第三章 要するに、王手(2)
「何してるんですか先輩、早く芽衣ちゃんを追ってください」
突然の出来事に混乱している上月に、来栖が横から声をかけた。彼女の顔を見ると、口角が上がるのを必死に抑えて真顔を作ろうとしていた。
「お、追うったって……」
そこまで言って、彼は突如強烈な違和感を覚えた。
虫の知らせとでも言うのだろうか。木霊を追いかけなければならない。さもなければ、一生後悔することになる。
だが、感じたは良いものの、体が動かない。脚は鉛のように重く、胴は鉄のように硬く。
「もう、面倒くさいですねっ!!」
そんな上月の体が宙に浮いた。原因は、来栖による背中への張り手。
椅子から落ちた彼の体は途端に軽くなる。振り返ると、口角の上昇を我慢することを諦めた来栖が立っていた。
「さあ早く! ラブ・アタックです!!」
彼女が何を言っているのかは分からなかったが、上月は弾丸のように部屋を飛び出した。
木霊がどこに行ったのか、心当たりは無いがとにかく走った。
廊下で談笑していた職員たちがこちらに視線を向けてくる。だが、今の上月にはそれすらも気にならない。
とにかく、木霊に追いつかなければ。それだけが彼の頭の中を支配している。
そして――
「――っ、芽衣!!」
ようやく視線上にその姿が現れた。
腕を縦ではなく横に振り、青く美しいウェーブのかかった髪を揺らしながら駆けていく木霊。その先には研究所の出入り口が。
「はっ、くそっ……体力が!」
長い科学者生活のせいで、体力が落ちている上月には1分ほど走っただけでも致命傷だ。それは木霊も同じはずなのだが、どうやら彼女はまだ走れるらしい。
もう息が続かない。これ以上走ったら間違いなく胃の中の物が体外に放出されてしまう。
諦めかけた瞬間、先ほど感じた強烈な違和感が再び襲ってきた。
諦めるな、走れ、走れ。
そう、誰かに後ろから喝を入れられているようだ。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉ……!!」
最後の力を振り絞って、上月は外に出た木霊に続いて、自動ドアを通り抜ける。
照りつける太陽、目の前の景色が歪むほどの暑さ。最悪の攻撃が上月にとどめを刺そうとしてくる。
しかし、次の瞬間。
上月が伸ばした手が、木霊の華奢なそれをしっかりと掴んだ。
「めっ……捕ま――!!」
「……っ!?」
先述の通り、上月の体力は既に限界を超えている。故に、木霊に追いついたと思って気を緩めれば当然脚がもつれ、彼女ごと倒れることになるはずだ。
実際、そうなった。
アスファルトの上に倒れこんだ2人は、何の因果か、図らずも上月が木霊を押し倒したような格好になっていた。
「大、河……」
両腕を万歳の形で押さえつけられ、脚と脚の間には彼の右足が入り込んでいる。
滴り落ちる彼の汗が、木霊の頬に落ちてきて彼女の汗と混じっていく。
上月は、荒い息を吐きながらも木霊の目を見つめた。絵の具で塗ったかのように真っ赤な顔、そしてその瞳からは太陽の光を反射して輝く涙が。
木霊は必死に何かを言おうとしているようだが、声が出ないらしい。
代わりに、上月が口を開いた。
「はっ、その、め、芽衣……」
「な……に」
「は、吐きそう」
「はぁっ!?」
「つーか吐く。あっ、ちょうっぷ!!」
「はぁぁぁぁぁっ!! ちょっと、吐く前にどいて! このままじゃ私がぁぁぁぁぁぁ!!」
危機感を覚えた木霊によって蹴り飛ばされ、後ろに転げた上月はちょうど近くにあったゴミ置き場に向かって這いずるように進む。
もう、口の中は色々なもので溢れていたが、何とかたどり着きそこに置いてあった大きな袋の口を破る。
そして――




