つゆと落ちつゆと消えにし我が身かな…なにわの事は夢のまた夢
壮大なる大坂城の一室、一番高いところに位置するこの部屋に一人の老人が病に伏していた。意識はもうろうとし、もはや自分がどんな人物であるかも怪しい。
そんな中、彼は眠りの中で夢を見ていた。
見覚えのある顔立ちの青年がこの部屋の、大きな窓から泰平の世を眺めている。
その顔は晴れやかな笑顔。窓から入る爽やかな風を受け柔らかな髪はなびき、輝く瞳はどこまでも高い青空を見つめ、その耳は城下町の平和を謳歌する庶民に傾けられている。
――ああ…母親に似てよかった…
老人はその青年の容姿に、青年の母――つまりは彼の妻の面影を重ねていた。
自分に似ることがなくて良かったと思うのは、彼にはその容姿に自信がないからであった。
彼は夢を見ながら涙を禁じえなかった。
そしてその涙は、彼を覚醒へと導き、彼の望む未来を移す夢は終わりをとげた。
――ああ…
――つゆと落ちつゆと消えにし我が身かな…なにわの事は夢のまた夢
彼が見た夢は、涙という「つゆ」とともに消え、泰平のなにわ(現在の大阪の事)を幸せそうに見つめる青年の姿は、儚い幻想にすぎなかった…その夢が現実となって欲しいという想いが、彼の胸を締め付けてやまないのであった。
◇◇
一代で栄華を極めた豊臣秀吉――位人臣を極めた彼であったが、その死の間際において、彼が望んだ事はただの一つであった。
「ああ…わしの可愛い秀頼よ…お主の将来だけが心残りじゃ…」
彼は自分に近づく死の足音を前にして、出来る限りの手は尽くしてきた。
五大老と五奉行などの職制を整備し、一人の英傑が秀頼の座をおびやかさないようにしたし、その中でも特に力を持っている徳川家康を抑える意味で、彼の息子の秀忠の娘である千姫を秀頼の嫁に迎えた。
しかしそれでもなお、彼は齢5歳の小さな小さな我が子が心配でならなかったのだ。
醍醐の花見以降、一人で立ち上がることすら出来なくなってから、早3ヶ月ほど経っている。彼の命の終焉が刻一刻と迫っているのは、火を見るより明らかであった。
そんな中彼は夢を見た。先ほどまでの「未来」ではなく「過去」を映した夢である。それは生前、茶人であり彼の無二の親友でもあった千利休と語らった在りし日の思い出でもあった。その夢の中で、利休が語った事…それは川に流れる儚い一本の藁である事に間違いはない。しかし、今の彼にはそれにすらすがる思いなのであった。
「誰か!誰かあるか!?」
夏の日の朝、いつになく気分の良かった彼は病に伏した身を必死に起こして、彼の馬廻を呼んだ。
彼の声に即座に呼応するように、ふすまはすぐに開かれ、一人の容姿端麗な青年が彼の前に現れた。
「おお、左衛門佐か!ここに、ささ!近こう!」
「はっ!」
青年は主の血色の良さに喜びを表情に浮かべて、秀吉の近くまでに来て、あらためてひざまずいた。
この純朴を絵に描いたような好青年こそ、名を真田左衛門佐信繁といい、通称「真田幸村」の名で後世までに知られるようになる。
秀吉はそんな信繁の耳に口を近づけ、彼に一つ頼み事をした。無論、夢の中で利休が自分に語ったいかがわしい内容である。その頼みに怪訝な表情を浮かべた信繁であったが、主のすがるような瞳を見ると「嫌」とも言えずに、黙って頷いた。
「おお!ありがたや!ありがたや!」
そう涙を流して感謝を述べるその姿は、もはや天下人と呼ぶには程遠い、来世の功徳にすがる哀れな一庶民と何ら変わらないものであった。
◇◇
その日の昼過ぎ、信繁は一人の女を秀吉の前に連れてきた。
大きな布地を頭からすっぽりとかぶり、その表情は見えない。一言で言い表せば「不気味」としか言いようのない女であった。いや一見すると女であることすら見た目では判断出来ない姿であった。しかし秀吉にとっては、その人物が男であろうと女であろうと、そんな事はどうでもよかった。
「おお…お主が噂の…黒魔術の使い手か?」
朝と違って弱々しい声の秀吉は、それでも懸命に体を起こし、その女を手招きする。
信繁はそんな彼の背中を支えて、主の最期となるであろう戯れに付き合うつもりでいた。もちろんこんな事が石田冶部(石田三成のこと)や徳川内府(徳川家康のこと)の耳にでも入ったら一大事である。彼は家老の片桐且元や、その他の馬廻り衆に厳重な人払いをお願いし、この場に怪しげな黒魔術師がいる事は伏せることにしていた。
その女は黙ったまま秀吉の招きに応じて、ふすまの前から彼の眼前までゆったりと歩いてきた。不思議とその足音は全くなく、本当に地面に立っているのかすら怪しい。
しかし秀吉はそんな彼女のおおよそ常人とは思えないようないでたちなど、気にもせずに、一息で懇願をした。
「そなたに一つ頼みたいことがある…わしの息子…秀頼の事を強くしてたもれ」
平安貴族の古めかしい願い事のような語尾で、秀吉はその女に床の上から両手をつき、頭を下げた。信繁はその様子をあまり面白くは思っていなかったが、実直な彼は黙って主の背中を支え続けた。
すると女が初めて口を開く。思いのほか若い声だった事に信繁は少し驚いた。
「人の強さとは、呪術によるものではなく鍛錬により得られるもの。太閤様の願い…残念ながら叶える事は出来ませぬ」
秀吉はそんな彼女の言葉に耳をピクリと動かしたが、その頭は垂れたままだ。
その様子を確認した女は、ふうと息をついて続けた。
「しかし…秀頼様の『中身』を変える事は出来ます。例えば、彼の…いやこの日の本の未来や運命を知る者と入れ替えるとか…」
秀吉はその女の言っている意味を理解できるほどに頭は回っていない。しかし、かくなる上は慎重に吟味している場合ではない。彼は即答した。
「それじゃ!それをやっておくれ!」
しかしその回答に信繁は反論する。
「お待ちください!殿!それは秀頼君が秀頼君でなくなることを意味するのではありませんか!?それはいけません!」
女は頭の切れる青年に目を向けた。無論その表情は見てとれないが、おそらく驚きを浮かべているであろう。
「うるさい!控えよ!左衛門佐!わしに意見すると申すか!?」
「ははっ!これは出すぎた真似を!」
若かりし頃を感じさせるような、激しい怒声に、信繁は驚き控えた。しかし同時にその声の活気に喜びを覚えていた。
そんな主従のやり取りには興味がないのか、女は話がついたと見るや、
「では…その時は今から2年後…残念な事に太閤様がそれを見る事は叶わないでしょう。それでもよろしいでしょうか?それに報酬は…太閤様が秀頼様の次に大事になさっているもの…とでも言っておきましょうか…それもよろしくて?」
と、念を押すように秀吉に尋ねた。
秀吉は涙を流しながら、それに口で答える代わりに肯定の頷きを示す。それは、もはや彼には言葉にする程の力すら残っていないことを如実に物語っていたのである。
その頷きを見届けた女は、くるりと振返ると、音もたてずにその場をあとにしようとしている。
――城の中で他の者に見られてはまずい
と気付いた信繁は、すぐに秀吉を床に寝かせると、女を追いかけた。しかしふすまを出た彼女は、その姿を既に消し、城中どこを探してもいなかったのである。
信繁はその不気味な存在に初めて震撼した。
「なんという女だ…」
そしてこの後、信繁は京と大坂でこの女を見つけることは叶わなかったのであった…
その翌日の事である…
太閤豊臣秀吉は息を引き取った。
享年62歳。
その日の朝まで調子は良く、その死はあまりに予兆がなかったという。
まるで呪いか何かにかかったかのように、突然その生涯を終えた。
秀吉の辞世の句に、私なりの解釈を加えてみました。
皆さまはこの句に秀吉のどんな想いを感じますでしょうか。
なお、秀吉の死因は現代になっても「不明」だそうです。
なんらかの「呪い」でその命の灯が消えたとしても…