第三章 要するに、王手(1)
7月10日金曜日。
この日、全てが動き出すことになる。
上月は相変わらずのオールバックで、パソコン画面と睨めっこしていた。それしかしていないのに、何故こうも部屋の中が散らかるのか、彼自身も不思議に思っているくらいだ。
「先輩、何してるんですか?」
隣からひょこっと、小さな顔が飛び出してくる。数日前に上月の研究室に入った子犬のような女性、来栖恵である。
頬と頬が触れそうな距離で、彼女は上月のパソコンの画面を食い入るように見つめている。
「おい離れろ来栖。というか、自分の仕事をだな……」
「終わりましたよ。今は自由時間です!」
このやりとりを、何度繰り返しただろうか。来栖は与えられた内容をありえない速さで終わらせてしまうのだ。
そして、暇を持て余した来栖は度々上月にちょっかいをかけてくる。彼女にとってはただの暇つぶし。彼にとっては迷惑。
さて、それではこの部屋にいるもう1人の科学者にとってはどうだろう。
背を向け、作業に集中しているように見えるがその細い背中は小刻みに震えている。
後ろで何が起こっているのか気になるという好奇心の震えか、それとも怒りによる震えか。
いや、どちらもというのが正解であろう。
「ねーねー、先輩。次は何をすれば良いんですかぁ?」
「だっ、やめろ引っ付くな、暑い!!」
「むふふん、そんなこと言いながら実はこんな可愛い子に接近されて興奮してるんじゃないですか?」
「捻るぞその腕」
「軽くトラウマなんで遠慮させて痛いですっ!!」
結局捻った。
来栖の悲鳴が部屋に響く中、遂にもう1人の科学者――木霊芽衣が椅子から勢いよく立ち上がった!
椅子が倒れる音に驚いた上月は、思わず来栖の腕を離してしまう。そして、両者共にゆっくりと視線を後ろへ。
そこには、仁王立ちで鬼のような形相を浮かべている木霊の姿があった。
なびく白衣、黒のスカートから伸びる柔らかそうな足、組んだ腕に乗るたわわに実った胸。そして、彼女の凛とした顔。
それを全て眺められる姿勢は、このような状況でなければご褒美であったはずだ。
そう、このような状況でなければ。
彼女のこめかみには青筋が浮かび、唇はわなわなと震えている。
「えっと……芽衣?」
「仕事を……」
一瞬、間があった。
原因は上月の隣で捻られた腕を押さえながら蹲っている来栖。
彼女はちらりと木霊の顔を見て、ニヤニヤしていた。それを見た木霊は一瞬で顔を真っ赤にし、
「仕事をしりょぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
静寂が、研究室を包み込む。
大事な台詞で思いっきり噛んでしまった木霊は目尻に涙を浮かべながら、部屋から走って出て行った。
ドアが勢いよく閉まった後も、上月は椅子に座ったまま唖然とし、動けずにいた。




