第四章 介入、それが引き金(5)
深淵に沈んだ意識。
そこは寂しくも、どこか心地よく。出来ればずっとここにいたい。そう思ってしまうくらいだ。
母親に抱かれているかのような安心感。父親とじゃれているかのような高揚感。
どれも幼い頃に感じたもの。ああ、本当に心地よい。手を伸ばせば、何かに触れられそうな気がする。それが何かは分からない。だが、恐らく今の彼を優しく包み2度と離すことはないだろう。
「…………い」
だが、それを阻むかのように彼の目に光が流れ込んでくる。
痛い。光は彼にそんな感覚を与えてくる。
痛い痛い痛い痛い。苦しい苦しい苦しい。
邪魔だ。こんな光消えてしまえばいい。自分はあの何かを掴んで、楽になるのだ。温もりを、優しさを、心地よさを。
「――ん……い」
うるさい。黙れ。この空間に入ってくるな!!
彼は叫んだ。光をかき消すように両腕を振り回す。
しかし、光は消えない。それどころか、光は更に強さを増していく。
「せ…………い」
もう放っておいてくれ。ここがいいのだ。自分を柔らかく包み込んでくれるこの場所が。だから、邪魔をするな!!
「せん……い!」
光の強さに呼応するように、声が鮮明になっていく。
声は、誰かを呼んでいるようだった。それに、この声には聞き覚えがある。
「せんぱい!」
せんぱい?
せんぱいとは、一体誰だ?
「先輩!!」
彼は首を傾げた。いつの間にか何かは消え、彼を包み込んでいた深淵も光に変っている。
光は彼を包み込むのではなく、自身が彼の体の中へと入っていく。不思議と、それが気持ちよかった。決して優しくはない。だが、彼に力を与える。
白き光は遂に彼の体からも発せられるようになった。
これは、なんだ。いや、知っているはずだ。
光が何なのか。彼が一体何者なのか。今まで何をしていたのか。
後は、声に返事をすればいい。目を覚ませば、体を動かせば。そしてそこにいるであろう人物に向かって笑ってみせればいい。
俺はもう大丈夫だ、と。
決意を固めていく彼を、もう1度声が呼んだ。
「先輩!!」
視界がぼやけている。
だから彼は何度も瞬きを繰り返した。鮮明になった視界で、ようやく自分が誰かに抱きかかえられていることに気付く。
周りには、何かの機械が幾つも置いてある。所々壊れていたりしている。
「う……あ……?」
自分を抱きかかえている人物に向かって声を出そうとしたが、口が上手く動かない。呻くような声を聞いたからか、その人物が彼の顔を覗き込んできた。
見上げる視界に映ったその人物は大粒の涙を零し、柔らかそうなボブの金髪を揺らしている。いつもの笑顔が似合う少しだけ憎たらしい顔は涙でぐちゃぐちゃ。
彼が目を覚ましていることに何を思ったのか、彼の頭を力一杯抱きしめてくる。丁度スリーパーホールドのような格好になったため、彼は必死に彼女の柔らかく華奢な腕をタップした。
「お……く、苦し……」
「あ、ご、ごめんなさい先輩……」
「げほっ……来栖、お前なんて顔してんだよ」
「先輩のせいですよ、バカ。バカ、本当に心配したんですからね!!」
彼女は笑いながらも、その瞳から零れてくる涙の量は増えていく。
「大河、良かった……目覚めてくれたか」
顔は見えないが、もう1人近くにいる。その男は、恐らくあの軍人だろう。
上月は助けが来たのだと思い、安堵の息を吐いた。その時にはもう、全てを思い出していた。何が起こったのか、何故自分は後輩、しかも女性に膝枕をされているのか。
そして、もう1つ気付いた。
ここにあの2人がいるということは、もう1人いるはずだ。さっきから声が聞こえないが、一体どこにいるのだろう。
「め、芽衣は……?」
その言葉を聞いた瞬間、彼を覗き込んでいた顔が強張る。悲しそうな表情で、目を背けた。
軍人も何も言わない。言わないというより、言えないということが彼にも分かった。
「え……おいどうしたんだよ。まさかお前たちだけで助けに来てくれたわけじゃないだろ?」
「先輩……ごめんなさい。め、芽衣ちゃんは……」
ゆっくりと、彼女は震える唇で。涙を止めることも叶わず、途切れ途切れながら、言葉を継ぐ。
「芽衣ちゃんは、あ……あいつらに……連れて、いかれて……」
その言葉は、彼の心に衝撃を与えるには十分すぎた。




