
「中身」が違う…つまり、秀頼の仮面をかぶった赤の他人であることを知った彼女は、彼を排除しようとするのではないか…
もしそんなことになったら、日本は大混乱に陥るであろう。
彼女の気持ちを図ることは、そういった意味で非常に大事なことだ。
「どうする?私が?どういう意味かしら?」
口元に笑みを浮かべ、淀殿は「質問の意味が分からない」といった風に、逆に聞き返した。
分かっているくせに…そう信繁は思いながらも、ゴクリと唾を飲み込んで、それに答えようとした。
しかしその時、淀殿の方から切り出してきた。
「ふふ、困った顔の源二郎も可愛いものね。
私が自分の可愛い息子に何かするとでも思っていたの?」
「い、いえ…」
信繁は額の汗を拭いながら、ほっと息をついた。
そしてそのまま立ち上がり、その場をあとにしようとする。
こんな怖い相手と長く一緒にいたくはない、それが信繁の本音であった。
その言動、その瞳…
どこまでが真実で、どこからが虚実なのか全く判断がつかない。
それは今に始まったことではない。
信繁が秀吉の馬廻りに召し抱えられてから、ずっと感じていることであった。
しかしそんな彼女に対して、信繁は「嫌い」という感情は全くない。
むしろ「好きか嫌いか」とたずねられれば、「好き」と答えるだろう。
もちろんそれは女性としてではなく、人間的にという意味ではあるが…
ただ、長く彼女と話をすることで、彼女の意のままに引き込まれて、虜になってしまいそうな危うさを、彼は本能的に感じていた。
そんな彼女に身も心も任せてしまえば、どれほど楽になるのだろう…
心の片隅で、そのように思ってしまうのは、自分の弱さであると、彼女と会話を交わすたびに信繁は思う。気持ちを強く持とうと、心の手綱を引き締めるのであった。
戦々恐々としながら、静かにその場をあとにしようとする、信繁。そんな彼を淀殿は背中から呼び止めた。
「ちょっと、源二郎」
「はっ、まだなにか…?」
背中は向けたままで、顔だけ振り向く信繁に対して、淀殿は獲物を捕らえる猫のような機敏な動きで、彼との差をつめる。
蛇に睨まれた蛙のように、硬直する信繁。
そんな彼の顔に自身の顔を急接近させた淀殿は、その美しい顔に可憐な少女のような笑顔を浮かべた。
とてもじゃないが、齢が31歳の、一児の母とは思えないほどの、若々しさに溢れた表情だ。
「源二郎、秀頼のことは二人だけの秘密です。
ふふ、二人きりの秘密って、なんだか胸が踊りますね」
そう茶目っ気たっぷりに言ったと思うと、今度は耳に息を吹きかけながら、妖艶にささやいた。
まるで遊郭の女のように…
「それに…淀のお方、って呼び名はやめてちょうだい。茶々って呼んで欲しいの、源二郎には」
そう言うと、ペロリと信繁の耳を舐めた。
「し、失礼いたします!」
慌てて我に返った信繁は、逃げるようにして淀殿のもとから走り去っていったのであった。
ある時は、慈愛に満ちた賢母のよう、
ある時は、相手を石に変えてしまうような般若のよう、
ある時は、可憐な少女のよう、
そしてある時は、妖艶な遊女のよう…
淀殿という女性は様々な顔を持ち合わせていた。
しかし信繁には、それらの顔の全てが、「本物」の彼女でありながらも、「本心」を映す顔は一つもない、という複雑怪奇な感想を持っている。
言わば「仮面」をかぶっているのだ。
それは「本物」の彼女を覆い隠すかのようだ。
そう、「本物」の彼女はこれ以上傷つかないように、それらの仮面に守られているのである。
それくらい彼女の今までの人生は壮絶なものであった。
強いようで、本当はとても弱い…
それが淀殿という女性なのかもしれない。
そしてそんな彼女だから、今の秀頼が「仮面」であっても、さして驚きもしなかったのだろう。
彼女は信じているのだ。
自分と同じように、秀頼にも「本物」が奥底に潜んでいるということを…
そしていつか、本当の平和が訪れた時、それらの仮面を全て解き放ち、「本物」の彼女が表に出てくることだろう。
信繁はそんな彼女を見てみたいと思っている。
そうしてあげたい、と思っている。
なぜなら…
彼は彼女のことが「好き」だから。
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淀殿について
彼女の「壮絶な人生」については、描写を避けました。
(ただでさえ前置きが長い本作が、余計に冗長的になりすぎる可能性が高いため)
そして彼女の設定は、心的外傷後ストレス性障害(いわゆるPTSD)による、解離性同一性障害(いわゆる多重人格障害)の可能性を示唆してみました。
ただ完全なる症状は出さずに、「多面性がある」程度にとどめてあります。
これは私の完全なる創作になります。
さていよいよこれで西側のメインの登場人物の描写が完了(?)しました。
次から主人公が歴史に立ち向かっていく様子を描いていきたいと思います。




